投稿者: karib_sotai

  • より全体的な調和を目指して・・・6

    おはようございます。

     

    健康の語源は、健体康心にあるという。

    健やかな体とやすらかな心。

     

    健やかな体の、健の字は人偏に建。

    この人偏に建の解釈は、人がしっかりした基礎をもつ建物のように、どっしり、揺るがずに立っている状態を示すと解釈する人もいる。

    また、人がすっくと立って歩く、すなわち身体を高くたてて行動する原義を、表わしていると解釈する人もいる。

    どちらにしても、古の昔から立って行動する事と健康との関連性が考えられていたのは確かだと思う。

     

    立つ姿勢一つとっても、その姿にはそれまでの人生が映しだされているともいう。

    また、その姿勢は生きる姿勢や意欲にもつうじるともいわれる。

     

    操体では、昔から自然体(健康体)としてのあるべき姿への問いかけがなされてきた。

    その問いかけは、巷でよく言われるような筋力に基づいたものではない。

    最小エネルギーで、どれだけ無理や無駄なく立ち、あらゆる動作にも無理なく対応できるような作法の追求。

     

    頑張って立って動くのではなく、生命体として空間と調和し、人間として環境に適応できうる立ち方と行動。

    生かされし空間に自在する重力や圧といったものと調和し、からだの正当な使い方が出来、様々な環境にも適応できるようにしていく。

    その為には、重心の適正にかない、呼吸の適正にかなう事が必要。

     

    先日に行われた秋季東京操体フォーラムでも、この立ち方について私達の師から濃密な指導をしていただいた。

    それだけ、この健康体としてのあるべき姿への問いかけと、その立ち方は重要なのであり、これを身悟りしていかなければ、操体臨床の場で被験者の動きをサポートするのは勿論、指導の質も高められない。

    また、基の元をなすもの故に、スポーツ全般、あらゆる武道、諸芸にもつうじるものがあると思う。

  • より全体的な調和を目指して・・・5

    おはようございます。

     

    より全体的な調和を目指すには、物事の物種、元の元を学んでいく必要もあると思う。

     

    前々から、健康を害して疾病に至る道筋には、必ずボディの歪み(ヒズミ)があるといわれてきた。

    ボディの歪みが元にあり、そこから感覚異常、機能異常へと進み、器質異常にまで至るという道筋。

    だからして、元のボディの歪みを正していけば、それらの異常の消失や改善、回復が可能だという事。

     

    ボディの歪みには、「環境」と「息」「食」「動」「想」の生活の営みのバランスが係わっている。

    だからして、ボディが歪まないように「息」「食」「動」「想」の営みを、「環境」により良く適応できるよう、自分でコントロールしていく事が求められてきた。

     

    しかし、ボディの歪みの元に在る不正に着目し、「環境」も元となる「空間」に着目する事で、自分の欲得や知識の意向からではなく、からだから生命活動の営みのバランスが、様々な環境へ適応できるように変わってくるように感じる。

    つまり、誰もがからだを有して生きているのだから、どんな人でも健康維持増進が可能という事。

    それによる効果も出やすい。

     

    操体臨床歴50年以上の三浦寛先生が、新たに提唱する「重心の適正化」は、元から丸ごと正して健康に導き、その効果も今までより早く、高いものとなっているように感じる。

  • より全体的な調和を目指して・・・4

    おはようございます。

     

    初期の骨格関節系の歪みを正す事に重点を置いた操体法も、気持ち良いという感覚に重点を置いた操体法も、「動かして診る」という点で、他にはない画期的な診断法だと思う。

     

    しかし「動かして診る」がいくら画期的でも、動けない被験者、動かせない被験者、動いても感覚のききわけが困難という被験者も、実際には居る。

     

    そんな時はどうするのか?という声は当然あると思う。

    操体法が、動いてその感覚をききわけられる人だけの、限られた人だけのものであれば、調和を目指してとか語れないし、健康学などと唱えられない。

     

    誰でも、どんな人でも健康に導けるよう、そのお手伝いや指導をするのが操体法。

    動きというと、運動的な動きが想像されがちだが、そうした意識的な動きもあれば、無意識的な動きもある。

    生命体として捉えた場合、意識的な動きよりも無意識的な動きの方が重要であり、どんな人でも無意識的なからだの動きによって、生かされて生きているのは確かな事。

     

    生かされて生きているという事に着目すれば、空間や環境といったものは、生命をともにするイノチでもある。

    それ故、生命体として空間と調和し、人間として環境に適応できているほど、健康でいられ、幸福な人生を歩むことが出来ると言えよう。

     

