投稿者: karib_sotai

  • テーマ山・・・3

    おはようございます。

    先月までは青く見えていた浅間山も、暦が進んで霜の降りる時季になれば白くなり、青い空のなかで一際その存在感をはなっています。
    浅間山(wikipedia)

    傍で、ぽつんと浮かぶ白い雲はご愛敬。

    まわりの低山も少しづつ紅葉が始まり、素晴らしいコントラストです。

     

    たまには写真でも撮ろうかと構図を考える。

    そこで、どうしても気になってしまうのが、山に立つ鉄塔と横切る送電線。

    最近やたらと増えたように感じる。

    そのまま風景を生で見ている分には気にならないのだが、写真に撮って素晴らしい景色を見せたいと思うと邪魔に思えてくる。

     

    目的意識によって、そこにあっても気にならないものも、排除の対象となってしまう。

    これは、考え方によっては怖ろしい事でもある。

    昨今の世界情勢も、何か危うさを感じる。

    目的意識が覇権主義に向かぬよう願うばかりである。

     

    また、人様を診させていただく時も、診る側の目的意識によっては、バランスを崩す要因となっている歪みも、何か必要あっての歪みも、診たて方が変わってきてしまう。

    からだにとっての、正しい目的意識を持つという事は、大切だと思う。

  • テーマ山・・・2

    おはようございます。

    ふと、遠くを眺めれば、そこに山々があった。

    遠くの山々は高く青く、空の青とも上手く調和しながら、その輪郭は何か神々しさがあるようにも感じられる。

     

    遠くの山が青く見えるのは、空気と光が関係しているという。

    山との距離が遠くなるほど、その間にある空気の中の微粒子も含めて見ることになるが、その空気の中で微粒子が波長の短い青い光を四方八方に反射しているからだという。

    これは、レイリー錯乱と呼ばれているそうだ。

     

    そう聞けば「へ~、そうなんだ」と頭の知識欲が満たされた気分になる。

    しかし、それで終わりにしてしまっては、何か自分の思考本位なだけのようで、もったいない気がする。

     

    自分が、遠くの山を見て神々しく感じた、その感覚から生じる感情や想念も大事だと思う。

    この風景は、気候、風土、植物の呼吸が幾重にも重なって醸し出している。

    その絶妙のハーモニーに触れた時に感じる自然の幻想的な美しさ。

     

    その美しさは、自分を生かしてくれているものの美しさでもある。

    普段は気にかける事もないが、確かに自分を生かしてくれている存在たちのハーモニー。

    そのハーモニーに触れた時、なんだか有難いという気持ちが満ちてくる。

    自分本位で頭を働かせて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしている自分にとって、そのハーモニーとの触れ合いは癒しであり、気づきの場面でもあると思う。

  • テーマ山・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。
    どうぞ、よろしくお願い致します。

    今回のテーマは「山」ということでリレーしております。

     

    私の住むところは、関東平野の端の方に位置していまして、四方を眺めれば必ず大なり小なりの山があります。

    そして、その山々は、すべて違う表情をしています。

     

    近くのなだらかな山々は、木々の様子がよく分かり、そろそろと紅葉が進んできている様子。

    遠くの山々は高く青く、空の青とも上手く調和しながら、その輪郭は何か神々しさがあるようにも感じられる。

     

    これからの季節、近くの里山に分け入り、落ち葉をサクサク踏みながら、紅葉を愉しむのも良い。

    それも良いのだが、それでは目的意識が山ではなく、紅葉狩りに向いてしまう。

    山に入る者は山を見ずという言葉があるが、それでは山の一部、山の持つ一面しか分からなくなってしまう。

     

    内部に分け入って、細かくみようとするのも大事だが、いったん離れて遠くから全体像をみるという観点も必要。

    これは、からだを診させていただく、ひいては操体の学びにもつうじる事だと思うのです。

  • やまのはなし7

    一日が始まる前の時間。

    夜が深く更けていって、いつのまにか朝へと変化していく

    グラデーションの時間。

     

