投稿者: karib_sotai

  • 女性のからだ1

    こんばんは、皆さん今日はどんな一日でしたか?ブログ3日目、今日も富士山の麓、富士宮から小代田がお届けします。
    男女の営みにおいて女性そして男性の性が語られることは多くあるけれど、男性の皆さんは女性のからだ(構造や機能)についてご存じだろうか。「そんなの知らないから良いのではないか、なんて無粋なことを…」なんて男性陣の声も聞こえてきそうだけれど、これって大切なことではないかと思う。「知っているよ、女性は男性と違って子供を産むんでしょう?」。そう、女性は男性と違って子供を宿せるけれど、そこには男性陣が思っている以上に複雑なからだの機能がある。それは子供を生んでいる人も私のように子供を持っていない人も同じ。女性には女性だけの生の営みがある。女性のからだには実にたくさんの驚くべき営みや仕組みがあるのだけれど、今日はその一つをお話させて頂けたらと思う。
    女性はお母さんのお腹の中にいる時から、そのからだに卵子の大もととなる原始卵胞というものを持っている、まだ胎児なのに。そして命のもとである多くの卵子をそのからだに持って生まれてきます。そして生まれた時にもうその卵子が使える年齢が大まかに決まっています。それはその卵子には数の限りと使える期限があるからです。女性は寿命という命の時間とは別にからだの中でもう一つの命の時を持って生まれてきます。
    思春期に入ると、女性は大人なるためのからだの成長とは別に、からだの中では子供を宿すことができるからだへの準備が始まります。そしてからだの準備が出来てくるころ、女性は初潮を迎えます。きっとこの頃、女の子は好きだった男の子を心だけでなくからだで感じるようになるのではないでしょうか。
    そして成人した女性は、妊娠適齢期というものに入ります。からだも十分に出来あがり、からだと心が安心して妊娠できる時期に入るのです。
    妊娠適齢期と書きましたが、女性は月経がある間は妊娠できると思っている方が多いのではないかと思います。けれど月経があるからいつもでも子供が出来るという訳ではありません。卵子にも命の期限があるのです。そう、これが女性が持つもう一つの命の期限なんです。不思議なことなのですが、こんなに平均寿命が延びた今も、このからだの時間は太古の昔から変わってないそうです。
    そして子を宿すことができる年齢を過ぎると、女性は新たなからだと共に人生を歩みだします。なかには女性ホルモンという大きな盾を失い、からだの調子を崩したり病気が出てきたりする人もいます。しかしそれを過ぎると正に生まれ変わったと言って良いほど、お元気になられる方も多くいます。それはまるで生まれた時に否応なしに与えられた一つ役目を終えたように、はたまた長い間来ていた思い鎧をぬいだように。きっと女性のセックスにおける性もここからまた形を変えていくのでしょう。
    人と言う同じ人間であるのに、女性は無期限に命のもとを生みだす男性とは違う限られた一つの時間を持っています。そして望もうと望まないと、女性のからだはこの命の営みに合わせて体の機能が組まれています。それは壮大過ぎて一日では書ききれないので今日はこの辺りで終わりにしようと思うのだけど、男性にも寿命とは違う、もう一つの命の時間が女性にはあるということを知っていて頂けたらと思う。
    こうして女性のからだについて偉そうに書いている私だけれど、私も恥ずかしならが女性である自分のからだについて知らなかった一人である(そして知らない間に妊娠適齢期の期限が近付きつつある…)。
    だけど昔の人はこんなからだの仕組みや移り変わりを知らなくても自然にその道を通っていたんだと思う。きっと私のように本で読まなくても知っていたんだろう。自分のからだを、そして命の季節の移り変わりを。
    操体は自分のからだを知る大きなてだてにもなる。自分のからだを感じて欲しい、自分が持つ性の営みは自分でしか分からないのだから。操体は年齢も性別も問わない。大人だけでなく、未来の子供達に自分のからだと向き合うてだてを教えてあげて欲しい。てだてだけで良い、後はからだが教えてくれるから。そして自分のからだを知るように、相手のからだを知って欲しい。形あるからだはまた一つの真理だから。太古から変わらぬ女性のもう一つの命の時間を知り、理解し、寄り添い、迷っている時は導いてあげて欲しい。愛する人、愛する子供、そして愛する友人を。
    さて、今日はそろそろ失礼しようと思います。今日も一日お疲れ様でした。
    明日も元気に新しい命が生まれてきますように、そして未来を担う子供たちが元気でありますように。

