投稿者: karib_sotai

  • 操体的な『かんばるな』とは(初日)

    こんにちは。東京操体フォーラム、TEI-ZAN操体医科学研究所の畠山裕美です。
     
    一週間よろしくお願い致します。
     
    今回のテーマは、「操体的な『かんばるな』とは」です。
     
    丁度先月11月23日に開催された「2019年秋季東京操体フォーラム」のテーマが、「『がんばるな』に隠された操体の秘密」だったのですが、このテーマを提案したのは私です。
     
    会場でも、このテーマと「操体は自己肯定感を高める」というテーマで話をしました。
     
    というのは、何やら最近オリンピックが近いせいもあるのでしょうが「がんばれ」「がんばる」というような言葉をよく耳にするようになったこともあります。
     
    そして、ご存知だったでしょうか。「がんばれ! ニッポン!」って、商標登録されてるんですよ。
     

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    ★良く見ると®の文字が入ってます。

    さて
    操体には「バルの戒(いまし)め」というのがあります。
     
    • がんばるな
    • よくばるな
    • いばるな
    • しばるな
     
    よくばるな以下は、なんとなくわかりますよね。
    しかし、なんで「がんばるな」なの? という話はよく聞きます。
     
    ここで勘違いしてもらっては困るのは「操体においては、がんばらなくていいんだよ」ということであって、社会生活を営む上で、がんばらない(適当にやっていい、なまけてもいい、ダラダラやってもいい)というわけではないということです。
     
     
    私がこれに気づいたのは、ある操体指導者が、操法後の確認で、被験者に足踏をさせていた時のことです。
    操体法の臨床(施術・治療)の後は、手を振ってのその場足踏、膝の屈伸、ちょっと歩いて貰うという確認をします(この3つにも意味があります)。
    足踏の場合、手を大きく振って膝を挙げることに意味があります。これによって、重心の変化が操者にもわかるから。
     
    その時、その指導者は、被験者に「だらしない足踏をして」と言ったのです。
     
    がんばらなくていい→だらしなくていい???
     
    そういう図式が私のアタマの中に浮かび、次には
    悪人正機説が浮かびました。
     
    悪人正機説:親鸞上人の「歎異抄(たんにしょう)」に出てくる考え方です。
     

    「悪人正機」は、「善人でさえ救われる、まして悪人が救われるのはなおさらである」という親鸞の教えの思想です。一般的な常識で解釈しようとすると、「善人」と「悪人」の順序が逆ではないかと思われ、またそのために「悪いことをしたほうが救われる」と教えを曲解する人も現れた。

     

     
    つまり「がんばらなくてもいい」→「だらしなくしてもいい」という発想です。
    いつの世も、曲解する人は現れるものです。
     
    操体の世界でも「快」がいいなら「快楽殺人はどうなんだ」とか言った人がいましたが、幸せに生きたいという人間の悲願を考えたら、「快楽殺人」を引き合いに出すのはおかしいと思いますし、この場合、殺す人は「快」かもしれませんが、殺されるほうは「快」なわけはないのです。
     
    操体における「快」の概念の一つで「きもちよければなんでもいい」というのがあります。これも悪人正機説のように曲解されがちです。
    しかし、この言葉の後には「人に迷惑をかけない」「やりすぎない」という戒めが入るのです。
     
    橋本敬三先生は
     
    気持ちのいいことは何をしてもいい。苦しい方、痛い方に動くのではなく、※ラクな方、気持ちのいい方へ動けばいい。
    だけどもね、その時にはうんと気持ちよくっても、後になって気持ちが悪くなる、つまり、後味が悪いっていうのがあるが、それは本当の気持ちよさとは違う。例えば、食いすぎ、二日酔、あれは後味悪いよね。セックスにしても、相手とおしゃべりしたり、手を触ったりキスしたりするぐらいで楽しむなら、まあそんなに後味が悪いなんてこともないだろうが、ある特定のところで、がんばってはしゃぎすぎるとダウンして、翌日はからだがシャンとしなくなる。
    結局ね、撫でても、さすっても、たたいても、火を押しつけても、針をさしても、たとえ焼火ばしを押しつけたとしても、それが気持ちよければ何したってかまわないんだ。後味が悪くなければかまわないんですよ。
    よく患者さんは「これは冷やした方がいいですか、温めた方がいいですか」と聞きますが、私はいつもこう答えることにしています。「冷蔵庫に入ったっていいですよ、それが気持ちいいならね」と。
    (『からだの設計にミスはない』17ページ、18ページより)

