投稿者: karib_sotai

  • アタマにも、休んでもらって

    操体は「からだ」の要求、「からだ」の悦ぶことってどんなこと?

    というのを大切な着眼点として扱い、進化と深化を続けてきました。

     

    そんなからだの状態のとき、本人の「思考」や「頭」の活動からみると、

    バランスとしては程よく休まっている状態なのではないかと思います。

     

    「からだ」のことを学問することと同時に、

    最近の操体は、この本人の「頭」の活動にも大いに関係のあることを

    扱っているように感じています。

     

    先日、開催された春季フォーラムでは「セルフケア」が一つのテーマとなっていました。このセルフケアという言葉は、「こころとからだのセルフケア」とセットで言われることも多いように、メンタルヘルスの分野にとっても大きな関心事となっているように感じます。

    それだけ、日常生活のなかには脳のある側面を使うこと、刺激する要素が溢れていて、アタマとからだのアンバランスに悩んでいる方が多いのではないかと思います。

     

    からだが悦ぶこと。

    そして、常に働き続けていてオーバーヒートしがちなアタマにとっても、

    ホッと力が抜けて、休むことができている。

    こういった循環に携わっているように、最近の操体を通して感じています。

  • こんなことも、語り合える

    前日の記事に引き続き、私事から始まりますが

    昔はどうも同世代の人と話が合わず、

    年上の人と話をするのが好きでした。

     

    いま、思えば、自分が興味をいだいていることについて、

    私の言葉が追い付いていなくても、受け止めて、ちゃんと返してくれる。

    それが無性に嬉しく、またそういう会話がたのしかったのだと思います。

     

    私が操体を学んでいる理由のひとつに、

    この「受け止めて、ちゃんと返してくれる」学問としての器の大きさを感じることが挙げられます。

     

    今のところ、自分の好奇心と、探求心を思う存分に開放しても、

    「操体」のなかで話ができています。

    今まで生きてきて、いまが一番、遠慮のない創造力を動かすことができていて、

    そういったことを、お互いの言葉で語り合える同志がこの学問の下に集まっている。

     

    学ぶことに関しての器の、懐の大きさ。

    これも、創始者から脈々と受け継がれている、操体の魅力のひとつだと感じています。

  • こんなことも、語り合える

    前日の記事に引き続き、私事から始まりますが

    昔はどうも同世代の人と話が合わず、

    年上の人と話をするのが好きでした。

     

    いま、思えば、自分が興味をいだいていることについて、

    私の言葉が追い付いていなくても、受け止めて、ちゃんと返してくれる。

    それが無性に嬉しく、またそういう会話がたのしかったのだと思います。

     

    私が操体を学んでいる理由のひとつに、

    この「受け止めて、ちゃんと返してくれる」学問としての器の大きさを感じることが挙げられます。

     

    今のところ、自分の好奇心と、探求心を思う存分に開放しても、

    「操体」のなかで話ができています。

    今まで生きてきて、いまが一番、遠慮のない創造力を動かすことができていて、

    そういったことを、お互いの言葉で語り合える同志がこの学問の下に集まっている。

     

    学ぶことに関しての器の、懐の大きさ。

    これも、創始者から脈々と受け継がれている、操体の魅力のひとつだと感じています。

  • からだの、もう少しそばに

    このブログの場で何度か振り返ってきたことではありますが、私が操体(操体法)に興味を抱いたのは、それまで20数年生きてきて、いまいち自分の体に対して実感が持てていない、よくわかっていないという漠然とした想いがあったからでした。

     

    20歳代を後半に迎える頃、その当時はお芝居をしている仲間や演奏家の仲間と活動を共にすることが多く、彼らの身体に対しての向き合い方や、滲み出る身体性にどこか羨ましさを感じることも多かった、そんなことを思い出します。

     

    身体を使う活動をしているのに、やってもやっても、何となく虚しい。

    その虚しさは、活動後の疲労感や、後味として体にとって無理をしている感じが拭えない感触が残ったり、また結果的に慢性的にどこかしらに不調を抱えていたりと、色々な現れとして感じていたことでした。

     

    ずっとこのままでは、いられない。その空虚な感触を埋めていくのに、何かはまるものはないだろうかと思っていたところで、尊敬する音楽家の方に何気なく相談し、紹介していただいたのが操体(操体法)でした。