    小代田綾

  • 感謝

    こんばんは、小代田です。皆さん今日はどんな一日でしたか?
    さて、昨日は私に新たに生まれた新しい性についてお話致しましたが、今日はその続きをお話しようと思います。
    操体の講習会の中で自分の無意識の動きに次第に癒され、くつろぎを感じた私ですが、初めはその動きを不思議な思いで感じていました。それはちょっと違和感のような。それは昨日もお話しましたが、自分の中に今までない感覚であり、動きだったからです。
    動きに癒されるというのも不思議な感覚ですが、私は生まれて初めて「女の子(女性)らしい」という言葉を感覚として自分のからだで感じた。
    「女の子らしい」という言葉。さて昔の私が毛嫌いしていたこの言葉ですが、私はあの日からその言葉の響きが嫌いでなくなりました。その日渦状波が導いた私の意識の変化は大きく、そしてその後もジワジワと効いています。
    けれどその後、私はちょっと慌てて、ちょっと困りました。だって今まで自分が女性であるという事にきちんと向き合っていなかったという事に気づいてしまったからです。
    では女性であるって何?女性らしいって?そう聞かれると言葉にするのは今の私には難しのですが、ただ私のからだは知っていたのでしょう。
    私の無意識が教えてくれたこと、それは私は女性の性質を持っているのだということ。そしてそれを心地良く感じるのだということ。それは私の心に自己回帰の安心と喜びを教えてくれました。
    「女性らしい」というその言葉は本来優しさを表していたのだと思う。だけど時代の変化と共にネガティブな性質も持つようになってしまった。特に私達の世代は「女性らしい」や「可愛らしい」は「ブリッコ」という言葉と共に嫌われ(嫌っていたのは大部分が女性だけれど)、良い大人になった今も私の仲間には暗黙の了解でそれが続いている。女子は「サバサバして格好良い」方が良いのだ。そして私の母も「女性らしい」ものを毛嫌いする一人である。学生運動の時代を過ごし、まさしく女戦士のように働く女性の一時代を築いてきた母は女性を強調するようなスタイルは嫌いだし(化粧品や宝石は除くけど)、男性に頼るのも嫌い、頼るタイプの女性も大っ嫌い。現役を退き、少し変わってきたけれど、今でも可憐でキレイな女優さんを見ると必ずテレビに向かって突っ込んでいる。
    そんな環境で育った私はもしかして自分の性に対して少し罪悪感を感じていたのかもしれない。女性らしい=弱い者、なんて法則が自分の中に存在していたのかも。
    小さかった頃、私は強くなって弟や母、学校などで苛められている子達を守りたかった。弱い者いじめは大っ嫌い、困っている人たちを助けたいと思った。それには強くなければ駄目だと思っていた。もっと強く、もっと強く。そして力の象徴は男性だった。なぜなら力で男性には勝てないから。私は守りたかったのだ、自分の大切な者たちを。
    少し話がそれてしまったけど、渦状波を初めて受けたあの日、私は自分のからだによって解放された。私は強くなくても良いのだ。優しくあっても良いのだ、それは弱さではなく、強さなのだ。私は今力ではない強さを学び始めている。それは男性の力とは明らかに違うものではあるが、女性が託されたとても強いものであると感じている。そう、私は今それを学び始めているのだと思う。
    操体を通してからだが教えてくれたこと、それに背くことは今のわたしにとっては快ではないのである。
    以上、今日もあちらこちら話が飛びましたがこれで今日は終わりにしたいと思います。あらためて女性として生を受けたことに感謝している。
    皆さん今日もお付き合い頂きありがとうございました。明日も皆さんにとって豊かな日でありますように。

    小代田綾

  • 新しく生まれた性

    初めに、東北地方太平洋沖地震で犠牲になられた多くの方にお悔やみを申し上げるととともに、被災され悲しみ続くなか、今を懸命に生きていらっしゃる皆さまに心からお見舞い申し上げます。遠く離れた静岡の土地におりますが、今なおこの心は皆さまと共に。

    日下実行委員からバトンタッチ、静岡の小代田です。日下実行委員のブログ、いつもながら深いブログでしたが、今回のブログには日下実行委員の愛への熱いメッセージを感じたのは私だけでしょうか。今日から、小代田です。またがらりとカラーが変わりますがどうぞよろしくお願い致します。
    今回の初日は、自分の中に生まれた新たな性について書いてみようと思います。
    それは操体の講習会の中で初めて渦状波を受けた時、生まれました。渦状波を受けた私のからだは、その問いかけに答え始めました。自分のからだは次々と手を動かし足を動かし、からだを動かしていきました。自分の意識とはまったく関係なく動く自分のからだが面白く不思議で、ただ素直にその反応を楽しんでいました。
    無意識のその動きは段々自分の中で秩序を生み、舞を舞っているような錯覚を私に起こさせた。そしてひらひらと嬉しそうにからだは動き続けました。しかしなぜかからだとは反対に心はくつろぎ始め、とても穏やかな静かな感覚の中、とても満たされた気持ちになったことを覚えています。
    無意識の動きにからだをゆだねていた私は、自分が実際どんな動きをしていたのか分からないけれど、私が無意識の動きから感じた「動きの感覚」は柔らかく、丸く、優しく、そしてたおやかだった。指先まで張りめぐらされた神経は手先の優しい動きを呼び、そして動くからだは自分の主張(我)はなく、相手に合わせ、その形を変え、そして包み込むような柔らかい感覚を私に与えた。その女性的な質を帯びた動きは私の心を穏やかに満たしていった。自分の動きに癒されていた。なんだか無条件に幸せだった。
    前置きが長くなってしまったが、それが私が自分の性を初めて意識した時だった。性を今頃意識するというのは遅いのでないか?という声が聞こえてきそうだけれど、私が感じたのは性別の性、女性としての自分。
    もちろん私は女の子として生まれ、女性として生きてきた。でも小さい時から男勝りで、小さい時は本当に男に生まれれば良かったと思っていた。そしてどこかでその思いが自分の中で流れ続けていた気がする。でも初めて受けた渦状波、そして無意識が導い動きは自分が知らずに遠ざけていた(意識的に避けていたのかもしれない)女性的な質を感じさせる動きであった。まるで今まで封印を解かれたようなその喜びに満ちた舞、そして動きに、私は知らずに心身とも満たされていた。やっと自分に戻れた。そんな安心感と嬉しさを感じた。
    皆さんは自分の性と向き合ったことがあるだろうか?パートナーの性に向き合ったことがあるだろうか?
    今週は今改めて自分の性と向かい合うことになった小代田が富士山の麓、富士宮から一週間ブログをお届けいたします。どうぞよろしくお願い致します。

