投稿者: karib_sotai

  • がんばらないで一億年??

    真魚です。

    このまえ、おとーちゃんとテレビをみてたら、「がんばらなくて一億年いきてきた」っていうおさかなが出てきた。

    第624回「がんばらないで1億年! 古代魚ガー」 ─ ダーウィンが来た! NHK

    一億年も形が変わっていないんだって。

    ちきゅうにいんせきが落ちて、ちきゅうがこおって、きょうりゅうがいなくなっちゃっても、ガーは生き残ったんだって。

     

    古代魚ガーは、あえて「守りの姿勢」とか「じっと待つ」ことによって、生き延びてきたんだね。

     

    ボクはガーにはなりたくないけどね(笑)

     

    そういえば、ボクはシェルターにいたんで、他のねこから猫風邪とかもらっていて、一番大きい(6.3キロ)のに、ちょっと弱いんだよね。

     

    きょせいしゅじゅつしたあと、「抗生物質」があわなくて、胃腸炎になって点滴したり、その後半年くらいは、にんげんの赤ちゃん用の整腸剤飲んでたんだ。

     

    あと、ヒモとか輪ゴムが好きなんで、小さい頃はよく飲み込んでて、トイレ掃除をしているおねーちゃんが「ぎゃ~!輪ゴム入ってる!」とか「ぎゃ~!ヒモ飲み込んでる!」って大騒ぎしてたっけ。

     

    この前、なんだかだるくなって、鼻水がでて、ねてたんだ。そしたら、おとーちゃんが鍼を打ってくれたんだ。そうしたら元気になって、次の日は大丈夫だったよ。

     

    それから、アゴに「猫ニキビ」ができちゃって、アゴの下の毛が少しなくなっちゃったんだけど、また鍼を打ってもらって、ビワの葉エキスとかぬってもらったら、猫ニキビも治ったし、アゴの毛も生えてきたよ。

     

    うちのおとーちゃんは、すごい先生なんだよ。

     

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    はりちりょう。

     

  • 「ねこをかぶる」と「がんばらない」

    こんにちは。真魚(まお)、2歳です。おとーちゃんには「まーくん」とよばれています。

    保護されてシェルターにいたんだけど、ご縁があって2017年の8月にきました。

    おとーちゃん曰く「まーくんは日本猫じゃないね」。

    ボクは「べんがる」っていう猫ににてるそうです。

    ベンガルのブリーダーのところで生まれたんだけど、もようがベンガルっぽくないので、捨てられたのかも。

     

    シェルターにいたときに、猫風邪(上部気道感染症)と、ノミをもらっちゃって、おうちに来た次の日、病院に行って、めぐすりと鼻のくすりをもらいました。

     

    虫下しを飲んで、三時間くらいした時、ねーちゃんがボクを抱っこしたら、お尻から虫が出て来てびっくりしたんだって。ボクも驚くよ。

     

    注射してノミ取りして、虫下しを飲んで、ボクはすっかり元気になりました。

     

    獣医さんにはじめて行ったとき、「ねこをかぶって」みたんだ。

    そしたら獣医さんが「このこはいいこだね」とほめてくれたんだけど、おうちに帰ったら「ねこをかぶる」のをやめたんだ。

    そしたら「こいつはねこかぶってるな」とおとーちゃんにバレたんだ。

     

    ねこをかぶるときって、べつに頑張ってやってるわけじゃないんだよ。

    その時に、あいてによって使い分けてるだけなんだよ。それも、損とか得とかかんがえてるんじゃなくて「原始感覚」でね。

     

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  • がんばるな、というよりもがんばらなくていい。

     

    「ペップトーク」って知ってる?

    日本ペップトーク普及協会

    アメリカのスポーツ選手とかが、試合前に気持ちを高めるためにかけ合う言葉とか、元気づける言葉のことなんだけど。

    人間って、耳で聞いた言葉でも、インパクトがある単語が効いちゃうんだって。

    「操体」でも「言葉のチカラ」ってすごく大事なんだよね。

     

    ★ペップトークは、スポーツプログラマーである寺本、畠山、三浦寛幸が「スポプロ資格更新研修」で知ったものです。「言葉は運命のハンドル」と、橋本敬三先生はおっしゃいましたが、まさにその通り。

     

    例えば、ちいさい子に「転ばないでね」というと「転ぶ」というイメージがインプットされて、転んじゃうとか、「忘れ物しないでね」と言われると、忘れちゃうとか、「風邪引かないでね」って言われると、風邪引いちゃうとか。

     

    それとちょっと違うけど「がんばるな」って禁止じゃない?

