投稿者: karib_sotai

  • 処暑の候より・・・4。

    おはようございます。

     

    最近、畑沿いの道をとおると、今までは無かった野菜の直売所みたいな小屋を見かけるようになりました。

    野菜にも規格があり、規格に適合できなければ出荷できないと聞きますが、そうした規格を満たせないような野菜を、直に売っているのだという。

     

    売っているといっても、店番の人が常駐しているわけでもなく、普段は無人。

    値段も格段に安く、どれでも100円と表示されている。

    お客は気に入ったものがあれば、硬貨を専用の缶に入れ、袋に入った野菜を持ち帰る。

     

    商売しているというよりも、大切に育てた野菜を、規格に合ってないというだけで、そのまま捨ててしまうのは忍びないので、といった想いが伝わってくる。

     

    今年は、梅雨も雨が少なかったし、8月に入れば類まれな高温続き、人間も大変だが野菜も大変。

    そんな中で生きのびてきたのに、少し規格に合わないだけで廃棄処分では心苦しいだろう。

     

    この直売所は、普段は店番が居ないのは勿論、監視カメラも勿論ない。

    お客が、ちょろまかそうとすれば、ちょろまかせる。

    しかし、そのような事をする人は居ない。

     

    みんな、この暑さ厳しい環境で、農作業をする大変さをわかっているし、少しくらい大きさや形が規格に合わなくとも、この過酷な環境を生き抜いてきた野菜を大切にして、有難くいただこうという気持ちがあるのだと思うのです。

     

  • 処暑の候より・・・3。

    おはようございます。

     

    私は、ほとんど栄養ドリンクの類を飲んだことがありません。
    経口補水液にしてもそうでした。

     

    しかし、これだけ気温が上がった過酷な環境では、からだの為にもそうした補助食品も上手に活用すべきだと、最近は思うのです。

     

    特に水分は、細胞のイノチでもあると思うのです。

    道元禅師の言葉をお借りすれば「鳥のイノチは空にあり、魚のイノチは水にあり」なのであり、まわりに生かしてくれている存在がなければ、どんな優秀な細胞でも生きていけないという事。

     

    そのイノチの水は、水道の水を摂っても、からだの働きによってイノチの水に成っていくが、それはそれなりの時間が必要となる。

    この暑さ厳しい環境の中では、その時間よりも脱水状態になる時間の方が早くなるケースが多くなってしまう。

     

    であるなら、なるべく体液の組成に近い水分を取り入れた方が、時間的なことも含めてからだの働きを助けることにつながると思う。

    しかし、これはあくまで応急的対応なのであり、本来からだがつくりだす調和に向けたイノチの水とは違う。

     

    経口補水液は、浸透圧もよく考えられており、細胞の栄養補給や老廃物の排出には適していると思う。

    しかし、老廃物は単に体外に出るのではなく、その水分とともに再生に向けた循環もある。

    再生リサイクルの循環まで考えれば、用法要量を守るのを前提として、その上でからだにききわけた摂取の仕方が求められると思う。

     

    また、普段から自然の摂理に基づき、からだと向き合うという事もしておく必要もある。

    自然の摂理に基づいた呼吸や動きを意識することで、汗のかき方、その質も変わってくるし、そうなると暑さ厳しい環境の中でも、補助食品の摂取は必要最小限の量で健康維持に役立てられると思うのです。

  • 処暑の候より・・・2。

    おはようございます。

     

    今年の夏は、体温を上まわる気温が、どこも続出していたようです。

    まだまだ暑く、熱中症や脱水症状には、注意したいものです。

     

    最近、スーパーでも経口補水液が売られているのを見かけるようになりました。

    以前は、病気になった際の特別用途食品として、薬局やドラックストアに置かれていたような気がしたが、それだけ熱中症や脱水症状が身近で、いつ誰がなってもおかしくないといった状況になっているのかもしれない。

     