    小代田綾

  • 感じる(最終日)

    昨日の続き
    操体の動診というのは一種の浄化である。それも静かな浄化作用といえるものだ。長年にわたってからだの中に溜まってきた緊張がすべて発散されなければならない。そして可能な限りの自然な動きができるように、からだは軽く、楽にならなければならない。そうしたとき、操体とは対照的ともいえるイスラム密教の旋回舞踏と同じような意識の動きが動診において可能となる。からだのエネルギーには「静」と「動」があり、エネルギーそのものはどちらも同じ活力に満ちている。静なるエネルギーである動診では、連動という全一的な動きから、やがて自分のコントロールを失う瞬間がやってくる。その瞬間こそが必要なのだ。決して「我」がコントロールしてはならない。なぜなら、我のコントロールこそが障壁であるからだ。我自身が障壁そのものなのである。我のコントロール機能、つまり我々の頭が障壁になっているのだ。だから操体臨床では快感覚を媒介に使って、その快でからだのつくりを操らせる。それはからだの無意識の動きになり、さらに快に従いつづけるよう促すのである。もちろん、最初は「我」が動き始めなければならない。だが、やがて我が無意識の動きに乗っ取られる瞬間がやってくる。そして、コントロールがきかなくなったと感じてくる。
    んむ・・・。 この流れ、似ていると思わないだろうか。そう、SEXにおけるオーガズムこそが元祖なのである。しかし、このオーガズム、夫婦の間にはほとんど起こらない。なぜなら夫婦というのは社会的な現象であり、人間関係ではないからだ。ひとつの制度として、強制された社会現象なのだ。夫婦の間には、お互いが固定的な役割を演ずることが法的に強制される。しかし、自然な性エネルギーは、妻や夫以外の異性を求めることになる。いわゆる不倫というのはオーガズムに導かれた性的自己革命なのだ。
    オーガズムは二人の恋人でなければ起こらない。もちろん、夫婦であって恋人同士であることは可能である。が、そんなことはごく稀にしか起こらない。恋人たちの間ではオーガズムというものが何か達するに値するものだということに、まず、女性が気づく。そして女性がオーガズムを持てないと、男性もまた本当にそれを持つことができない。オーガズムとは二人の出会いであり、お互いの中に溶け合ったとき、それを持つことができる。オーガズムは一人が持てて、もう一人が持てないかも知れないようなものではない。そんなことはあり得ない。性行為での放出はあるだろうし、射精は可能だ! 慰めも可能だ! しかし、それらはオーガズムではない。オーガズムとは、からだが、もう物質としては感じられないような状態のことをいい、電気エネルギーのように振動し、深く波打つ現象なのだ。
    イスラムスーフィのダービッシュダンスでもそれと同じことが起こる、その同じ感覚を味わうことができる。しかし、スーフィではとても激しい動きが要求される。一方、動診においては媒介者の誘導のもと、静なる動きを通してそれが可能なのである。そのとき、我は淵に立っている。我々は再びからだに帰ってきた。意識はまわり中に開いている。あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない。あらゆる感覚に対して開いている。
    意識の中には一切の感覚が含まれる。心とはひとつの流体、感覚の流れである。本来、意識と無意識のあいだには境界線など存在しない。これらは二つの別々の心ではない。「意識する心」とは「頭」に依存し、「無意識の心」とは打ち捨てられ、黙殺され、閉ざされてきた部分を指し、からだに依存している。これが分裂をつくり、亀裂を生じさせる。いつも内部に葛藤があるのはそのためだ。無意識の部分は使われざる潜在性、用いられざる可能性、経験されざる冒険として常にからだに存在している。だが、この潜在性、この無意識が花開くことを許されて、はじめて我々は実存の歓びを感じることができる。生の至福を、エクスタシーを感じることができる。操体はこの感じることを旗じるしとして日進月歩の道を歩む。
    一週間、「感じる」から「性」へのアプローチを試みてきたが、何とか関連付けできたように思う。こじつけだとしか思えないようなところもあったかも知れないが、そこはご容赦願いたい。
    明日からは静岡の小代田実行委員の担当です。よろしくおねがいします。

    日下和夫

  • 感じる(6日目)

