投稿者: karib_sotai

  • はじめての操体法・・・4

    おはようございます。

     

    はじめての操体法。
    操体法は、第1分析にしても第2分析にしても「動かして診る」という事に主眼が置かれている。

    この事から、操体法をこれから学びたいという人にとって、大抵はじめに思い浮かぶ疑問があると思う。

    「では、動けない人はどうするんだ?」

    至極真っ当な疑問だと思う。

     

    確かに、動けない人もいる。

    特にギックリ腰の急性期の人など、ウ~ウ~と唸りながら、こごまって痛みを堪えている状態の人に動けと言ったって、動けるわけがない。

    これでは、動いて気持ちよさをききわけるといっても無理がある。

    ましてや、このような状態の人が動きをたわめて、瞬間急速脱力など出来よう筈もない。

     

    また、動けない人、動かしようがない人の他に、動きの感覚のききわけが困難という人もいる。

    これらのケースは、動かして診るという事に主眼を置く操体法の盲点である。

    しかし、この盲点は既に克服されている。

     

    この盲点がある事を認め、第3分析である皮膚へのアプローチを体系化して、盲点を克服したのも三浦寛先生だった。

    皮膚へのアプローチは、一般の人が傍から見れば、こんなことで良くなるのか?というくらいにシンプルで静的なものである。

    しかし、その効果には目を見張るものがある。

     

    この盲点克服も、橋本敬三先生のそばで長年学び、橋本先生が成そうとしていた気持ちよさに対する操体法の体系化を成してきた三浦先生だから出来たのではないかと思う。

    そこには、気持ち良さという快適感覚によって、からだがどのようにバランス制御に働くか長年観察し、気持ち良さをききわけるという本人の意識介入がなくとも、からだに直接気持ちよさを問いかける方法を研究してきた三浦先生の尽力の賜物がある。

  • はじめての操体法・・・3

    おはようございます。

     

    もう10年ほど経つだろうか。

    「操体法って痛いんですよね」とか

    「操体法で痛くされた」といった電話による問い合わせが、頻発していた時期があった。

    すべて遠方の方からの電話で、実際に来院されたことはなかったが、考えさせられる面があった。

     

    操体法の実施施設のほとんどは、創始者の橋本敬三先生が初期の頃に行っていたツライ方から楽な方に動かして、2~3秒間動きをたわめて、瞬間急速脱力するという第一分析を行っているであろう。

    この行程のなかで、特に瞬間急速脱力は、被験者のからだの状態や体勢によっては、危険が伴うと思う。

    それを、操体法とは、こうやるものだという考え方で強行していると、痛くされたというふうになってしまうのかもしれない。

    また、操者(施術者)が操体法を単なる歪みを正すテクニックと考え、瞬間急速脱力の時に変に角度をつけて押し込んだりしてしまうのも良くない。

     

    晩年の橋本先生がみせてくれた操体法は、それまでの2~3秒間動きをたわめるとか瞬間急速脱力といった決めつけなどなく、あくまでからだ本位、からだの要求に従ったたわめの間、脱力の仕方だったという。

    勿論、その後三浦寛先生によって体系づけられた「気持ちよさをからだにききわける」第2分析では、第一分析でみられた操者の決めつけというのは一切排除されている。

    そして、痛みや不快を伴う様な動きは勿論なく、からだの求めるオクタント(極限安定率)を満たす動きから、からだに気持ちよさ(快適感覚)の質をききわけ、気持ちよさを味わう事を重視している。

    あくまで、からだ本位。これが第2分析だけでなく、後の診断分析法へのシフトアップにつながっていく。

  • はじめての操体法・・・2

    おはようございます。

     

    私が本格的に操体法を学び始めた頃には、すでに「ツライ動きの方向から痛くない楽な方向に動いてもらう」という診断分析法から「動きによる気持ちよさをききわける」という診断分析法に、操体法はシフトアップしていた。

     

    第一分析から第2分析へのシフトアップであり、これにより操体法が操体法らしいというか、創始者・橋本敬三先生の哲学、生命観を、臨床で応用するという本来のスタイルになってきたように思える。

    第一分析には、橋本先生が正體術からヒントを得て、有難くお借りしながら改良を加え、独自に発展させてきた経緯がある。

    その為、操者(施術者)主体の療法の側面が、まだ色濃く残っているように感じられる。

     

    これは、楽な動きの可動極限でたわめの間を設定する事然り、2~3秒動きをたわめたのち瞬間急速脱力に導く事然り、2~3回行うという回数の決めつけ然り、操者(施術者)の指示に被験者を従わせるかたちになっているのをみても分かるとおりである。

    治療家、医療関係者であれば、そんなことは気にも留めずに当然と思うかもしれない。

    しかし、橋本先生や、後に気持ちよさをからだにききわける診断分析法を体系化した三浦寛先生は、施術者が被験者を従えて、被験者は被験者のからだを従えようとする、その図式を嫌った。

