ブログ

  • 仕事

    西岡常一さん(法隆寺宮大工棟梁)は、息子さんに、「おれは労働者やないんや。仕事というものは、事に仕えることや。」と語っていたそうです。

    この人の口から出る「仕事」という言葉

    しびれる様な感動

    ふるえる様な発見

    そういう響きを、羨望と共に感じます。

  • 本ほど安い投資はない。

    自分の知らない語彙や文体を使って、未知の世界やドラマを表現してくれるメディアである。

    目の前に情景が立ち上がって来る文章に接する時のからだの反応は、映像の比ではない。

    思うに、

    指揮者は、楽譜を読みながら、空間に音を立ち上げているのだろう。その時、彼のからだは、個有の揺れ振りを表現するだろう。

    それが、彼の指揮芸術となるのだ。

    少し話が飛躍しすぎた。

    本からの波動は、人を動かす。

    それは、作られたものではなく、共に生み出すものだから面白い。

  • まったく違う世界(立場)に身を置いて、自分の日常やっている事を外側から見つめ直す事

    色々な旅があるだろう。

    最近、いくつ旅をしただろうか?

    旅は、戻って来る事に意義がある、行きっぱなしは、漂白である。と、昔ある先生から教えられた。

    どこへ帰るのか?

    新しい自分

  • 身体を通して考える事

    からだを使って問いかけているから、脳の暴走をコントロールできる。

    決められた時間に、決められた事を行なう。

    その現場へ行く。

    そして、

    出逢う。

    何と?

    その人を変えるもの、或いはヒントと。

  • 考え方や価値観の違う人間が共存する事

    一時でもいい。ある目的のために協力するのでもいい。

    私の中での一つの理想型は、優秀なオーケストラである。

    「君子は、和して同ぜず」という。

    しかし、現実社会においては、同ずる事を要求される場面がいかに多いことか。

    子供達には、何と伝えたらいいのだろうか?

  • 感動

    久しぶりに、「あいだみつお美術館」を訪ねた。

    「感動とは、感じて動く、と書くんだなあ」

    感じてから動くまでに、”考える”が入らない。

    ストレートである。

    ウソが無い。

    原始感覚そのものである。

    しかし、

    感動ばかりしていたら疲れるだろうな。
    時々感動するから、有難いんだな。

    人間だもの。

  • 「正しい姿勢とは」

    人間の本当に正しい姿勢とは何なのだろうか。

    様々な分野で姿勢が原究されているが、未だ完成されたものは出てきていないように思える。

    私達も操体を学んでいる中でこのテーマの核心に迫ってきているように思うのだが、まだまだ完成形のものだとは思えない。

    私自身も先に行われたフォーラムで発表した「自然体立位」の中で、この正しい姿勢について原究し、それを成すための重要なポイントを示したのだが、これもポイントの一つにすぎない。

    このテーマに対し少しずつ見えてきたのが、正しい姿勢とはカラダの器だけを正しても正しい姿勢にはならないということであった。それに順ずる心、また生き方も正していかなければ正しい姿勢にはならないのである。

    橋本先生の著書を読んでいると自然体についてこのようなことが記されている。

    「人が正しければ、容姿はおのずと正端となり、骨格は整い、筋肉は拘筋することなく、
     内臓はその地位に安じ、その機能も互いに相、調和し、身心ともに健康である」

    人が正しいければと記されているが、これは生き方を指しているのだと思う。

    橋本先生がここで伝えたかったこととは、本当の正しい姿勢とは生き方が正しければ、カラダだけでなく身心が自ずと調和が計れて正しい姿勢、自然体となると説かれているのだと思える。

    ここでいう生き方とは先日まで書いた「息・食・動・想」であり、これらをイノチが悦ぶ法則に乗っ取り実践していくことが正しい姿勢に繋がってくるのではないだろうか。

    来年はこの正しい姿勢について原究していき、フォーラム等で発表していきたいと思う。

    今年も一年ありがとうございました。明日からは半蔵さんです。

  • 「息について」

    先日まで「食」「動」「想」について書いてきたが、これらの捉え方が変われば当然「息」に対しての捉え方も大きく変化してくる。

    私自身この変化を大きく実感しているのが、呼吸を上手くコントロールすることで他のイノチの営みをより活かせるということである。

    操体を勉強している方なら存じていると思うが、操体では「息・食・動・想」これらの命の営みが同時相関相補しているとされている。

    これら4つのバランスが取れてこそ自分のイノチの調和が計れ、健康という一つの目的が達成される。その中でも「息」は最重要項目でこの呼吸ひとつで人間の食事にしても、動きにしても、想念にしても全てがイノチ、体が悦ぶベクトルにコントロールすることが出来るのである。