    何日か前、私も経口補水液を買ってみた。

    そして2、3時間肉体労働をした後、飲んでみた。

    3口くらい飲んでみて、想像してたよりもしょっぱい感じはなく、柑橘系の味もついていて、スポーツドリンクほどサラッとした感じはないが、意外と飲みやすい。

    しばらくすると、「めぐってるなぁ」という感じとともに、身体の重だるい感じは和らぎ、頭もスッキリしてくるのを感じた。

     

    しかし、冷房の効いたところで、あまり汗をかかない状態で飲んでみると、少ししょっぱい感じと何か重い水分を飲んでいるような感じで、飲みづらくなる感じがする。

    後味も先程とは違って余計に暑さを感じたり、何か疲れる感じであまりよろしくない。

     

    やはり、病者用食品と表示されているように、水分や電解質が足りていない状態ならば飲用する意義はあるが、十分に足りている状態ならば、過ぎたるは及ばざるがごとしで、却って良くないのではと感じる。

     

    特定の持病がある人は医療機関と相談の上で、そして誰にでも共通する大事なことは「からだにききわけて」という事であると思うのです。

  • 処暑の候より。

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、宜しくお願い致します。

     

    季節も廻って処暑の候。

    日の出は遅くなり、日の入りは早くなり、朝夕の暗い時間帯は、今までの酷な暑さも和らいだように感じます。

    それでも日中の日射しは強く、まだまだ残暑は厳しい。

     

    一時期の暑さは相当なものでした。

    私の住む県内では、気温41.8度という暑さの日本記録を更新したところもありました。

     

    私も気温40度超えの世界というのを、初めて体感しました。

    暑さで喉や鼻の粘膜がヒリヒリするのは、ある程度予測できました。

    しかし、周りの世界がこんなにも静かになってしまうのかと、驚かされました。

     

    気温40度超えの世界を歩いていると、生きものの気配が消えたようになるのです。

    鳥や虫の鳴き声はおろか、そうした生きものの行動によって揺れ動く草や木の音も無くなってしまう。

    生命活動が伝わってこない静かな世界。

    その静かな世界は寂しい世界でもあります。

     

    最近は、夕方になると虫の鳴き声がうるさい位だし、蚊にも刺されます。

    うるさかったり、痒かったりしますが、みんなが生かされる状況まで、気温が落ち着いてくると何かほっとする感じもします。

     

    まだまだ残暑は厳しく、長引きそうですが、御自愛いただければと思います。

  • ゆっくりやってみる7

    (昨日の続き)

     

    実践することで感じられることはあります。

     

    息(呼吸)というとても身近で、根源的な生命の営み。

    そこにも、ゆっくりということばはたしかに重なっているように感じられます。

     

    ゆっくりという言葉をもう一度感じ直してみよう。

    まず自分の中にやってみようと生まれた取り組みは、自然を少し近い距離で、じっくりと観察してみようとすることでした。

     

    ちょうど自然に触れる機会が増えてきたこともあり、いきものの姿を観察しようとすると、自ずとゆっくりとなることに実感を持つようになっていたからです。

    自分でゆっくりしようとしなくても、無意識にそのようになるから不思議です。

     

    小さな草花が気になったら、ちょっとしゃがんでみて、普段と違う距離感、眼差しで。

    見えていなかったものにすーっと吸い込まれていくように。

    物理的な距離も、目にみえない意識も、対象に近づいていく。

    そんな時の、いきものの姿をずっと見ていられる感じがする面白さ。

     

    そういう時、息(呼吸)は、いつもよりも解放されているような感じがします。

    まるで、その空間に存在しているいきもののひとつとして、そこに居られているような。そんな安心できる呼吸が感じられることもあります。

     

    ただただ観察しながら、自然に触れている。

    空間のなかで息(呼吸)が解放されている。

    からだのリズムに自分のリズムも重なっているように感じられる。

     

    そういう間のときは、そんなに長い時間が必要ではないような気もします。

    そういう間を持とうと、何かが立ち止まっただけでも変化です。

     

    「ゆっくり」ということばは、忘れてしまっていたからだに宿る根源的なことに触れる入り口になると感じています。

    そして、生命に本来備わっている自然なリズムや感触を味わう経験は深く自分自身の健康にもつながることです。

     

