投稿者: karib_sotai

  • 「日本医学」2/5 操体の設計図

    2 操体の設計図

    人間は、自分の頭の中に無いものを創り出すことは出来ないだろうと思う。操体も、橋本師が自分の中に在るものを表現して来たプロセスである。敢えてプロセスと書いたのは、橋本師御自身も時代によって変化され、それに伴なって操体も進化してきたからである。

    鋳型があって、それにうまくはまるものがあれば鋳物が出来る。DNAとm-RNAによるタンパク合成を想起させる。

    橋本師は、疾患現象に伴なう生体の歪を正すことにより治療が可能である、と考えた。というよりも、信念を持たれた。しかし、それが揺いだ時もあったことを告白しておられる。「(前略)その経験により、基礎構造のもつ可能性への信頼が誇大妄想ではなかった実験をすることができました。(後略)」(「生体の歪を正す」)

    橋本師は初め、正体術に工夫を加えた方法で自己の医学を表現された。しかし、“つらい方から楽な方へ”という問いかけでは方では、動診を通せない患者も増えてきて、間に合わなくなってきた。1980年代の初め頃より「気持ち良さで治るんだ。」ということを口にされる様になった。この頃に何かエポックメイキングな事件があったのではないか?

    晩年の橋本師は、超古代文字である「秀真伝(ホツマツタエ)」や「相似象」を研究されていた。それらの中に「気持ちの良さで治る」という一節が在ったのではないか、と筆者は想定している。(今後の研究を待ちたい。)

    「快をききわけさせて、快を味わう」という新たなコンセプトを加味するところまで到達しながらも、残念ながら、橋本師には生命時間が足りなかった。80歳を過ぎてから身体的に不自由になられて、1983年には引退され、具体的な方法については、見守りアドヴァイスを与えながら後代(三浦先生、今先生)に託された。

    山野真二

  • 「日本医学」1/5 野次馬根性

    晩年の橋本敬三先生は、「操体」のことを「日本医学である」と口にされることがあった様です。

    この稿では、筆者が「操体」即ち橋本敬三先生の生き方(行き方)から、日本的だな、と感じることをまとめてみたいと思います。

    1 野次馬根性

    「うまいかまずいか、まず食ってみろ。食いもしないであれこれいうな。」橋本師の口からよく出て来た言葉である。

    師曰はく、これを“野次馬根性”と言う。若い頃から多くの文物を摂取し咀嚼し自分のものとして来られた。キリスト教あり、儒・仏・道あり、西洋医学あり、東洋医学あり、カイロプラクティクあり、正体術あり、近代あり、古典あり・・・・・。

    無節操にも見える雑食性である。こだわりが無いから、何でもうまそうに見えるものには手を出す。自分で噛み分けてみて冷暖自知、うまいと思うものを吸収同化する。

    その核となるものは、師の「志」である。それは、「救いの生命観と、それに基づいた医学の確立」であった。

    そのために、与えられた条件下で自分の手の届くものは全て、材料であり道具であった。それらを自分なりに工夫して、有難く使わせて頂いた。

    ここで、操体法創始者・橋本敬三先生御自身による操体の定義を挙げておきたい。

    操体とは、自然法則の応用貢献である。』

    操体とは、静かに呼吸を通して「快」を味わうことである。』

    筆者は、「操体は、本来無形である。」という捉え方をしている。

    山野真二

  • 「わたしにふれてください」

    こんばんは。森田@最終日です。

     今週は本門寺をよく歩きました。
    なぜなら7/5~7/19の約2週間、「500個の風鈴の音を聴く」という催しがあり、参道の木々に風鈴が渡してあるからです。
    500個もの風鈴なんて、風の強い日などはうるさいのではないかと思っていましたが、全くそんなことはなく、むしろ全体で1つの音のように聞こえるのが不思議です。500以上に増やすとうるさくなることがわかっているのでこの数なのだそうですよ。

    涼しげで、音によって空気が変わる体験ができます。
    夜もライトアップされていて幻想的です。今年で2回目。今後も続いて欲しいイベントです。

     ところで、三浦先生の日記にもありましたが、秋の東京操体フォーラムので配布するVisionSの原稿が概ね集まりました。これから原稿チェックに入ります。
    VisionSは、操体をともに学ぶ20人以上の仲間が、臨床や生活の中で感じたことをつづっています。今回で7冊目になりますが、回を追うごとにその人らしさがのびのびと伝わってくる作品ばかり。行間からその人の息づかいや空気が感じられ、操体を知っている人にも、そうでない人にも読んでもらいたい濃い冊子に仕上がる予定です。

     とはいえ、私だけかもしれませんが、〆切前は日常生活の合間を縫ってう〜んう〜ん、と頭をひねってました。「今回は何を書こうかなあ」と。
    もちろん、ぽこぽことネタはいくつも浮かぶのですが、今回は書き出してしばらくすると、違うネタが気になったり、考え方が変わり苦労しました。

    正直言って、自分の原稿を読みなおしてみると、まだまだ消化不良な文章であるのを感じます。書き終わった後から「もっとここは説明すべきだったか」「くどいから削りたい」と感じます。
    いや、前向きに言い換えてみましょう。「この原稿は生きることを考えるプロセスを切り取ったものなのだ」と。常に変化をしている私のごちゃごちゃした瞬間をリアルに表現した作品になっております!