    昨日の続き
    自分のからだとの深い沈黙の感受性から愛が生まれたら、そして誰かを好きになったら、もし誰かを本当に愛していたら、我々はふりをして見せかける必要はなくなる。それが真実だったらあるがままの自分になれる。そして仮面を脱いでくつろぐことができる。逆に愛していないときには、仮面をかぶる必要がある。そこに他人がいるから、たえず緊張している。我々は見せかけなければならないので、いつも警戒していなければならない。攻撃的であるか、防衛的であるか、そのいずれかでなければならない。それは闘いであり、戦闘なのだ。これではくつろげるはずがない。愛の幸福はくつろぎの至福でもある。誰かを愛しているとき、我々はくつろぎを感じ、ありのままの自分でいられる。「あるがまま」という意味において裸になれる。自分のことで気をもむ必要などないし、ふりを見せかける必要もない。我々は開いていて、殻が壊れやすくなっている。そのような開放的になるということでくつろぎ安らいでいることができる。
    もし、そのように愛することができたら、それと同じことが自分のからだにも起こる。我々はくつろぎ、自分のからだを大事にする。自分自身のからだと恋に落ちることが起こっても不思議はない。それはナルシスト的なことでもない。それこそ精神性への第一歩なのである。操体の動きがからだから始まるのはそのためだ。それも末端から始まる。胴体から動くのは重すぎる、四肢の局所でもまだ重く感じる。四肢末端から動きを始めることによって、心が拡がり、意識が拡がる。全身が打ち震え、活気づいた存在になる。今や全身への連動がより楽になる。今ではからだ全体が感覚に導かれたひとつの動きになっている。考えることが邪魔することはより少なくなる。我々は再び生き生きとなる。もう頭の条件づけはそこにはない。からだは頭ほど条件づけられてはいない。頭は条件づけられているが、からだは、まだ自然の一部なのである。
    しかし、宗教はすべてからだに反対している。からだとともにあっては、感覚とともにあっては、頭やその条件づけは失われるからだ。それだから、宗教はSEXを恐れてきたのである。SEXにあっては、条件づけしようとする頭が失われる。そして我々はふたたび大きい生命圏の一部となることができ、その生命圏と一体になれる。だから頭は常にSEXに反対する。SEXが日常生活において頭に反対する唯一のものだからだ。我々はすべてのものをコントロールしてきたが、ひとつだけコントロールされずじまいで残っているものがある。それがSEXなのだ。だからこそ頭はSEXに強く反対する。それがからだと頭をつなぐ唯一残された鎖であるからだ。もしSEXが完全に否定されたら、我々は全面的に頭脳的になり、まったく肉体ではなくなってしまう。SEXに対する恐怖は基本的に肉体に対する恐怖でもある。というのも、SEXにあっては全身が生き生きとなるからだ。SEXがからだを乗っ取るが早いか、頭はうしろへと押しやられてしまう。もう、頭はそこにない。呼吸がそれに取って代わるのだ。呼吸は激しくなり、生気にあふれてくる。呼吸に伴って自分のからだ全体を隅々まで感じはじめるようになる。
    しかし、ここで性行為をひとつの放出行為としてはならない。SEXに入る時、急いではならない。男性はひとつの放出行為を欲しており、溢れて流れ出るエネルギーが放出されると、気が楽になる。この気楽になることはひとつの弱さであり、溢れるエネルギーは緊張、興奮状態を創っている。それゆえ急いで何かをしなければと感じてしまう。そのエネルギーが放出されると弱さを感じてしまい、この弱さを弛緩状態だととる可能性がある。興奮はもうなく、溢れ出るエネルギーがもうないのでリラックスできるのは確かなことではある。だが、このリラックスというのはネガティヴなリラックス状態だ。SEXを急いではいけないというのも、性行為には最初と最後の二つの部分があり、最初の状態のままでいなければならないからである。最初の部分は、よりリラックスし、暖かい。その暖かさの中にとどまらなければならない、急いで最後へと移動してはいけない。最後のことは完全に忘れてしまうことが必要だ。射精を追求するのではなく、それを完全に忘れなければならない。
    性行為をどこか他所へ行く手段にしては駄目だ。それはそれ自身で目的なのである。二つのからだ、二つの魂の出会いを楽しみ、互いに没入し、互いに溶け合うことが求められる。が、生理的に、女性はムードを欲し、男性はムードを欲しない。だが、愛があれば女性はムードがなくてもいけるように敏感性が作られ、男性は忍耐力ができてムードが作れるようになる。暖かさとは愛の存在、その愛で二人が互いに溶け合うための状況を作りだすことができる。もし、愛がなければ、性行為はひとつのせわしい行為になってしまう。接吻は互いのバイ菌の移し合いにしかならない。愛がある性行為には、からだの諸感覚は打ち震え、激しく振動し、叫びはじめることもある。そして、からだが激しく動くことを許されると、性行為はからだ全体に拡がってゆくことができる。こうして自分がからだに占領されてしまうと、自身でそれをコントロールできなくなってしまう。我々はそれを避けるためにその動きを抑制してしまい、これが問題を引き起こすことになる。
    特に女性達が打ち震えることのすべてを抑圧している。女性はただの受け身のパートナーでしかない。なぜ、男達は女達をそんな風に抑えつけているのか? そこには恐怖がある。なぜなら、ひとたび女性の肉体がコントロールする力を持つと、一人の男が彼女を満足させることは非常に難しくなる。なぜなら、女性は連鎖的オーガズムを持ち、男は持つことができないからだ。男はたった一つのオーガズムしか持ち得ないが、女性は連鎖的オーガズムを持ち得る。どんな女性でも鎖状に最低でも三つのオーガズムを持っているが、男はただの一つだ。そして男のオーガズムによって、女性のオーガズムは刺激されて、より深いオーガズムへの準備をする。そうなると、ことはさらに難しくなる。そのときは、どうしたらよいのか? 彼女は直ちに次の男を必要とする。しかし、社会はグループSEXを禁じている。それはタブーだ。我々はもうすでに一夫一妻制社会を創り出してしまった。まるで、我々男性は女達を抑圧している方がいいと感じているかのようだ。
    不感症の人妻が裏付けているように、性行為において性的な感情をまったく経験しない人間を探し出すことは難しくはない。SEXに意味を与えているものは、状況全体がかもし出した感情なのである。実に全女性の90%がオーガズムというものが何であるかを知らないのである。彼女らは子どもを産むことができる、そして男を満足させることもできる。しかし、自身は決して満足していないのである。
    SEXにおいては、このように「自分」のポジションを頭に置くのか、からだに置いているのか、よくよく注意しなければならない。そして自分が愛とともにからだの中にいることができるなら、我々の意識はからだを超えて拡がってゆくことができるだろう。橋本敬三師が人生においてSEXをテーマにすべきだと提唱されている真意というのはきっと、こんなことを伝えたかったものと思料されるのである。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる(5日目)