    「がんばらなくてもいい」って、禁止じゃなくて「あなたの意思できめていいですよ」っていう余裕があるかんじ。

     

    「がんばるな」よりも「がんばらなくていい」のほうがなんとなく操体にはあってる気がするんだけど、どうかな??

     

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    あくびしてるへんな顔でしつれい。

     

  • 「がんばらない」と「がんばるな」(1)

    こんにちは。

    今年の7月から三浦先生(おとーちゃん)のところにいる、凜(りん)です。

    「りんちゃん」とか「りんりん」って呼ばれてます。

    2019年の女の子の名前で、一番多かったのが「凜」らしいけど、流行の名前らしいです。

     

    おとーちゃん、最初は、保護してどこかいいところに養女にあげようと思ったらしいけど、今はもうあたちのことは、可愛くてどこにもやらないって(笑)

     

    あれは夏のこと。

     

    あめがふっていて、ベランダでおなかがすいてないていたら、おとーちゃんがお皿にミルクをいれてくれました。

     

    そのうち、お皿に「ちゅ~る」っていう、すごくおいしいやつをいれてくれるので、夜になると、ベランダのところで「ちょうだい~」となくことにしました。

     

    でも、つかまるのはいやなので、逃げていたんだけど、お皿に入ったちゅ~るを食べていたら「バタン」という音がして、箱の中に閉じ込められちゃった。

     

    そこから病院に連れて行かれて、検査されて、ノミもいないし、虫もいなかったけど、耳ダニがいたので、耳に冷たい、へんな水を入れられました。

    痛い注射もされたっけ。

     

    その時は500グラムだったけど、今は2.5キロくらいになりました。

     

    「がんばらない」っていうけど、猫ってそもそもがんばらないし。

     

    お外でお腹を空かしているよりは、ちょっときゅうくつだけど、おうちのなかであったかくして寝てるほうがいいもんね。

     

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    ★トラップに入ってるあたし。

     

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    今はこんな感じ。おおきくなったでしょ?

  • 何故、仏性があるのに、修行するのか?七日目

    さて、がんばらなくてもいい、と言われても、この世、娑婆ではイヤなことをしなければ生きて行けないこともあります。

    私達が生きている横の世界は、因果応報ので相対的な世界(自分のやったことは、いいこともわるいこともすべて跳ね返ってくる)だから。

     

    なんて救われているのに(がんばらなくてもいいのに)、この世では頑張ったり我慢したりしなきゃいけないの?という問題です。

     

    畠山は2017年に東京国際仏教塾に参加し、後半の専門課程では、両親の実家の宗旨であり、なんとなく操体にご縁があり、またなんとなく惹かれる曹洞宗を選びました。

     

    仙台でよくご縁がある、東北福祉大学は曹洞宗系の大学ですし、三軒茶屋(操体の聖地?!)のお隣は「駒澤大学」。

     

    www.tibs.jp

    東京国際仏教塾 第33期(令和2年)塾生、12月から絶賛募集中です。令和2年は4月開講予定です。

    2017年の冬は、一ヶ月に一回、五ヶ月、計10日という短い期間でしたが、大佐倉の勝胤寺という曹洞宗のお寺で「修行」(8割は勉強、2割が坐禅とかです)し、その後在家得度しました(戒名を頂く、私の先生、中野東禅先生曰く「プチ出家」)。アタマを丸めたりしているわけではありませんし、得度しただけなので、出家したわけではありません。

     

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    ★勝胤寺(大佐倉)。曹洞宗のお寺です。

     

    曹洞宗の開祖は、道元さんです。
    まあ、曹洞宗は道元、代表作は「正法眼蔵」、永平寺、坐禅 あたりを思い出すかもしれません。

     

    ちなみに同じ禅でも、臨済宗と曹洞宗は結構違います。

     