     

     
    ※注)この辺りは、まだ「楽と快」の違いが、橋本先生の中でも未分化していますが、90歳の頃は「楽と快は違う」と明言しています)
     
    と言っています。
     
    「後味が悪くなければかまわない」というのは、実は結構な「自己責任」なのです。
     
    そして、もっと読み込むと、この「何したっていい」というのは「対からだ」なんです。
     
    また、大抵の人は「たたいても、火を押しつけても、針をさしても、たとえ焼火ばしを押しつけたとしても」という行為を受けることは、好みませんよね。
     
    その辺りを曲解して「きもちよければ何でもいい」というのを操体に持ち込むのは、ちょっと浅いし、橋本敬三先生は、多分「歎異抄」は読まれていたのではと思います。
     
  • 対立から調和、共生へ。

    おはようございます。

     

    自分のからだと対立して頑張っても仕方がない。

    自分のからだが無ければ、自分の存在は無いわけだから。

    自然と対立して頑張るよりも、調和して、より良い未来を創造していった方が良い。

    今がどんな状況でも、自然に生かされて生きている事には変わりないのだから。

     

    人間と自然とは、共に調和して共生に向かうものであると思う。

    古の日本人には、人間は自然の一部であるという考え方が根底にあったという。自然は物ではなく、限りなく流転していく生命そのもの。

    その自然を畏敬し、共生や一体化を考えていく中で自分自身をみつめ、そこから他への思いやり、慈しみの心が養われていったという。

     

    一方、西洋的な自然観はというと、旧約聖書の創世記に「子孫を繁殖させよ、そして大地を満たせ。大地を征服せよ。海中の魚、空飛ぶ鳥、地上を這うすべての生き物を所有し支配せよ。腫を結ぶ一切の植物、実のなる一切の木を食物として人間に与える」とあるように、自然を物とした人間中心の自然観が窺える。

     

    そして、そこには自然と対立して、自然を克服するとか、征服していくといった頑張りの構図もみえてくる。

    それによって文明は発達し、今を生きる私達の衣食住の空間は便利になったのは確かだろう。

    しかし、自然との対立の構図からでは、どんなに頑張っても、どうにもならない事だってあると思う。

     

    その一つには、増加の一途を辿る生活習慣病をはじめとする、様々な現代病の問題。これは心とからだのアンバランスによるストレスが多分に関わっていると思われる。

    この問題は、からだを物や道具として捉えていたのでは、解決しないと思う。からだは自然の摂理に向いて自律しており、からだにはからだの求める空間があるのだから。

    どんなに頑張ったって、人間は天と地の間でしか生きられないし、からだが無ければその存在は無いのだから。まずは、その関係性に調和和合の心を向ける。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日からは畠山裕美先生の担当となります。

    来週も宜しくお願い致します。

  • より大きな目的を果たす為に。

    おはようございます。

     

    今回のテーマである「頑張るな」には、その時の勝ち敗けの結果ばかりに執着しすぎ、本来の目的や目標を失うな、といった戒めにも感じる。

     

    柔道の神様とまで崇められた三船久三十段は、前回の東京オリンピックで柔道競技運営委員を務め、国際競技としての柔道の完成を見守った後、その翌年に81歳で永眠したという。

     