    その空間や環境といったものと、自分自身との境界を成しているのが皮膚。

    この境界を取っ払ってしまったらどうなるだろうか?
    考えただけでも怖ろしい。

    皮膚が無ければ生きていけないのは確かな事であり、それ故に生命体としての感覚情報も豊富であり、呼吸もし、動きもし、空間に調和して環境に適応するためのバランス制御にとって、無くては成らないからだのうつわ。

     

    そこに着目し、皮膚へのアプローチ(渦状波®)を体系化したのも三浦寛先生だった。

    皮膚へのアプローチが体系化された事により、急性期のギックリ腰をはじめ動きをとおせない人や、動きの感覚のききわけが困難な人にも、健康に導く為のお手伝いが出来るようになってきた。

  • より全体的な調和を目指して・・・3

    おはようございます。

     

    健康を語る上で無視できないのが、感覚でありましょう。

    からだの不調を感じた時、感覚をつうじて対応できるから、それ以上不調に陥らずに済む。

    身近な例では、肌寒くなってきたから一枚余分に着こんでみるとか、誰もが普通に行っている事。

    そうした、からだの感覚をつうじての対応や勘といったものが、文明の発展や知識の発達に反するように鈍くなっているのは確かだと思う。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生の生きた昭和の時代というのは、戦争後に目まぐるしく変わっていった時代でもあった。

    生活は物質的に豊かになり、自分のことは自分でするという風潮は薄れ、代わりに思い通りにやってくれる機械を持て囃し、そうした人工物に囲まれた知識での理屈のとおる世界を欲するようになっていく。
    それは今の時代も、あまり変わっていないであろう。

     

    しかし、そうした世界観は、人間の知識では計り知れない自然やからだといったものを、知らず知らずのうちに遠ざけてしまった。
    その結果、自然やからだとの関係性も薄れて、退化していく。

     

    操体法も、初期の骨格関節の歪みを正す事を重点に置いて、痛い方から痛くない方へ身体を動かし、2,3秒間動きを撓め、瞬間急速脱力するというやり方では間に合わなくなり、からだとの関係性も再構築して調和に導くような必要性も生じてきたと思われる。

     

    治しをつけるのは被験者のからだなのであり、被験者本人もからだがバランス制御に向くよう感覚をとおしてからだと向き合う。

    その感覚も、不快な状態へバランスが乱れているのだから、更に不快な感覚を与えれば更に不調和を起こす。

    気持ちが良いという快適感覚が必要なのであり、より調和に向けた質の高い快適感覚でバランス制御が可能という事。

    「動かして診る」でも、骨格関節系の歪みを正す事に重点を置き、からだのバランス制御の働きに期待するといった行程よりも、被験者本人が「からだに気持ち良さをききわけ、気持ちよさを十分に味わう」という事で、バランス制御の間をからだと共につくりだし、からだのバランス制御と共に調和に向かうといった行程の方が、骨格や筋肉といった運動系だけでなく内臓系も含めて全体的な調和に向き、臨床効果も高くなる。

    橋本敬三先生は、晩年に「気持ち良さをききわければいいんだ、気持ち良さで治るんだからな」という言葉を残して、数年後に旅立たれてしまった。
    しかし、この言葉に込められた意志を引き継いだ三浦寛先生によって「気持ち良さをききわけ、味わう」という感覚分析による操法は体系化され、更に調和に向けてのシフトアップが重ねられていくようになる。

  • より全体的な調和を目指して・・・2

    おはようございます。

     

    操体法も初期の頃は、骨格関節系の歪みを正す事に重点が置かれていた。

    それは、操体の創始者、橋本敬三先生の初期の文献からも推測できる。

    例えば、昭和の13年頃に描かれた以下の様な文章。

    すこぶる通俗な譬であるが、骨格は金網に紙を張ったようなもので、一部に力を加えると全体に皺が寄るような影響を感ずるものである。

    または家屋建物にもたとえることができよう。

    土台や柱がまがったりズレたりすれば、建具の開閉に渋滞が生ずるようなものである。

    ただ、その材料が鋼鉄の如く弾性であるから、不自然な力さえ除けばピンと元に戻る性質がある。

    昭和のはじめ頃の人達の生活というのは、生活リズムも今より自然に近く、小さい頃から身体を使う仕事が多かった為、自然やからだとの関係性が密接で素直だったと思う。

    だからして、骨格関節の歪みを正す事を重点に置き、痛い方から痛くない方へ身体を動かし、2,3秒間動きを撓め、瞬間急速脱力するというやり方でも、からだがバランス制御に向きやすく、大いに効果があったのだと思う。