    例えば先日書いた「食」にしても「食する」ということは今までインプットとして捉えられてきたのだが、それがアウトプットに変化してきている。

    何故かというと食することでカラダに負担が掛かることと、それに伴い呼吸で「食」をコントロールすることが出来るからである。

    それだけ現在の操体における「呼吸法」が変化してきているのである。

    その変化の一つのポイントが呼気と吸気の「マ」になる。

    一般的な呼吸法は様々な呼気のやり方は説いているが、その「マ」の重要性は説かれていない。しかしその「マ」の使い方にこそ呼吸が「イキ」ではなく、「ソク」となり、カラダとイノチが悦ぶ呼吸法になる。

    また、その呼吸法を体感し、身に付けていくとカラダの動きや自分の意識は呼吸だけでコントール出来るようになる。

    こういったことを体感すると人間の生命活動は「息」のコントールによって成されるのだと理解出来る。
    これからもっと「息」について深めていこうと思っている。

  • 「息について」

    先日まで「食」「動」「想」について書いてきたが、これらの捉え方が変われば当然「息」に対しての捉え方も大きく変化してくる。

    私自身この変化を大きく実感しているのが、呼吸を上手くコントロールすることで他のイノチの営みをより活かせるということである。

    操体を勉強している方なら存じていると思うが、操体では「息・食・動・想」これらの命の営みが同時相関相補しているとされている。

    これら4つのバランスが取れてこそ自分のイノチの調和が計れ、健康という一つの目的が達成される。その中でも「息」は最重要項目でこの呼吸ひとつで人間の食事にしても、動きにしても、想念にしても全てがイノチ、体が悦ぶベクトルにコントロールすることが出来るのである。

    例えば先日書いた「食」にしても「食する」ということは今までインプットとして捉えられてきたのだが、それがアウトプットに変化してきている。

    何故かというと食することでカラダに負担が掛かることと、それに伴い呼吸で「食」をコントロールすることが出来るからである。

    それだけ現在の操体における「呼吸法」が変化してきているのである。

    その変化の一つのポイントが呼気と吸気の「マ」になる。

    一般的な呼吸法は様々な呼気のやり方は説いているが、その「マ」の重要性は説かれていない。しかしその「マ」の使い方にこそ呼吸が「イキ」ではなく、「ソク」となり、カラダとイノチが悦ぶ呼吸法になる。

    また、その呼吸法を体感し、身に付けていくとカラダの動きや自分の意識は呼吸だけでコントール出来るようになる。

    こういったことを体感すると人間の生命活動は「息」のコントールによって成されるのだと理解出来る。
    これからもっと「息」について深めていこうと思っている。

  • 「救いと報い」について

    現在の操体のカラダを動かす・使うこと、また命に対しての捉え方は「報い」から「救い」に変化してきているように感じる。

    例えば身体運動の法則における作法にしても利き手に応じた作法であるのだが、この利き手というのは天性のものではない。

    物心を付いた時に「使い易かった」というだけであって産まれもっての利き手は存在せず、それはこのシャバに産まれてからの「癖」であり、現象であり、「報い」というように捉えることが出来る。

    このように「報い」からの捉え方では同じ人間なのに個体差や感覚差というのが生じてしまう。

    では「救い」の観点で利き手を見ていくとどうなるかというと、同じ事を万人がやっても皆が同じ体感が出来る「絶対性」がそこには在る。
    つまり右利きも左利きも存在ないのだと言える。

    私達が今まで学んできたことは呼吸にしても、カラダを動かすことにおいても、食事にしてもカラダに聞きわけることで「快」という一つの大きなベクトル(目的)にその指標向けてきたのだが、そこには右利き、左利きという優位性があり、相対性が生じる。

    それはこの世に生を授かってから現在に至るまで己が育んできたカラダ、意識が大きく関与している。

    しかしこれを「救い」という観点から見ると利き手というのは無く、皆が同じカラダの使い方・動かし方をすることが本来の人間本来の「ありのまま」になる。

    この人間の「ありのまま」の要求を満たしていくことこそがイノチが悦ぶことであり、私達臨床家だけでなく生ある者全員がカラダを使わせて頂いていることへの責任なのだと思う。