カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 万感のクリスマス

    今日はクリスマス。
    クリスマスと言えば、先日、23日に代官山UNITで行われたイベント「ヒカシュー結成35周年記念 万感のクリスマス」に行ってきました。

    もう、最高の時間を堪能して来ました。
    気が付いたらどんどん前に移動して、最終的にはカブリつきで体感(笑)。
    極上の音に包まれて、からだの細胞もなんだか悦んでいるんじゃないかというような、そんな感覚。
    そう、この日会場に流れていた音はどれも本当にいい音ばかりで。幸せなひとときを味わいました。

    ひとときと言っても、4時間近かったと思います。本当にあっという間で、2回のアンコールの後も、拍手が鳴り止まず。客席の電気がついて会場側からの「もうアンコールはありませんよ」という、無言の合図にも関わらず、拍手は止まらず。気付くと手が動いていて「フォー!」とか言って、アンコールの渦の一部になっていました。

    最後の最後にその熱烈なアンコールに応えて、ヒカシューリーダーの巻上公一さんが独り出てきて、改めて感謝の言葉を口にしているのを聞いて、何度も何度もライブを見ながら感じていた「今日は本当に来て良かった」という気持ちが丸くおさまったようで。
    今でもあの空間で体験したことを、反芻しているような感覚があります。

    実はこのイベント、前日も含めての2days。本当は両方とも行きたいくらい、ともに超豪華な顔ぶれでした。いろんな方が感想をブログに書いているようです。
    不思議なのが、なんだか初対面なのにライブを観ているうちに客席に親しみが生まれているような感じがすること。これはヒカシューのライブならではなんじゃないかと思います。単なる音楽のライブに終わらない、空間丸ごとが開いている感じ。こういうバンドが、日本で、現役で活動していることが本当に嬉しい。新譜も出たそうです。今回のライブを通して聴かせてもらいましたが、最高でした!ジャケもカッコいいです。

    万感

    万感

    毎年クリスマスの時期にヒカシューはライブをされているようです。行ってみて思ったのは、これは完全に「クリスマスプレゼント」だということ。無形のプレゼントは人生の宝物。そんなことを改めて感じた一夜でした。

    そして、大切なことを言い忘れていました(笑)。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、このヒカシューリーダーの巻上公一さんは当東京操体フォーラムの相談役をされています。このご縁、本当に有り難いなと感じています。

    早速調べたところによると、ヒカシューは来年の2月20日(木)に吉祥寺のStar pine’s Cafeでワンマンライブをするそうですね。この日もいい夜になるだろうな。からだが味わいたいようなので、吉祥寺に行こうと思っています。

  • 言葉の誘導

    動診と操法において、「介助/補助」と同じく奥深いと感じているものに「言葉の誘導」がある。ともに、からだの動きの安定・充実感を促すことに大きく関わる。前者が「見える手」で触れていると捉えるなら、後者は「言葉」という「見えない手」で相手に触れているようなもの。熟練の操者の方の動診、操法を受けると、静かな「千手観音」のイメージが浮かんでくる。

    「言葉」という字のなかに、「葉」という漢字が当てられているのは面白い。「植物的」な要素を含んでいるということだろうか。植物的な要素を含んでいるならば、言葉にも実は「根っこ」が生えているかもしれない。

    どんな「根っこ」がどこまで伸びているか。それは使う人に委ねられている、言葉を育てる面白さだと思う。表面的には同じ「言葉」でも口にする人、使う人によってその響き方がまったく変わってくることも、なんとなく頷ける。そんなことを考えていると、言葉にイノチがあってもおかしくはないように思えてくる。

    言葉の「根っこ」や「源泉」。そういった目には見えないかもしれないが、感じることはできるものを、からだは素直に受け取っているのではないだろうか。
    「言葉」というイノチあるものを生かしていく「言葉の誘導」。操者ができること、磨いていけることはまだまだ在るような気がしている。

  • 介助/補助

    講習で師の第二分析の動診/操法を受けている際、「植物の動き」のようなイメージが想起されることがある。
    「芽が天に向かって成長し、つぼみから花が開く」
    「タケノコがスーっと伸びていく」
    「蔓が支柱に巻き付いていく」

    日常の意識感覚では、捉えきれないほのかな変化の積み重ね。幾日かビデオカメラをまわして動画を撮影し、それを高速再生することで一連の流れを見ることができる様な、そんな植物の動き。