    …ちょっといいわけがましいですか。
    もちろん読み手のことを考えてベストは尽くしております。

     東京操体フォーラムの実行委員になってから、とにかく文章を書く機会が増えました。時には大変だと感じることもありますが、書き終えた後は確実に一歩進歩していますから、文章を磨くチャンスをいただいていることに感謝してます。
    特にVisionSのように、年に1度、全実行委員で「書いて残す」という作業は、日々の小さな気づき達をうまくまとめて発展させてくれる機会です。チャレンジの楽しみもあり、いい緊張感があります。

     ところで、原稿を書いた後に、Phyllis K. Davisの詩「わたしにふれてください」という詩に出会いました。訳は三砂ちづる、絵は葉祥明です。三砂氏は、ブラジルで「国際協力事業団ブラジル家族計画母子保健プロジェクト」に参加し、助産婦を育てるコースの最後に、トレーニング担当の方から聞かせてもらったのだそうです。

     この詩は人生のどの時代においてもふれられることが必要なのだということを描いています。読んでいると、自分が赤ちゃん、男の子、おじいさんだったら、こうしてもらいたいという気持ちを肌で感じるような気持ちになります。言葉でイノチの治る力を高めることができる。これは元の詩だけでなく三砂ちづるの「感情のいきおいで訳した(本人談)」訳だから、とも言えます。
    VisionSでも三砂氏の著作を引用させていただいていますが、この方の文章には、イノチに対する思いやりの深さ、やさしさ、ていねいさ、まるさが醸し出されていて好きなのです。

    詩の後半にこんな1節があります。

    「もしわたしがあなたの年老いた父親なら
    どうぞ、わたしにふれてください

    あなたが小さかったときにわたしがあなたにふれたと同じように
    わたしの手をにぎり、わたしのそばにすわって、
    わたしを力づけてください」

    ここまで読んで、何か思い出さないでしょうか。ブログを毎日読んでくださっている方ならもうお気づきのはず。
    そうです、5月20日の平さんの日記です。

    「手紙〜親愛なる子どもたちへ」
    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20090520#1242774354

    わたしの中で、2つの詩が出会ったことでちょっとした化学反応が起きています。
    なにがどうつながっていくか、まだわかりませんが、目に見えない何らかの成長の機会ををVisionSがわたしに与えてくれているのではないかと思います。

    皆さんも、「わたしにふれてください」を是非読んでみてください。

    1週間のおつきあい、ありがとうございました。
    山野さんにバトンタッチです。よろしくお願いします。

    森田珠水

    わたしにふれてください

    わたしにふれてください

  •  言葉を統制する

    おはようございます。森田です。

    今朝は「今週の気になった話」をします。

    ある平日の夜10時過ぎの電車の中でのことです。隣の人と方がふれあうくらいの混雑ぶりでした。
    その中で、二十歳くらいの二人の女性が普通の声で会話をしていました。3mくらい離れていましたが、よく聞こえるのです。

    どうやらテーマは一人の父親に対する不満のようでしたが、ふと耳に張り付いたのは「あいつ、死んだ方がいいよ」という言葉。
    思わず耳を疑いましたが、まぎれもなく父親に対する言葉でした。
    よほど深刻なことがあったのかというとそういう雰囲気でもない。結構二人とも笑って会話を続けていました。笑顔の悪口大会は3駅ほど続き、悪口を言っていた女の子は先に下車。残された女の子も平然とそのまま電車にのっていました。周囲の乗客はずっと彼女たちをちらちらみていましたが、二人ともそれには気づかなかった様子。いや、もしくは気づかないフリができるほど図太かったのかもしれません。
    私がこの友人だったらこの時点で恥ずかしくてとなりの車両に移動してますね。恥ずかしくて。

    ここで不快に感じた点を列挙しますと、

    1、周囲に気を使わないボリュームで話す
    2、どうでもいい家族の愚痴を延々聞かされる
    3、暴力的な言葉を無意識に使っている
    4、自分がどう見られているか客観視できない
    5、友人の間違った言動を注意しない(間違ったと思っていないかもしれませんが)

    なんだかもう、突っ込みどころが多すぎてどうしていいかわかりません。
    駅のホームに、「痴漢と暴力行為は犯罪です!」というポスターが張ってありますが、ほぼそれに近い。

    このなかで最も気になるのはもちろん3 です。父親に対する「死んだ方がいいよ」という発言。
    私にとってはかなりショックで、何日たっても気になって仕方ないのですが、最近の人はこういう言葉を使っても平気なんでしょうか。
    荒い波動の言葉を聞いたり使うと、からだやこころが不快になるものだと思うのですけど。彼女たちはすでにそういった快不快を聞き分けることに鈍くなっているのですね。

    人を蔑む、傷つける言葉を育ててくれた親に対して使うという二重にショッキングな話。もしかしたら母親の真似をしているのかも、など、やめたいのに妄想が止まりません。どうしてこんなことが起こるのか、私のなかで理解できないとなんだか落ち着かない…。

    そういえば、小学生は「むかつく」「うざい」「死んだ方がいい」って平気で言う子がいますね。流行言葉のように当たり前になってきているのかもしれません。私が小学生だった時は親も学校の先生にもおこられましたどね。
    もちろん今の小学生だって「その言葉は不快」と感じて使わないと決めている子もいますが、件の彼女は二十歳になっても誰も注意されることがなかったということではあります。
    考えてみると社会人になってもこういう言葉を平気で吐ける人いますけど、そんな人友達には欲しくないですよね。もし大事な友達が言ったら注意します。