    臨済宗では、坐禅は禅問答同様、悟りを得るためのものですが、曹洞宗では、ただ坐るのです。

    また、臨済宗では坐禅時に壁に背中を向けて坐りますが、曹洞宗では、達磨大師が壁に向かって坐禅を組んでいたという故事から、壁に向かって坐ります。

    座る時も臨済宗では座布団を二つ折りにして坐りますが、曹洞宗では、「坐蒲」という丸い座布団を使います。

    実は歩く時の手の組み方(叉手:しゃしゅ)も、臨済宗と曹洞宗では違うんです。
    あ、坐禅の時、お坊さんに「ぴしゃり」とやられるヘラみたいなやつがありますよね。
    これは「警策」と言いますが、曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」といいます。

    あ!もう一つ。作務衣です。臨済宗は紺色ですが、曹洞宗は黒です。

     

    道元さんに話を戻しましょう。

    道元禅師は、貴族の生まれです。
    それも大臣筋です。
    しかし、8歳の時に母を亡くし、世の無常を知るとともに、このまま成人すると、政治の世界に入らざるを得ません。そのせいもあったのか、14歳にして比叡山にて入り出家します。

    そして、

     

    仏教では「人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏である」と言っているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか?

     

    という疑問を抱くのです。

     

    これは、仏教の根本をも揺るがすことで、誰も少年道元の問いに答えられなかったのです。
    そこで道元さんは山を下り、最後には中国(宋)に渡り、最後に如浄禅師のもとで悟りを得るのです。

     

    それは「仏性をもっているのになぜ修行せねばならないのか」という問い自体があべこべであり

     

    「われわれは仏だからこそ修行ができる」

     

    ということが真実であるということだったのです。

     

    これは、駒居先生からも「我々は救われているのに、何故免罪符を買わなきゃならんのだ?と言って免罪符を買うのをやめるとか、教会に行かなくてもあなた自身が教会である」のようなこと(間違っていたらご指摘ください)と言って、宗教革命を起こしたのが、ルターさんでした。

    ルターさんというのは、奇しくも、毎回東京操体フォーラムを開催している、「ルーテル市ヶ谷センター」の「ルーテル」さんのことなんだそうです。

     

    というわけで、一週間、2019周期東京操体フォーラムでお話したことを振り返ってみました。

    一週間ありがとうございました。

     

    明日からは三浦寛先生の担当です。

     

    え?

     

    先生は原稿執筆で手が離せないので、猫チームでブログを書くそうです。

     

  • 六日目 ありのままに~

    「ありのままの私を愛して」的なものではないことがお分かりいただけたでしょうか。
     
    話が逆になりますが、この話は、アンデルセンの「雪の女王」がベースになっていますが、全く違う話になっています。
     

     

    雪の女王 アンデルセン童話集 (角川文庫)

    雪の女王 アンデルセン童話集 (角川文庫)

     

     

     
    ある国の王様夫妻には娘が二人。姉がエルサ、妹がアナ。
    エルサには、物を凍らせるという魔法の力があります。
    エルサはアナにせがまれて遊んでいる時に、アナに大怪我を負わせてしまい、その結果王様は姉と妹を離し、お城の窓を閉めきって過ごします。
    エルサは魔法を隠すため、手袋をしています。
    そして、王様夫妻が船旅に出て、不幸な遭難事故で亡くなってしまい、エルサが女王として即位することになります。
     
    ってな話です。
     
    面白いのは、アナが一目ぼれして、会ったその日に結婚を決めるハンス王子が実はヴィランズ(悪役)なこと。
    実はこいつ、悪い男だったんだ~。というのも面白い。
     
    最近のディズニー映画は、王子様がなんだかショボいのが特徴です。
     
    「アラジン」は、主役がジャズミン姫とジーニーだし(アラジン、全然目立たない)
    「美女と野獣」は、王子様に戻った時よりも、野獣のままの方が何故か格好いい(すごく不思議)
    「マレフィセント」も、王子はアホ王になってマレフィセントに殺されるし、マレフィセント2の王子も何だか印象薄い。。
     
    これは、ハリウッドの Me, too 事件もあるのかもしれませんが、王子様を待ってるだけの弱いお姫様から、自ら国を治めるプリンセスや、行動するプリンセスが主役を張る時代になったということですね。今度、「ムーラン」の実写版もやるそうだし(ムーランは戦うアジア系ヒロインです)。
     
     
    なお、この曲はラスト近辺のクライマックスでかかるのではなく、比較的はじめのほうで登場します。
     
    つまり、問題提起しているのですね。
     
    即位したその時、ちょっとしたアクシデントで、エルサは魔法を暴発させてしまい、発作的に山に逃げ、氷の宮殿を作ってそこに閉じこもるのです。
     
    その、氷の宮殿を作る前、雪の積もった山道を歩きながらエルサが歌うのが” Let it go” です。
     
    昨日のヤツを再掲します。
     
    開き直って自由になった!
    ティアラ(王冠)もぶん投げて
    自分はありのままでいいじゃない!

