からだの声を聴きなさい
からだの声を聴きなさい
治す事まで関与するな
治しはからだがつける
まずやってみろ、やってみなけりゃわからないだろ
生かされし命の理を学ぶ
三人のきょうだいが、ひとつの家に住んでいる。
ほんとはまるでちがうきょうだいなのに、
おまえが三人を見分けようとすると、
それぞれたがいにうりふたつ。
一番うえはいまいない、これからやっとあらわれる。
二番目もいないが、こっちは家から出かけたあと。
三番目のちびさんだけがここにいる、
それというのも、三番目がここにいないと、
あとのふたりは、なくなってしまうから。
でもだいじな三番目がいられるのは、
一番目が二番目のきょうだいに変身してくれるため。
おまえが三番目をよくながめようとしても、
そこに見えるのはいつもほかのきょうだいだけ!
『モモ』M.エンデ より
操体に関わって一番大きな変化は時間だと思う。
仕事をしていると時間はあっという間だけど、現在では一日、一年がどんどん長く感じていられている。年々やりたいことやできることが増えていっている。
健康長寿を目指す操体ならではではないでしょうか。
今では現在が一番充実していて快悦しています。
新重心理論にかなうにはとても遠い道のりにみえる
やっと手ごたえを感じれたと思ったらまだ先に多くのものが待っている。
学びたいものが日を追うごとに増えてくる。
だけど果てしないものとは全く思えない。
三浦先生が道しるべをつけてくれているから。
からだの学習を通して半信半疑だった自分が腔間や吸気に関心を持つとは思えなかったから。
師匠や先輩の言葉を臨床を通して感覚できるようになったのだから。
今はまだ難しく考えてしまい、うまく咀嚼できずにいるけど、滋味を感じるまでゆっくり味わい通してたらいつの間にか適うと思う
操体に関わることができてから5年目になります。
以前と今とでは変化を細分化して対応できるようになったと感じています。
以前だと春と秋には風邪をこじらせ、何とか仕事をこなすのが精一杯でした。
現在は検査以外で病院に行ったことが無く、左の鼻腔や右の扁桃が弱くなるとそこを中心に感覚が変わってきて周期的な変化に対応できるようになってきました。この場所、この人と会う時だけ咳が出る。痰がでる。だけど、場所を変えると全く症状が出なくなる。
からだのサインに気付き、それに対応できるようになりました。
味覚や嗅覚も同じく、苦さの中に甘味や風味が変わるし、咀嚼することによっても味わいが変わります。その微細な変化を受け止める余裕が出てきました。
葉っぱも表と裏で香りが違うし、同じ花でも咲いている場所が違っていれば香りも変わってきます。
「からだにききわける」とは軸を立てることによって変化を受け入れ柔軟に対応することではないでしょうか。
軸を意識することは容易いけど、日々の活動の中で軸を見出すのは決して容易いものではない。
皮膚に包まれている内臓・骨を神経や血管が螺旋のように取り巻いてるので動くたびに捻じれが生じてしまう。
だからこそ左右で役割が異なるのだと思う。
役割に沿った使い方をすることで感じるものが全く違う。
右目で見る世界と左目で見る世界は違って見えるし、
左の軸を使って見る景色は次元が変わってくる。
普段の生活で疲れてくると自然と右側をしかめてくる。
こうして文章を打ち込んでいると左目の方がスラスラと進められる。
ただ、左軸を使っていると時間の流れや疲れ感が全く異なってくる。
私は、皮膚とは「自己とからだが対話する場所」なのだと考えます。
意識が内にこもりすぎれば、皮膚は閉じてしまう。
世界に流されすぎれば、皮膚は擦り切れてしまう。
だから人は、近づきすぎず離れすぎず、その「間に合った腔間」を探し続けるのではないでしょうか。
距離とは、相手との距離であると同時に、自分自身との距離でもあります。
だからこそ、皮膚を知ることは、自己とからだの距離を知ることだと言えるのかもしれません。近づくことが怖い日もあれば、離れたいと感じる日もある。
それでも私たちは、皮膚という場所で世界と出会い、毎日なにかしらのやり取りをしている。
そう受け取れるのは自分に芯が通っているからこそです。
からだにも軸が立っていないと微細な情報を感じることすらできなくなってしまいます。
寒さの話をしましたが、他にも感じるものがたくさん見つけられました。
皮膚はからだの境界であると同時に、世界との出会いの場でもあるのではないでしょうか。
目は遠くを見ることができますが、皮膚が知るのは「腔間」です。
危険も、安心も、暖かさも、恐怖も。私たちはまず皮膚でそれを受け取り、そこから感覚が動き出す。
そう考えると、皮膚は単なる壁ではなく、むしろ世界と交わるための入り口のようにも見えてきます。
では、皮膚は「からだの意識」なのか、それとも「自動的なもの」なのか。もし内側だけが自己なのだとしたら、なぜ皮膚が傷つくと「私が傷ついた」と感じるのでしょうか。
もし外側だけが世界なのだとしたら、なぜ誰かの手に触れられると「心地よい」と思うのでしょうか。
境界線のはずの場所が、なぜこんなにも感覚に直結しているのか。境界は隔てるためだけのものではなく、意識的なものとからだを繋げるためのものなのかもしれない。