    私はやみくもに「父親だから敬いなさい」なんて言いません(「感謝できないのは残念なこと」とは言いますが)。
    世の中には小さいときから親から理不尽な待遇を受けて来た人もいますし、嫌いになる理由があれば嫌っても仕方ない。
    でも、そんな言葉を使うほどの燃えたぎる感情なら、何も混んだ電車の中じゃなくて、他人に聞こえない場所で深刻そうに話してほしい。
    そうしたら「そんな発言するほど嫌なことがあったのか、大変だったね」ととりあえず受け止めることができます。
    その彼女にはそういった深刻さは感じられず、むしろ親に甘えているといった感じでした。

    とにかく言葉の持つ波動とその力のすごさを感じます。何日たってもこうして気になり続けているのですから。
    彼女には無意識に波動の荒い言葉を使うことの怖さを知ってほしい。いつか自分に返ってきます。
    とりあえず、その時は電車の中の大勢を不快な気持ちにさせ、性格不美人のレッテルを貼られていたはず。「こんな女とはつきあいたくない」ナンバー1になっていたでしょうね。
    それだけでなく、言葉は波動ですから、70%近くが水分である自分自身のからだを自ら汚している、これが最も怖いことかもしれません。
    無意識に使っている以上、気づくまで自分自身を汚しつつける毎日を送ることになるのかとおもうと、だんだんかわいそうになってきました。

    橋本先生は「言葉は運命のハンドル」とおっしゃられていたそうです。自分の選んだ言葉の方向へ人生は向かっていくのです。三浦先生は「言葉の波動が行き方を決める」「だから言葉を統制しなさい」とよくおっしゃいます。
    生き方の自然法則、息食動想+環のうちの「想」は他の4つをまとめて表しています。そして想は一番言葉にあらわれるのだそうです。言葉の使い方が変われば、その人の想も変化していることになります。
    逆に考えれば、生き方を変えたければ形から入る、つまり言葉を統制(コントロール)すればよいということになります。意識的に真、善、美、愛という言葉を選ぶようにするとよいと師匠は講習でも、本の中でも伝えて下さっています(「操体臨床の道しるべ」より、p202.「付録橋本敬三先生の世界観」)。

    こうした教えを大人になっても聞けることはありがたいです。そういえば私も汚い言葉を口癖にしていた時がありました。
    年齢を重ねるごとに、注意してくれる人は減ってゆきます。アドバイスをいただける人がいること、生きる指針になる般若身経があるのはありがたいことです。

    件の女子も、はやく気づいてくれる日が来ることを願います。せっかくの美人も台無しです。
    世の中に(性格)美人が一人でも増えてほしいものです。もちろん、男性もですよ!

    森田珠水

    *参考
    操体臨床への道しるべー快適感覚に導く診断と操法ー」 三浦寛 2007,11,30 医道の日本社

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

  • 自転車にのる

    こんばんは、森田です。

    今日も暑かったですね。

    この時期になると私は首に手ぬぐいを巻いて生活します。
    汗と日光で「首をしめられたのか?」と間違われるほど真っ赤になるからです。
    和の手ぬぐいはかさばらなくて使い勝手がよくて気に入ってます。

    昨夜は自転車で京浜島のつばさ公園に行ってきました。

    浅生ハルミンが「帰ってきた猫ストーカー」で猫スポットとして紹介していたところです。
    自宅から20分で、こんなに憩える場所があったかと満足できるスポット。
    工場、倉庫以外はカフェもコンビニもなし!でも羽田空港の離着陸の様子がみられ、半のら猫がゴロゴロしています。
    あと釣りをのーんびりやっている人がいるかな、そんなところです。

    猫の戯れ写真はたいしたものは撮れませんでしたが(お化けのようです)。でも一応のせます。

    怖っっ。

    猫との出会いは日が落ちていてあまり収穫?がなかったので、昨日のペダルの踏み込み方を味わってみました。

    踏み込み方は母趾球の付け根(正確には第3趾を介して第1趾側側)と小ユビ側側で試しました。
    かかとでふむのは、条件を合わせるためにサドルの高さと前後を直さなければならないので割愛です。

    母趾球の付け根で踏み込むと、
    ・つま先と膝が正面を向く
    ・下肢の内転筋群、おなか(骨盤内の深層筋群)から首まで全身が動く
    ・背筋が伸び(骨盤は軽く前湾曲)、おなかで上半身を支えられるので、上半身を両腕で支えなくてすむ。
    ・踏み込みに充実感がある
    ・ハンドルがぶれない。下半身だけでバランスがとれる。
    ・上半身が自由なので後方確認、ブレーキングなど操作が正確で安全
    ・からだ全体で乗っているので姿勢が美しい(比較して見てもらいました)

    つまり、自由で安定しているので、動きが充実していて、スピードがでる!

    いつもはスピードもそんなに出さずにのんびり乗っていたのですが、
    ぐんぐん走れるのは楽しいものですね。

    で、小ユビ側を効かせますと、以上に記した反対でして、膝が外を向き、骨盤は極端に前湾曲し、猫背になるものの前を向かねばならないので首を無理に後屈することになります。人によっては上肢に痺れが出ると思います。
    腰から下の筋力のみでこいでいるため、疲れるし、ハンドルがぶれます。上肢で正面に向けないといけないので肩が凝ります。

    もちろん上半身の体重は両腕でハンドルにかけることになり、ブレーキングも肩に力が入ってしまうことになるでしょう。
    そりゃもう、疲れますよ。後方確認もがっちがちでやりにくい。かっこわるいですよ〜。

    体験者が言うのだから、間違いない! …ごほごほ(師匠ごめんなさいっ)。

    もちろん、ここで大切なのは、「手は小指」を効かせるということです。
    「足は親ユビ」だけでは片手オチですからね。

    一応今回は手は小指を効かせて臨みました。
    「手は親ユビ、足は小ユビ」でのるなんて、考えただけで恐ろしい〜ぶるぶる。
    怖いモノ知らずの方、どうぞ試してください。事故などの保証はしませんが。

