投稿者: karib_sotai

  • 伝える力2



    堺すすむくんストラップです。
    野毛のにぎわい座に行ったときにうっかり購入しました。
    携帯につけても残念ながら誰も気づきません。
    「なんでかフラメンコ」でおなじみの名人です。

    「あんパンと、メロンパンと、食パンが歩いていた。後ろからージャムパンが、『おーい』と声かけた。
    振り返ったのは食パンだけ。なーんでか。なーんでか。」

    「それはね、食パンには耳があるから。」

    文字でみると???ですが、にぎわい座でみると顔全体がニヤけてしまいます。
    また、美空ひばりのモノマネを歌いきった後、すすむちゃんが一言。

    「オレ・・・歌・・・うまいやろ?」

    お客さん大爆笑。もちろん私も大爆笑。

    なんで、ゆっくりとした一言がこんなに面白いんだろう?
    なーんでか?
    なーんでか?
    ステージに登場して、喋りだす前からすでに面白いんです。
    今のお笑いも好きですが、今のお笑いは同じネタばかりしているとすぐに飽きられてしまう傾向があります。
    しかし、すすむちゃんは、何十年と同じネタをしているのになーんでか面白いんです。
    一つのことを磨き続けた結果でしょうか?
    失敗するかも?ウケないかも?緊張しちゃう!とか見ているほうがハラハラする雰囲気が全くナシで、
    どんなお客さんにも全て対応できてしまう強さがあるように感じます。
    一つのコトを自信を持って磨き続ける強さを見習い勉強していきたいです。

    今度に日曜はついに東京操体フォーラムです!
    予報ではお天気はあまりよろしくないようですが、会場内は快晴です。
    では、津田ホールでお会いしましょう!
    次は馴れたかな?小代田さんです。

    草階文恵

  • アラフォーの手習い

    ナニを血迷ったか、四十にしてカポエイラを習いはじめました。
    同年代の友達はせいぜい「骨盤体操」「ストレッチ」の教室に行く程度。
    カポエイラを始めたなんて言うと、珍しい生き物を見るような目で見られてしまいます。
    友達が慢性の腰痛だ、肩こりだ腹の肉が・・・と言っている中、側転やらブリッチやらそれ以上を目指してます。
    もともと空手を習っていたとはいえ、ちょっぴり無謀なのは百も承知です。
    何で今さらはじめたのか?
    楽しそうだから!
    この一言につきます。
    操体のからだの操り方を知っていると、何も知らない状態で始めるよりいろいろ分かって楽しいです。
    カポエイラの時は、操体のからだの操り方は一回クリアにします。
    もちろん、「空手を○○年やっていた」ということもなかったことにしておきます(癖は出てしまいますが)
    ある程度動いて納得してから、
    操体の操り方とカポエイラの動きについて考えていけたらもっと楽しくからだと対話できそうです。
    今から楽しみです。
    空手のからだの操り方を消しているつもりでも、達人の先生にはすべてお見通しのようで
    「蹴るときに、骨盤閉まるでしょ?それは空手の蹴り」
    「つま先の力を抜いて蹴って!」
    ・・・などなど目からウロコのアドバイスをしてくださいます。
    「ああつま先の力を抜くんだ!」「ここの回転を利用するんだ」と、からだが理解できるところがすごいです。
    10代の時にできなかった動きが今できるようになっているので、からだの可能性にびっくりします。
    重心安定の法則で、立位の時に「膝の力をホッと抜く」がありますが、カポエイラの弦楽器を操るとき、
    膝を曲げると弦楽器をうまく持てません。
    この時は、膝を伸ばすことで全体のバランスがとれて楽器を操ることができるのです。
    何で膝を曲げたらうまく操れないのか?はまだわかりません。これからゆっくり理解していきます。
    操体はこうだから!と変に取り込まないで、違いをしっかりと認識しつつ、理解できたら面白いです。

    もともと、日本人は器用なようで、いろんな文化を取り入れ、ただマネをするだけではなくより良いものに進化させていきます。
    今、この年齢で始めたことにきっと何か意味があると思うので、楽しんでいろいろなことに気づいていきたいと思います。

    草階文恵

  • 伝える力

    東京操体フォーラム、一週間を切りました。
    今回は「発声」というステキなテーマで送ります。
    声は人「情報」「感情」そして「愛」を伝えます。
    いい声、キレイな声だけでは、そんなに感動しませんが、たまにびっくりするくらいガツンと響いてくる人っていますよね?
    最近注目しているのが、「さんまのスーパーからくりテレビ」に出演している下地先生です。