    ゆっくりやってみる。

    その時、どんなことが感じられるでしょうか。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の担当回です。

    どうぞ、おたのしみに。

     

  • ゆっくりやってみる6

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

     

    ちょっと無理をすることが続き、からだの調子をくずす。

    強制的にゆっくり休まざるを得ない時間を過ごしながら、からだの状況に意識を重ね、しばらく時間をかけながら調子を取り戻していく。そういう間のときというのは、実はとてもありがたいからだからの問いかけの時間なのかもしれません。

     

    そんなことを懲りずに繰り返していると、少しずつですが反省する機会も積もり積もって、だんだんと無理な無茶をする前に自分を顧みる視点も生まれてきます。

     

    うっかり根詰めすぎて作業しそうになっているときに、

    「あ、ちょっと早すぎるかな。もうちょっとゆっくり取り組んだ方がよさそうだな」

    そんな風に感じられると、一息つこうかなと思えて、目の前のことに向き合うそのリズムも少し見直してみようかと思えてきます。

     

    リズムを変えて、ゆっくり目の前に取り組んでみようとすると、意外とそれまで取り掛かっていた時よりも充実感を感じながら向き合えている気がするものです。

    ふと、さっきまでは息切れしそうな感じで急いで取り組んでいたのかなと。まるで他人事のように客観的にそれまでのことを感じていたりすることもあるから不思議です。

     

    その延長で、ゆっくり取り組み始めると自分自身の呼吸が変化しているのに気が付くこともあります。浅かった呼吸が、深くなる。そんな変化を感じることもあり、最近では呼吸がしやすくなるなぁと感じることもあります。

     

    からだにとっても自分にとっても呼吸がしやすい。

    呼吸を介してからだと自分のリズムが重なっていることが感じられる。

    シンプルな感触ではありますが、とても健康な状況だと感じます。

     

    「ゆっくり」という問いかけは、目にみえない息(呼吸)という営みも通して、からだとわたしをつないでくれようとしてもいるのです。

  • ゆっくりやってみる5

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

     

    ゆっくりということばをきっかけにして、からだのリズムに意識が向き始める。

    自分のリズムが先行して、からだのリズムのことなんか感じられていなかったことに気付く。

     

    そういう意識の変化が起こり始めると、この自分とからだのリズムのずれというのは、実はからだにとって大きな負担となっているんじゃなかろうかということに気持ちが向いてきます。

     

    そういえば、仕事などで根詰めた日々を長く続けていると、急に体調を崩して、休みをとることになる、そんなこともあります。強制終了の状態です。

     

    これも先のズレのことに照らし合わせて思い返してみると、からだのリズムよりもだいぶ早いリズムで日々を過ごしていたことが続いた結果、臨界点をこえる前に、からだの方でもなにがしか間に合わなくなるのを防ぐために、自分の動きにストップをかけてくれていたのかもしれない。

    そんな風にも感じられてきます。

     

    結果的にゆっくりにならざるを得ない状況をからだの方から表現してくれている。

    そんなからだからのメッセージとして、ありがたい現象として捉えることもできるのではないかと思います。

     

    みなさんも体調が悪いときというのは、いつも以上にからだからの情報をキャッチしている状態ではないでしょうか。調子が悪いというのは決して、マイナスな現象だけではないのかもしれません。

     

    自分とからだの調子が合うために必要な間のときなのです。

     

    (続く)

     

    数日床に伏して

  • ゆっくりやってみる4

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

     

    意識的にゆっくり動いてみることを実践するなかで、ある時に「からだの動き」と出会う。

     

    あぁ、ゆっくり、ゆっくりという問いかけを通じて、普段は「私の動き」としか感じられていなかった身体活動の世界から、「からだの動き」の存在に気が付くきっかけにもなっていたんだ。

     

    普段、自分がからだを使って何かをしようとしていたのは、自分の動きで、でも本来はからだにはからだの動きというものがあったんだ。

     