    昨日の続き
    肉体的な緊張というものは、宗教が一役を担っている。宗教は半肉体的な姿勢を説いてきた連中によって生まれた。そして緊張も生み出された。特に、西洋の宗教は強硬に、肉体に反対してきたために偽りの分裂、深淵が人間と人間の間につくられた。そうすると、我々の姿勢は全面的に緊張を生み出すものとなる。
    我々はひとつのものをリラックスして食べることさえできない。リラックスして眠ることもできない。からだで行うことはすべて緊張になってしまう。もう今では、肉体は敵になってしまった。しかし、肉体なしでは生きられない。我々は肉体にとどまらなければならない。この敵と一緒に暮さなければならないのだ。そこには間断ない緊張があり、我々は決してリラックスできない。肉体は敵ではないし、どんな意味においても非友好的であることはない。我々に対して無関心ですらない。肉体の存在自体が至福なのである。肉体をひとつの贈り物、宇宙からの贈り物として受け取ることが、もしそれができたならば我々は肉体へ帰ることができる。そして肉体を愛し、肉体を感じるだろう、その感じ方は微妙だ。
    自分自身の肉体を感じたことがなければ、他人の肉体を感じることはできない。自分の肉体を愛したことがなければ、他人の肉体を愛することもできない。それはとても無理だ。自分の肉体を大事にしたことがなければ、他人の肉体も大事にできはしない。なのに、我々は自分自身のために自分のからだを大事にすることはなく、自分のからだを愛してもいない。そして自分のからだを愛することができなければ、からだの中に入っていることはできないのである。自分のからだを愛することができれば、そうすれば、我々はいままで感じたこともないようなくつろぎを感じるだろう。
    誰かを愛するとき、パートナーの手を取りたい、時には抱きしめたくもなるだろう。愛していれば声を聴くだけでなく、顔も見たくなるに違いない。電話の声だけでは充分ではない。パートナーを目のあたりにすればより満足できる。パートナーに触れれば、より満ち足りる。より以上に満足するのだ。SEXとはこういった二つのエネルギーの深い出会いだ。手を取り合うだけでなく、お互いの身体を抱き合うだけでなく、お互いのエネルギーの領域にまで浸透していく。愛の中にあってSEXは自然な成り行きなのである。愛はリラックスさせてくれる。愛があれば安らぎがある。もし、誰かを愛したら、その時にはくつろぎが訪れる。我々が誰かとともにいてくつろげたら、それこそが愛の唯一のしるしだ。
    この愛に導かれたSEXは激しい、しかし最もくつろげるものだ。もし、くつろげなかったら愛してなどいないことになる。そこにはいつも他人という敵がいるのだ。ジャンポール・サルトルは言う、「他人とは地獄だ」と。サルトルにとっては、そこには確かに地獄があったに違いない。二人のあいだに愛という感情エネルギーが流れていないとき、相手は地獄になる。そうあって当然だ。しかし、もしその感情エネルギーが流れていたら、相手は天国だ。相手がどちらになるかは、あいだにその感情エネルギーが流れているかどうかにかかっている。それには自分のからだを大事にしなければならない。自分のからだをいたわり、愛に包まれているとき、必ず沈黙がやってくる。そして、言語は失われ、言葉は無意味になる。自分のからだとの深い沈黙が自分とからだを包んでくれるだろう。その沈黙の中で感受性が育まれる。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる(4日目)