    動物である人間の動きの中にこういった「植物的」な動きが内包されている不思議。そんなイメージを味わっている時は、「からだのうごきはじめ」から動きの充実感、安定感に包まれていて、思考もおさまり静かな時間の中にいる。
    「充実感、安定感」という感覚の「質」にも幅が在る。そこに大きく影響するのは操者の「介助/補助」の質だと思う。

    しかし、植物は生きている中で、誰からも「介助/補助」を受けていないように見える。いや見えていない、認識できていないだけで、何らかの「介助/補助」を受けているのだろうか。もしそうだとするならば、その本質はなんなのだろうか。

    今、学ばせていただいている操体の学びは、「介助/補助」のかけ方、与え方ひとつとってもは、こういった生命の神秘に触れるようなことまで及んでいるように感じる。長年の吟味を重ねて育まれてきた、言わば操体の極意の数々。そんな原始感覚、生命感覚の学びを味わうほどに、何とも言えず有り難い気持ちに包まれる。これは操体の醍醐味だと思う。

    もしかしたら、植物が太陽の下で味わっている「安定感、充実感」というものを人間が味わうことも出来るかもしれない。いや、実際すでにそれに近い様な感覚を、講習の中で、師の臨生を通して実感させていただいていた。
    誰もがそういった「包まれている感覚」を、いまこのときに味わうことができると感じる。ただ日常の生活において、なかなかその大切なことに意識が向けられないだけで。
    「介助/補助」を学び、通していくなかで、そのことに気付くきっかけのようなものに触れられたらと思っている。

  • 全日本フィギュアスケート選手権「男子ショート」

    おはようございます。寺本雅一です。本日から7日間、ブログを担当します。
    どうぞ宜しくお願い致します。

    昨日、12月21日の夜。テレビで放送されていた全日本フィギュアスケート選手権2013「男子ショート」。
    見ていた方も多いのではないかと思います。
    一日目、このホットな話題から始めます。

    唐突だが昨日の夜、27歳の高橋大輔選手の滑りを見て、言葉にできず思わず涙してしまった。
    年齢が近いから、ということもあるのかもしれない。
    結果的には、得点的には、第四位。でもそんなこと関係ないよ、と思えるくらい
    見ている者の「芯」に訴える滑りだった。不思議なもので、彼がスケートリンクにスタンバイし
    ピアノの音から伴奏が流れ始め、「舞い」始めたその瞬間から、目頭が熱くなり、からだにスイッチが入ってしまった。
    なぜなんだろう。そのことが意識から離れず、しばらくその感覚を味わっていた。

    後から知ったことだが、彼は怪我をしていたこともあり、今回の大会に決して万全といえるからだの状態で臨んでいない。
    また、そのこともあり十分な練習も行えていなかったという想いがあったそうだ。
    そんな心境を抱えながらも、彼は舞った。色々な状況をすべて受け止めた上で、「いま」という瞬間に生きる人間の姿。
    言い訳など一切感じられなかった。「我」という意識も彼の滑りからは感じなかった。
    気付くと氷上で表現されるからだの動きに呼吸を重ねていた。

    スケートの評価基準のことはよくわからない。でも昨日の彼の滑りにはひと味違う「底光り」した魅力
    太い「軸」を感じ、点数では評価しきれない競技としてのスケートの「先」に在るものを魅せてくれたようにも感じた。
    月並みだが、その有り様が強く、美しく見えたのだと今は思う。

    最後に、ショートを終えた後のインタビューで彼は「自分自身」という言葉を使っていたのが印象的だった。
    「あぁ、やはり高橋大輔は『自分自身』と日々向き合っているのか」と思う。
    一番油断ならないのは「自分」なのだ。誰もみていないところでも「自分自身」はちゃんと見ている。
    思えば、「自分」ばかりに気を取られ、「自分自身」と対話することを忘れ
    外側を磨くことにばかり頭を働かせてはいないだろうか。
    彼のスケート、「生き様」を魅せてもらって、背筋が伸びる想いがする。

  • 宝物を磨く

    操体と出会い、色々なことを教えていただく中で
    「感覚」はひとりひとりの人が持っている宝物だと思うようになりました。
    人の持っている宝物を、私が磨いていくことはできない。
    逆もまた然りで
    私の持っている宝物を他人に代わりに磨いてもらうこともできない。
    でも、自分自身にしか磨けない宝物が在るということは、本当に嬉しいことだと思います。