    前回の東京オリンピックから正式種目に採用された柔道は、日本のお家芸として全階級での金メダルが期待されていたという。

    そして、日本選手は期待に応えるように順調に勝ち進み、金メダルをとっていった。しかし、もっとも重要視していた無差別級だけは金メダルがとれなかった。

    無差別級の決勝で、日本選手がオランダのヘーシンク選手に敗れたその瞬間、日本柔道界の関係者の多くが項垂れた。生き恥をさらした、とまで感じた人も多数いたという。

     

    しかし、三船十段は「ついに日本柔道も、ここまできた、世界の柔道になったと悦ぶのが本当」と言ったという。

    三船十段からしてみれば、ヘーシンク選手も講道館の弟子であり、外国で発生した柔道を習ったわけではない。日本から学んだ弟子の一人が優勝したわけである。

    「そこに日本人だの外国人だの差別をつけるのは日本人の肝っ玉の小ささだ。そんなことでは柔道は世界の柔道になれない。日本人も世界の日本人にはなれませんよ」

     

    そして三船十段は、こう続ける「だが、こういうことはいえる。日本はやはり世界の柔道修行者の中心地であり、目標なのだから、大きな道の発展のために、人一倍の工夫と、さらに一段の真剣な努力が必要だということです」

     

    こうした発言は、当時の社会情勢としては異色だったと思います。しかし、一連の発言は本質をついていると感じます。

     

  • 対立することなく勝つ。

    おはようございます。

     

    ふと、現在放送中のNHKの大河ドラマ「いだてん」のワンシーンが思い浮かびました。

    それは、役所広司扮する加納治五郎が「逆らわずして勝つ」と言っているシーンでした。

     

    「逆らわずして勝つ」とか「対立せずに勝つ」という事も、今回のテーマである「頑張らない」にもつうじるものがあると感じます。

     

    自分のからだと争ったり、対立しても仕方がない。

    自分のからだが無ければ、自分の存在は無いわけですから。

     

    よくスポーツや武道などで、相手に勝つのではなく自分に勝つ、ということが言われます。

    これは、自分の楽をしたい気持ちや怠け心、甘えに勝つという事や、前回の自分の記録を上まわる、以前の自分より成長する、といった意味合いになると思います。

    決して、からだを壊してまで頑張ってやり抜いたから、自分に勝ったというのではないと思うのです。

     

    からだがツラクなって、途中で中断するのを自分に負けたとするのではなく、中断しても構わない。

    それは自分とからだにとって、より良くなる為に必要だったからで、自分に負けたのではない。

    何故、からだがツラクなり、上手くいかなかったのか、しっかり向き合う事も必要。

    そうでなければ、次につなげないし、更なる向上が見込めなくなってしまう。

     

    自分のからだと対立することなく、自分に勝つ。

  • 頑張らせない考え方。

    おはようございます。

     

    炬燵が心地よく感じる季節な為か、このごろ運動不足になったという声をよく聞くようになりました。

     

    運動というのは、一般的に健康の為、身体を鍛える為、楽しみの為などといった目的で身体を動かすことを指すようです。

    しかし、その目的意識はほとんどの場合、自主的なその運動を支えてくれている、からだに向く事はないと思います。

     

    ラジオ体操をするにしても、手を伸ばす運動をしている時、手の使い方やその時の足の状態まで気にしてやっている人は、なかなか居ないと思います。

    大抵は、いつもの生活習慣からの状態からそのまま、手を伸ばしていると思います。

    それでも、日頃の精神的なストレスの軽減につながれば心地よく、からだにも良い事をしていると思ってしまう。

    それはそれで良い。何もしないよりは良い。

     

    しかし、その心地よさは、からだの頑張りによって裏打ちされた心地よさなのです。

    足元が不安定なまま、手を伸ばせば、身体のどこかで頑張って、それを負担しなければならなくなる。腰然り、肩然り。

    結果的に手の動きには、拮抗作用が働き、動きの制限が加わる。

    これでは、ブレーキを引きずりながら動いているようなものであります。逆らって無理して動くよりも、ブレーキとなっている事柄を改善する方が先決。

    からだに意識を向けてみなければ、そういった事に気づけない。

     