     

    しかし、人々の生活は昭和の時代だけでも年々変化し、便利になったのは良いのだが、その分からだとの関係性は自然から遠のいていった。

    先に上げた例の様に、骨格関節系に働く不自然な力を除くだけで、筋肉をはじめとする軟組織も、全体的にそれに素直に応じるという訳にはいかなくなってきたと思う。

    その時はいいが、また不快な状態に戻りやすいという状況も起こってきたと思う。

    歪みというと悪者と捉えがちだが、その局所が歪む事で内臓も含めてバランスをとっている場合もある。

    また、心的要因も関係しているので、一概に標準と違うから正してやれでは、却って良くない。

    「痛いところが、部分的に、楽になった」では不十分であり、間に合わなくなってきた。

    必然的に操体法も、骨格関節系だけでなく他の系統も、気持ちよく全体的な調和に向かうようシフトアップする必要が出てきたのだと思う。

  • より全体的な調和を目指して

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願い致します。

     

    昨日は、東京都市ヶ谷にて秋季東京操体フォーラムが行われました。

    ご参加の皆さま、ありがとうございました。

     

    今回のフォーラムのテーマは、「もっと丸ごと操体法」でした。

    「丸ごと」というのは、操体にふさわしい言葉だと思います。

    操体の臨床応用である操体法には、局所的な改善、部分的な「症状、疾患を治す」という発想はない。

    その人丸ごとを健康にしていくという発想。

    その人が、健康を取り戻していく過程に於いて、今のバランス状態として現れている症状、疾患も治まりがついてくる。

     

    より全体的な調和を目指して。

    操体の創始者、橋本敬三先生は医師であった。

    しかし、医師でありながらも著書のなかで以下の様な文章を書いている。

    今日、全世界マスコミに発表される人類の認識には誤解と欠陥がある。

    「病気}を治したいと思っている。

    そして、局所的な改善を高々と誇っている。

    われわれが病気と称しているのは生命現象のアンバランスの一症候にすぎない。

    人間の肉体的精神的苦痛を「病」と思い込んでいる。

    生命現象には苦痛はなくともよいように、自然は設計されているのだ。

    苦痛そのものはサインにすぎない。警戒警報なのである。

    生命現象の生活の営みそのものに何らかのアヤマチがあること知らせているだけのことであり、「病気」は大自然の責任ではなく、人間自身の生活に誤りのあることを教える恩恵的サインなのである。

    創始者が、こう書いて50年以上経った今日でも、一般的にはなかなか解ってもらえずにいると思える。

    しかし、創始者は自分の保身など鑑みず、人々に植え付けられた誤解を正そうとしていたのだと思う。

  • 重さと軽さ7

    一週間重さと軽さについてお伝えしてきましたが、なかでもからだの中心と重心に関わるもののなかでは、からだの動き(うごき)の重さと軽さというものについて改めて新鮮に感じているところです。

     

    度々出てくる言葉ですが、「普段何気なく」使わせていただいているからだの、動き(うごき)という側面について、私たちはほとんど自覚なしに使わせていただいているのではないかと感じるようになりました。

     

    実はからだの動きにはからだの動きの流れがあって、その本来からだに宿っている流れに重なっているかいないかを、からだの動きの重さや軽さとして感じられたりする。

    重さや軽さという、非常にシンプルな実感ですが、受け取ることができる。

    からだを通して学ぶということは、こういった「そうなっていること」を身をもって観察することの延長にあるのだと感じています。

     

    「そうなっているもの」を素直に感じる経験。

    そんななかで操者がやってみてわかったことの繰り返しの学びの中で深めていくことで、

    深遠なからだに宿る生命の情報を糧に学び続けていくことができるのではないかと感じています。

     

    今日は秋季フォーラムです。

    やってみてわかったことがうまれる場になればと思っています。

    一週間ありがとうござました。

    明日からは友松実行委員の「フリー」が始まります。

    どうぞ、おたのしみに!