    森田珠水

  • 自転車自然体

    こんにちは森田です。

    今朝は窓越しの強い日差しで目覚めました。

    どうやら東京は昨日、北九州〜東海地方よりを飛び越しての梅雨明けなのだそうです。

    今年も猛暑なのか、気になります。エルニーニョ現象も予測されている様子です。

    そういえばJR浜松町駅ホームのしょんべん小僧(58才、趣味はコスプレ…だそうです)は半月前から夏の装いでしたよ。

      

    靴もなかなかかわいい。

    作成は港区の手芸サークルあじさいで、毎月26日に着せかえられているらしいです。
    浜松町駅100周年記念イベントで彼の今までの写真展が開催されてます。

    http://www.minato-cosw.net/syakyou/index.php

    ところで、そんな暑い中、今日もえっちらおっちら自転車をこいで仕事にいったわけなのですが、眩しい日差しから視線を避け、うつむくと、自分の両足が目に入りました。そして「あれ?」と思いました。なぜなら私の右足が極端に外転してこいでいたからです。

    からだの使い方には般若身経というルールがあります、重心安定の法則と重心移動の法則です。これを守ればどんな状況でももっともからだを効率よく、安全で、美しくからだを運ぶことが出来ます。
    操体の経験者にはもう聞き慣れている言葉ですが、このうちの重心安定の法則は

    1.足は腰幅 に開く
    2.つま先と踵は平行にした後、きき手と反対の足は半歩前&少し内側にむける
    (出したら軽く骨盤を安定する位置におさめる)
    3.背筋は軽く伸ばし 、目線は目の高さ、正面の一点を見据える
    4.両膝の力をほっ、と抜いて緩める。拇趾の付け根あたりに体重がかかる

    でしたね。

    そのうちわたしの自転車の乗り方は、2と4ができていなかったようです。

    2はつま先の向きがおかしかったですし、3はペダルにのせている足の位置が少々土踏まず寄りでした。母趾の付け根を効かすことができない。
    まあ、サドルにまたがっていると股関節が少々開きますから足を平行にしきらないこともありましょうが、それにしたって、左右で比べて、右足が外側に開き過ぎ! そして、こぐ時に最も力が入るはずの母趾でペダルを踏めていなかったです。
    というわけで、ルールにのっとって、しばらく足をできるだけ平行、左右対称にしてみようとするのですが、つま先だけ内転させようとしてもなんだかぎこちない。

    多分右足関節をはじめ、からだに歪みがあるからだと思います。歪みのある状態で無理をして「足は平行!!」と型にはめると、さらに2次的に歪みを押し付けてしまいそう。
    なので、ペダルに母趾球をのせ、「手は小ユビ、足は親ユビ」のルールにのっとって、左右両母趾の付け根を効かせてこいでみました。
    そうすると、右下肢関節の歪みはあれど、あるなりにからだが自然に使えるようになります。
    ひとこぎひとこぎ、スイ〜、スイ〜と前進するのですね。やっぱりちがいますわ。

    臨床では歪みの強いからだの人もたくさんいらっしゃいます。というか、それで苦労しているから操体を受けにいらっしゃるのですよね。「はい!足は平行じゃなきゃだめですよ!」というニュアンスで自然体を教えてやしないか、あらためて気をつけようと思いました。

    ちなみに、自転車の乗り方についての専門書をみると、
    ペダルに足をかける位置は親指の付け根(母指球)で、サドルの位置の設定をする時は、またがってみて、ペダルにかかとをのせ、足を一番のばした状態で膝がぴーんと伸びるところなんだそうです。
    そうすると母指球で最も踏み込んだ時でも膝は軽く曲がっている。
    重心安定でいうところの「膝は緩める」にあたるのではないでしょうか。
    自転車を効率よく(パフォーマンス性を高める)、安全性に乗るときも、からだの使い方は共通です。

    私も今回のことで、般若身経をより理解して自転車の乗り方をマスターできそうです。

    それまで、立位、歩行時など自然体を意識していたつもりでしたが、ウン十年続けたからだの使い方の癖は、こんなところでボロが出てしまうのでした。
    自転車に乗る時の重心安定の法則はどうなんだろう。
    また発見があったら報告します。

    森田珠水

  • 「眠りと枕」続編〜目覚めのからだ〜

    おはようございます。
    東京は適度に曇っていて、湿度は高いけど風があって気持ちのよい朝です。

    うちでは今年はじめたばかりの家庭菜園のゴーヤが1つ目の雌花が咲きまして、(その名も「ほろにがくん」!)
    ぷっくりふくらんできました。うれしい。

    実家でゴーヤに挑戦した時は、生育場所の日当りが悪かったのでピンポン玉位にしか育ちませんでした。確か苗が2本くらいでも、うまく育つと100本以上とれるらしく、お嫁入りさせる(近所に配る)のも一苦労、と聞いていたので、今年は困るくらい育って欲しいと願っております。

    ところで、以前の日記には眠りと枕について書きましたが、実は最近の私は、朝”からだばっきばき〜”なのです。
    今朝は「臨床家がこんなていたらくじゃイカン」とうなりながら首を押さえていました。頸椎が1本の棒になったような痛み。

    原因はわかっているのです。それは、長年使用していたマットレスに固さが一様でなくなってきているからです。
    去年まではせんべい布団とそれにあった枕を使っていて、しかもどんな寝相が悪くても文句を言う人がいないので、(無意識の動きは歪みを正していたのですね)朝からすっと起き上がれたのだと思います。