    橋本敬三先生の著作「からだの設計にミスはない(たびぐち書店)」を初めて読んだとき
    「まあウソかホントかやってみな」
    という言葉がとても印象に残りました。
    私の「からだ」を通して
    「感覚」を通して
    私自身が本当に納得できているのかどうか。
    そういった問いかけを後世に学ぶ人たちに
    今もなお、言葉を通して伝えてくださっているように感じます。

    またこの言葉はもうひとつ
    「やりながら、動きながら」感じることも教えてくださいました。
    それは私にとっては一歩踏み出す「勇気」にも繋がるものだったと思います。

    それまでは勇気がなくて
    「動かず」に悶々と考えて、止まってしまっている自分がいて
    肝心なところで「動けない」自分がいました。

    やりながら、動きながらでないとわからない感覚がある。
    そういうことを教えていただいたことで
    「とりあえずやってみながら、感じていけばいいんだ」と
    今ある自分を、素直に受け止めることも教えていただいたように思います。

    一歩ずつゆっくり、愛しみながら
    自分自身の宝物である感覚を
    これからも磨いていきたいと思っています。

           ***

    「感覚」つながりでもうひとつだけお伝えしたいことがあります!
    実は私は「音」好きで、数年前から南シベリアのトゥバ共和国
    ホーメイ」という歌唱法に魅せられています。皆さんご存知でしょうか?

    この「ホーメイ」という歌唱法は
    「1人でいくつもの音を同時に出せる超絶歌唱法」なんて言われることもあります。
    私も初めて見た時に大自然に育まれたその「声の魅力」に
    完全にノックアウトされてしまいました。
    そしてその不思議な音の世界観に「いったい何がおこっているんだ…」と
    人間の可能性のようなものも強く感じ
    気付いた時には私も唸る練習をしていました(笑)

    そんなトゥバのホーメイ歌手の方がなんと9月に来日します。
    メンバーの1人は今年現地で開催された
    「国際ホーメイフェスティバル」の優勝者の方です。
    超多忙でなかなか日本に来日できない「ホーメイジ」です。
    *「ホーメイジ」はトゥバ語で「ホーメイ歌手」のことです。

    そしてトゥバのお隣にはアルタイ共和国という国があり
    そこにも「カイ」という超絶歌唱法があります。
    「風の谷」のモデルになった国とも言われている秘境アルタイ共和国から
    これまた「国民栄誉歌手」の方も同じ時期に来日します。

    それだけでも嬉しいことなのに、この度奇跡的なことが起こり
    なんとこのお二方を含めた言わば「スーパースター」達が共演する機会が「日本」であります!
    日本すごいです。

    その奇跡的な機会を演出してくださったのは
    実は東京操体フォーラムの相談役もされている
    「超歌唱家」の巻上公一さんです。
    このスーパースターの共演は、まさに巻上さんのご縁の賜物だと思います。
    むしろ日本だから実現したといっても過言ではないと思います。ファンとしては本当に有り難いです(涙)
    関東では高円寺や六本木、横浜で公演があるそうです。
    ちなみに私は全て行くと思います(笑)

    ご紹介させていただいたのは、「ホーメイ」も「カイ」も耳だけではなく
    からだで味わうものだなあと日々感じるからです。
    私自身はホーメイを歌うとき、自分の声をモニターしながら
    まさにからだ全体で感覚を磨いているような気持ちになります。

    普段とはちょっと違う体験してみたいなあ
    もしくはいつもと違った方面から感覚を磨いてみようかなあ
    と思っていらっしゃる方には絶好のチャンスだと思います。
    ご興味を持たれたみなさま、詳しくは巻上さんのHPの「topics」から
    「アルタイとトゥバ 9月は喉歌の祭典だ。」をご覧下さい!
    写真もあって、わかりやすく魅力を紹介してくださっています。
    http://www.makigami.com/

    最後は随分長文になってしまいました。。。失礼致しました。

    一週間お付き合いありがとうございました。
    明日からは友松さんが担当されます。どうぞお愉しみに!

