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  • 「日本医学」5/5 流行と不易

    5 流行と不易

    橋本師は、「操体は、日本の様な四季のある穏やかな気候風土の国でなければ生まれなかっただろう。」と話されていたそうである。

    この国の先人達が育んできた、美しい伝統文化を師は尊んでおられた。

    日本の固有の伝統文化、例えば、言語を取り上げてみたい。

    大和言葉」が在った所に「漢字」が輸入され(習合され)、それらを使いやすくするために「カタカナ」と「ひらがな」が発明された。他の外来語は、翻訳されるか、或いはカタカナで表記され、日本語の文脈の中で使われる。(現代では、ローマ字表記や原語がそのまま使われることもある。)
    伝統に即し、新しい良いものは取り入れ、加工して使いこなし(新しい伝統)、さらに新しい良いものを取り込んで発展進化してゆくのである。

    芭蕉は、「流行と不易」という表現をしている。

    時代や社会環境が変化しても不変の本質と、世の流れにつれて変わってゆくもの、変えてゆかなければならないものを見極めなさい、と言っている。

    橋本師は人生を賭して、生命にやさしい慈しみの医学を創始された。そこから生まれた遺産(操体の原理原則)は変えてはならない。それは、「快」をききわけ、「快」を味わうこと、般若身経、連動学、言葉掛け、などである。これらに含まれる真理は操体の不易であり、真摯に学ばなければならないことである。(ちなみに、三浦先生は、「操体は、橋本先生からお預かりして、有難く使わせて頂いているものだから」と常々話されている。)

    操体を十分にマスターした上で、他のテクニックを応用していくのは許されるであろう。また、才人が現れて、新たなる不易を創造する可能性も秘めている。

    筆者は最後に一言申し上げたい。「操法は大きな器であると。」と。

    山野真二

  • 「日本医学」4/5 「運動系」に帰一す

    4 「運動系」に帰一す

    橋本師は医師であるから、西洋医学的アプローチは当然された。そして鍼灸や正体術、その他の民間医療も施行された。さらには漢方も試された。

    試行錯誤の末、自分は専一に「運動系」で行く、と肚を決められた。「運動系とは横紋筋系運動系のことで、骨格を主とする硬組織と、筋肉から皮膚まで含めた軟部組織とを総称する。」と橋本師は定義されている。

    師のDNAは、運動分析から感覚分析へと発展進化し、現在に受け継がれている。

    ところで、 橋本師は医者として高い境地に居られたことは言うまでもないが、常々「名前なんかどうでもいいんだ、真理が大切なんだ。」とおっしゃっていたそうである。本質を大事にされ、形にすることを嫌っておられた。「操体」の命名も、NHKの取材に応じられた時に、(名前がないと困る、と言われて)仕方なく「体を操るんだから、操体でいいんじゃないのか。」と一見無造作に為されてしまった。(後学の我々から見れば、当を得たナイスなネーミングであり、有難いと思っている。)
    橋本師79歳の時である。

    師はまた、自身のやって来られたことを体系化しまとめることもされなかった。常に次代の発展を期待されていた。(だから筆者はプロセス(・・・・)である、と先述した。)

    ましてや、組織を作ってその長に納まるなどと言うことは固辞された。「若い者が何かやろうというのなら、いつでも協力はするよ。」とおっしゃっておられたそうである。

    山野真二

  • 「日本医学」3/5 調和融合

    3 調和融合

    橋本師は、自説を誇示することもなく、他と争うこともなかった。むしろ、良いものがあれば積極的に頭を下げて教えを請い、少しでも自分のものにしようとされた。だから、師の交友関係は多彩で広い。当時の高名な医者、治療家の方々と君子の交りをされている。

    もう一つ大事なことがある。

    操体では、患者と操者の一体化を目指す。両者は「快」の波動によりお互いに交流する。

    「操者は、第三者が介入することが出来ない患者の感覚に関与する。」一つの操法は、その時その場でしか味わえない固有の「快」を引き出している。その「快」の波動を両者は共有している。即ち、患者が「快」を味わっている時は操者も癒されている。「一期一会」の世界である。これが、操体はテクニックではない、と言われる由縁である。

    同じ操者と患者の組み合わせで同じ操法を行ったとしても、同じ結果が得られるとは限らない。それは、ひとえにその時その場での“患者の感覚”(より良質の「快」を味わえるかどうか)、にゆだねられているからである。