    意識を向けるだけでなく、からだの立場に立った考え方ができれば、からだに負担をかけない事、頑張らせない事につながります。からだにとってのストレスを与えない事にもつうじます。

    同じような運動をする時でも、何もしないよりは良いというレベルから、身心ともにストレスから解放させ、より健康に導く運動に変えていけるのです。

    からだの立場に立って考えてみる。

  • 注意、警告の観点から。

    おはようございます。

     

    操体には「バルの戒め」というものがあります。

    これは4つのバル、つまり「ガンバルな」「ヨクバルな」「イバルな」「シバルな」の4つであり、「頑張る」「欲張る」「威張る」「縛る」ことを戒めているのです。

     

    「戒め」とは、過ちを起こさないように前もって注意、警告するという意味があります。

    注意、警告という観点からすれば、4つのバルのうち「欲張る」「威張る」「縛る」は、他人からも注意をしてもらえたりします。

    しかし、「頑張る」については、「頑張りすぎると、からだに悪いよ」という言われ方はされても「頑張るな」と言われる事は、まず無いと思います。

     

    では「戒め」の注意、警告というのは、誰が誰に対して注意、警告するのでしょうか。

     

    それは、自分のからだが自分に対して、注意、警告を発してくることを指します。

    からだの事を無視して、自分の思惑だけで頑張っていればバランスは崩れてきます。

    バランスが崩れることで、からだは本来の機能を発揮できなくなり、自分自身の健康にも影響してくる。そんな時、からだは感覚をとおして注意を促してきます。

     

    その注意を無視して頑張っていれば、からだに異変が生じてきます。

    からだに何らかの異変が生じれば、注意では済まなくなり「痛い」「ツライ」といった警告を発してくるようになります。

    そして、その警告が大きくなる程、異変も大きくなっているという事なのです。

     

    からだにききわけるという事が大切であり、自分の頑張りの尺度というのは、思考的に決めつけられないのです。その時、その時、場面、場面で、からだとのバランスは変わりますから。

    からだの感覚を頼りに、注意を受けたなら、やり方や取り組み方を変えてみるのも良いと思います。

    からだの使い方にも、合目的で調和に向く使い方と、一部だけが頑張って疲弊してしまう使い方があるのですから。

    そのやり方、取り組み方の最善を研究しているのも操体なのです。

  • 頑張るな、と能率、効率。

    おはようございます。

     

    何かを成し遂げようと困難に耐えて努力する事は大事です。

    ですが、何をするにしても能率と効率を考えた上で、成果を高めるべきです。

    しかし、能率面や効率面ばかりを追求していては、無理が生じ、疲弊してしまう。

    企業然り、人間然り。

     

    能率というのは、時間に対して出来る仕事量や達成度。

    効率というのは、エネルギーやコストに対して出来る量。

     

    能率も効率も、機械に当てはめて考えれば、予定通り、思惑通りに運んでいる時はいいが、そうでない時は凄く不満が溜まると思います。

    ちょっとしたアクシデントでも許せなくなる。

    そのアクシデントの原因は、機械を使う側の手入れの不備や怠慢、使い過ぎであったとしても、そんな事は隅に置き、あるいは気付きもせず機械のせいにしてしまう。

    機械は文句を言わないから、責任を押し付けやすい。

    機械と人間を同じように考えて、能率や効率ばかりを追求していれば、人を使う側にも、使われる側にもストレスが生じ、関係性も崩れてくるでしょう。

    関係性。これは目には見えないが、とても重要だと思います。

    いくら良いものを持っていても、合目的に動ける関係性がなければ、宝の持ち腐れであり、目的の遂行や仕事量以前の問題となってしまう。

    この関係性を高めるには、思いやりや優しさというのは必須であり、根底になければならないものだと思います。

    しかし、思いやりや優しさも、度を超せば過干渉やお節介であり、却ってよくない場合もある。

    しかし、それでもはじめに、思いやりありきでなければならない。

     「頑張るな」という言葉は命令形ですが、その裏には、思いやりや優しさが含まれていると感じます。

  • バランスも考慮した上で。

    おはようございます。

     

