
投稿者: karib_sotai
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「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」初日
こんにちは。畠山裕美です。今回のテーマも、私が案を出してみました。そもそも、好きじゃないものを人様に勧めるなんていうことはできませんよね。そういえば、マーケティングの用語で「メリット」と「ベネフィット」という言葉がありますが、聞いた事があるかと思います。私も「なるほどね」と思ったのですが、この二つの違いをご存知でしょうか。メリットというのは「操体って、こんな効果があるんですよ」と、操体ができることを伝えること。ベネフィットというのは「操体を体験すると、あなたにとってこんないいことがあるんです」と、「あなたにとっての事」を伝えることです。「操体って、きもちのよさで良くなるんですよ」(メリット)「へ〜」「へ~」(他人事)で終わるのは勿体ないのです。他人事ではなく「あなたごと」。「操体で、きもちの良さをききわけ、味わうという体験をすると、あなたの中の原始感覚、スーパー治癒力が目覚めるんですよ」(ベネフィット)「操体のセルフケアができるようになると、あれ、自分のからだって、こんなに軽かった?って感じることができるようになります」(ベネフィット)「操体を勉強すると、貴方自身の生き方に軸ができます。つまり、自己肯定感が高まります」(ベネフィット)これから1週間にわたって、「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」をお伝えしていきます。 -
あなたに操体・操体法をお薦めする理由 7
おはようございます。
操体、それは生命現象のより根底まで突き詰めているから、全ての人にお薦めできるのです。
操体には禁忌というものがないのです。
これはエクササイズや他の療法と、根本的に異なるところです。
エクササイズは、ある程度の間に合った健康状態の人を対象としており、対象から外れた人、不明瞭な人は医師に相談してから行ってくださいという事になる。
何故そうなるのか。それは今できる事以上の事をやろうとさせるから。
それが鍛錬という考え方もあるでしょうが、鍛錬もバランスを調えてからでないとシゴキになってしまう。
シゴキをすれば、ある特定の運動での能力は高まるでしょうが、健康体としてのバランスは崩れ、時間、空間の係わりにより、いずれその報いを受ける事となる。
また、特定な運動での能力の向上をみないまま、障害を抱える事ともなってしまう。
今できる事からで良いのです。
今できる事で、健康の元を正し、底上げしていく。
身体運動にしても、ダイナミックな横紋筋系の動きだけでなく、それを支えるからだの動きというものがあります。
そして、それは呼吸や目線と密に相関しているのです。
横紋筋系の動きをとおすのが困難な状態にあるならば、呼吸や目線を意識して調和に向くからだの動きを発動させる事も可能なのです。
何らかの病態、例えばギックリ腰の急性期などは、どうにも身体の動きがとおせなくなる。
こんな時に無理して動けば、からだとの不調和を招き、却って拗らせる事となる。
私も去年、経験しましたが、一番くつろげる体勢をからだにききわけ、三浦寛先生の提唱する進化した操体理論に基づき、呼吸や目線を意識してとおしていく。
そうする事で、バランス制御に向くからだの快適感覚がききわけられ、次第に身体の動きもとおせるようになっていった。
こうした体験は、東京操体フォーラムの他のメンバーからも聞きますし、臨床でも活用させていただいています。
操体は、生命現象の根底を突き詰めた学びであるから、誰でも実行可能なからだとの向き合い方を提案できるのです。
今できる事を、感覚をとおしてからだと向き合いながら行い、より良いバランス状態としながら、ひろげていく。
自分だけでなく、社会もより良く変わっていくと思うのです。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
明日からは、畠山裕美先生の担当となります。
どうぞ、おたのしみに。
友松 誠。
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あなたに操体・操体法をお薦めする理由 6
おはようございます。
からだの動きは、普段、意識にのぼらなくとも、私たちの生命活動を支えてくれている。
誰にでも、有難く生かされているという根底や背景があるという事であり、それを大切にしたい。
身体運動にしても、からだの動きという有難い根底の上に、自由に表現されるべきものである。
自由とは、何をやってもいいというものではない。