    最初はおもしろいおじさん(おネェさん?)だなぁ・・・としか思ってませんでしたが、何だか引き寄せられるんです。

    おもしろいのはもちろんなんですが、
    声のやさしさ、やわらかさが、からだにするするっと入って、からだが納得するみたいです。
    先生として熱心に指導した結果、強烈に伝える力になったんでしょう。
    下地先生は小細工なしなのかもしれません。
    下地先生をそのままマネする気はまったくありませんが(できませんが)、下地先生をみていると、
    「愛」が画面を通しても伝わってくるんです。
    ステキな先生ですね。
    勉強させていただいて、私も伝える力を育てていきたいと思います。

    草階文恵

  • からだひとつで

    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20090404

    岡村実行委員長もこのように書いてましたが、症状に対する思い込みにとらわれてしまう方が少なくありません。

    「○○病なんですけど、何をしたらいいでしょう?」

    「肝臓に効く薬は何ですか?」

    よく話を聞くと、○○病は病院に行かずに自分で勝手に名付けたとか
    食生活を正すのはできないから、よく効く薬を教えてほしいとか
    そんな勝手な要望はお話を聞くだけです。
    できるかぎりからだとお話させていただきますが、
    きっと患者さまの求める答えと違うことを言ってしまうのであまりアタマのほうは受け入れてくれません。
    からだのほうはちょっと変化があるのにもったいない!ということが多いんです。

    また、
    「首が痛いんですけど」
    草「本当に首ですか?」
    「はい、首が痛いです」
    草「どうも他に原因があるようにみえます」
    で、施術を進めていくと、やっぱり原因は腰だったり・・・
    「あれ〜?首じゃなかったんだぁ〜でも首も含めて全体的にからだが軽くなりました!」

    そんなことが多いので、
    患者さまのお話は「なんとなく」聞きつつ、患者さまのからだとお話するようにしています。
    からださんは正直にちゃんとお話してくれるのでありがたいです。
    実際には言葉を発しないからだのほうが、会話が進みます。

    そんなわけで、操体法の治療にいらっしゃる方は何も考えずにからだ一つで来ていただけると助かります。
    来週の東京操体フォーラムもからだひとつでお願いします。

    草階文恵

  • ステキな絵

    日下さんからしっかりとバトンを受け取りました。今回も楽しいお話でしたね。
    早速呼吸といろんなこと(←?)を見直します。
    一週間よろしくお願いします、草階(くさかい)です。
    そういえば数年前、イキオイだけでとんでもない発表をしちゃったな・・・と思いだしました。
    冷汗脇汗ダラダラです。
    そんなことを思い出しつつ東京操体フォーラムがあと一週間に迫りました。
    私は岡村実行委員長とのコンビで「みんなで側屈しよう!」を発表します。
    最高の側屈をしよう!ということで、数か月前から緻密な作戦(?)を練っています。
    みなさん、楽しみにしていてくださいね。

    先日、仕事のキャンセルで時間に余裕ができた時、友人から美術館に行かないか?とお誘いがありました。
    どちらかというと趣味はからだを激しく動かすことなので、美術館は積極的に行くほうではありません。
    知識も義務教育の義務の範囲です。
    ある作品に対して「私でも描ける」と言い放ち友人に小突かれたことがあります。
    しかしものすごく行きたいキブンにかられたのでお誘いに乗り、東京国立近代美術館に行ってきました。
    目的は展示中の『騎龍観音』です。

    画像よりもちろん迫力満点です。
    人が描いた絵なのになんだかパワーというか言葉で言い表せない何かを感じます。
    以前もふらりと入った美術館がちょうど河鍋暁斎展初日でした。
    牛若丸の立ち姿に芯を感じ鳥肌が立ったのを思い出します。
    そんな偶然の出会いに感謝しつつ、絵のもっているパワーを生かし今度の東京操体フォーラムに乗せていきたいと思います。