     

     
    という歌なのでした。
    単に「ありのままの私を愛して~」なんていう歌ではないのです
     
    ありのまま、というのは「親の言うことを聞いて、魔法を封印して閉じこもっているGood Girlはもういない」ということ。
    もうそれでもいい!ということなのです。
     
    自己責任で自分の人生を決めた、ということです。
     
    アナ雪、観るなら字幕版をどうぞ。
     

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  • ありのままに? 五日目

    最初に書いておきます。ディズニー映画なんて、お子様向けじゃん、とバカにしている方がいたら、そういう先入観を捨ててください。
     
     
    先入観や思いこみを捨てるのも ”Let it go”です。
     
    また、こういう時って、私の経験によると「必要な人ほど、自分の価値観が変わるのが怖いので観ない」んです。
     
    もしも「イヤだ」とか「観たくない」「女子供が観るものだ」という感情が湧いてきたら、チャンスです。
     
    私はたまに、周囲の人に本を勧めることがあるのですが「この人にすごく必要だよな」と思う人に限って、変わるのが怖いのか(人間には恒常性がありますからね)、読まないんですよ。これは毎回「面白いな~」と思ってみています。
    逆に「読みました~!」と、変化を受け入れる人は、どんどん変わっていきます。
     
     
     
    こういう時、小さい娘さんとかいれば観るチャンスもあるかと思いますが、観ても多分吹き替えですよね。
    この映画は、是非字幕での鑑賞をお勧めします。
     
    アナと雪の女王 (字幕版)

    アナと雪の女王 (字幕版)

     

     

     
    「アナ雪」こと「アナと雪の女王」の劇中歌、Let it go”が日本でも流行りました。
     
    ワタシ的には、”Let it go” というと、DEF LEPPARDの曲を思い出すのですが、日本ではビートルズの”Let it be”が、「あるがままに」と訳されているので、そんなニュアンスで捉えていた方も多いかもしれません。
     
     
    私も最初は「ありのままの私を愛して」的なものを想像していたのですが、ところがどっこい、だったのでした。
     
    Let it go を、詳しくみてみましょう。
     
     Letは、使役動詞なので、「それを行かせる」という意味があるが、意味的には
    「思いこみや執着を手放す(して、自由になる)というのがニュアンス的には近い
     
    「レリゴー」のところです。
     
    Let it go, let it go
    Can’t hold it back anymore
    もういいの、ありのまま
    これ以上我慢できない
     
    Let it go, let it go
    Turn away and slam the door
    I don’t care
    what they’re going to say
    Let the storm rage on.
    The cold never bothered me anyway
     
    もういいの、ありのまま
    背を向けてドアを思いっきり閉めて
    気にしないの
    彼らが何を言おうと
    嵐よ吹き荒れなさい
    とにかくもう気にしない
     
    「いい子」(Good Girl)にして
    隠していた自分の力を
    発現させてしまい、
    一人雪の野原に逃げた時の歌。
    つまり、人前で偽っていた自分を
    出してしまった。
    それなりのダメージはあったけれども
    自分を偽る必要は無くなった
     
     
    という、実は
    開き直って自由になった!
    ティアラ(王冠)もぶん投げて、自分はありのままでいいじゃない!
    という歌なのでした。
    単に「ありのままの私を愛して~」なんていう歌ではないのです。
     
    二度と戻らない
    過去はもう過ぎたこと
    理想の娘はもういない
    私の道を行く
    嵐よ、吹き荒れるがいい
     
     
    ありのままの自分を、他者の目からではなく、自分を受け入れ、なおかつ、それによってこれから起こる自分への災難やプレッシャーに対し勝利宣言をしているのです
     
    最近のディズニーは
     
    自立するプリンセス
     ・「アラジン」
    アラジンが全然目立たず、自立するジャズミン姫
     
     LGBTへの理解
      ・「美女と野獣」(ゲイの登場人物など)
     