    余談であるが、人類共通の願いは、「与えられた条件下で、より快適な暮らしをしたい。人生を豊かに全うしたい。」であろう。

    日本人はそのために、自然との調和、個と全体の調和を考えてきた。自分のためにしていることが、人のためにも役立っている、という生き方を模索してきた。そして「お陰様で」と互いに感謝しあった。

    生かし、生かされている、のである。

    山野真二

  • 「日本医学」2/5 操体の設計図

    2 操体の設計図

    人間は、自分の頭の中に無いものを創り出すことは出来ないだろうと思う。操体も、橋本師が自分の中に在るものを表現して来たプロセスである。敢えてプロセスと書いたのは、橋本師御自身も時代によって変化され、それに伴なって操体も進化してきたからである。

    鋳型があって、それにうまくはまるものがあれば鋳物が出来る。DNAとm-RNAによるタンパク合成を想起させる。

    橋本師は、疾患現象に伴なう生体の歪を正すことにより治療が可能である、と考えた。というよりも、信念を持たれた。しかし、それが揺いだ時もあったことを告白しておられる。「(前略)その経験により、基礎構造のもつ可能性への信頼が誇大妄想ではなかった実験をすることができました。(後略)」(「生体の歪を正す」)

    橋本師は初め、正体術に工夫を加えた方法で自己の医学を表現された。しかし、“つらい方から楽な方へ”という問いかけでは方では、動診を通せない患者も増えてきて、間に合わなくなってきた。1980年代の初め頃より「気持ち良さで治るんだ。」ということを口にされる様になった。この頃に何かエポックメイキングな事件があったのではないか?

    晩年の橋本師は、超古代文字である「秀真伝(ホツマツタエ)」や「相似象」を研究されていた。それらの中に「気持ちの良さで治る」という一節が在ったのではないか、と筆者は想定している。(今後の研究を待ちたい。)

    「快をききわけさせて、快を味わう」という新たなコンセプトを加味するところまで到達しながらも、残念ながら、橋本師には生命時間が足りなかった。80歳を過ぎてから身体的に不自由になられて、1983年には引退され、具体的な方法については、見守りアドヴァイスを与えながら後代(三浦先生、今先生)に託された。

    山野真二

  • 「日本医学」1/5 野次馬根性

    晩年の橋本敬三先生は、「操体」のことを「日本医学である」と口にされることがあった様です。

    この稿では、筆者が「操体」即ち橋本敬三先生の生き方(行き方)から、日本的だな、と感じることをまとめてみたいと思います。

    1 野次馬根性

    「うまいかまずいか、まず食ってみろ。食いもしないであれこれいうな。」橋本師の口からよく出て来た言葉である。

    師曰はく、これを“野次馬根性”と言う。若い頃から多くの文物を摂取し咀嚼し自分のものとして来られた。キリスト教あり、儒・仏・道あり、西洋医学あり、東洋医学あり、カイロプラクティクあり、正体術あり、近代あり、古典あり・・・・・。

    無節操にも見える雑食性である。こだわりが無いから、何でもうまそうに見えるものには手を出す。自分で噛み分けてみて冷暖自知、うまいと思うものを吸収同化する。

    その核となるものは、師の「志」である。それは、「救いの生命観と、それに基づいた医学の確立」であった。

    そのために、与えられた条件下で自分の手の届くものは全て、材料であり道具であった。それらを自分なりに工夫して、有難く使わせて頂いた。

    ここで、操体法創始者・橋本敬三先生御自身による操体の定義を挙げておきたい。

    操体とは、自然法則の応用貢献である。』

    操体とは、静かに呼吸を通して「快」を味わうことである。』

    筆者は、「操体は、本来無形である。」という捉え方をしている。

    山野真二

  • 「わたしにふれてください」

    こんばんは。森田@最終日です。

     今週は本門寺をよく歩きました。
    なぜなら7/5~7/19の約2週間、「500個の風鈴の音を聴く」という催しがあり、参道の木々に風鈴が渡してあるからです。
    500個もの風鈴なんて、風の強い日などはうるさいのではないかと思っていましたが、全くそんなことはなく、むしろ全体で1つの音のように聞こえるのが不思議です。500以上に増やすとうるさくなることがわかっているのでこの数なのだそうですよ。