何をやっても自由かもしれないが、そこには報いがついてまわっていることも考慮しなくてはならない。
元々有難くできている事柄に対して、それに背反して不快になる事をやっていれば、身体も不快な状態となり、バランスを崩していく事となる。
逆に、元々有難くできている事柄に合わせるようにしていけば快適であり、身体だけでなく、あらゆる事象にも適応可能な状態となっていき、より良いバランスが膨らむかたちとなっていく。
自由という字は「自ら」と「由」からなるが、由にはわけやいわれの意味があるという。
気持ちの悪いことをやっていて、不快な状態を嘆いてもしょうがない。
自由には責任が伴うという事。しかし、それをどうやって行っていくか、道筋をつけてくれなければ範囲が広すぎてやりようがない。
だから、操体では橋本敬三先生の時代より身体運動の法則というものがあり、その身体運動の法則を基にからだと向き合ってきました。
そして、今では従来の身体運動の法則を超え、よりからだの動きに調和できるよう操体は進化しています。
進化した操体を基に、感覚をききわけ、からだと共に身体運動を根底から良くしていく。
その上で自分の個性を発揮できる自由を獲得していく。
人それぞれ、やりたいこと、なりたいものは違うでしょうが、誰でも根底には不快は望まず、快適で満足して生きていきたいという願望がある筈。
操体は、誰もが望む根底から良くしていこうという学問ですから、すべての人にお薦めできると思います。
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あなたに操体・操体法をお薦めする理由 5
おはようございます。
私たちが生存していくためには、必要不可欠なからだ。
からだは、感じてうごき、うごきは細胞一つ一つ、組織一つ一つの動きとなり、調和した全体的な動きとなる。
この動きは、普段、意識にのぼらなくとも、私たちの生命活動を支えている。
運動が身体に良いという事で、色々な分野で研究がされていても、こうした観点での捉え方がなければ、身体を道具のように使う思想からの研究となりやすい。
身体を道具のように使う思想だから、消耗しても、エネルギー消費すればメタボにならないといった思考にもなる。
そもそも、消耗させているという自覚さえもないだろう。
動きの流れの悪さをそのままに、調和に向くからだの動きを無視して色々と運動しても、確かにエネルギーは消費する。
しかし、これは例えは悪いが歯車がよく嚙み合わないが為に、動力を上手く伝えられない機械を動かし続けるが如くである。
消耗につながるし、疲労物質その他の停滞にもつながる。
だから、からだの動きを無視した運動、エクササイズをしても、それが続かなかったり、止めればリバウンドして前よりメタボが進行したという状態ともなってしまう。
若さとか、ある程度の間に合った健康状態であれば、それが分かりづらい。
だから、からだにききわけよ、という事でもある。
こう書いている私も、創始者直系の操体の門をたたく20年位前、30歳代半ばの頃は急に太りだして体重が100㎏を超え、メタボ街道まっしぐらの時期がありました。
それでも、15年位前から体重も60㎏台に落ち着き、病とは無縁な生活を送れています。
ある程度の年齢となり「最近、身体がいうことを聞いてくれなくて」と愚痴る前に、からだに合わせていくという発想も持っていただきたいのです。
だから、それも踏まえて、あなたに操体をお薦めしたいのです。
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あなたに操体・操体法をお薦めする理由 4
おはようございます。
臨床で診させていただく人の中には、スポーツ障害で悩んでいる人もいます。
そのような人たち、特に中学生、高校生といった若い世代の人を診ていると、つくづく操体の必要性を感じるのです。
操体は身体運動を、機能解剖をはじめとしたメカニズム的な面だけで捉えているわけではありません。
このような捉え方だけだと、どうしても「からだ」のことが隅に置かれてしまいます。
身体運動もからだの支えがあってこそであり、自分で意識する運動は感じてうごくからだの動きによって成り立っている。
そこが重要であり、それ抜きに自分の意向ばかりを身体に押し付けようとするから、バランスを崩すのです。
コップの水を飲む動作一つとっても、自分が身体にどのくらいの力でコップをもってとか、いちいち命令しているわけではない。
意識にのぼらずとも、からだが感じて動いてくれているから成り立つのです。
こうしたからだの動きは生存にとって不可欠であり、もし、からだの動きが調和に向かず、無秩序なものだったら生存は成立しないのです。
こうした元来備わった有難さに感謝しつつ、感覚をつうじて身体運動を合わせていく。