    寺本雅一

  • 自分自身の中にある図書館

    今週のブログの中で、何度も言葉を変えて書いてきましたが
    操体操体法を学んでいて私が感じるのは
    「道具」も何も必要としない
    「身ひとつ」の有り難さ。
    それは「学ぶ」時も同様
    「身ひとつ」で学んでいけることの有り難さです。

    その代表的なものが私は「般若身経」だと思っています。
    「般若身経」は使われている漢字にもあるように
    からだの中に在る「経典」のようなもののように感じます。
    私のからだの中に、生まれた時から「経典」が在る。
    そしてその経典を自分自身で紐解いていくことが
    「学ぶ」ということだと思うからです。

    「経典」がどれほどの厚みがあり、何冊くらい在るのか。

    私はそのことを考えると、「考古学」の世界に想いを馳せるような気持ちになり
    一種のロマンを感じます。
    師匠も、そして操体をともに学ぶ先輩や同志も
    日夜、この経典の発掘、研究、解読に取り組んでいるように
    私には感じられます。
    そしてその最先端の研究の成果を共有して学ばせていただけることも
    私にとっての操体の学びの醍醐味です。

    先ほどは「経典」と例えましたが
    もしかしたら「図書館」くらいのヴォリュームがあるかもしれません。
    私にはこんなイメージがあります。

    イノチに関する図書館が自分のからだに備わっていて
    訪ねていけばいつでもどこでも
    学びたい時に学ぶことができる。
    そして、その図書館は誰でもない
    「自分自身」にだけ開かれている学びの場である。

    そんなことを思うと無性に有り難い気持ちになります。

    ただ一点
    この図書館に入館するためには「鍵」が必要なようです。
    年中無休で入館料もとらないけれども
    「タダ」では扉が開かない。

    その鍵の存在も操体の学びで
    しっかり教えていただきました。
    そして私は現在進行形で
    今もその「鍵」を磨いています。
    それは
    誰でも生まれながらに持っている「宝物」

    そうです!
    「感覚」です。

    明日に続きます。

  • 本棚の初期化

    私はむかしから本が好きで
    気がつくと部屋中が本だらけになっていることがあります。
    今日は、そんな本好きの私が
    本棚を「初期化」した時の話です。

    数年前、気がつくと空間の半分くらいが
    本で埋まってしまっていた状況がありました。
    そんな中、読まれもしないで積まれている本に対し
    なぜか無性に申し訳ない気持ちになりました。

    「こんなにたくさんあっても、全然読みきれていないじゃないか。
    下の方に積まれている本は読まれもしないで、重たそうだし。
    それなら読みたい人のところで読んでもらった方が
    よっぽどいいのではないか…」

    そんな悶々とした自問自答の末、覚悟を決めて
    本当に身近においておきたい本10数冊を手元に残し
    それ以外の全ての本を段ボール箱に詰めて
    毎年友人と年末に企画している
    表現に関するイベント会場に持ち込みました。

    会場の片隅に「本棚」をつくり
    500冊くらいあった本を並べて
    来てくださったお客さんに
    「気になる本」があったら引き取っていただく。
    そういう場を設けました。

    遠慮なく10冊くらいもって帰る人
    選びに選んで3冊くらいもって帰る人
    選びに選んで1冊ももって帰らない人
    遠慮してもって帰るのをためらっている人
    本に興味のない人
    本棚に気がつかない人

    本好きの私にとって
    様々な人の手に本が旅立っていく光景は
    なかなか貴重な体験でした。
    勿体なく、少し寂しい想いもある。
    一方で、ご縁ある人の手に渡り
    「本」のイノチがたしかに繋がっていく感覚。
    なぜか私の心境には
    チベットの「鳥葬」を連想させるものがありました。

    残った本約300冊は
    センスを感じた古本屋に丸ごと引き取っていただきました。
    思い出のつまった本300冊は
    当然「思い出」への考慮は一切なく(笑)
    「積んだ時の高さ」というシンプルな尺度で
    一枚の福沢諭吉先生に化けました。
    そんな一部始終もまた勉強になりました。

    その後、手元に限られた本しかないという
    「初期化」状態の日々をしばらく味わいました。
    そこで「身軽な感覚」の心地良さを体感したように思います。

    これから手に取る物がすべて新鮮に思える。
    自分の中に何かが入ってくる隙間が十分にあるように感じる。
    手にとっても、また手放すときがくることもある。

    「初期化」で感じたこういう感覚は
    今でもふと思い出し、糧にしています。

    「身ひとつで自分は何ができるのか」
    そんなことを考えるようになり
    「身ひとつで生きることの可能性を学んでいきたい!」
    と思うようになったのも
    思い返すと、こういった体験が影響しているように感じています。