    涼しげで、音によって空気が変わる体験ができます。
    夜もライトアップされていて幻想的です。今年で2回目。今後も続いて欲しいイベントです。

     ところで、三浦先生の日記にもありましたが、秋の東京操体フォーラムので配布するVisionSの原稿が概ね集まりました。これから原稿チェックに入ります。
    VisionSは、操体をともに学ぶ20人以上の仲間が、臨床や生活の中で感じたことをつづっています。今回で7冊目になりますが、回を追うごとにその人らしさがのびのびと伝わってくる作品ばかり。行間からその人の息づかいや空気が感じられ、操体を知っている人にも、そうでない人にも読んでもらいたい濃い冊子に仕上がる予定です。

     とはいえ、私だけかもしれませんが、〆切前は日常生活の合間を縫ってう〜んう〜ん、と頭をひねってました。「今回は何を書こうかなあ」と。
    もちろん、ぽこぽことネタはいくつも浮かぶのですが、今回は書き出してしばらくすると、違うネタが気になったり、考え方が変わり苦労しました。

    正直言って、自分の原稿を読みなおしてみると、まだまだ消化不良な文章であるのを感じます。書き終わった後から「もっとここは説明すべきだったか」「くどいから削りたい」と感じます。
    いや、前向きに言い換えてみましょう。「この原稿は生きることを考えるプロセスを切り取ったものなのだ」と。常に変化をしている私のごちゃごちゃした瞬間をリアルに表現した作品になっております!

    …ちょっといいわけがましいですか。
    もちろん読み手のことを考えてベストは尽くしております。

     東京操体フォーラムの実行委員になってから、とにかく文章を書く機会が増えました。時には大変だと感じることもありますが、書き終えた後は確実に一歩進歩していますから、文章を磨くチャンスをいただいていることに感謝してます。
    特にVisionSのように、年に1度、全実行委員で「書いて残す」という作業は、日々の小さな気づき達をうまくまとめて発展させてくれる機会です。チャレンジの楽しみもあり、いい緊張感があります。

     ところで、原稿を書いた後に、Phyllis K. Davisの詩「わたしにふれてください」という詩に出会いました。訳は三砂ちづる、絵は葉祥明です。三砂氏は、ブラジルで「国際協力事業団ブラジル家族計画母子保健プロジェクト」に参加し、助産婦を育てるコースの最後に、トレーニング担当の方から聞かせてもらったのだそうです。

     この詩は人生のどの時代においてもふれられることが必要なのだということを描いています。読んでいると、自分が赤ちゃん、男の子、おじいさんだったら、こうしてもらいたいという気持ちを肌で感じるような気持ちになります。言葉でイノチの治る力を高めることができる。これは元の詩だけでなく三砂ちづるの「感情のいきおいで訳した(本人談)」訳だから、とも言えます。
    VisionSでも三砂氏の著作を引用させていただいていますが、この方の文章には、イノチに対する思いやりの深さ、やさしさ、ていねいさ、まるさが醸し出されていて好きなのです。

    詩の後半にこんな1節があります。

    「もしわたしがあなたの年老いた父親なら
    どうぞ、わたしにふれてください

    あなたが小さかったときにわたしがあなたにふれたと同じように
    わたしの手をにぎり、わたしのそばにすわって、
    わたしを力づけてください」

    ここまで読んで、何か思い出さないでしょうか。ブログを毎日読んでくださっている方ならもうお気づきのはず。
    そうです、5月20日の平さんの日記です。

    「手紙〜親愛なる子どもたちへ」
    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20090520#1242774354

    わたしの中で、2つの詩が出会ったことでちょっとした化学反応が起きています。
    なにがどうつながっていくか、まだわかりませんが、目に見えない何らかの成長の機会ををVisionSがわたしに与えてくれているのではないかと思います。

    皆さんも、「わたしにふれてください」を是非読んでみてください。

    1週間のおつきあい、ありがとうございました。
    山野さんにバトンタッチです。よろしくお願いします。

    森田珠水

    わたしにふれてください

    わたしにふれてください

  •  言葉を統制する

    おはようございます。森田です。

    今朝は「今週の気になった話」をします。

    ある平日の夜10時過ぎの電車の中でのことです。隣の人と方がふれあうくらいの混雑ぶりでした。
    その中で、二十歳くらいの二人の女性が普通の声で会話をしていました。3mくらい離れていましたが、よく聞こえるのです。