    それが引っ越して寝具はマットレスになり、腰、肩、頭の沈み具合が変わったものの、寝相が悪いと相方をヒットする可能性があるので、多分気を遣って寝ているのでしょう。

    そこで、今朝はベッドの中で自力自動の操体をすることにしました
    (最近時間に追われていて、からだのセルフケアを忘れていたのがバレてしまいましたね)。

    自力自動の操体は自分自身で動いてみて、からだにききわけて、ききわけた快適感覚を味わうことです。
    つまり、他人の手による介助なしで行う操体ということですね。
    そのポイントは、

    からだのうごきは8通りあるので、あるひとつの動きを選び
    1.手の指先、手首足首など、からだの末端からスタートして、からだの中心である「骨盤」で表現する
    2.できるだけゆっくり、ひとつひとつの動きに気持ちのよさがあるのかないのかをよ〜くききわける
    3.気持ちのよさを聞き分けたら、それは本当にからだが味わってみたいのか更にちょっとききわけて
    (より質の高い快を選んでください。それほどでなければやらなくてもよいです)
    4.「これ!味わいたいっ!」という快適感覚に出会えたら、充分に味わう
    5.気持ちのよさを聞き分けた後は、からだが「表現したい」要求にしたがってどんな格好になっても構いません
    6.充分に味わって気持ちのよさが消えてきたら、きもちのよさが消えた後のからだの要求に従う(自然に脱力することでしょう)
    7.脱力後の爽快感も充分に味わったら、もう一度今の快を味わいたいかをからだに聞き分ける。
    再度味わいたい要求がからだにあれば1に戻って試し、なければ他のうごきで同様に試してみる

    手順を追って書くとなんだかしちめんどくさいようですが、
    一度身についてしまうと、1~5秒ですみます(ほんとです)。
    そのかわり後半は時には10分を超えることもあるでしょうから、朝の支度に遅れないように気をつけてください。

    それと、聞き分けているうちに眠りに入ったり、意識が飛んでしまうと生活時間に差しさわりますから
    (変な次元に飛んでいったまま、という危険はないのでご安心を)、
    からだの要求には反しますが、はじめる前にタイマーをセットする必要があるかもしれません。

    それだけであれだけ痛かった首の痛みがなくなりました。
    しかも意識も「むにゃむにゃ」寝惚けている状態から頭しゃきっとしました。
    頭が朝からしゃっきりしているのは、大変気持ちがよいものです。1日が違いますからね。

    そういえば、さっきまで首の痛みをマットレスのせいにしていましたが、
    首を痛めたからこそ、快適感覚でこんなふうにからだは変わるんだ、という機会を与えてくれたわけですね。
    そう思えば、マットレスにも感謝(ちょっと無理矢理ですか?)。

    自力自動の操体は、患者さんにも是非セルフケアとして身につけて欲しいものです。
    歪みはちいさなうちに、自分で責任がとれるものだということを感じて欲しい、東京操体フォーラム全員、そう願っております。
    (セルフケアでカバーしきれない歪みはプロに任せていただきます)
    しかし、1度や2度教わっただけだと、結構忘れてしまうようですね。もしくは1度の説明ではからだで理解するまでにいかない、ということもありましょう。
    何度も繰り返して自力自動の操体を体験して欲しいですね。各実行委員の施術所でも、フォーラムでも構いませんので、
    どうぞ直接手を取って、取られて体験しにきてください。
    一生の宝になりますよ〜。

    さてさて、洗濯物も干したし、元気に仕事にいってきます。
    今日も1日のび〜のび、と!

    森田珠水

  • 歩き続けること

    こんばんは。
    三浦先生からバトンを引き継ぎました。森田です。
    一週間、おつきあいよろしくお願いいたします。

    東京はサルスベリが咲き始めました。
    橋本先生のお墓にもあったと知ってからは、私にとってより特別な木になっています。

    しかし、今回も三浦先生のブログは濃かったです。
    先生が24時間操体に心血を注いでいる中で、気づいたことをこんなリアルタイムに書かれていて、
    操体を学んでいる方が読んだら度肝を抜かれることでしょう。
    先生の周囲にいる実行委員が、常に先生の気づきと問いかけに驚いているのですけどね。

    そして、昨日は月に一度の実行委員の勉強会でした。
    (6月21日の畠山先生の日記の「そういえば実行委員って何しているの?」にあります
    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20090621)。

    今回の先生のブログの内容を更につっこんで教えてくださいました。惜しげもなく、です。
    まさに操体最前線、(サーフィン未経験者ですけど)イメージとしては大波の頂点に乗っている感じでしょうか…。
    もちろん、「惜しげもなく」といっても、各人の「自分で頭を豆腐の角にぶつけて理解する」余裕を残してくださいます。
    それは、自らがプロセスを経て理解ことが大事だからです。
    話を聞いて頭での理解することと、腹に落ちる理解をすることは全く違うのですね。

    自分で追求し続けるためのヒントはちゃんと下さり、一人一人にあわせて「そう、それでいいんだよ」
    そういう教え方をしてくださっています。

    「感じて、求め続けて、学び続ければできるようになるから」
    「やり方はちゃんと教えることが出来る」
    「できないことは話さない」
    「妥協したらそれまで」
    というような、愛のこもった叱咤激励に支えられて、今があると思います。

