投稿者: karib_sotai

  • テーマ「海」・・・6

    おはようございます。

     

    海は大きく、広く、そして深い。

    陸から見ているだけでは、その大きさや広さはわかっても、深さは潜ってみなければわからない。

     

    私はスキューバダイビングをやった事は無いが、話を聞くと陸の世界にはない素晴らしさがあるという。

    しかし、その素晴らしい世界も海の深さからしたら、表層のごく僅かに過ぎない。

     

    海も水深200mより深くなると深海と呼ぶという。

    水深1万mを超える海溝もある中で、この水深200mより先の深海の世界は、よくわかっていない謎めいた世界だという。

    人類は、50年前にはアポロ11号で大気圏を超え、38万km先の月に到達しているというのに。
    自分たちが生活している地球の、それも目の前にある海の200mから先の深い世界がわかっていない。

    大変興味深く、面白いことだと思う。

     

    これは、人間にも当てはまるのではないかと思う。

    人間も、うわべの自分のことはよく知っているが、ちょっと奥を深堀りすると途端にわからない事が多くなる。

    自分のからだや、心の奥底に関してもそうだと思う。

    常識としての知識だけで、表面的に解ったつもりでいても、そこから更に掘り下げてみると、わかっていない事が多いことに気づく。

    それでも生きていられる。

    それでも、生かされて生きているのだから、感謝するしかないのだと思う。

  • テーマ「海」・・・5

    おはようございます。

     

    波動という言葉がある。

    これを、辞書にあるような物質の物理的現象としてではなく、物質が物質として成り立つ為のエネルギーの元という捉え方をしてみる。

     

    橋本敬三先生の、創健会における講演録には、以下のような記述がある。

    「波動は、プラス(+)とマイナス(-)という二つの異質なものが存在することによって、その引き合いや跳ね返しにより、そこに動きの波ができる、これがエネルギーとなるわけです」

    こう話す前に、以下のようにも話されている。

    「生命現象は有機の世界で行われますが、有機のもとは無機であって、原子の世界であります。原子のもとが素粒子だとか中間子、電子だとか言われますが、これはエネルギーから発生するものだそうで、エネルギーは波動から生まれます」

     

    生命現象はじめ、森羅万象あらゆるものには、元の元の起源がある。

    この元の元を辿っていくと、必ず異質なものどうしが親和したり反発したりしながら調和し、エネルギーを生み出していくという過程がある。

     

    それを想えば、自分の思い通りにいかない事があるのは当然と思える。

    自分と反対意見があって良い、あって当然。

    波風の無い方がおかしいのだ。

     

    此の世を創造した無極無限の創造主は、愛と調和の意志でプラス(+)とマイナス(-)を設定したという。

    波風が立っても、より良い調和の方向性は必ずある筈であり、そこからまた進化、発展への展望が開ける。

    海は、そうした事も教えてくれているようにも感じる。

  • テーマ「海」・・・4

    おはようございます。

     

    「情報の海」という言葉を聞くようになって久しい。

    私が子供の頃の昭和4、50年代というのは、インターネットなどなく一家に一台テレビがあるくらいで、その他に詳しく情報を得ようとすれば新聞や雑誌、専門誌を購入するしかなかった。

    しかし、今はスマホ一つあれば大抵の情報が得られる。

     

    随分と便利になったと感じるが、あまりにも情報が膨大になりすぎて、その情報の海に溺れていると感じる時もある。

    何か資料を探している時など、直ぐに「これ」というものにたどり着けずに、さんざん読んだ挙句に探している内容とは別物と気づく、それを何度も繰り返していると随分と消耗させられた気分になる。

    また、ネットの情報にはフェイクなものもあり、真贋の見極めが大切。

     

    その真贋に見極めは、頭の知識や思考だけでは不十分だと思う。

    誰もが考えるだけで生きているのではなく、感じて生きているという土台があって考えが成り立っているのだから。

    からだの感覚というのは無視できない。

    これは、骨董品などの目利きにもつうじると思うが、鑑定人というのは目を含め感覚器がそれに触れた瞬間に、企みがあるものは違和感を感じていると思う。

    それの理屈なり説明は、後から本物と比較対象した考えなのであり、最初に受けた感覚の方が優先されていると思う。

    しかし、まわりで見ている人からすれば、理屈のウンチクの方が興味をそそられる。

    興味をそそられて、知識だけで同じような事をしようとすれば失敗する。
    そんな単純で生易しいものではない。

     

    しかし、単純で生易しいものでなくとも、シンプルではある。

    自分が受けたからだの感覚を受け入れるか、受け入れないかだけなのだから。

    もっと、からだというものを尊重して良いし、もっと信頼すべきだと思う。

    からだには、無意識の状態でも生命を生かす力、活かす力が宿っている。
    また、人類共通の良心につうじるものも宿っているようにも感じる。

     

    ネットの情報には、フェイクや自己利益に向けて他人を騙そうとするものもある。

    頭の知識の独断ではなく、からだ(良心)にききわけ、真贋を確認するのも大切だと思う。

    情報の海を航海する羅針盤にも、からだにききわけるという姿勢が必要。

     