     

    その当時と、今とで変わったこと。

    「体(身体)」は「からだ」であったこと。

    思っていた以上に、からだは生命観に溢れていたこと。

    自分と自分自身のからだとのコミュニケーションは、

    羨む必要なんてないほどに、誰しもに宿っている感覚の世界だったこと。

    そういうことを知ったり、実際に感じたり、考えたりする。

    そのきっかけを伝えていただいたことが、
    自分にとっては、とても大きい出来事だったように感じます。

     

    からだのことに興味があって、もう少しそばに、と感じていたら

    操体がそのきっかけになるのではと思います。

     

  • ゆっくり、を味わいたい人に

    動き(うごき)や感覚について、からだを介して学問している操体、そして実践のスガタとしての操体法。

    それ故に、からだを通して「ゆっくり」という時空を体験していただきます。

      

    操体でいうところのこの「ゆっくり」は、想像しているスピード感とは、

    ちょっと異なるかもしれません。

     

    思っていたよりも、もっとゆっくりなんですね。

    自分ではゆっくり動いているつもりなんですが。

    ゆっくりってよくわからないなぁ。

     

    色々な感想をいただくことがありますが、

    操体もこのキーワードと長年付き合ってきたので、

    感じを掴んでいただくために、また新しいアドバイスもお伝えできるようになってきました。

     

    「ゆっくり」というのは面白くて、

    その感じを味わって体感していると、

    いつしか「間(ま)」の時空を味わっていることに気が付きます。

     

    目まぐるしく働いてくれているからだの動きのことであり、また頭の回転速度を少し緩めてみることでもあり。

     

    自分には「ゆっくり」が必要だなぁ、味わいたいなぁと感じている人、

    そういった要求に適う間を、操体から味わっていただけるかも、と思っています。

  • 言葉になっていない世界に、こんにちは

    おはようございます。

    瀧澤さん、一週間のブログ担当ありがとうございました。

    からだが悦ぶことってどんなことなのか、

    瀧澤さんの語りから、考えるヒント、たくさんいただきました。

    本日からバトンを受け取って一週間、寺本が担当致します。

     

    テーマは引き続いて「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」になります。

    どうぞ、宜しくお願い致します。

     

    操体の門を叩いて、もうすぐ10年。

    この不思議な学問を学び続けてきて、特に最近になって感じ入ることは、世の中に潜んでいるまだしっかりと言葉になっていない様々なことについて、からだを通して出会い、学んでいるのが操体なのではないかということです。

     

    僕は本を読むのが好きな方だと思いますし、インターネットを使って自分が必要としている情報を見つけ出すことも割と好きです。

     

    自分以外の誰かの言葉によって語られた(る)情報を知り、そこからまた新たに考えたりすることも好きなのですが、操体でまずとり扱っている大切な情報というのは、こういった身の回りに存在する無数の情報源とは異なり、身近な「からだ」を経由して受け取ることのできる感覚情報から始まります(東京操体フォーラム実行委員ブログの内容は、まさに「感覚情報」由来の内容となっています)。

     

    この非言語情報に出会い、受け取り、何らかの言葉にすること。

    知るのも、いただくのも、言葉を与えるのも、からだがあっての自分自身。

     

    「感覚」をいろいろな意味において大切にとり扱ってきた、操体の独自性と面白さは今また新たな局面にさしかかり、操体だから学ぶことのできることに繋がっていると思います。

  • あなたにとってもからだにとっても⑦

    からだが悦ぶということはどういうことだろうか。

    からだが悦ぶ感覚というのはどういう感覚なのだろうか。

    先日臨床中に相手のからだに対して一切アプローチをしていない時間がありました。時間すらも止まっているような感覚でした。

    ただただ呼吸をとおしていると途中からからだに対して働きかけようという意思がまったくなくなり、臨床中なんだから何かしなければという義務感もなくなり、相手のからだに触れることもはばかられ、そのまましばらくからだがききわけさせてくれる感覚を静かに味わっていました。