    どうやらテーマは一人の父親に対する不満のようでしたが、ふと耳に張り付いたのは「あいつ、死んだ方がいいよ」という言葉。
    思わず耳を疑いましたが、まぎれもなく父親に対する言葉でした。
    よほど深刻なことがあったのかというとそういう雰囲気でもない。結構二人とも笑って会話を続けていました。笑顔の悪口大会は3駅ほど続き、悪口を言っていた女の子は先に下車。残された女の子も平然とそのまま電車にのっていました。周囲の乗客はずっと彼女たちをちらちらみていましたが、二人ともそれには気づかなかった様子。いや、もしくは気づかないフリができるほど図太かったのかもしれません。
    私がこの友人だったらこの時点で恥ずかしくてとなりの車両に移動してますね。恥ずかしくて。

    ここで不快に感じた点を列挙しますと、

    1、周囲に気を使わないボリュームで話す
    2、どうでもいい家族の愚痴を延々聞かされる
    3、暴力的な言葉を無意識に使っている
    4、自分がどう見られているか客観視できない
    5、友人の間違った言動を注意しない(間違ったと思っていないかもしれませんが)

    なんだかもう、突っ込みどころが多すぎてどうしていいかわかりません。
    駅のホームに、「痴漢と暴力行為は犯罪です!」というポスターが張ってありますが、ほぼそれに近い。

    このなかで最も気になるのはもちろん3 です。父親に対する「死んだ方がいいよ」という発言。
    私にとってはかなりショックで、何日たっても気になって仕方ないのですが、最近の人はこういう言葉を使っても平気なんでしょうか。
    荒い波動の言葉を聞いたり使うと、からだやこころが不快になるものだと思うのですけど。彼女たちはすでにそういった快不快を聞き分けることに鈍くなっているのですね。

    人を蔑む、傷つける言葉を育ててくれた親に対して使うという二重にショッキングな話。もしかしたら母親の真似をしているのかも、など、やめたいのに妄想が止まりません。どうしてこんなことが起こるのか、私のなかで理解できないとなんだか落ち着かない…。

    そういえば、小学生は「むかつく」「うざい」「死んだ方がいい」って平気で言う子がいますね。流行言葉のように当たり前になってきているのかもしれません。私が小学生だった時は親も学校の先生にもおこられましたどね。
    もちろん今の小学生だって「その言葉は不快」と感じて使わないと決めている子もいますが、件の彼女は二十歳になっても誰も注意されることがなかったということではあります。
    考えてみると社会人になってもこういう言葉を平気で吐ける人いますけど、そんな人友達には欲しくないですよね。もし大事な友達が言ったら注意します。

    私はやみくもに「父親だから敬いなさい」なんて言いません(「感謝できないのは残念なこと」とは言いますが)。
    世の中には小さいときから親から理不尽な待遇を受けて来た人もいますし、嫌いになる理由があれば嫌っても仕方ない。
    でも、そんな言葉を使うほどの燃えたぎる感情なら、何も混んだ電車の中じゃなくて、他人に聞こえない場所で深刻そうに話してほしい。
    そうしたら「そんな発言するほど嫌なことがあったのか、大変だったね」ととりあえず受け止めることができます。
    その彼女にはそういった深刻さは感じられず、むしろ親に甘えているといった感じでした。

    とにかく言葉の持つ波動とその力のすごさを感じます。何日たってもこうして気になり続けているのですから。
    彼女には無意識に波動の荒い言葉を使うことの怖さを知ってほしい。いつか自分に返ってきます。
    とりあえず、その時は電車の中の大勢を不快な気持ちにさせ、性格不美人のレッテルを貼られていたはず。「こんな女とはつきあいたくない」ナンバー1になっていたでしょうね。
    それだけでなく、言葉は波動ですから、70%近くが水分である自分自身のからだを自ら汚している、これが最も怖いことかもしれません。
    無意識に使っている以上、気づくまで自分自身を汚しつつける毎日を送ることになるのかとおもうと、だんだんかわいそうになってきました。

    橋本先生は「言葉は運命のハンドル」とおっしゃられていたそうです。自分の選んだ言葉の方向へ人生は向かっていくのです。三浦先生は「言葉の波動が行き方を決める」「だから言葉を統制しなさい」とよくおっしゃいます。
    生き方の自然法則、息食動想+環のうちの「想」は他の4つをまとめて表しています。そして想は一番言葉にあらわれるのだそうです。言葉の使い方が変われば、その人の想も変化していることになります。
    逆に考えれば、生き方を変えたければ形から入る、つまり言葉を統制(コントロール)すればよいということになります。意識的に真、善、美、愛という言葉を選ぶようにするとよいと師匠は講習でも、本の中でも伝えて下さっています(「操体臨床の道しるべ」より、p202.「付録橋本敬三先生の世界観」)。