    一人で臨床をしていると、どんな人でも行き詰まりや不安があると思うのです。
    うまくいっているときでも、いや、いっているときこそ「このやり方でいいのだな」が妥協につながってしまうこともあると気づきました。
    自分が妥協をしていることに気づかなくても、相手のからだは厳しく反応しますから。
    自分がどういう状況でいるのか常にわかっていないといけない。
    臨床は精神修養、ですね…。ふう。

    私はほっておくといくらでも「ぼ〜」っと出来てしまう人間なので(自慢になりませんが…)、
    現在の、家事と仕事と勉強に急かされている状態がいいのかもしれません。
    逆にそのうちの何かをやめると、知らぬ間に時が経っていくのが怖いです。
    そして学びを止めると、「止まる」のじゃなくて後退するような気もします。
    ーまあ、そんな強迫観念で臨床をしているわけではないのですが(汗)。

    昨日も勉強会に出かけて、
    三浦先生の我々を見守りつつ走り続けている姿を目の当たりにし、
    お話の理解の補足に、上手に畠山先生が合いの手を入れてくださったり、
    各実行委員の鋭い気づきの意見を聞いているからこそ、
    私も歩き続けられているのだなと思います。

    先日、近所の商店街でツバメの巣を見つけました。
    マンションの住人にも大事にされているらしく、4羽のヒナは元気に成長しています。

    いつもはほのぼの成長具合を見守っていいた私でしたが、
    今日は「お前らも強く生きろよ!」などと、ちょっと親近感がわいた気持ちで
    声をかけました。 

    森田

  • 「稲翠先生」

    おはようございます。土曜の朝を迎えました。アッと言う間の一週間、ブログも今日で最終回です。お世話になりました。昨夕、最新の出版情報が飛び込んできました。皮膚皮部の情報です。皮膚の新書は入手しましたが、皮部はこれから発注の予定です。私たちが取り組んでいる皮膚の診断、臨床に何かヒントになるのではと期待しています。僕の方も、「要妙パート2」のゲラが少しづつ手元に送られ、いよいよ校正の段階に入っています。出版元に原稿を提出して一年余り、その間、皮膚へのアプローチも少しづつ内容を満たし、新たな問いかけや気づきが掘りおこされ、その追加の原稿も書き添えながら、より内容の充実をはかっています。ブログの最終回は、「稲翠先生」と題して最終回を締めくくりたいと思います。

    南画の稲翠(とうすい)先生、南画も水墨画も見境いのない私は、かなり失礼な対応をして来たようだ。私自身学生の頃から美術部に席をおいて油絵を描いていた時があった−特に中国の霊山秘境を描く水墨画には興味があった。ただ僕の興味はその美だけであり、歴史とか、水墨画そのものを追求するものではない。私は1973年の冬、下北沢の書店で現代日本美術全集全18巻が目にとまり。どうしても欲しくて、ローンを組み全巻を買ってしまった。かなり立派なもので、一巻でもかなり高価だった。かなりの重量で、全巻一度に持ち上げることなどできない。この美術全集は一巻の富岡鉄斎に始まり、第二巻が横山大観と続き、十八巻が萬鉄五郎、熊谷守一で終わる。私は特に富岡鉄斎の淡彩画に心を打たれ、よく鉄斎の全集に見入っていた。鉄斎の作品は、水墨画でもなく、淡彩画というらしい。南画にも似ている。色彩が入り、書体が入る。圧巻は寒霞渓図(かんかけいず)、富士遠望図(ふじえんぼうず)、百衣観音図(ひゃくえかんのんず)、普陀落山観世菩薩像図(ふだらくさんかんぜぼさつぞうず)などは心にのこり打たれる作品であった。

    鉄斎は天保七年(1837年)に生まれ、1924年89歳の生涯をとじる。私が稲翠先生の作品にひかれるのは、鉄斎の影響なのだろうかと思う。

    私の手元に、中国の秘境・霊山を描いた淡彩画とも南画とも私には判断つかぬ、巻物がある。額に納めようとするならばゆうに200号以上の大作である。何故そんなものが手元にあるのか、話せば長くなるのでやめるが、それだけ私が魅了されているからであろう。
    南画に興味があるが、先生の全身全霊で飛び込んでいる厳しさを感じとれば、心無くしては土足で踏み込む無礼さに等しい。私が稲翠先生と向かい合っている時は、息をとぎすまして神経を集中しないと先生の話の中に入っていけないのだ。真刀で向かい合い、武士であれば動いたら即切られるほどの霊線を感じる、南画そのものが稲翠、そのもの、私から両腕を切り落とされようが、両足をもがれようが、それでも耳穴を使ってでも鼻穴を使ってでも「南画の稲翠」をつらぬくのであろう。それがほとばしる稲翠先生の霊線なのだ。血火(ちばな)を散らすような向かい方ではなく向かいあふことで共に響きあえる霊的共感を感じとっているのだ。稲翠先生も私も、そのものを見つづけてきた。南画の最高峰を師にいただき、操体の祖に学びを得てその頂点をみすえられる境にあるそのもの同志が共有できる(響き得る)学び得るところの生命線を感じあっているのだ。5月の連休に稲翠が腰に激痛を覚え寝込んでしまった。私は呼ばれもしないのに自宅に足を運んだ。ただ急場しのぎである。稲翠先生の力になれると思ったからだ。その状況を診て、左目の酷使からくる腰痛だと本人に告げた。左目に何かあるとわかったのは、三茶を出る時すでにわかっていたことなのだ。そしてこの腰痛も今にはじまったことではなく、一度併発してしまうと一ヶ月は寝込んでしまうひどさらしいのだ。しかし今回は三日ほどで再起できたのだ。稲翠先生はシカゴでの講演を間近に控え、体調云々とは言っておれない多忙のさなかであった。六月の期間、週一度私の臨床を受けに三茶に通ってくれた。稲翠先生の右目の視力低下が気になっていたが、のしかし治療の期間に著しく回復してきたのであった。