    明日に続きます。

  • 徒歩0分

    「真理」について
    「名称は違うけれど同じようなもののことを言っているのかな」
    と、操体の学びの世界以外でも
    改めてよく目にする、耳にするように感じます。
    世の中の関心が、底の方でじわりじわりと高まっているような気持ちもします。

    7/6(土)のNHKで、こんなドキュメンタリーを放映していました。

    「足元の小宇宙、生命を見つめる写真家」

    タイトルにピンと来て思わず見始め
    結局最後まで夢中になって見ていました。
    内容は御年82歳の植物写真家「埴沙萠(はにしゃぼう)」さんの
    「日常」に密着したドキュメンタリー。

    毎日10kg近い機材を持って
    独り撮影に出かける様子がそこにはありました。
    何を撮る人なんだろうと思って見ていると
    目的地は家から「徒歩5分」。
    何の変哲もない茂みで立ち止まり
    這いつくばるようにして地面に向かう。

    そして、しばしの沈黙

    「えいや!」
    と言わんばかりの気合いの入った接写。

    また沈黙

    「えいや!」

    その繰り返しです。
    何を撮っているのかというと
    私達が普段「雑草」と総称しているような植物が
    「動く瞬間」を捉えているそうです。
    例えば、中心に収まっていた「胞子」の袋が「パッ!」っと開く瞬間。
    そういった瞬間を見究めて写真におさめている。

    またスーパーなどで売っている「しいたけ」。
    あの何の変哲もないしいたけも、袋の中で沈黙している様に見えて
    実は売られている間も胞子を放出し続けている。
    黙って食べられるのを待っているわけではない。
    風の流れない空間で後ろから強光を当てると傘の下から胞子が放出されている様子が浮かび上がってくる。
    埴さんはその様子をにこにこしながら愉しそうに「胞子の舞」と呼んでいました。

    私はそれを見ていて
    何かとてつもない秘密を見せていただいているような気持ちになり
    胸がアツくなりました。

    気がつかないだけで
    イノチの世界では、何かが起こっている。
    それは映画館に映画を観に行くように
    「放映時間」が決まっているわけではなく
    今、この瞬間も起こっている。
    また遠くへ行かなくても
    お金を払わなくても
    すぐそばで行われている営みである。

    おや?

    「徒歩5分」どころか
    「徒歩0分」の場にもイノチがあった。
    「生き物」である私のからだでも
    まさに今何かが起こっている。
    ただ黙って生きているわけではない。

    気がつかない間も、起こっている「何か」。
    操体は「徒歩0分」で起こっているこの「何か」を
    見つめることを教えてくれる学びでもあると感じている。

    植物写真家の「埴沙萠」さん
    「絵日記」などを通して日々HPを更新されているようです。
    興味を持たれた方は、お名前で調べてみてください。

    明日に続きます。

  • 夜明けの営み

    おはようございます。
    今日はブレイクタイムのように、即興で書いてみたいと思います。

    今、まさに8月27日、火曜日の早朝です。
    昨夜は深夜に静かな雨が降っていました。
    私は夜更けに一度眠りから醒めて、その雨の音に包まれていました。
    なんとも心地の良い、包まれている感覚を味わいながら
    気付かないうちに、再び眠りに入っていったようです。

    最近、ご褒美のように夜明け前に目が醒めることがあり
    その経験を通して「はじめて」気がついたことがあります。

    私は生まれてからずっと東京都に住んでいますが
    今の時期、4時くらいからゆっくりと「夜」が明けてきます。
    そしてちょうど4時半くらいになった頃に
    遠くの方から静かに、そして一斉に
    小鳥たちの大合唱が始まるのです。
    それは昼間の「チュンチュン」という鳴き声とはまた異なるもので
    「会話」とも違う感じがします。

    辺りはまだうっすらと明るくなり始めた静寂の時間です。
    私自身もまどろんでいる状態で
    ぼんやり、静かな気持ちで
    「魅力的な鳴き方だなあ」と思って聞き惚れています。

    そしてその「会話」とも違う大合唱は5分ほど続いたのち
    示し合わせたかのように、絶妙な感じで「おさまって」きます。
    やはり終わりがあるのです。

    すると、そのおさまりを「合図」のようにして
    今度は「待ってましたよ」と言わんばかりに
    蝉の声や周辺に住んでる生き物の声が
    遠くの方から聞こえてきます。
    小さな音から広がっていくように
    「生命の大合唱」のように辺りを包んでいきます。
    「こんな朝早くからみんな起きているんだなあ」
    と、しみじみその音もしばらく味わっていると