    そこには、生命に対する尊重や大きな感謝をはじめとする想いがあった。
    そうした生命への想いは、橋本先生、三浦先生から、三浦先生に学ぶ私たちにも受け継がれている。

    施術者が治すのではなく、治るのはからだの元々持っている本来の健康状態に戻ろうとする力で治る。

    そこをはき違えて、施術者が「自分が治している」と思ってしまうと、おかしな事になってくる。

    操者(施術者)は、からだが持っている治癒能力を十分に発揮できるよう、その仕組みを真摯に学び、からだのお手伝いをする立場なのだ。

  • はじめての操体法・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願い致します。

    今回のテーマは「はじめての操体法」ということでリレーしております。

     

    はじめての操体法。

    私がはじめて操体法を知ったのは、20年以上前になります。

    確か、まだ整体の専門学校に通っていた時であり、その時に聞いた「痛くない方に動かせば良くなる療法がある」という噂話程度の話に、いたく興味をそそられたのを覚えている。

     

    当時の私は、脊柱の配列異常で可動制限のかかった椎骨を矯正したり、局所的な筋肉を緩めたりといった施術者主体の手技療法を学んでいた。

    そんな私にとって、被験者自身が痛くない方に動いて、腰痛はじめ様々な症状を改善させるという考え方自体が信じられないものだった。

     

    当時、学生どうしで矯正の手技の練習をしていて、痛くされたり痛くしてしまったりというのは茶飯事であり、技術の未熟さはさておき、治療には多少の痛みはつきものという考えがあった。

    しかし、学生どうしならともかく、他の人に施すとなるとそうもいかなくなってくる。

    学生の練習に付き合ってくれる人となると限られてくるし、誰だって痛くされるのは嫌だろう。

    また、学校を卒業して技術を磨こうにも、経験のない者に直ぐに施術に入らせるような治療院もないだろう。

     

    手技療法の世界は、人様の役に立ちたいという志は高くとも、技術の習得には時間がかかるし、その習得の為の環境に恵まれている人も僅かだと思う。

    しかし、動きに着目し、痛みのある動きはその時点では、まだからだがやってほしくない動きと受け止め、痛くない方向に全身を操って動かせば、症状、疾患が良くなる療法がある。

    それが操体法だったのだが、随分と心惹かれたのが思い返される。

  • わたしにとっての、からだにとっての7

    わたしにとっての健康、からだにとっての健康。

    今回の春季フォーラムではこのことをテーマにタスクで発表の機会をいただいた。

     

    当日に向けてはなしあいを重ねる中で、

    「わたし」が「主語」の視点から、「からだ」が「主語」の話へと膨らんでいくのを感じていた。

     

    言い方を変えれば「わたし」というものが消えていくようなイメージがそこにあった。

    「わたしにとっての健康」と「からだにとっての健康」が、別々のものではなく、営みとして重なり合っていくスガタが連想された。

     

    そして、フォーラム当日。

    今回も、流れがその場で生まれて、展開・発酵するようなうねりのなかで、

    先の健康観のイメージに、またひとつ拡がりをいただいたようなきもちになった。

    それは、三浦実行委員長の「健康維持増進」の話を伺っていて、生まれた拡がりだった。

     

    正直なところ、からだにとっての健康を考えるうえで、

    「わたし・自分・自我」

    といったようなそれぞれのものは、できるだけ薄まっていった方がいい、消えていった方がいい、そんなお邪魔な存在なのではないかと感じていた。

    なぜならば、からだの方では、常に、わたしの生き方の帳尻合わせを黙ってしてくれているような印象があったからだ。

     

    健康ということばのイメージがあり、「健康維持」をしていくためには、からだにとっての余計なことを、日常生活のなかで、できるだけしない。からだにとっての負担を減らしていく。その為にすべきことはなんだろうかという問いかけのひとつの答えだった。

     

    しかし、フォーラムを終えて、またもうひとつのイメージが膨らんでいる。それは、「健康維持増進」ということばをどうのように捉えるかである。操体を学んでいる人であれば、必ず触れるこのことばが目指しているものは一体なんなのか。そのことに興味を抱いている。

    からだの方で黙々と営まれている「健康維持」に関するいのちの営み。それが「増進」に繋がるには、「からだ」だけでは実現ができないのではないかといった実感がある。では、これを増進させていくものはなにか。

     

    今回のフォーラムを経て、現時点でのひとつのイメージは「からだ」と「わたし」との信頼関係がそこには必要なのではないかということだ。

     

    「からだ」だけでも何か、一味足りない。

    「わたし」という存在がまったくいらないわけでもない。

     

    からだからいただく情報を受け取って、わたしの生き方が創造される。

    そんな循環のなか、からだとわたしとの関係性が創られ、

    健康維持増進へとつながっていく。

     

    今回の春季フォーラム、そして、現在三浦理事長が展開されている新重心理論から、人間の生き方の可能性が感じられ、次回の秋季フォーラムへと繋がっていくように感じています。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日より友松実行委員にバトンを渡します。