    からだの邪魔をしてはいけない感じだったというニュアンスに近いでしょうか。

    この感覚は毎朝起きたら行っている呼吸の作法中に感じていることでもあります。

    からだをとおして呼吸させてくれているもの、ことをからだがききわけさせてくれている感覚。

    臨床中にもこういうことが起こるんだなととても新鮮に感じつつ、わたしも相手もからだをとおしてその変化を実感していました。

    そうじてからだもこころも軽い。

    見かけ上は何もしていないようでもからだは悦び、からだが悦ぶ感覚も味わえる。

    とる、とらないはあるにしても、わたしに合う、合わないの前にからだが悦ぶ感覚がある。

    ほんとうにそう感じているからお薦めする理由になるのです。

    一週間ありがとうございました。

    明日からは寺本さんです。

    よろしくお願い致します。

  • あなたにとってもからだにとっても⑥

    したほうがいいこと。

    しないほうがいいこと。

    してもいいし、しなくてもいいこと。

    健康維持に対して、きっと人それぞれ答えは違ってくる。

    そう思うと、そんなに健康に気を遣っていなくても元気に過ごしている人もいるし、健康に気を遣っているのに体調を崩しやすい人もいるというのも納得できる。

    そういう観点から息(呼吸)、食(飲食)、動(身体運動)、想(精神活動)、環(環境との関わり)を改めてみてみると意識と無意識のバランス、わたしとからだのバランス、生きることと生かされていることのバランスなど、いろいろみえてきておもしろいです。

    息、食、動、想、環の何かしらを身に付ける学習のプロセスでこういう状態を目指そうと思って営むこともありましたが、段々としてもいいし、しなくてもいいという範囲が広がってきているのかなと感じることが多くなってきました。

    からだにとってほんとうに必要なことを感じられるなら、したほうがいいことも、しないほうがいいこともわたしとからだで語り合うことができる。してもいいし、しなくてもいいことの折り合いをつけることもできる。

    それがいつもできているかと言われれば、そうとも言えませんが、少なくともからだが悦んでいると感覚する瞬間はあります。

    からだがそのように感覚させてくれるのです。

  • あなたにとってもからだにとっても⑤

    日々の生活の中で実践できるということは、それを実践したときにどう感じられるかということだと思います。

    毎朝起きたら立位の作法を行います。

    その日のからだをとおして、からだを立たせてくれているもの、ことを感覚としてからだがききわけさせてくれるからです。

    毎朝起きたら呼吸の作法を行います。

    その日のからだをとおして、呼吸させてくれているもの、ことを感覚としてからだがききわけさせてくれるからです。

    誰かにやらされているわけでもないし、これをやらなければ健康を維持できないというわけでもありません。

    何かのためにやるだったら続かないかもしれませんし、やめたくなるかもしれません。

    でも、そうならないのはからだとわたしはノンバーバルで語り合っている、感覚をとおして悦び合っているからです。

    もともと操体には自力自療という捉え方があります。

    本人にしか分からない感覚(快適感覚)をからだにききわけ、味わい、治癒力を高める。

    操者がいてもいなくてもそれは可能です。

    それを可能にするもの、ことを伝えていくのが操者の役目でもあるのですが、最近は操体法と操体法以外の操体の実践の垣根がどんどん薄れてきているように感じるのです。

  • あなたにとってもからだにとっても④

    操体は橋本先生の哲学で操体法は実際に臨床の場で行われていること。

    臨床の場で操体法をより効果のあるものにするためには、テクニックとしての操体法ではなく、どのようにからだと向き合うかということも含め、橋本先生の生命観や人間観、健康観の理解が不可欠。

    操体があるから操体法の真価が発揮される。

    初めはこんなふうに思っていました。

    最近はちょっと捉え方が変わってきまして、操体という世界観を理解するためには操体法が不可欠というようなあべこべな捉え方もありだなと思うようになってきました。

    というのも、操体法を実際に体験する場があって、そこでからだをとおして感覚するからそのバックボーンにある操体という哲学に触れることができるからです。

    からだをとおした感覚が操体と操体法をつなげてくれる。

    そんなふうに感じるのは、最近の操体法はからだという現象をとおしてもっとその奥というか広がりというか、そういったことを感じさせてくれているからだと思います。

    臨床の場で行われる操体法以外にも操体には普段の生活の中で実践できることもたくさんあります。

    息(呼吸)、食(飲食)、動(身体運動)、想(精神活動)、環(環境との関わり)も実際に体感してみてどうなのかとフィードバックできるからいつまでも飽きないし、新鮮なわたしでいられるのです。