    昨日の続き
    頭の理性が緊張という結果を生じ、大勢をしめてくると、神秘的な非理性は復讐に走ることになる。文明先進国は、理性というひとつの中枢を疲労させ過ぎてしまった。そして非理性は報復をしはじめ、秩序全体を混乱に落し入れている。無政府的なもの、無規律なもの、反逆的なもの、非論理的なもの、他にも色々とそういったものが噴出している。それは音楽とか絵画といった芸術の中にも表れている。今、まさに非理性が報復を開始して、既成秩序はその立場を譲りつつある。
    現代抽象絵画の巨匠といわれているサルヴァドール・ダリパブロ・ピカソの絵画はどうであろうか? しばらく眺めていると、気分が悪くなってくる、いや、吐き気さえ、覚えるのではないだろうか。理性は全体性ではない。もし、理性がすべてということになったら、文化全体が緊張してしまう。一人の人間にあてはまる同じ法則は、文化全体、社会全体にもあてはまるのである。これらの法則には、からだを通しての理解が必要だ。その理解によって我々に変化を促しはじめ、その理解そのものが一つの変容となる。からだは「自分」がその中にいないがゆえに緊張してしまった。
    しかし、我々の精神的な存在は決して緊張することはない。だが、精神的な領域に接触することがない。からだとの接触さえ持てないのに、精神性との接触は決してあり得ない。精神性の方が、からだより深い領域だからである。我々は性行為においてパートナーを触れずに触れることができる、それは難しいことではない。もうすでにそれを知っているはずだ。性行為の中で誰かを愛撫するとき、我々はパートナーに触れないでいる、なぜなら、触れるためには「自分」はその手に向かっていかなくてはならない、手に向かって移動しなくてはならない。自分の指に自分の掌そのものに、ちょうど自分の魂が手に行くようにして、なりきってしまわなくてはならない。そのとき初めて、触れることができる。通常、性行為の中には死んだ手がある。それは触れているように見えるが、触れてはいない。我々は本当には触れていないのだ! 我々は誰かに触れることを恐れている。何故なら象徴的に触れることはセクシャルなことになっているからだ。身体には触れることができる、が、その身体の中への移動はSEXの罪悪感が禁止しているのである。しかし、この無感覚こそ醜悪だ。
    自分の外側の境界線との接触すらないとしたら、内なる中枢との接触など到底持てはしない。精神性の領域はいつもくつろいでいる。まさに今この瞬間においてもくつろいでいる。実を言うと、精神性の領域こそ、くつろぎの領域であって緊張など一切ない。それは緊張の理由となるものが精神性の領域では存在できないからだ。我々は精神性の領域なしでは存在できない。しかし、その領域を忘れることはできる。が、その領域がなければ我々は絶対に存在できない。なぜなら、我々がその精神性そのものだからである。その領域は我々の存在であり、純粋な実存なのである。それなのに、からだにも頭にも大変な緊張があるせいで、その精神性に気づいていないのだ。もし肉体の領域や思考での緊張がなかったら、我々はおのずと精神性の至福、安らぎを知ることができる。からだと頭の緊張を解いてはじめて、精神性を深く探ることができ、至福を知ることができる。まずは、からだとの接触をもつことから始めなければならない。からだとの接触には「ただ、感じる」ということが必須条件になる。それには操体の渦状波がとても役立つ。皮膚への接触によってからだに「自分」が戻れるきっかけとなりうる。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる(3日目)

    昨日の続き
    我々の頭というのは緊張で一杯だ。そんな頭など必要とされない、我々が常に混乱を引き起こしているために頭は緊張している。たとえば、SEXのことを考えている人は混乱を生み出している。というのも、SEXはあれこれ考える筋合いのものではないからだ。思考の中枢はそういうことのためにはつくられていない。SEXにはSEXの中枢がある。それなのに我々は頭を使ってSEXの中枢の仕事をしている。SEXにおいては、からだという感覚の中枢へ深く飛び込まなければならない。SEXはひとつの総体的行為である。性交の中では頭から投げ出され、バランスを失ってしまう。それが理由でSEXの恐怖が非常に強くなる。我々は頭と同一化しているが、SEXは頭無しの行為だ。もし、SEXの中で何かの知的プロセスがそこにあるとしたら、そこには真実の性行為はなくなってしまう。そのとき、そこにはオーガズムはなく、性行為そのものが非中心的で知的なものになる。
    現代社会がSEXの押さえ難い欲望、ひどい渇望が蔓延しているのは、社会がよりセクシャルになったからではない。我々自身がSEXを総体的な行為としてエンジョイすることができなくなったからだ。SEXの行為が頭に変換され、思考するようになってしまった。特に男性はSEXに対して考え、読み、ポルノグラフィティーを見て楽しんでいる。そのことを楽しんではいるが、SEXの実際のその瞬間が来ると、突然、興味が無いと感じてしまう。インポテンツになってしまったとさえ感じる。SEXについて考えているときは、活きたエネルギーを感じるのに、実際の行為に移ってゆく時、そこにエネルギーが、その欲望さえも無いと感じる。肉体が死んでしまっていると感じる。男性に何が起こっているというのか? SEXという行為でさえ知的になってしまったのだ。男性はSEXについて考えることはできるが、それをすることができないでいる。
    今までにSEXについて聞いたこと、SEXについて学んだこと、それらについて社会が話していることのすべてを忘れて、SEXの中に移ってゆかなければならない。総体的にSEXの中に巻き込まれなければならない。むしろSEXにとりつかれるのが自然な行為だ。それをコントロールすべきではない、狂ってしまったかのようにその中に移ってゆくべきだ。頭無しの状態というのは狂気に似て見える。SEXでは肉体にならなければならない、動物にならなければならない、なぜなら動物は全体だから。
    恋愛の中にあるときでさえ、SEXについて考えてしまう。それを決して感じはしない。感性の中枢が働いていないということだ。またしても文明人であればあるほど、このように知性の中枢はますます過労になる。ほかの中枢は働いていない、いや、機能していないのである。それもまた緊張を生み出すことになる。何故なら、本来働くべき中枢が、働くべき特定のエネルギーのある中枢が何もすることなく放っておかれているからだ。その中枢は、その使われていないエネルギーで過剰な重荷を負う。
    頭という知性の中枢は過労になり、感じられないにもかかわらず、感じるよう強要される。しかし、頭は感じることはできない。考えることしかできない。思考の範疇は、感覚の範疇とは全く違う。ただ違うばかりではなく、正反対である。感覚の論理は知性の論理ではない。愛には愛の思考法がある。それは頭の思考法ではない。なのに、頭はもともとそうするようにはできていないことまでやらなければならないわけだ。そのために頭は過労になり、緊張が生まれることになる。もし中枢がそれぞれの仕事をしていたなら、そこにはくつろぎがある。頭だけが中枢ではないのに、我々は頭だけが中枢であるかのように動くために、静寂やくつろいだ姿勢を、人間の森羅万象との波長をすっかり壊してしまった。
    頭は働かなければならない。頭には機能がある。しかし、それは非常に限られている。頭には荷が重すぎる。我々が受けた教育はすべて、この一つの中枢にしかかかわっていない。まるで中枢が一つしかないかのように教育されている。それは頭の中枢、数学的理性的な中枢なのだ。生は理性ばかりではなく、むしろ生の大部分は非理性的だ。この理性的な部分は、ほんの一部にすぎない。それは全体ではない。また、全体とみなされてはならない。さもなければ、緊張が結果として生じてくる。この緊張はからだの筋肉細胞にもっともよくあらわてくる。だからこそ操体の般若身経には深い意味がある。なぜなら、般若身経のような意識的なからだの動きというのは、思考や感情に連結しており、感じるという感覚の範疇に入る可能性がもっとも高くなるからである。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる(2日目)