    草階文恵

  • 続タントラ

     日本においては、仏教の伝来とともに弘法大師空海によって密教が大成された。空海の開いた真言宗の中から、当時、民間信仰として根強い伝統を持っていた性器崇拝の傾向を巧みに捉え、性崇拝の教理を組織的につくりあげた立川流真言なる左道密教が発生したことは見逃せない事実である。すでに陰陽道と融合した真言宗はこれを男女に配合し、真言宗立川流曼荼羅によると、天に陰陽、神にイザナギイザナミ両みことの二神、人間には男女、仏に金(知)・胎(理)の両部が描かれている。真言宗の根本経典である『大日経』には、理知冥合して仏事を成すとあり、男女の交合は、理知の冥合にして、成仏の因をなし、これ当相即道の妙にして、余教を超越する大秘密なりと、唱えた。これはかなりの力をもって、民間に流布していった。立川流真言の「受法用心集」などを見ると、性的というよりは、妖風をおび、ドクロ(髑髏)本尊なるものを箱に納め、それに、男女交会和合の液を塗ること百二十回、毎夜、真夜中に反魂香なるものを焚いて、煙をあてるべし、そうして反魂真言を誦すること千べんに満ち、金銀の箔を捺し、曼荼羅を描き、錦の袋に納め、昼は仏壇に納めてお供物をし、夜は行者のそば近くにおいて、供養し、こうすること八年に達すれば、行者に悉地(真言宗の仏語、成就という意味で秘法を修してして成就すること)なるものを与える。そして上品に成就したる者には、この本尊が、声を出して、三世のことを告げ悟らせ、中品に成就した者は、夢中に一切のことを告げ、下品に成就した者は、夢うつつの内にお告げはないが、一切ののぞみ、心のごとく成就すべし。といったようなことが書かれている。
     即身成仏の秘法とは、つまり、両性交媾の修法と説き、男の僧は尼僧を求めて両者(男女)が密室において、いわゆる霊肉一致の修法を試みる。この修法を具体的に象徴する男女二神の抱擁・交接をいとなめる歓喜天が全国各所の密教寺に奉安されているのである。
     インドにおいては紀元前四世紀ごろに書かれた性典「カーマ・スートラ」なるものが存在する。恋愛結婚を支持し、婚前求愛の必要性を強く叫び、男女の行為こそ人間同士が昇華し合える極限の美しい姿だと断言している。現代の破綻する夫婦の殆どが、肉体的・精神的な不調や性的無知から起因していることを考えると、この「カーマ・スートラ」の持っている内容は恐ろしいほど近代的であるように思える。
     若い頃、あるタントラグループに参加した時の苦い体験のなかで教示を受けたことをもとに話を進めたい。どこかで見たことがあるかも知れないが、古い時代の錬金術の絵で、男と女が裸で三つの型の内側に立っているのがある。第一の型は四角、第二の型は正三角形で、第三の型は円である。これは、性行為のタントラ的分析であり、三つの可能性があるということだ。
    普通の状態では、性行為をしている時、そこには四人がいる。二人ではない。そしてこれが第一の四角なのである。四つの角がそこにある。なぜなら自分自身が二つに分けられている。思考している部分と感じている部分とに。相手もまた、二つに分けられている。だから四人いることになる。二人の人間がそこで出会っていない。四人の人間が出会っている。そこでは深い本当の出会いは在り得ない。そこには四つの角があり、出会いは、ただの偽りの行為である。出会っているかのように見えるが、そうではない。そこには共有がない。自身のより深い部分が隠されている。同じように相手のより深い部分もまた隠されているのだから。そして、ただ、二つの頭だけが出会っている。ただ二つの思考のプロセスが出会っている。それは二つの感覚のプロセスではない。それは隠されている。
     次に第二の型の出会いは、三角形に似る可能性がある。自身と相手は二個である。三角形の土台の二つの角である。突然の瞬間に二人はひとつになる。ちょうど三角の第三の角のようになる。これは四角の出会いより良い。なぜなら、少なくともほんの一瞬間でもそこに一体性がある。この一体性が健康と活力を与えてくれる。生き生きと感じ、再び新鮮になる。しかし、第三の型こそ最良のもの、この第三の型がタントリックな出会いである。二人は円になる。そこには角がない。そして出会いは一瞬のことではない。その出会いは実につかの間の出会いではない。そこには時間がない。そしてこのことは、男性が射精を求めれば、その時、それは三角の出会いになる。なぜなら射精がそこにある瞬間、接触点が失われるからである。最初の状態を保たなければならない。最後へと移動しないことである。どのようにして最初にとどまるのか。
     「性交の始まる時、最初の火に注意を深く保ち、そしてそれを続けて、最後の残り火は避けよ」とタントラは云っている。最初の行為を終わらせることを急がなければ、行為は次第にセクシャルでなくなり、さらにスピリチュアルになってゆく。これこそひとつの歓喜、宇宙意識である。そして、もし、これを知り得ることができれば、これを感じ、実感し得るなら、性意識は非性的になる。と、教えを受けたのであるが・・・・・・。
     そういえば数年前のフォーラムの発表で、草階女史が「操体とSEXの気持ちよさの類似」について論じておられたのを思い出すが、気持ちよさ、心地よさ、歓喜、昇天、オーガズム等は、みな二面性を持っているのではないだろうか。肉体原理としての気持ちよさがあり、精神原理としての気持ちよさがある。そしてそれらをつないでいる呼吸こそが鍵を握っているのではあるまいか。
     一週間にわたってお送りしました呼吸シリーズはこれで終了です。
     明日からは草階女史の登場です。よろしくおねがいします。