そうすることでバランス制御が可能となってくるのです。
操体は長年にわたり、からだの動きの研究、研鑽を続けてきました。
なぜなら、それによって健康の元を正し、底上げしていく事が可能であり、その過程で様々な症状、疾患からの快復をみるからです。
からだや自然からすれば、それが当然の成り行きなのかもしれません。
こうしたことは、固定観念に凝り固まった大人よりも、若い人の方がよろこびと感動をもって受け入れられるようです。
そうした体感的に得たものを、これから生きていく中で活かしてもらえれば、個人だけでなくより良い社会をつくることにもつながるのではないかと思います。
ともあれ、身体の動きがからだとの調和に向いて、快適なバランス状態となり目をキラキラと輝かせている若い人をみると、こちらも嬉しくなり、操体を続けていて良かったなと思うのです。
そして、心の中で、長年からだから学び、伝授してくださっている師に「有り難う御座います」とつぶやいてしまうのです。
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あなたに操体・操体法をお薦めする理由 3
おはようございます。
どんな世界でも、はじめから器用に何でも出来てしまう人もいれば、そうでない人もいる。
思うように上手くいかない人からすれば、器用な人は羨ましい。
しかし、器用な人も器用さゆえの至らなさがあるようです。
スポーツの世界では、優秀な選手が必ずしも優秀な指導者になっている訳ではない、とよく言われるが、何かつうじるものがあると思います。
すぐに上手く出来てしまう人は、それが当然の様に思えてしまい、なぜ自分は上手く出来るのかに気づけない面があるように感じる。自分が当然と思える事でも、他の人にとっては当然ではなく大きな問題であったりする。
このギャップを埋められない限り、いくら自分が優秀な選手だったとしても優秀な指導は出来ないと思うのです。いくら技術的な指導に熱心でも、やる本人の土台が揺らいでいては、十分な上積みは期待できない。
それを根性論でカバーして頑張らせると、かえって良くない結果を生む。スポーツの分野によって、技術的な身体運動の違いはあるでしょうが、それ以前の、人間が健康で十分に満足して生きていく為の身体運動にも注目する必要がある。
操体はここに注目し、長年研究、研鑽を重ね、それを臨床の場で操体法として提供し、効果をあげてきた。操体は、生きていく上で当然のように備わっているもの、いただけている物事に感謝しながら、それをより良く高めていく学問でもあります。
操体の学びには、スポーツの分野に限らず、何らかの指導的立場にある人にとって、知っておいて損はない、いや、知っておかなければならないものがあると思うのです。 -
あなたに操体・操体法をお薦めする理由 2
おはようございます。
どんな世界でも、はじめから器用に何でも出来てしまう人と、そうでない人はいます。
思うように上手くいかない人からすれば、器用な人は羨ましい。
しかし、思うように上手くいかないから、それだけ伸びしろがあるとも言えるのではないでしょうか。
思うように上手くいかないから努力する。
努力という言葉から、頑張るという言葉を連想する人もいるでしょうが、操体の場合は違います。
無理して頑張って努力するのではなく、からだの感覚をききわけながら気持ちのいい方へ向かうようつとめる。
このつとめは、日々の生活のなかで出来る。
生活のなかのちょっとした動作も、操体の作法に照らして感覚をききわけながら行ってみる。
感覚をききわけながら行うから、なぜ上手くいかなかったのかが次第にみえてくる。
そして、からだが不快と感じることを無理にとおしても、スムースに事は運ばず、疲労感や身体のバランスの崩れにつながることも理解できてくる。
日々の生活の間違いによるヒズミが、からだのバランスを崩す要因となり、症状、疾患につながっているのですから、臨床の場で症状、疾患をかかえた人を診るときに、生活の中で実際にききわけた感覚が役に立つ。
この生活の中での経験値というのは、はじめから器用に何でも出来てしまう人よりも、そうでない人の方が豊富になるように思えます。
それが、病みをかかえてしまった人の、からだの要求に的確に応える事につながると思うのです。
そして、からだの要求に的確に応える事ができれば、臨床効果もおのずと上がる。
操体法はテクニックではないと昔から言われています。
それよりも大事なものを操体から学び、感覚をとおした実践を経て操体法として活かす。
それには、不器用でも真摯に学ぶ姿勢が大切だと思うのです。 -
あなたに操体・操体法をお薦めする理由 1
おはようございます。
今週は友松が担当いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