    ヴィランズ(悪役)の新解釈
        ・「マレフィセント」
     
     
     
  • 救いと報い(2)四日目

    「がんばらなくてもいいんだ」と、「がんばるな」は、若干ニュアンスが違いますが、操体における「バルの戒め」は、「すでに最初から救われているから、がんばらなくていいんだ」という意味に解釈できます。

     

    つまり「がんばる」という行為を禁止しているのではなく、最初から救われている(絶対)のだから、そんなに無理してがんばらなくてもいいんだよ(相対)ということです

     

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    生まれながらにして救われていると安心し、娑婆(この世)では、因果応報(自分の行いが、良いこともわるいことも全てはねかえってくる)によって生かされている

    「操体」におけるがんばるな、とは?

    橋本敬三先生の若き日の「救いと報いの違いを知る」という経験がベースになっている

    橋本敬三先生が「がんばるな」と言ったのは患者さんに向けてではなかったか?
    「からだ」に向けてでは?

    橋本敬三先生は医師という立場から「がんばるな」という言葉を使ったのではないか?
    病気の時はからだが辛いわけであり、それは当然のこと。それを受け入れて、心まで折れてしまわずに、からだにお任せしなさいという意味ではなかろうか

     

    ★オリンピック、スポーツ選手
    試合に向けて十分な練習を積み、国の威信をかけて戦うのであるから「がんばる」のはおかしいことではない。「ベストを尽くせ」「能力を出し切って」と言い換え可能では?

     

    ★患者への「がんばるな」

    病気なのだから、からだが辛いのは当然のこと。 当然のことで思い悩むことはなく、気持ちを落ち着けて、生かされている命に感謝し、からだにお任せしなさい(治療を受けなさい)。

    「がんばるな、間に合っていればいい」
    これも、医師として、患者に伝えた言葉として捉えると納得がいく

     

    ★自己肯定感が低い人への「がんばるな」。
    人の評価を自分の評価にしなくていいんですよ。やりたくないことを我慢してやることが「がんばる」ことです。自分の評価は自分でしていいんですよ。

     

    ★一般の人への「がんばるな」
    自分のこころやからだの意思に反して、やりたくないことを我慢してやるということには、限度があります。限度を越すと、からだやこころを壊してしまったり、人間関係や環境をこわすことがありますので、注意すること。それが「からだにききわける」「こころにききわける」ことです。

     

  • 救いと報い(1)三日目

    ちょっと長くなりますが「生体の歪みを正す」から引用します。

     

    生体の歪みを正す オンデマンド版:橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版:橋本敬三論想集

     

     

    「がんばるな」「がんばらなくてもいい」という言葉を理解するには、その単語だけ追いかけてもダメです。

    悪人正機説は「歎異抄」や、親鸞上人の思想を知らなければわからないように、です。

     

    二十三歳の或る日、自分はこの時すでに医学生時代の後半に達していたのであったが、盛岡の牧師・平野栄太郎先生によって、創世以前の久遠の生命なる観念を提示され、開眼されたのである(新約聖書エベソ書の第一章)。自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものであるとの自覚を得た。

    そして先生から「救い」と「報い」の区別を、はっきりと教えられた。この自覚はいかに自分を解放してくれたことか。それまで神経質で潔癖であった自分は俄然呑気になり、ルーズにさえなったが、全く性格は一変して気楽になり、それ以後今日まで、取越し苦労、持越し苦労で長く悩んだことはない。人間苦の最たるものは妄想苦であって、現実にぶつかって知る苦痛というものは、それに比べれば大したものではない。この妄想苦から解放されたのである。

    この救いの信念に安住できた「救い」と「報い」の区別というのは、わかりやすい言葉で言い表わすなら、「救い」は絶対、「報い」は相対だ、ということである。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。

    「報い」とは現世における歩み方の努力に対する相対的評価である。「救い」は自己単独における観の転換により悟ったものであり、「報い」は周囲に対する感恩報謝の行動によって加減変化する価値観である。

    この「救い」と「報い」との区別を理解できなかったことが霊肉の板挟みにあって苦悩することになったのであって、霊は生まれぬ先から救いが完成されているのであり、肉は自然法則に順応して統制訓練することによって浄化され調和されるものであることが判った。