    日下和夫

  • タントラ

     タントラの話がでたところで、タントラ密教は私の生涯の研究でもあるので、タントラについてもう少し深く話してみたい。
     人間がまだ、未開人といわれ、野蛮な原始生活を送っていた時代には、男と女の関係は、お互いに本能的な性欲のおもむくままに自由に交わることができたと想像できる。その結果、生まれたる子供たちと、親たちの関係は、父と子の関係よりも、母と子の関係の方がはっきりしていたので、一人の母から生まれた子供たちはそれぞれ違った父を持つ兄弟姉妹の父が誰であるかわからなくとも、少なくとも母親は、その子供たちを自分の子と認めることはできたはずである。
     したがって子供たちは、確かな血のつながりの認められる母に属し、母を中心とした生活が営まれた。いわば一妻多夫の制度ともいうべきもので、そこに母系を中心とする家族社会が形作られたのも当然のことであった。
     未開時代の社会にあっては、なんといっても子供を持つ喜びは、その部落はもちろん、その種族にとっても、直接的な繁栄を意味していたから、出産は大いに喜ばれ祝福された。こういった意味からも母系中心の社会と、いわゆる「母権」との間には、思想的にも密接な関係が認められるばかりでなく、そこに母性を神と崇める「母神崇拝」の思想が生まれたのも当然のことである。
    そしてこの母神崇拝は、妊娠の原因が男女の交接作用からきていることをはっきりと知られるまでは、圧倒的な勢力を持っていた。特に、女性の生殖器そのものに人々は神秘的な神性を認めるようになり、そこからさらに、女陰を崇拝する思想が生まれてきた。しかし、人間は長い世代にわたって生活経験を積み、知恵が進むにつれて、ついに女性が妊娠するためには男性の生殖器もまた、なくてはならないものと悟ったのである。この新しい発見によって、それまでにひじょうな勢力を持っていた母神崇拝や女陰崇拝は、反動的に男根崇拝にその王座を奪われるようになった。
    ところがこの男根崇拝は長くは続かなかった。というのも、人はエネルギーを保存し、満ち足りた状態を感じ、充実感を覚え、そして肉感性の奔流が起こり、エネルギーはやがて一つの円にならなければならない。ところが男根は多量のエネルギーを漏出しなくてはならない。エネルギーが流れ出るには何か尖ったものが必要である。それゆえ男性性器は尖ったものなのである。ほとんどひとつのはけ口である。
    エネルギーが男性の内部に過剰になってどうすることもできなくなると、それを性的に放出する。性行為の中では、女性は決してどんなエネルギーも放出しない。だから女性は一夜のうちに多くの人々と愛を交わせる。が、男性には無理である。女性はもし、やり方さえ知っていればエネルギーを保存することさえできる。エネルギーを得ることさえできる。ゆえに女性性器は丸い形で表象されるのだ。
     そしてエネルギーというのは、頭から外へと放出されることはない。頭は生来丸い形に創られている。だから頭脳はどんなエネルギーも決して失わない。それはエネルギーを保存する。というのも、それは最も重要なからだの中枢機能だからである。それは保護されなくてはならない。だから丸い頭蓋によって保護されている。
     エネルギーは丸いものから漏出することはありえない。だからこそあらゆる惑星、太陽、月、星は、すべて丸い形をしているのである。そうでないとしたら、エネルギーを漏出し、消滅してしまう。
     やがて、女陰崇拝と男根崇拝は、このエネルギーの流れと保存という一体性のもとに性神的な性格にまで昇化され、タントラ密教の秘儀が出来上がっていったのである。
     日本では、俗に「歓喜天」または、「聖天様」と呼ばれている「大聖歓喜自在天」が平成の今日までなお、相当の民間信仰を得ているが、この天部(神格をもったもの)と呼ばれている神の経歴や素性といったものを説明してみたいと思う。
    この歓喜天というものの源流は、インドのバラモン教のなかの一神格であった「ガネーシャ神」にその端を発している。バラモン教や後のヒンズー教の三大神といわれるのはブラフマン神、シヴァ神、ビシュヌ神だが、このうち、ブラフマンは万物を支配し、創造する威力をもち、シヴァは破壊力、ビシュヌは物を維持する。この三大神のなかのシヴァ神とその妻のパールバーティー女神とのあいだに生れたのが、ガネーシャとスカンダーの二神であった。そして、シヴァ神の信仰は、インドで一番古い聖典といわれているリグヴェーダー以前に、菩提樹の崇拝や生殖器の崇拝とともに存在していた。シヴァ神は、破壊の神だが、インドの数論哲学においては、物の絶対的消滅という思想は存在しないという考えから、破壊というのは、つまり建設を意味していることになり、したがってシヴァ神は、再生力を持っている神として、リンガ(男根)をもって、その表象とされることになった。
     そしてさらに、リンガにヨーニ(女陰)を添えて祀ることも行われるようになった。現在、インドでは毎年十月末、若しくは十一月初めの新月の夜には、カーリー祭りというものが盛大に行われている。このカーリー祭では、シヴァ神の妻であるパールバーティーの化身である黒色の女神カーリーを祀り、たくさんの山羊がお供物として犠牲になる。そして、この夜はいろいろな性的な行為が繰り広げられるのである。
     これに類したお祭りは、あえてインドばかりとは限らない。日本の各地でも散見される習俗だったのである。
    明日につづく