    本人に聞くまでもなく、私は右目のこともわかっていた。右目の視力の回復も、腰の激痛も、どうすればよいのかわかるから、自宅まで押しかける。稲翠先生も三浦にかかればこの右目も回復することが予測できるから三茶に足をはこんできたのだ。

    診させてくれとも先生に頼んだ訳でもない。ただ、わかりあえるというヒビキを共有できるからこそなせることなのだ

    六月のある週に、稲翠先生は「宙」という書体をしたため、私に贈って下さった。宙といわれてみれば宙だが、宙といふ書体には見えない。宙といふより宙といふ創造のアートである。宙という命の細胞、その生命想像のアートである。

    やっとブログが終わりました。一週間のお付き合いありがとう。また21週後にお会いしましょう。森田さんにバトンタッチします。

    ※田中稲翠先生は、2009年、秋の東京操体フォーラムにて講義をしていただく予定です(畠山裕美)

    水墨画家イスラエルを行く―それでも好きさ バラガン王国

    水墨画家イスラエルを行く―それでも好きさ バラガン王国

  • 「診断を超えた新たな診断」

    おはよう。皆さん。午前中四時三十分です。この朝の時間帯でも、かなり蒸し暑いですね。風がある分助かります。
    草階、どうだ体調は。急に姿をくらましたので、おまえのことだから地球の裏側で、昼寝でもしているのかなと思っていたが、活字に目を通す位はからだにさわらぬか、君の復活を願い心をこめて、ブログにかたりかけています。水、木と長いブログに皆さんお付き合い頂いて感謝です。少しは暑さを忘れて気分を変えていただけましたか。書くことにおいては全く苦にならないし、かなり楽しく集中できるのですが、この原稿を打ち込んでくれている畠山女史には頭が上がらない、あと二日よろしくお願いします。
    今日の内容は「診断を超える新たな診断」を題して書いてみます。ところで昨夕上島珈琲のテラスでウトウト仮眠をとっていて、ふと気づいたのだが、点の渦状波の最中、操者側が感じて見ている色光現象について少し話してみたい。
    ウトウトと仮眠しているにあると眼中に色を感じ見せられることがあるけど、臨床での色光現象とは、何か違うなと気づいたのだ。何が違うのかと云うと、テラスで感じて見ている色は流動的変化がなく、そうだな、複写したカラーコピーの色だけが写され残っている、そんな感じなのである。つまり、眼中に写し出されている色彩に動きの変化、形の変化、光の変化が無ということなのだ。何故、臨床中において、それらの変化がおこるのか、ということに注目してみたのである。その変化には、温感や熱感覚を伴う体液、リンパ液、血液の流れが関与する為に起こる現象なのではないかと、それは患者自身が感じみせられている色光現象も同じである。色光の変化とは、熱感覚をもって循環し、流れている存在があって変化するというのが私の考えなのだが、これは八割方、間違ってはいないだろう。なぜ、色を識別し、彩色の変化を与え、形を変え、流動しては消え、又再度くり返し点滅して消えていくのか、更に味わっている快感度が増すにつれて、色光がより明るくあでやかに写し出されてくるのか、その謎の一端が少しづつ解けてきたように思う。この快感度が質的要因を考えると、血液、体液、リンパ液の他にホルモンの分泌、働きかけがあることも考えられるのではないか。たとえば、セロトニンドーパミン、ノル・アドレナリン、アドレナリン・ATCH、ベータエンドルフィンなどである。この中で特に快感度の質と関与していると思われるのが、セロトニン、ドーパ−・ATCH、ベータエンドルフィンと、それらの快楽、快感神経と、脳の各中枢であろう情報伝達を司るこれらの神経と連結、関与しているのが、全身に張り巡らされている自律神経であり、この自律神経とキャッチングボールしているのが皮膚である。又その皮膚も、皮膚独自で快感物質を合成することがわかってきている。皮膚はからだのあらゆる情報にアンテナをはっている、その細胞にはケラチナ細胞、この細胞を無数の毛細血管や無数の束をなす自由神経終末が存在する。この自由神経終末に関しては、面の渦状波及び点の渦状波においても皮膚接触としての皮膚関与であるから交感神経に作用し、興奮をもたらすものではなく、この二通りの皮膚接触においては、副交感神経に作用してくるのではないか。副交感神経が作用することにおいては、脳がアルファ波のくつろぎを得る。血液は筋肉よりも皮膚により流れ、熱感覚としての原始的体性的また、働きを伴ってくる。その際、錐体外路系にスイッチが入り、不随意筋が刺激される。その際、ホルモンの分泌において、肉体的ストレスに関与するATCHの分泌と、精神的ストレスに関与しているベータ・エンドルフィンの分泌を促す。
    点の渦状波でみられる「意識飛びの現象」はまさにそれである。からだは眠り脳は覚醒している現象が意識飛びその眠りの現象である。
     横森、どんなもんだろうな。横森はどうとらえる。おおおそ昨日私の脳裏に浮かんできたことを急ぎ文章にしてみたのだが、読んでみて、補足、補充すべき点があるはずなので、その気づきがあれば教えをこいたい。よろしくお願いします。