    そういう時間に目が覚めていて、外に出て、その間のときをあじわう機会は

    そんなに多くはないけれど。

     

    静けさの中、キリっと澄んだ空気を感じ、

    今日一日の呼吸が始まろうとしているような気配に包まれていると、

    朝早くから山に登るために、登山口の近くにキャンプを張って休み、

    まだ薄暗い闇の間の中、山を登り始めるときの朝の景色が思い出されてくる。

     

    自然がいっぱいでないようなところにいても、朝がやってくる前の空気は、

    なんとなく似ているのだ。

     

    そもそも、自然がいっぱいってなんだろうか。

     

     

    からだのそとで「呼吸」している、おおきなリズムのようなもの。

    そんな目にみえない自然を感じて、きょうの一日もはじまるのだ。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日からはテーマを引き継いで友松実行委員のブログが始まります。

    それでは友松さん、よろしくお願いします。

  • やまのはなし6

    人から感じる第一印象というのは、「なんとなく」の世界ではあるけれど、

    ある意味で的を得ているときがあるものだ。もちろん外れることもあるが。。

     

    そのなんとなく感じる印象のなかに、

    「あ、この人、『山登りのひと』かもな」というのがある。

     

    「山登りのひと」という言い方も変かもしれないが、その意味するところは、

    現在も、山登りをしている、もしくは、以前、山での活動をやっていたなど、

    多少のブランクはあってもそういったアクティビティに親しみをもった経験のある人。

    そういう人物には特有の雰囲気があるように感じる。

     

    なんとなく、そういう人の纏っているリズムには、

    いい意味での隙間が満ちているように思う。

    山や自然のなかに満ちているなにかが、その人のなかに宿っている、

    残っている、とでも言えばいいのか。

     

    街の奏でているリズムのなかにあっても、

    そういう人の振る舞いには、ゆったりとしていて、ほどよい間が含まれている。

     

    「山登りのひと」と接しているだけでも、なんだか呼吸が深くなる、

    からだのなかを風が吹きぬけていく。

     

    山登りに限ったことではなく、人に宿る自然というものがあること、

    そういった不思議を、最近大事に思っている。

  • やまのはなし5

    目にはいるところに「時計」のない場所では、

    いまが何時なのか、考えることも忘れてしまう。

     

    日の光の変化と生きものの「こえ」に包まれ、

    皮膚は空間をただただ味わっている。

     

    光を、闇を、

    ひびきを、

    あじわっている。

     

    普段明るすぎて見えなくなっているものも、みえてくる。

    あったものが、あることを感じられる。

     

    時間がゆっくりと流れているように感じるのは不思議だ。

    (実際に、まだこんなに早い時間ではないか)

     

    何もしない時間がひろがっていく。

    じかんが、きえていく。

     

     

    いくつかの

    やまのきおく

  • やまのはなし4

    昨日に引き続き、山登りを通して不思議に感じていること。

    その一つに、アウトプットのことがある。

     

    山を登っているときは、全身をつかう。

    そして、登山と下山の道中で何時間も歩き続ける。

    からだの方は疲れたりするけれども、休み休みしながら何かトラブルが起きない限りは

    なんとかやり通せてしまうものだ。

     

    これが、「山」ではなくて街中で同じような活動を行おうとしたらどうだろうか。

    例えば、地下鉄のホームから改札までの階段を昇っているときなどにこんなことを考えたりする。何時間も動き続けていられるだろうか。

     

    自然の中で活動をしている時と言うのは、単なるアウトプットにはならないように思う。

    無意識に何かを受け取りながら、活動を行いやすい環境が自然のなかにはある。

     