    そのことを知らずにからだを使ってきたんだ。

     

    なんか、チグハグ感を感じていたのはこういう事だったのかもしれない。

     

    からだの動きと出会い、色々なことを感じなおす中で、ではこの「ゆっくり」という言葉に宿っているものはなんなのだろうと思うようになりました。

    表現の速度を遅くすることだけじゃなくて、もっとからだ本来のリズムみたいなものと呼応するようなことに繋がっているんじゃないか。

     

    いままで自分自身に対して問いかけていた「ゆっくり」という言葉が、いつしかからだの方に意識を向けるきっかけへと変化していく。ことばを介して、だんだん自分というものが薄まっていき、からだの方に光があたる。

     

    「ゆっくり」ということばに親しむことで、自分のリズムの存在やからだのリズムの存在に気が付く。

    それが重なっていないことは、本来のからだの要求にもかなっていないことなのではないかと、自然と感じられるようになる。

     

    いままであまりにも重なりすぎていた自分自身との程よい距離感が生まれ始め、からだの方に意識を向ける機会が少しずつ増えてくる。ゆっくりということばを背景にそんな変化も感じられるようになってきたのでした。

    (続く)

  • ゆっくりやってみる3

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

    私も最初は自分の動きの速さに指摘を受けながら、意図的にゆっくりゆっくりと動こうとすることから始まっていました。

     

    実際の操法の様子や、操者が被験者に介助・補助を与える様子などを操体を知らない人が見ると、武術の型のように感じる人も多いです。

    敢えてゆっくりと動くことは普段そういったことを意識しないで動いている人にとっては、それこそ武術の型を実践しているような新鮮な経験として感じられるかもしれません。そんな風にからだを介した動きと出会い、親しみ始めるのも結構たのしいものです。

     

    意識的にゆっくり動くことを実践していると、その外に操体で学んでいるからだのいろいろなことと、繋がっていることに気が付くこともあります。

    その繋がりを実践しながら実感できるのがまた面白い部分でもあります。

     

    実践を続ける中である時、この意図的にゆっくり動くという意識が変化することがありました。

    学んでいることが反応しあって、からだの動きというのは意図的にゆっくり表現しなくても、自ずとゆっくりになるんだ、ということを感じたことがきっかけでした。

     

    ゆっくりというキーワードを通して、またからだの知らなかった一面を教えてもらった気がした瞬間でした。(続く)

  • ゆっくりやってみる2

    (昨日の続き)

     

    操体を学ぶ中でひしひしと感じていた重要なキーワード。

    何で「ゆっくり」という問いかけをこんなに大切にしてきたのか。

     

    実践するなかで少しずつ感じられることもあります。

    ゆっくりという姿勢はいろいろなこと、例えばからだの要求にかなうことなどに重なっています。そして、からだが感じている感覚をききわけることにも重なっています。感じることにも関わっているからです。

     

    講習の場でよく指導していただくことですが、早く動いていてはなかなかからだを介して感覚をききわけることはできません。感じることをおいてけぼりにしているような感じでしょうか。

     

    以前は、がむしゃらにその場の勢いでからだを使っている感じがあり、それもひとつの大きな要因で結果的に慢性的な片頭痛や肩の痛み、からだのだるさなど日々の中で感じていたのではないかと思います。

     

    ゆっくり動くというシンプルな問いかけですが、実践することでそれまでなんとなく疑問に感じていた「からだをどう使えばいいのか」という靄のような疑問に光が差してくるような気がしたものです。

     

    普段、自分本位でからだを使っていて、からだというものがよくわからなくなっていた時期がありました。

    当時は自分がからだを使うんだという意識が強くて、実はからだのことなど見えていなかった、ほとんど感じられていなかったのではないかと思います。

     

    そんなところから、ゆっくりを実践することで、私が次第に薄まってゆき、からだという向き合いたかった存在が現れてくるような感じがしました。

     

    それと共に、忘れていた感じるというプロセスにも意識が向くようになってきた。

    そんな変化も感じられるようになってきました。(続)