    よろしくお願いします。

  • わたしにとっての、からだにとっての6

    「からだ」は常に生命活動のリズムを営んでいる。

    そこに「わたし」の生活リズムが交差していく。

     

    わたしが奏でた、時にノイズ交じりの日々の旋律を、からだの方でうまいこと耳障りでない状態にバランスをとってくれているようなイメージがわいてくる。

    「耳障りでない」という表現は、生活を支障なく送ることのできるからだで常にいてくれている、といったイメージだ。

     

    「自己責任」というけれども、

    これは実は一番大変なところの責任を、からだの方に任せきりで、

    調整役を押し付けているようなものかもしれないと思う。

    一方通行の関係では、からだとの関係性も、おさまりがつかなくなってきても自然なことだといえる。

     

    からだがききわけているリズムを感じていると、

    自(おの)ずと表現されてくるものがあり、

    それがわたしのリズムであった。

     

    こういった瞬間があってもいい。

     

    行きつ、戻りつ、手探りながらも、からだとわたしとの信頼関係が生まれていく。

    自律可能な生命の営みが、その先に見えてくるように感じる。

  • わたしにとっての、からだにとっての5

    「息」「食」「動」「想」

     

    これらの営みのそれぞれには、法則性がある。

    「からだ」という自然由来の生命体には貫通しているルールがあり、

    4つの営みはからだを通じて関係深くあるので、互いに影響を及ぼしあっている。

     

    そのいのち宿りしからだを使わせていただくにあたって、

    こういった法則があることを知っているか否かは、

    からだとの関係性にも、影響を生み出す。

     

    かつて、わたしにはそういった明確な意識はなかった。

    故に、操体を通して、学校では教えてくれない生きる上でのこのような基礎知識の存在を知る機会を得たことは大変ありがたかった。

     

    法則があり、それに適うような生き方をするかどうかは、本人に委ねられている。

    先に挙げていた基本的な生命活動の4つの営みに関しては、原則として本人にしか担うことのできない自己責任の領域であるという。

     

    ルールに適うような生き方は、からだが営んでくれている様々な生命活動に対してもやさしいものとなり、逆に適わないような生き方を続けることはからだにとってはそれ相応の負担となってくる。

     

    しかし、知っていても、なかなかそうはできないものだ。

    とてもありがたいなあと感じるのは、からだの方では、そんな自分勝手な本人の生き方にも、黙々と付き合ってくれていることだ。

     

    わたしがどんな生き方を実践するかにちょっと疲れたら、

    わたしも黙々と、からだのいき方をみつめていられればいいのではないかと想う。

  • わたしにとっての、からだにとっての4

    普段何気なく生活していた、その生き方のなかに

    他人に代わってやってもらえない営みというものがあるということを学んだ。

    それも、整理していくと4つの生命の営みにおさまっていくことも知った。

     

    呼吸

    飲食

    身体運動

    精神活動

     

    操体ではこれらの営みを「息(そく)」「食(しょく)」「動(どう)」「想(そう)」と独特な呼び方で見つめている。

     

    それまで、自分が必要を感じて取り入れて来たことのひとつひとつが、

    操体を学んでいく中で、この4つの営みのなかに整理されていくのを感じていた。

     

    そして、このそれぞれの営みには元来、天然自然の法則があるということも教えてもらった。私が良かれと思って実践してきたことが、この法則に適っていたのかどうか、からだを通して、再確認するということはまた新鮮な学習であった。

     

    わたしとからだの対話は始まり、生きるという営みがわたしだけのものではなく、からだも関わっている生き方として、少しずつ変わっていくプロセスを感じていた。

     

    (続く)

  • わたしにとっての、からだにとっての3

    自分にとって何が必要か、といった考え方に

    からだにとって、という新しいキーワードが加わる。

     

    そのことで、今まで模索してきたことが、ひとつひとつ納まるべきところに納まっていくような印象がありました。

     

    改めてそれまでを振り返ると、良かれと思っていろいろなことを吸収しようとしていたことが、軸となる考え方がなかったために、ひとつひとつがそれぞれバラバラなままになってしまっていて、結局はそれが迷いにも繋がっていたのだと思います。

     

    わたし以外に、からだという軸が意識され始めることで、

    色々なことがシンプルになっていくのを感じていました。

     

    (続く)

  • わたしにとっての、からだにとっての2

    私が考える自分の体の健康といった意識の間に、

    「からだ」というキーワードが投げ込まれる。

     

    操体の学習を始めたわたしにとって、この新しい捉え方は意識の変化が生まれた瞬間だったと思います。新鮮ではあるけれども、実はとっても身近に感じていた存在のこと。

     

    「自分にとって」から、「からだにとって」という眼差しの移行が行われると、

    今まで求めていた情報は、もしかしたら、自分自身の外側にあるわけではないのでは、と思えるようになりました。

     

    何か知りたいことがあれば、いつも身近に在る「からだ」という存在にきいてみればいい、確認してみればいい。

     

    こうして、生まれてから二十数年を経て、わたしとからだとの新しい関係が始まりました。

     

    (続く)