  • テーマ「海」・・・3

    おはようございます。

     

    先日、コンビニでトイレを借りようとしたところ、先客があったので近くにあった雑誌をパラパラとめくっていました。

    すると「昭和の夏休み」と題した写真の特集があり、当時の海水浴の状況が写し出されていました。

    子供から若者、中高年の皆さんまで、とにかく楽しそう。

    そして、密、密、密のイモ洗い状態。

    今のコロナ禍の状況からは、考えられないような混雑と盛況。

     

    思い返せば、私が子供の頃の昭和4、50年代というのは、一億総中流と呼ばれた時代であり、衣食住の暮らしの水準がみんなと同じでなければ嫌だ、同じようだけどちょっとだけ優越感を持ちたい、みんながそういう意識を持っていた時代だったように思う。

    車にしても、どこの家でも持つようになれば、うちも持たなければならない、どうせ持つなら付加価値の付いたものがいい。
    当時、車の窓ガラスは手動式が多かったが、どうせ買うならパワーウィンドウの付いたのがいいとか。

     

    レジャーにしても「夏と言えば海」というのが、決まり文句のようであった。

    軽井沢などに別荘を持って山の方に避暑に行く人は対象外で、ほとんどが「○○さんちが海に行って来たみたいだから」と、海に行って何をしたいかではなく、とにかく「海に行く」その事を主目的としていたように思う。

    そして、○○さんちが三浦海岸だったから、うちは湘南まで行ってみたとか、距離的に遠くまで行った方が何か自慢げだったりした。

     

    それでも、海に行ってしまえば非日常的な解放感を感じて、子供たちは大はじゃぎ。イモ洗い状態の混雑もなんのその。

    一方、引率のお父さんはぐったり。砂浜にビニールシートを広げて「面倒くせえなぁ」と思いつつ日光浴。

    それでも、自然の中に肌を晒すという非日常的な時間を過ごすうち、知らず知らずに海に癒され、元気が出てきて、帰る頃には遊び疲れた子供たちに向かって「また来ような~」とか言っちゃったりして。

    海には、そんな魅力もある。

  • テーマ「海」・・・2

    おはようございます。

     

    私は、海なし県の内陸に生まれ育ち、子供の頃は海とはあまり縁がなかった。

    それでも、20代後半の頃、横浜に住んでいた時はバイクでよく海を見に行っていた記憶がある。

    横浜から国道16号を横須賀まで進み、観音崎手前の馬堀海岸の堤防でよく海を眺めていた気がする。

     

    当時は、今の仕事ではなく会社勤めをしており、中間管理職の立場にあったので、とにかく人間関係での精神的ストレスを感じる事が多かった。

    他の人からすれば「そんな事で?」というような事柄も、当時の自分としてはプレッシャーであり、ストレスだったと思う。

    そのストレスは酒を飲んだりしても解消されず、酔いが醒めれば増幅されるような感じだった。

     

    そういう時、海を見ていると何だか安らいだ。

    ただただ30分くらい、潮風にあたり波の音をききながら、ぼんやり海を眺める。

    その間も嫌な事が思い浮かんでくる。

    しかし、思い浮かんでは来るが、嫌さ加減が少しづつ軽減されていくのを感じた。

    何か、からだをつうじて「許す」という感情が心の大勢を占めてくるようにも感じた。

    やはり、許せないという気持ちが続くと、自分自身もツラクなるのだと思う。

     

    たまには大きな海を見て、自然の大らかさを感じ、自分の心の小ささを鑑みることも大切だと思う。

     

  • テーマ「海」・・・1

     

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。どうぞ、宜しくお願い致します。
    今回のテーマは「海」ということでリレーしております。

     

    私は海なし県に生まれ育った為か、あまり海とは縁がないような気がします。
    それでも、海への憧れというのは小さい時からありました。

    川や湖も良いけど、青くどこまでも広がる海というのも良い。
    岸や輪郭がつかめないだけ、その先には何があるのだろうかという想像力が掻き立てられる。

    はじめて海を見た時、そこには何隻かの船が浮かんでいた記憶がある。
    船以外に見えていたのは、大きく広がる青い海であり、青い海の他には空があるだけ。

    しかし、目で確認できる海と空だけが全てではない。
    それが全てと決めつけて、何もしなければ、ただそれだけのこと。

    その水平線の彼方には、今見えていなくとも何かが在る。

    いにしえの人達は、そう感じて、船をつくり、少しでも近づいて、知らない世界を知ろうとしたのではないだろうか。

    勿論、恐怖心はあったと思うが、それでもその先、その奥が知りたくて、工夫しながら前に進んだ。

    毎日、ちょっとづつ、ちょっとづつ、行っては戻り、行っては戻り。

    時には、向かい風で思うように進めない日もあったろう。
    それでも、自然の中の法則性を学び、潮の流れや逆境だった風の圧も見方につけ、もっと前に進めるようになっていった。