     

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

    www.tokyo-sotai.com

  • 重さと軽さ6

    息食動想のなかの「想(想念・精神活動)」。

    精神活動や心(こころ)の重さと軽さ。

     

    こころとからだは影響し合っているものなので、からだの重さと軽さ、そしてこの「想(想念)」の重さと軽さも、何か見えない関係がみえてくるように感じられてきます。

     

    これはひとつの捉え方ですが、

    「重心(じゅうしん)」という言葉の一側面として「重い心(おもいこころ)」として捉えてみたときに、

    重心の不正という現象は「重い心の不正」となります。

     

    また、「重心の適性にかなう」ということは「重い心の適性にかなう」となります。

    これが、言葉遊びの範疇で脈絡のないことでもなく、ある面では重心と心の関係性を理解していく糸口になるのではと感じています。

     

    重心の不正が変化し、重心の適性にかなうことで、「重い心」も変化する。

    重さから軽さへの質的な変化、たしかな変化として感じられる。

    そのことがからだから感じられる重さと軽さのこととも深く関係している。

     

    自分自身のこころが重く感じられている時に、からだの重心がどのあたりにあるように感じられるか。

    また、こころが軽くなっている時に、からだの重心がどのあたりに感じられているか。

    そんなことも、試しにからだにききわけてみたら、何か発見があるかもしれません。

     

    重心というキーワードを背景として、決して特別なことではない身近で様々なことが重なっている様子が感じられてくると、身近にあるのに、気がついていないだけのことが、そこら中に転がっているような気がしてきます。

     

    『操体は面白いぞ、一生楽しめるからな』と

    どこからか声が聞こえてくるようです。

     

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

     

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  • 重さと軽さ5

    私たちが普段何の気はなしに使っている言葉。

    この言葉という不思議な営みにも重さと軽さがつきまといます。

     

    「言葉に重みがある」と言ったときは、何か言葉の中に大切なものが込められているような印象を受ける場合もあれば、受け取る側の状況によっては、それをネガティブなものとして感じる場合もあります。

     

    「軽い言葉」と聞けば薄っぺらい発言としての意味合いが一般的かもしれませんが、中にはニュアンスとしてさっぱりとしていて、嫌味がないと感じる人もいるかもしれません。

     

    言葉を操ることは本当に奥底の深いもので、

    操体法でも、その操法のなかで用いられる言葉というのはとても大切に選ばれています。

     

    この「言葉」のことはブログのなかでも度々取り上げられている話題の一つではありますが、

    操者がどんな言葉を用い、問いかけているかということが「からだ」に及ぼす影響は計り知れません。

     

    わかりやすい例は、濁った言葉を使うのと、澄んだ清音を用いてからだの動きの誘導をするのとの違いです。この両者の使い分けで、被験者の感じる動きの質がガラッと変わってしまいます。

     

    例えば、「左手を真上にグーっと挙げて」、と伝えるのと「左手を真上にスーッとあげて」と伝えるのとでは、からだへの力の入り具合や掌が表現する形、からだ全体で表現される動きの様子、そして動きの重さや軽さにも変化が感じられると思います。

     

    試しに、からだの動きが重くなる言葉や軽くなる言葉に呼気や吸気などの呼吸を通してみるのも面白いのではないでしょうか。

     

    言葉と呼吸とからだの動き、これらのことが実に無関係なものではないものとして感じられると、からだがききわけている言葉について、もっと観察して、勉強しないといけないと、敬虔な気持ちが生まれてきます。

     

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

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  • 重さと軽さ4

    普段何気なく営んでいる呼吸。

    この呼吸にも例えば、「重さ」や「軽さ」というものはあるのでしょうか。

     

    身心のリラックスした状態で営んでいるときの呼吸と、

    時間に追われて作業しているときについている呼吸の違い。

     

    どなたもそれぞれの呼吸の深さやリズムを意識してみれば、

    そこに差があるのは、感じられることと思います。

     

    からだに呼吸が自然と入ってきている時は、

    普段、呼吸法など実践されている方でなければ特別意識が向くことはないでしょう。

     

    一方で、呼吸が乱れていたり、呼吸が苦しくなったり、息苦しくなったりする時に、はっと意識がその呼吸活動の変化に向くことはあるかと思います。

     

    呼吸もからだとこころのその営みに関わる様々な生命活動とつながりをもっていることが考えられています。

    呼吸の営みにはまだまだわたしたちの知らないことが潜んでいて、これからさらなる科学的な理解が深まっていくことでしょう。

     

    非常に大切に感じているのは、こういった身近な事象から学ぶことは、研究者の領域だけでは決してないということです。誰でもが、自身のからだを通して、例えば、呼吸という当たり前の営みに迫っていくことができるということです。そしてそれが、実はご自身の健康維持増進へとつながっているのです。

     

    さて、操体の臨床を受けた後に感じる変化として、この呼吸にも変化を感じることがあります。

    呼吸の、特に吸気が自然とからだにはいってくるようになった、そういった変化をからだからききわけられるのです。

     

    からだにとって、呼吸がより自然に入ってくる。

    これも重心の不正に変化が起こったことに気付かせてくれる

    大切なひとつのメッセージです。

     

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

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