  • 呼吸のリズム

     心と呼吸とは、非常に深く関係づけられている。
     怒っている時には、呼吸のリズムはいつもと違っている。性的に刺激されている時も呼吸のリズムは異なる。沈黙している時も、幸福な時も、悲しんでいる時も呼吸のリズムは異なる。呼吸は、心の気分とともに変化しつづける。そして、逆もまた同様にあてはまる。呼吸が変化する時には、心の気分も変化し、呼吸が止まる時には、心も止まる。
     息というのは非常に抑制的に使えるものである。というのも息が律動するごとに、ある特定の気分が心に湧き上がってくるが、他の気分が消え去ったわけではない。ただ、隠れただけである。
    怒りたければ、怒りが生じるようなリズムで呼吸をすれば怒りがやってくる。俳優はそれをやっていて、怒りを表現したい時には呼吸のリズムを変えるのである。その呼吸のリズムは、ちょうど怒っている時と同じにしなければならない。呼吸のリズムを速めることによって怒りを感じ始めるのであって心の中にある怒りの部分が出てくるのである。
     また、呼吸のリズムは心の中のどんなものでも抑圧するために使うことができる。心の中のものは何でも抑えつけられる。たとえば、自分にくつろいでいる人は、同じリズムの呼吸を続けることができる。このように、呼吸リズムを標識として用いることができる。しかし、その呼吸リズムは決して心のせいでは変わらない。呼吸から変わるのはよくない、不自然である。変化はまず、心から生じるのが自然である。つまり、まず、心が変わり、その結果として息が変わるのである。
     タントラというのをご存知であろうか? タントラとは、インド密教のことである。タントラでは実に多くの呼吸リズムを秘儀として使っており、SEXすらも瞑想として許している。が、タントラが許すのはSEXの際に呼吸が一定である時だけである。さもなければ許しはしない。もし、心が巻き込まれたなら、呼吸のリズムは同じままではいられない。またもし、呼吸のリズムが同じままなら、心は少しも巻き込まれることはない。SEXのような深い生物的なものにさえ心が巻き込まれないとしたら、ほかのどんなものにでも巻き込まれることはない。と、タントラは教える。