    こうした教えを大人になっても聞けることはありがたいです。そういえば私も汚い言葉を口癖にしていた時がありました。
    年齢を重ねるごとに、注意してくれる人は減ってゆきます。アドバイスをいただける人がいること、生きる指針になる般若身経があるのはありがたいことです。

    件の女子も、はやく気づいてくれる日が来ることを願います。せっかくの美人も台無しです。
    世の中に(性格)美人が一人でも増えてほしいものです。もちろん、男性もですよ!

    森田珠水

    *参考
    操体臨床への道しるべー快適感覚に導く診断と操法ー」 三浦寛 2007,11,30 医道の日本社

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

  • 自転車にのる

    こんばんは、森田です。

    今日も暑かったですね。

    この時期になると私は首に手ぬぐいを巻いて生活します。
    汗と日光で「首をしめられたのか?」と間違われるほど真っ赤になるからです。
    和の手ぬぐいはかさばらなくて使い勝手がよくて気に入ってます。

    昨夜は自転車で京浜島のつばさ公園に行ってきました。

    浅生ハルミンが「帰ってきた猫ストーカー」で猫スポットとして紹介していたところです。
    自宅から20分で、こんなに憩える場所があったかと満足できるスポット。
    工場、倉庫以外はカフェもコンビニもなし!でも羽田空港の離着陸の様子がみられ、半のら猫がゴロゴロしています。
    あと釣りをのーんびりやっている人がいるかな、そんなところです。

    猫の戯れ写真はたいしたものは撮れませんでしたが(お化けのようです)。でも一応のせます。

    怖っっ。

    猫との出会いは日が落ちていてあまり収穫?がなかったので、昨日のペダルの踏み込み方を味わってみました。

    踏み込み方は母趾球の付け根(正確には第3趾を介して第1趾側側)と小ユビ側側で試しました。
    かかとでふむのは、条件を合わせるためにサドルの高さと前後を直さなければならないので割愛です。

    母趾球の付け根で踏み込むと、
    ・つま先と膝が正面を向く
    ・下肢の内転筋群、おなか(骨盤内の深層筋群)から首まで全身が動く
    ・背筋が伸び(骨盤は軽く前湾曲)、おなかで上半身を支えられるので、上半身を両腕で支えなくてすむ。
    ・踏み込みに充実感がある
    ・ハンドルがぶれない。下半身だけでバランスがとれる。
    ・上半身が自由なので後方確認、ブレーキングなど操作が正確で安全
    ・からだ全体で乗っているので姿勢が美しい(比較して見てもらいました)

    つまり、自由で安定しているので、動きが充実していて、スピードがでる!

    いつもはスピードもそんなに出さずにのんびり乗っていたのですが、
    ぐんぐん走れるのは楽しいものですね。

    で、小ユビ側を効かせますと、以上に記した反対でして、膝が外を向き、骨盤は極端に前湾曲し、猫背になるものの前を向かねばならないので首を無理に後屈することになります。人によっては上肢に痺れが出ると思います。
    腰から下の筋力のみでこいでいるため、疲れるし、ハンドルがぶれます。上肢で正面に向けないといけないので肩が凝ります。

    もちろん上半身の体重は両腕でハンドルにかけることになり、ブレーキングも肩に力が入ってしまうことになるでしょう。
    そりゃもう、疲れますよ。後方確認もがっちがちでやりにくい。かっこわるいですよ〜。

    体験者が言うのだから、間違いない! …ごほごほ(師匠ごめんなさいっ)。

    もちろん、ここで大切なのは、「手は小指」を効かせるということです。
    「足は親ユビ」だけでは片手オチですからね。

    一応今回は手は小指を効かせて臨みました。
    「手は親ユビ、足は小ユビ」でのるなんて、考えただけで恐ろしい〜ぶるぶる。
    怖いモノ知らずの方、どうぞ試してください。事故などの保証はしませんが。

    森田珠水

  • 自転車自然体

    こんにちは森田です。

    今朝は窓越しの強い日差しで目覚めました。

    どうやら東京は昨日、北九州〜東海地方よりを飛び越しての梅雨明けなのだそうです。

    今年も猛暑なのか、気になります。エルニーニョ現象も予測されている様子です。

    そういえばJR浜松町駅ホームのしょんべん小僧(58才、趣味はコスプレ…だそうです)は半月前から夏の装いでしたよ。

      