    何か操体の学びにつうじるものを感じる。

  • うみのきおく 7

    海を前にして、感じさせてくれるリズム。

    ついついボーっと眺めてしまうその水のうごきのなかで、

    岸に打ち寄せてきた水が砂にしみわたり、再び沖の方にかえっていく、

    そして、沖にかえっていったうごきが、流れをかえてまた岸に水を運んでいく、

    そのどちらにも豊かな間(ま)が含まれている。

     

    リズムに内在しているこの間が、からだを通じて何か大事なことを感じさせてくれるようである。

     

    油断すると、どうもこの「間(ま)」というものが、生活の中からすっぽりと抜けてしまう。これも大切なメッセージ。

    間の抜けた生活のリズムは、からだに内在している生命活動のリズムとはずれていってしまうのだろう。

     

    からだという自然は、このリズムの不調和のなかで、それでも調和の方向へと図ってくれているのではないかと、感じずにはいられない。

    少しでも人間の意識の方で間をおもいだすことができれば、からだのオーバーワーク

    もだいぶ軽減されるはずだ。

     

    ついつい忘れてしまいがちな、この間(ま)の記憶に委ねる。

    「間抜け」なリズムから離れて、からだの奏でているリズムに重なる。

     

    海・産み・うみ。

    大いなる、という言葉が相応しい、自然の奏でるリズムの表現。

    生命活動のリズムの流れのなかに入っていくイメージを、

    「うみ」はおもいださせてくれる。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の「海」が始まります。

    どうぞ、おたのしみに。

     

  • うみのきおく 6

    (昨日の続き)

     

    からだを診させていただいているときに、「海」のリズムを感じる。

    ひとつには、「足趾の操法🄬」を通しているときに被験者の足元からみえる景色がそれを連想させる。

     

    操法を通して、変化は様々起こっているけれど、

    やはり呼吸の変化は印象的だ。

     

    最初は速く浅かった呼吸のリズムが、気が付いたら深くゆったりとした状態に変わっている。呼吸の変化に伴って、からだの動きも変わっていく。

     

    そのリズムが変化していく様子が、からだを通じて波の変化のように感じられる。

     

    操者の方でコントロールしたり、また被験者の方で意図的に表現しているようなからだの動きではない。からだに宿っている自然がみせてくれる、からだのうごきである。

  • うみのきおく 5

    呼吸は意識的にしようとしなくても、吸って、はいてを自然におこなってくれる。

    からだの方で絶えずしずかなリズムがおこっている。

     

    海の水のうごきはこの呼吸を連想させる。

    ゆったりと、また時に荒々しく。

    よせてはかえす波のリズムは海の呼吸のようにも思えてくる。

     

    からだの営みに、海に通じる大いなるリズムが感じられる。

    からだにも、うみの記憶が宿っているのではないかと思わずにはいられない。

    からだを診るというのは、自然をみていることに通じているのだと思う。

  • うみのきおく 4

    海の水はしょっぱい。

    このことがとても不思議だなと思う。

     

    忘れもしない、小学校のプールの授業。

    プールの水はしょっぱくなくて、塩素がしっかり効いているあの感じ。

     

    泳ぐのがあまり得意でなかったので、プールサイドを足の裏で感じるあのザラザラした記憶。思い出すと独特な想いが蘇る。そういえば、今でもたまにプールサイドは夢に見ることがあるような気がする。

     

    このプールの授業が少しイヤなものでなくなったのは、父親に連れられて学外のプール教室に短期間通ったことがきっかけだった。その教室で「浮く」ことを教えてもらえたことが転機になる。

     

    バタ足、クロール、平泳ぎにまるで手ごたえのなかったところに、「背泳ぎ」という表裏が入れ替わるトリッキーな変化球がやってきた。

     

    これが妙にからだにしっくりくる感じがあって、「これだ」と飛びついた。顔が水から常に出ているので、呼吸もしやすいのが嬉しかった(今、思い返せば、当時クラスで2番目くらいにぽっちゃりしていたので、ある面では沈みやすく、またある面では浮きやすくもあったのだろうと思う)。

     

    背泳ぎという武器があったおかげで、プールの授業でクロールが遅くても、平泳ぎが全然進まなくても、へこたれてしまうことはなかった。

    (跳び箱は高いの飛べないけれど、伸膝前転はなぜかできる、という感じに、実感としては近い。これも手が長くて座高も高くて、足が短かったからだよな、と今では納得している)。

     

    にしても、泳げなくても、浮いてはいられるよね、という実感が、その当時どれだけ救いになったことか。

     

    「背泳ぎ」を通して「浮く」ことを覚えた私は、そのあと海でもこの「浮くこと」を試してみる。

     

    プールとは違って、海にも支えられているようなプカプカ感が不思議だなぁと、ぼーっと空をながめながら浮かんでいたのを思い出す。

    海の水がしょっぱくなければ、くるっとひっくりかえって、あの海に支えてもらっている感じも味わえないのだ。