    機悔して悔いあらためても悔いあらためでもすぐ罪を犯す。
    この生身の体をもち、五官の食欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、どうしてもこれを制し切れないで、ついつい悪いとは知りながら負けてしまう
    こうなってくると、せっかくのキリストの贖罪も利益も屁にもならない。
    死ぬ時うまく信仰状態にあれば天国行も可能かもしれないが、ちょうど罪を犯しつつクタバッてしまったらそれこそ最後だ、天国行はオジャンである。
    何んとか罪を犯さぬような救いをうけることは出来ないものか。
    こうなりゃ誠に申し訳ない限りだが、神を呪って死んでも救われる道はないものか、などとヤケッパチな気分にもなったものでした。

    私が盛岡の牧師、平野栄太郎先生にめぐりあったのは、もう医学生時代も後半に近い二十三才の時でした。
    全く無名の人でしたが、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロポロになるまで読みつぶしたという平野牧師から、私はエペソ書の第一章を示されて、「ここにこう書いてあるじゃないか」と次の型句を教えられたのです。

     

     

    駒居先生の資料から拝借

    ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
    神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

     

     

    エペソ人への手紙1:3~5

    我々は生まれる前から神の子であることが決まっているんですよ!(畠山超意訳)

    キリスト教では「救いはない」と、説いている。

     

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    橋本敬三先生の考え

     

    救いがわかってから聖書を見ると、イエスはもちろん自分は神の子であると自覚しておったが、他の人もまた、みな神の子だと断言している。

    幼い子ども達を見ては、神の国におるものはみなこのような人間だとも言っている。

    しかし、罪悪感にとらわれていくらお前達は神の子なのだと教えても解脱しきれない人類の宿業のあわれさをみては、やはり身代りに自分を犠牲にしてこれを信じさせるより仕方がないと覚悟したもののようである。

    私はこの時、「ああ、そうか、そうだったのか」と素直にうなずけた。なあんだ、今までがんばれ、がんばれと言われてがんばってきたけれども、別にがんばることもなかったんだな、俺はもう初めから救われていたんじゃないか。

     

     

    と、ここで出てくる。そしてその後に「俺はもう初めからすくわれていたんじゃないか」という文言が続くのです。

     

     

  • 青くせーこと言うなよ?!(二日目)

    2019年秋季東京操体フォーラムでは、午前中、タスクフォース(若手チーム)と私が「がんばるな」についての発表を行いました。
     
    当初「がんばるな、いばるな、よくばるな、しばるな」の、各々について発表するという話があったのですが、私は却下しました(笑)。
     
    なぜか。
     
    いばるな、よくばるな、しばるな というのは「これはやめたほうがいい」っていうのは、皆分かってることじゃないですか。
     
    で、それがなかなかできないから、皆困っているし、トホホなわけです。
     
    お釈迦様の時代から、これができなくて困ってるわけですよ。
     
     
    それを、若い衆がさもありなんで「いばるな、よくばるな、しばるな」を、発表しても、年上の我々は「そんなのオマエに言われなくても、オマエより長生きしてんだからわかってるよ」「青くせーこと言うなよ」と思うからです(笑)。
     
     
    なので「がんばるな」に焦点を当てること、「青年の主張大会のようにならないこと」「青くせーことは言うなよ」という指令を出したのでした。
     
     
    しかし、何故人間って、正論を言われたり説教こかれたりすると、何だか反発したくなりますよね。
     
    何ででしょう「オマエに言われたくねーよ」みたいな??
     

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    ちなみに、あるところで「正論振りかざし度チェック」を見つけました。

    よくみると「お子様っぽい」「青臭い」ところもありますよね。

     

    大人なら、自分が悪くなくても「スミマセン」の一言くらい言えますし、

     

    1. 納得がいかない時は、相手が誰でもすぐに反論する

    2. 自分が正しければ、言いにくいこともはっきり言う

    3. 自分が悪くないのに、謝ることはできない

    4. 正しいことを言っているのに、相手を怒らせてしまうことがある

    5. 自分のほうが正しいと思う時は、決して譲らない

    6. 相手を論破して気まずくなることがある

    7. 納得のいかない指示には従えない