    靴もなかなかかわいい。

    作成は港区の手芸サークルあじさいで、毎月26日に着せかえられているらしいです。
    浜松町駅100周年記念イベントで彼の今までの写真展が開催されてます。

    http://www.minato-cosw.net/syakyou/index.php

    ところで、そんな暑い中、今日もえっちらおっちら自転車をこいで仕事にいったわけなのですが、眩しい日差しから視線を避け、うつむくと、自分の両足が目に入りました。そして「あれ?」と思いました。なぜなら私の右足が極端に外転してこいでいたからです。

    からだの使い方には般若身経というルールがあります、重心安定の法則と重心移動の法則です。これを守ればどんな状況でももっともからだを効率よく、安全で、美しくからだを運ぶことが出来ます。
    操体の経験者にはもう聞き慣れている言葉ですが、このうちの重心安定の法則は

    1.足は腰幅 に開く
    2.つま先と踵は平行にした後、きき手と反対の足は半歩前&少し内側にむける
    (出したら軽く骨盤を安定する位置におさめる)
    3.背筋は軽く伸ばし 、目線は目の高さ、正面の一点を見据える
    4.両膝の力をほっ、と抜いて緩める。拇趾の付け根あたりに体重がかかる

    でしたね。

    そのうちわたしの自転車の乗り方は、2と4ができていなかったようです。

    2はつま先の向きがおかしかったですし、3はペダルにのせている足の位置が少々土踏まず寄りでした。母趾の付け根を効かすことができない。
    まあ、サドルにまたがっていると股関節が少々開きますから足を平行にしきらないこともありましょうが、それにしたって、左右で比べて、右足が外側に開き過ぎ! そして、こぐ時に最も力が入るはずの母趾でペダルを踏めていなかったです。
    というわけで、ルールにのっとって、しばらく足をできるだけ平行、左右対称にしてみようとするのですが、つま先だけ内転させようとしてもなんだかぎこちない。

    多分右足関節をはじめ、からだに歪みがあるからだと思います。歪みのある状態で無理をして「足は平行!!」と型にはめると、さらに2次的に歪みを押し付けてしまいそう。
    なので、ペダルに母趾球をのせ、「手は小ユビ、足は親ユビ」のルールにのっとって、左右両母趾の付け根を効かせてこいでみました。
    そうすると、右下肢関節の歪みはあれど、あるなりにからだが自然に使えるようになります。
    ひとこぎひとこぎ、スイ〜、スイ〜と前進するのですね。やっぱりちがいますわ。

    臨床では歪みの強いからだの人もたくさんいらっしゃいます。というか、それで苦労しているから操体を受けにいらっしゃるのですよね。「はい!足は平行じゃなきゃだめですよ!」というニュアンスで自然体を教えてやしないか、あらためて気をつけようと思いました。

    ちなみに、自転車の乗り方についての専門書をみると、
    ペダルに足をかける位置は親指の付け根(母指球)で、サドルの位置の設定をする時は、またがってみて、ペダルにかかとをのせ、足を一番のばした状態で膝がぴーんと伸びるところなんだそうです。
    そうすると母指球で最も踏み込んだ時でも膝は軽く曲がっている。
    重心安定でいうところの「膝は緩める」にあたるのではないでしょうか。
    自転車を効率よく(パフォーマンス性を高める)、安全性に乗るときも、からだの使い方は共通です。

    私も今回のことで、般若身経をより理解して自転車の乗り方をマスターできそうです。

    それまで、立位、歩行時など自然体を意識していたつもりでしたが、ウン十年続けたからだの使い方の癖は、こんなところでボロが出てしまうのでした。
    自転車に乗る時の重心安定の法則はどうなんだろう。
    また発見があったら報告します。

    森田珠水

  • 「眠りと枕」続編〜目覚めのからだ〜

    おはようございます。
    東京は適度に曇っていて、湿度は高いけど風があって気持ちのよい朝です。

    うちでは今年はじめたばかりの家庭菜園のゴーヤが1つ目の雌花が咲きまして、(その名も「ほろにがくん」!)
    ぷっくりふくらんできました。うれしい。

    実家でゴーヤに挑戦した時は、生育場所の日当りが悪かったのでピンポン玉位にしか育ちませんでした。確か苗が2本くらいでも、うまく育つと100本以上とれるらしく、お嫁入りさせる(近所に配る)のも一苦労、と聞いていたので、今年は困るくらい育って欲しいと願っております。