    昨日の続き
    からだをくつろがせるというのは、本当はさほど難しいことではない。が、文明の発達につれて、からだとの接触が失われてきたがゆえに、それは難しくなってしまった。今や我々はからだでは生きていない。我々の存在は基本的には、頭脳的、精神的になっている。現代人はからだで愛することすらできない。頭で愛しているのだ。からだはあたかも重荷のように付き従うだけで、誰かに触れるとしても、それは相手のからだではない。そこには感受性はない。頭が触れているのである。しかし、頭が本当に触れることなどできない。そこでは二つのからだが出会っていても、交流はない。からだは死んでいる。二つのからだが抱き合っていても、それは二つの死体が抱き合っているだけだ。我々はからだで生き、からだの中で存在してはじめて本当に抱き合うことができるのだ。
    我々がSEXを使用している現状では、それを非常に間違った方法で使っている。その間違った方法は自然ではない。動物でさえ我々より優れている。動物はそれを自然のやり方で使っている。我々の仕方は邪道に入りこんでいる。SEXは罪悪だという間断ない鉄拳が人の心に降り注ぎ、我々の中に、ひとつの深い障壁を創り出してしまった。我々はSEXの中にあって、決してトータルな手放し状態に任せることができない。何かがいつも非難しつつ立ちはだかっている。我々が意識的に「重荷を負っていない! 捉われていない! 自分にとってSEXはタブーでない」と、言うかも知れないが、何世紀にもわたって建てられた人類の過去をそんなに簡単に肩から降ろせるものではない。意識的に罪悪として非難しなくても無意識層はいつもそこに在って間断なく非難し続けているのだ。我々は決してトータルにSEXの中に入れなくて、いつも外に残されているのである。
    我々は幽霊のようにからだの外にいる。からだの周りをうろうろするが、決して中に入れない。文明人であるほど、自分のからだとの接触が少なくなる。その接触が失われてしまうと、からだが緊張してくるのだ。本来、からだには緩みくつろぐメカニズムがある。疲れたとき、からだを横たえる・・・が、「自分」はそこにいないために、からだはリラックスできないでいる。我々はからだの中にいなければならない。頭に「我」がいてはマズイ、それはよくない、ダメだ。さもなければ、からだのその緩みくつろぐメカニズムは効果を失ってしまう。自分がからだにいなかったら働けない。からだは自分を必要とする。この「自分」とは、アロンネス、単独という意味だ。社会に存在する我ではなく、独りである自分がからだにいなければならないのである。アロンという言葉はオール・ワン、全一という意味からきている。アロンネスはすべてひとつであり、全体性という肯定的な姿勢だ。一方、我というアイアムネスは消極的で否定的な態度である。
    自分がからだの中にいないと、一人では眠ることはできない。くつろげなかったり、眠れなかったりするのは、からだとの接触がなくなっているからである。我々はからだの中にいない。だから、からだは適切に機能できないでいる。からだはからだ自体の知恵で働くことができない。からだには何世紀にもわたって培われてきた遺伝的で生得の知恵がある。この知恵は自分がからだの中にいないと緊張が生じてしまう。そうでなかったら肉体は基本的には自動的なものである。自分がからだの中にいることができれば、からだは自動的に働くのである。自分がいるということが必要なのだ。そのときには、からだの緩みくつろぐメカニズムは機能しはじめる。操体臨床における「頭で考えないで、からだにききわける」とは、頭から「我」がいなくなり、自分がからだの中に存在すること、すなわち自分自身になることなのである。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる

    このたびの東日本巨大地震被災された方に対し、何とお慰めしてよいか言葉もありません。被害も甚大のようですが、ご安否のほど心もとなく、たいへん憂慮しています。
    不安の多い毎日でしょうが、当該地域ご一同のお力を合わせて、この苦境を乗り切られますよう心からお祈りしています。