  • 息を吐く

     吐息とは、仏道用語である。普通「呼息」というのを吐息と表現するのは「吐」は嘔吐の文字が示しているように邪物を吐くという意味がある。息を吐くと、全身の筋肉が一気にゆるむ。筋肉に付着している凝りが吐き出される。病気の素因は、筋肉の凝りにあるから、それが吐息によって消えていくとすれば、毒という邪物を吐き出したと見做してもいいのではないだろうか。心の状態と呼吸の形とは、まったく同じだから筋肉がゆるめば、必ず心がくつろぐものである。
     息を吸うのはやや難しいが、吐くのはやさしい。そのやさしい吐く息に乗じて十分に吐くと、凝っている筋肉がゆるむ。筋肉がゆるむと、心の過剰緊張がとれる。吐息はやさしいながらもからだと心の両方にわたって、すばらしい効果を出すことができる。
     頸が緊張し続けると、あくびが出る。肩が緊張し続けると、ため息が出る。昼間緊張し続けると、いびきが出る。これらはみな吐息の変形であり、自然は常に過剰緊張を緩和して健康を護ろうとして余念がない。
     動物は笑わないが、人間だけが笑うことを覚えたのは、人間は緊張しすぎるから笑うことによって、全身をくつろがせるわけである。母音の「ア」音が最高に横隔膜を動かして肺活力をつくるからア音で笑うことを勧める。ただし、ひとりで笑っていると頭にきていると思われてもいけないから場所を考えられたい。
     また、歌うのも、お経をあげるのも、気合いをかけるのも、みな吐息の恩恵にあやかれる。仕事をしている時、運転している時、便所にいる時、時を選ばず、所を嫌わず、深い吐息をすることで積りやすい生活の凝りが刻々に解消することを請け合う。

  • 腹で息をする

     人間は立って歩くので腹部に血が滞りやすいが、動物は横に歩くからこの心配はない。そして、人間は頭も使うから重心が上に上がり、本来的に行われている腹式呼吸が肩式呼吸に変わってしまう。そうすると腹部に血が集まり過ぎた結果、その血が渋滞して流れないと、血液が腐敗しはじめて腹がまず犠牲者になる。あらゆる胃や腹の病気は、これが主因である。特に、腸は最も腐りやすいので腐敗は腸から始まる。
     「転がっている石は苔つかず」とか「流れている水は腐らず」とか「どんな汚物でも三尺流れればきれいになる」と昔の人は教えてくれている。腐った血液であっても流れの軌道に乗りさえすれば、新鮮さを取り戻すことができる。伝染病の毒菌でも、流れている血液の中では、繁殖できない。恐れなければならないのは伝染病菌ではなく、血液の淀みである。
     ここに腹式呼吸の必須性がある。吸うときに下腹部を突き出すようにして、吐く時には下腹部を背中の方に引き締め、ヘソが背中にくっつかんばかりになるのである。特に注意しなければならないのは、吐くときに肛門を必ず引き締めなければ、効果は激減するばかりか、痔になったりする。下腹を引き締めて腸の血を追い出しても、肛門を強く引き締めておかないと、そこへ濁血が追い詰められて痔になるのである。
     人間は直立歩行するので肛門は胴の最下部にくるが、動物の肛門はむしろ胴の上部に位置している。この絶対の相違を無視できない。肛門が緩んでいると痔や便秘だけではなく、胃腸疾患や脳血管の諸症状まで引き起こすことにもなる。
     吐く時に下腹部を背中の方に引き締めるのは、横隔膜を上げ、吸うときに腹を突き出すというのは、横隔膜を下げるためである。呼吸は胸部と横隔膜との二つの働きであり、胸郭を拡げただけでは意味がない。努めて横隔膜を圧し下げるように工夫することが必要である。これは腹式呼吸が酸素吸収にも役立っており、血循をよくすると同時に血質もよくなるので、この腹式呼吸だけで多くの疾患に効果がある。
     人間は頭をよく使うが、その頭脳と腸とは直結しており、腸の内出血が右側に起こると、脳の右側に内出血が現れるのである。腸患部と脳患部とは対照していることから、右半身不随の患者は、反対側の左脳の内出血からきているので、必ず左腸にも疾患がある。腸が悪くなると、頭が悪くなるというのはこれである。文明が進むと人間は頭脳を使うがために、腹にあるべき重心が肩にまで昇っていくことになる。それゆえ、現代人は意識して重心を降ろすように心掛けないと心身不安定に陥ることになってしまう。肩に重心が上がれば、怒りたくなくても怒るようになり、心配したくなくても心配するのである。習慣として日頃の腹式呼吸にしたいものである。