    今週は友松の担当となります。どうぞ宜しくお願い致します。

    今回のテーマは「操体における頑張るな」です。

     

    頑張るには、「ある事を成し遂げようと困難に耐えて努力すること」という意味合いがあるようです。

    ですが、困難に耐えて努力する意味を、どんなにツラクとも我慢して続ける、と解釈している人も多いと思います。

     

    しかし、何の工夫もなしに続けていても良い成果にはつながらないし、ツライのを我慢して続けていれば、からだも疲弊し何らかの不調を訴えてくるのは、誰でも経験上知っている事だと思います。

     

    何かを成し遂げようと困難に耐えて努力する事は、もちろん大事です。
    ですが、何をするにしてもバランスを考慮した上で、成果を高めるべきです。 

    ですので、困難と思われる事柄は避けるようにしろ、という訳ではないのです。勿論、努力なんてしなくて良いという事でもないのです。

      

    自分と、感覚をとおしてのからだとのバランス、その上でのより良い成果。

    はじめは、思考の決め付けだけで、頑張って成される事柄より、時間も手間もかかるかもしれない。

    しかし、成されたものの価値はずっと大きく、なによりそのプロセスは財産となる。

    その財産は、健康と直結しており、健康で長く、より良い成果に結びつけていける未来への宝物。 

    その宝物を得る為にも、一時の頑張りに甘んじない。

  • がんばってもいいけれど6

    「がんばる」についてはとても大切な思い出がある。

     

    操体を勉強し始めてから「バルの戒め」を習い、

    特に「頑張る」という言葉の使い方については

    その意識が自分の周囲やからだに影響することを知り、

    気を付けるようになった。

     

    自然と自分の口にする言葉のボキャブラリーから「頑張る」はほとんど消えていた。

    これは操体を共に学んでいる同志からも感じられることだ。

    各々、自分自身が普段どんな言葉を使っているかを大事にしている。

     

    私事で恐縮だが、数年前、父が他界したときのことを思い出す。

    それはあまりに突然の出来事だったので、その当時しっかりしなくてはという思いを持ってはいたけれども、とても動揺していたように思う。

    そんなとき、友人やお世話になっている方から、静かに支えていただいた。

     

    父が急に亡くなって、すぐに操体のとある兄弟子に電話で報告したときのことだ。

    その方から普段「頑張る」という言葉をほとんどきいたことがなかったのだが、

    一通り、話を聴いていただいた後に、

    「普段は使わないけれど、こういうときは使ってもいいと思うから」

    という一言を添えていただいた後に、

    「がんばって」

    という言葉をもらった。

     

    これは効いた。

    バラバラだったものがスッと納まったように感じた。

     

    こういう言葉の使い方を、人間はできるのだと教えてもらった。

    言葉だけに責任があるのではなく、

    それを用いる人間の側に委ねられているものがたくさんあるように感じている。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の登場です。

    おたのしみに。

  • がんばってもいいけれど5

    アタマのほうだけで、がんばろうがんばろうと

    懸命になることで、からだのことは忘れられ、

    意識がどんどん離れていく。

     

    こうなると、こころもからだも消耗の流れに入り込み、

    気がついたときにはどちらも疲弊してしまっている。

    こういう「がんばる」姿勢は、気持ちがいくらあっても

    がんばり続ける事、継続し続けることが困難である。

     

    一方で、精力的にがんばり続けているようにみえる人も

    世の中にいることは事実だ。

    これには何か、秘密があるように思う。

    外から見ていてはわからない、何かがそういう人の中には在る。

     

    恐らく、その人自身の中には「がんばっている」という意識はいない。

    別な言葉を抱いて、歩んでいる。

     

    「言葉は運命のハンドル」と橋本敬三先生は仰った。

    自分自身のなかで、「がんばる」以外の自分に合った言葉を見つけていくことも、

     健康で、充実した人生を送る秘訣なのではないかと感じている。