    さて、リレーブログですが、今週は日下が担当します。
    今回のシリーズ・テーマは「性」について。操体では切っても切れないツールである「感じる」をタイトルに据えて「性」にアプローチしてみたいと思う。
    ところで、操体で「感じる」と言えば、原始感覚を指すのであるが、「快感」となれば、SEXも同じ「快」という感覚を享受している。しかし、そもそも感覚というのは我々自身が在りのままの自然に対立しており、自分のからだが何を欲しているのか知らないでいる。自身のあるがままは何であるのか、自分のからだの真摯な欲求が何であるのかを知らない。そして、その時の我々は、まったく真摯とは遠い欲求を追い続けることになる。何故なら、「感じる心」だけが、本当の欲求が何であるのかの感覚と方向を与えることができるからである。だからこそ操体では「感じる」を媒体に使っているのだ。もし感じる心が抑圧されているとしたら、我々は象徴的な欲求を創り出す。たとえば、アルコールや喫煙それに砂糖の入った甘いもので常習性のあるものを自分自身に詰め込んでしまう。それなのに充たされた感覚を決して持つことができない。
    本当の欲求というのは「愛」に対してであって、酒やタバコや甘いものに対してではないのだ。この愛というものは、生まれてすぐに母親の「母性愛」に包まれることから始まる。そして次に「同性愛」の時期に入る。男の子は男の子どうし、女の子は女の子どうしで遊んでいるのが自然だ。英才教育と称して、習い事や塾通い等によって、この時期にそれが充分満たされていないと、大人になって、ホモやレズのような同性愛者になってしまう。何故なら同性愛を卒業していないから大人になってやり直さなければならないということだ。この成長が順調に進んでいったなら、「異性愛」の時期に移行し、恋とか恋愛を経験することになる。ここで、これらの経験が不充分であると、老人になっても異性への欲求がまとわりつき、俗に言う、いやらしいスケベー老人になってしまう。エロ爺が汚く見えるのはそのためだ。さらに成長してゆくと、「自然愛」に入っていける。ここまでくると、すべての生物、いや道端に転がっている石ころにさえ愛を注ぐことができるようになっていく。老人になると、植木や盆栽に興味を持つのもうなずけることだ。これは正常な人生を過ごしてきた場合での話である。
    このように欲求が充たされた感覚というものが、いかに重要であるかということがよくわかる。そして原始感覚にも欲求があり、人生の始まりから終わりまで、ずっと存在していて、それが求めているのは快適感覚なのである。一方、性行為でのオーガズムは、異性愛の時期に限られており、それは快適感覚ではなく「歓喜」なのである。しかし、この快的感覚や歓喜に共通して言えることは「緊張」と「くつろぎ」があるということだ。
    からだに緊張があるとき、その緊張は感覚できる。そしてその緊張が解かれたとき、そのくつろぎも感覚できる。この「くつろぐ」ということは、基本的には実存的なものである。もし我々の生への姿勢が実存的なところで緊張しているとしたら、くつろぐことなどできない。そのときは、くつろごうと努力しても、それは不可能である。実際のところ、くつろごうという試み自体がナンセンスだ。くつろごうという馬鹿げた努力は、くつろぐことを妨げる有害なものでしかない。くつろごうとすることなどできるものではない。我々にできるのはただ、「くつろいでいる」ことだけ。くつろごうとする「我」がいること自体、くつろぐことを妨げる。くつろぎとは、我という不在を意味する。それは我々の側のどんな努力もしないことによって我が不在になりうる。どんな努力も努力である限り我がいるということを強めてしまう。それはそうなって当然なのだ。
    我々が何をやろうとそれはすべて我の行為になる。その行為を通して我が強められ、我がさらに「濃縮」され、我がますます「結晶」してゆく。その意味において、我々はくつろげない。我がいなくなってはじめて、くつろぎがやってくることができる。我の行為そのものが自我の一部となり、我の努力そのものが我々自身の延長となる。我がいなくなる瞬間、くつろぐことができる。我がいるということ自体が緊張なのである。我というのは緊張なしには存在することなどできない。この我こそが緊張そのものなのだ。我というのはアイアムネス、私であること、つまり社会の中に存在する私であるという意味だ。
    橋本敬三師の教えに「バルの戒め」というのがあり、その中に「頑張るな」というのがある。頑張る我が邪魔だと言っているのだ。くつろぎが実存的なものだと言うとき、それが意味しているのは、操体の逆モーションと同じ理論である。つまり、くつろぎではなく、緊張を理解することにある。我々にとって緊張は理解できるが、くつろぎは理解できない。それはとても無理なことだ。我々が理解できるのは緊張だけだ。緊張とは何か、どのようにそれがあるのか、どこからやってくるのか、それはどのように存在し、どんな手段で存在しているのか。そうやって緊張というものを全体的に理解する方法に「動診」なるものがある。からだの末端からの動きを通して全身への連動のプロセスの中で「表現」というからだの理解があらわになる。そのとき、緊張が解ける瞬間がやってくる。そうしたとき、くつろいでいるのはからだばかりではない、存在全体がくつろいでいるのを体験することになる。
    明日につづく

    日下和夫