    この半年、また急激に初診の患者が増え続けている。その理由の一つは、診立てが画期的に向上し、納得のいく臨床結果が引き出せているからだ。確実に患者の欲求を満たせているから、患者が患者を呼び込んでくる相乗効果が明らかに波動してきているのである・・。
    その診立てとは、例えばFAXや電話で治療の依頼を受けたとしよう。私はその時点ですでに、この患者のからだのどこを診なければならないのか、どこを診れば症状が改善されて良くなるのか、その的確な診断がとおせるのである。診断がつくということは、つまり、診方、治り方がわかってしまうので、おのずと驚くような結果を引き出してしまう。
    具体的に話すと、個々それぞれに患者が訴える症状や疾患が異なるにしても、疾患には必ずその火元になるボディーの歪みが存在している。その存在する歪みの中で、からだのどこの歪みが直接その症状疾患に関与しているのか、その火種になっている箇所も私にはわかるのだ。もちろんその火元や火種となる歪みの存在は患者が訴えている症状疾患のその部位でないことは明白である。その多くはまさか、と思うような部位に存在している。そのことは、橋本先生の言われているように、操体法には○○疾患、△△病を治すという発想はない、ということと一致する。症状疾患別にとらえて診てもわかるものじゃないということである。○○病、○○疾患といわれる病態変化とは警告反応としてのサインである。このサインを元(基)からキャッチしている火元、火種がボディーの歪みなのだ。だからこそ、ボディーの歪みの診立てが重要になってくる。臨床上、その着眼とからだのどこの歪みが、直接、その病態変化に関与しているのかという診立てそのものが大変重要になってくる。
    生前、橋本先生は話しの中で、「操体法には○○、△△とかの症状や疾患を治すという発想はないのだよ、操体法は生活の間違いからおこるからだの歪みを正し、健康の元を正すことにある」のだと。臨床の基にあるものは、症状、疾患そのものの現象ではなく、火元と火種にある。そのボディーの歪みへの着目、着眼は不可欠なので、火元がボディーの歪みとすれば、火種とはその症状、疾患に直接関与している、からだのある部位の歪みの存在ということになる。その判断が備わってこそ、確たる診断、診療の本筋なのだ。火種がわかれば無駄なく著しく効率的に流れ、著しい結果を引き出せるのだ。この診立ては、その症状によってはパーフェクトに近い確率で診断でき、結果が出せる。その火種の所在は、数年前の私であったら間違いなくハズしていただろうと思われる。からだの部位に存在する。本当にまさかこんな箇所がと思える部位に火種が存在しているのだ。たとえばそれが足底の一点であったり、人差し指の第二関節の内側であったり、下唇の正中の一点であったり、また、手首拇指球の一点が火種になっていたりするのだ。

    私のその診立てはかなり適確である。背骨の配列変位と、その周辺の軟部組織上の変化すら、胸椎の六番、その棘突起上の異常変化にしても、右背部のそこから約5センチ外側のその一点、とまで言い当てる。第三者に触診させながら、その周辺のここだという、その最大圧痛点のその一点まで指示、指導することができる。何をもってそのような診立てができるのか。その内その秘訣を同志諸君に公開するものである。私は、私の指導方針として、私にしかできない事は第三者に決して話さない。話して理解できることしか口にしない。ただ、公開するに当たっては、ある程度の基準を満たすところまで学んでもらうことが必要である。もったいぶって公表しないのではなく、意味がわからづ混乱させてしまうことがあるからだ。
    私の診断と、それに伴う臨床的効果は患者自身にも十分納得しうるものである。医者に訴えてもわかってくれない、からだの状態を、患者本人以上にわかって説明するものだから、本人がビックリしてしまう。「やっと私の言っていることを理解してくれる先生と巡り会えた」と、涙を流さんばかりに感動してくれる患者も少なくない。患者本人が納得できる診立てと、臨床を確立していくことも大切なことの一つであるが、それは、からだの要求に適うことが一番大切なことに変わりはない。私流に言えば、からだが歓ぶように、命の歓びに適するようにである。
    診断上、欠かすことの出来ない問診、視診、触診、そして動診であるが、その診断の前段階で、適確な診立てができてしまうその方法とは、種を明かせば、皮膚への接触と同様、全くシンプルな問いかけで診立てがつくことなのである。
    まさか、そんなことなんだ、と思うに違いない。余りにシンプルな問いかけの有様に臨床家はそれを見逃し、複雑な手段に手を染め、迷走してしまう。皮膚にかんしてもアカとなって皮脱する角層には診断と臨床の価値がないものとし、見逃してしまってきている。それが、自分の治療の壁になっていることも知らずにである。本来、問診においても、患者に聞かづとも、おおよそ検討がついていてわかっていての問診であり、視診も視診する前の前段階で形態上の歪みがわかっていて、それを実際、視診をとおし確認することが本来の視診であり、触診も触れてみる以前に、その部位に形態上の異常があるとわかっていて、その部位を確認するのが本来の触診なのだ。
    又、動診においても動診の前段階でその動きが不快なのか、又どの動きに快適感覚がききわけられるのかがわかっていて、分析することが本来望まれるのである。それは、そのすべてが一流、本物ということになる。動診分析してみなければ、わからないでは、本来まづいのだ。でも、それが普通なのだから、私の話していることは例外なのかもしれない。しかし、そうしたことが誰にでもできる、可能になる、ことなのである。今までの視診をこえていく、触診をこえていく、動診をこえていく診立てが古来数多くの先人達にもわかっていた。しかし他人に説明がつかない、その弟子に伝えようがなかったことであったのかも知れない。
    しかし、その診断の可能な道理がわかった。きっちり説明もできる。この診立てが出来てくると、全てが見通せる、ことになる。その見通し方も、個人個人それぞれに創造しうるものになる。

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