    「あれ?」

    気がつかないうちに夜が明けて
    いつもと変わりのない日常の早朝の風景がそこにあるのです。

    その瞬間、私の中で
    「あ、いまの「間」が『夜明け』だったんだ」
    と直感しました。
    そして、こんな絶妙な「間」の時間が
    毎朝のように行われているのだろうかと、感激しました。

    次の日も有り難いことに目が醒めたので
    まどろみの中で待っていると
    やはりほんのり明るくなった頃から
    小鳥たちの声が聞こえて来ます。
    そしてその合唱が「おさまる」とともに
    生き物の音が一斉に始まるのです。

    これはいったい何なのだろう。
    生き物の見せてくれる不思議に
    胸がいっぱいになる想いがします。

    いやいや、ちょっと待って。
    私だって「生き物」ではないか。

    毎朝、何者かが「指揮者」のように
    生き物たちに合図を送っている。
    そして、その「合図」があるのだとしたら
    「生き物」である私にも感じとれるはずだ。
    夜明けの営み感じ、そんな想いにかられるのです。

  • 学びの境界線

    昨日のブログで、「師の学びには境界線がない」というようなことを書きました。
    今日はそのことに関連して書き進めたいと思います。

    「学びの境界線がない人物は?」とイメージしてみると
    私の中で師匠の次に真っ先に浮かんでくるのは
    名画「モナリザ」でも有名なイタリアの芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチです。
    ご存知の通り、彼の絵画における才能は、彼の成してきた業績のほんの一部でしかありません。
    ウィキペディアを参照すると以下のようにざっと12の分野に関しての業績が挙がっています。

     1、絵画
     2、彫刻
     3、建築
     4、音楽
     5、科学
     6、数学
     7、工学
     8、発明
     9、解剖学
    10、地学
    11、地誌学
    12、植物学 など

    最後に「など」と書かれているように
    実際にはこれらの分野以外にも、公表されなかった研究をしていたとあります。
    驚くべきダヴィンチの好奇心。
    一目、彼が学んでいる姿を見てみたかったと思うこともあります。

    と、知の巨人を前に、ここでふと壮大な疑問が湧いてきました。
    そもそも何で「学問」は生まれ、発達したきたのでしょうか。
    色々諸説はあると思いますが
    私はそのひとつに「わかりたい」という素朴な好奇心が挙げられると思うのです。

    「わからないことを、わかりたい」。
    そんな疑問と発見の繰り返しの結果
    人間はミクロの世界のことも
    マクロの世界のことも少しずつ把握できるようになった。
    人間の創造力とそれを現実化させていく技術の革新は
    今日、時に驚くべき速度を見せながら進んでいるように感じます。

    しかし、ここでもう一度立ち止まって考えてみます。
    「人類」は長い進化の歴史を歩む中で、わからないことが少しずつわかって来て
    それに伴い学問も進歩し続けてきました。
    でも縮尺を変えて「私自身」を振り返った時に
    つい最近まで心の底から学ぶことを愉しいと思えていなかった事実。
    人類の歴史の中に生きている一人として、これは何故なんだろうと思うのです。

    従事している「仕事」に関係がないから?「必要」がないから?
    自問自答してみるとひとつの大きな原因に気付きました。
    それは何かを学んだとしても
    自分自身との「つながり」が見えてこなかったからではないかということです。

    学問はどんどん進歩しているのに
    そのことと自分自身との「つながり」が見えてこない。
    このようなことは私に限らず、少なからず思い当たる方もいるのではないでしょうか。

    元々は「わかりたい」という素朴な好奇心から生まれて発達してきたはずの学問に
    気付かない内に「自分自身と関係がないから」と境界線を引いてしまうことがある。
    どうしてこんなすれ違いが生まれてしまうのか。
    そこには学問が進歩する過程で
    見失い、置き忘れてしまった大切なものがあるからだと思うのです。

    見失ってしまったもの
    置き忘れてしまったもの
    そして人間がわかりたくて学び続けてきたものは何か。
    私にはそれが操体で教えていただいているところの「真理」であるように感じるのです。

    明日に続きます。