    ところで、以前の日記には眠りと枕について書きましたが、実は最近の私は、朝”からだばっきばき〜”なのです。
    今朝は「臨床家がこんなていたらくじゃイカン」とうなりながら首を押さえていました。頸椎が1本の棒になったような痛み。

    原因はわかっているのです。それは、長年使用していたマットレスに固さが一様でなくなってきているからです。
    去年まではせんべい布団とそれにあった枕を使っていて、しかもどんな寝相が悪くても文句を言う人がいないので、(無意識の動きは歪みを正していたのですね)朝からすっと起き上がれたのだと思います。

    それが引っ越して寝具はマットレスになり、腰、肩、頭の沈み具合が変わったものの、寝相が悪いと相方をヒットする可能性があるので、多分気を遣って寝ているのでしょう。

    そこで、今朝はベッドの中で自力自動の操体をすることにしました
    (最近時間に追われていて、からだのセルフケアを忘れていたのがバレてしまいましたね)。

    自力自動の操体は自分自身で動いてみて、からだにききわけて、ききわけた快適感覚を味わうことです。
    つまり、他人の手による介助なしで行う操体ということですね。
    そのポイントは、

    からだのうごきは8通りあるので、あるひとつの動きを選び
    1.手の指先、手首足首など、からだの末端からスタートして、からだの中心である「骨盤」で表現する
    2.できるだけゆっくり、ひとつひとつの動きに気持ちのよさがあるのかないのかをよ〜くききわける
    3.気持ちのよさを聞き分けたら、それは本当にからだが味わってみたいのか更にちょっとききわけて
    (より質の高い快を選んでください。それほどでなければやらなくてもよいです)
    4.「これ!味わいたいっ!」という快適感覚に出会えたら、充分に味わう
    5.気持ちのよさを聞き分けた後は、からだが「表現したい」要求にしたがってどんな格好になっても構いません
    6.充分に味わって気持ちのよさが消えてきたら、きもちのよさが消えた後のからだの要求に従う(自然に脱力することでしょう)
    7.脱力後の爽快感も充分に味わったら、もう一度今の快を味わいたいかをからだに聞き分ける。
    再度味わいたい要求がからだにあれば1に戻って試し、なければ他のうごきで同様に試してみる

    手順を追って書くとなんだかしちめんどくさいようですが、
    一度身についてしまうと、1~5秒ですみます(ほんとです)。
    そのかわり後半は時には10分を超えることもあるでしょうから、朝の支度に遅れないように気をつけてください。

    それと、聞き分けているうちに眠りに入ったり、意識が飛んでしまうと生活時間に差しさわりますから
    (変な次元に飛んでいったまま、という危険はないのでご安心を)、
    からだの要求には反しますが、はじめる前にタイマーをセットする必要があるかもしれません。

    それだけであれだけ痛かった首の痛みがなくなりました。
    しかも意識も「むにゃむにゃ」寝惚けている状態から頭しゃきっとしました。
    頭が朝からしゃっきりしているのは、大変気持ちがよいものです。1日が違いますからね。

    そういえば、さっきまで首の痛みをマットレスのせいにしていましたが、
    首を痛めたからこそ、快適感覚でこんなふうにからだは変わるんだ、という機会を与えてくれたわけですね。
    そう思えば、マットレスにも感謝(ちょっと無理矢理ですか?)。

    自力自動の操体は、患者さんにも是非セルフケアとして身につけて欲しいものです。
    歪みはちいさなうちに、自分で責任がとれるものだということを感じて欲しい、東京操体フォーラム全員、そう願っております。
    (セルフケアでカバーしきれない歪みはプロに任せていただきます)
    しかし、1度や2度教わっただけだと、結構忘れてしまうようですね。もしくは1度の説明ではからだで理解するまでにいかない、ということもありましょう。
    何度も繰り返して自力自動の操体を体験して欲しいですね。各実行委員の施術所でも、フォーラムでも構いませんので、
    どうぞ直接手を取って、取られて体験しにきてください。
    一生の宝になりますよ〜。

    さてさて、洗濯物も干したし、元気に仕事にいってきます。
    今日も1日のび〜のび、と!

    森田珠水