今回のテーマは「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」となります。
手技療法の名人、達人と呼ばれる人も、他人様を治せても自分自身は治す事ができない、とはよく言われる事であります。
そればかりか、自分自身の事は顧みず、他人様に施す事ばかりを優先して、健康を害してしまっている人も多いようです。
操体をお薦めする理由を挙げるとすれば、自分自身が健康で真の自然体に近づき、より良く変わっていくほど、操体法を行った時に相手もより良く変わっていくという事が挙げられます。
動診、操法にしても、動きの安定や充実をはかるには、まずは操者がそうした作法を身に着けていく必要がある。
そして快適感覚がバランス制御にはたらきかけ快復、改善につながるのですから、感覚のききわけが重要。
それを念頭に、日々の生活の中にも作法を取り入れ、からだに感覚をききわけながら、自分に問うていく。
その繰り返しが自分自身の健康につながり、自分自身が良くなれば操体法を行った時の相手も良くなる。
そして、相手が良くなれば、またそれが自分にも返ってくるという循環が生まれる。
これは動きの安定や充実という面だけでなく、その先にある快適感覚についても言えます。
快適感覚は被験者が味わうだけでなく、操者も共有できるのです。それによって元気もいただいている。そのような特性が、操体法にはあるのです。
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当たり前を、めくる
からだが教えてくれること。
操体を通して受け取ることのできる、様々な気付き。
こういうことは、何年学ぶことを続けていても尽きることがなく、
逆に、よりシンプルに、また新鮮な情報として学習の機会となる。
そういう循環のなか、脈々と継承されてきた操体、そして操体法。
この、からだから学ばせていただけることや「気付き」と呼んでいることは
「当たり前」だと感じていたことのなかにある。続ければ続けるほどに、その想いは強くなります。
当たり前のことが、当たり前でなくなった時というのは、毎回、驚きと、まだ触れられずに目覚めを待っていた学ぶことの意欲がくすぐられるような悦びを感じます。
気付かなかったら、そのまま。
当たり前のこととして、生命の不思議は静かに営まれ続けていくだけ。
それも素敵なことですが、
無数の気付かれていない生命のリズムや流れについて、
からだからいただける「情報」を、一番の参考文献として、学ばせていただく。
自分が意識できている認識の、それ以外の世界で営まれている生命感覚の世界について、
まずは、受け取ってみて、味わってみる。
理解するのは、あとで大丈夫。
ゆっくり、少しずつ。例えば、その味わったことを言葉として表現できたとしたら、どんなに重要と言われている情報より、その人にとって大切な「生命由来の情報」に立ち会った瞬間なのではないかと感じています。
操体はそういう場となる学問だと思うのです。
一週間のお付き合いありがとうございました。
明日から友松実行委員の投稿がはじまります。
どうぞ、おたのしみに。
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ゆだねる、を学ぶ
自分が思い描くイメージ、ヴィジョン。
そういったものを先行させるのとはまた違って、
例えば、からだの無意識にゆだねる、というところから自らの振る舞いを描いていく。
これも最近になって、また操体から教えていただいていることのひとつです。
人間には、強く願ったり、言葉にしたり、思い描いたりすることで、物事を具現化、現実化する不思議な力がある様に思います。私自身も、こういうことの力を、知らず知らずのうちに(また途中からは意識的に)お借りしてきたように感じていますが、時に、こういった姿勢は、自分自身に対して大きなプレッシャーとなってしまうこともあるように思います。
程よいプレッシャーはむしろ大歓迎ですが、やりすぎてしまうことが続くと「消耗」に繋がってしまう。その辺の塩梅については、実は私自身もまだ手探りの状態です。
どんなことを思い描いて、実現しようとしているか。
そういったことも関わっていることかと思いますが、少し、そのプロセスを変えて、自分から何かを発信するのをいったん落ち着けて、まず自身の置かれている状況などを受け取るところからスタートする。
いま、この状態のなかで、それを最大限たのしんだり、生かしたりするためにどんなことができるだろうか。そこから、思い描くことのエネルギーを循環させていく。意識はあとからついてくる。
最近の操体の臨床を受けながら、まだ言葉になれていない世界の中で、
こういった流れの在り方もあるよ、というのを、間接的に学習しているような気がしています。