    自然の山々のなかでは感じられやすい「循環」のイメージが、都会のビル群のなかでは感じられにくい。

    感じられないのではなくて、感じられにくいだけなのだろうけれど。

  • やまのはなし3

    少ない山登りの経験のなかで、不思議に感じていることがいくつかある。

    その一つに、インプットのことがある。

     

    山中で湧き水の恩恵にあずかる。

    登山の小休止に、板チョコをひとかけら口にする。

    また腰を落ち着けて、一人用のバーナーを取り出して湯を沸かし、

    インスタントコーヒーを淹れる。

    ザックに忍ばせたおにぎりやパンを口にする。

     

    これらのことが、平地で何かを食べたり、飲んだりするときとはまた異なり、格別な味わいに感じられる。

    気のせいか、食べるペースも穏やかで、量も少しずつに変化している。

    自然と食べ方が変わっているのが面白い。

     

    汗を流してからだを使っているから、また格別に感じられることに加えて、

    山の中にいるうちに、からだの「感じること」のスイッチがONになっているのではないかと思う。

     

    もしくは、ただ自然な状態に還った、という表現の方が適切なのかもしれない。

  • やまのはなし2

    学生時代、探検部に所属し訪れ登った山のなかで、新潟県の巻機山(まきはたやま)のことが時たまふっと思い出されることがある。日本百名山の一つでもある。

     

    冬の巻機山でかつて命を落とされた先輩の慰霊を目的に、部員全員で年に一度この山に登ることが部の大切な行事となっていた。自然を前に、命を失うこともあることを年に一度感じる節目の日であった。

     

    早朝、日の出前から登山口を出発し、各部員自分のペースで歩みをすすめる。

    前半のルートが結構きついわりに地味なルートがしばらく続く。

    そして山頂まで順調に登っても片道4時間くらいはかかるので、初めて巻機山に登った時は、正直これから毎年慰霊登山でこの山に登ることを億劫に感じていたことを覚えている。

     

    しかし、不思議なもので、2年目に訪れ、また3年目に訪れてみると、この山の良さを感じていることに気が付く。地味な山道を抜けて標高が高くなってくると高山植物が見渡せるひらけた景色になっていて、その地点に来ると、「あぁ今年もここまで来たなぁ」と何とも言えないじんわりした気持ちになったものだ。今では私にとっては特別な山の記憶となっている。

     

    そして、意外なもので、こうして日常生活を送っていて思い出されるのは、実は前半の地味なルートを黙々と登っている時のことだったりする。

     

    重い荷物を担いで、自分のペースで歩みをすすめる。

    足運びのリズムと、それに重なる呼吸の音。

    そのバランスがくずれてきたら、しばしの休息。

    腰を下ろしてぼーっとしているときに感じられる風のきもちよさ。

     

    片道4時間の「マイペース」と向き合う時間。

    忙しくしているときに、その時の記憶、

    間のときのことが、ふっと思い起こされてくる。

  • やまのはなし

    瀧澤さん、一週間の澄みきった投稿ありがとうございました。

    呼吸がからだに入ってきました。

    本日からはテーマ「山」を引き継いで寺本が担当します。

    よろしくお願い致します。

     

    大学時代、探検部に所属していたけれど、もっぱら川下りに時間を費やしていたので

    「山」の経験はほんのわずかしかない。

    縦走もしたことはないし、過酷な冬の山のことも知らない。

    沢登りも数えるくらいしか経験していない。

     

    それでも、なぜか無性に山を訪れたくなるときがある。

    大学卒業以降、「山登り」なんてものはほとんどできていないのだが、

    そろそろ本当にまた山歩きをしたいと思うようになってきた。

     

    からだのうごきと、

    感覚を通してうけとること、

    呼吸のこと。

    そういうことに出会っている今、

    山登りをしてみたらどんなだろうと思う。

     

    街中を歩いていても随分変化を感じられるから、

    山の中を歩いてみたらまた新鮮な発見があるかもしれない。

    意外と街中でいただいているものと変わらなかったとしても、それはそれで面白い。