
投稿者: karib_sotai
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(四日目)シンメトリーとアシンメトリー その2
日本でも、神社やお寺の建造物は、左右対称に造られているものが多いですが、これは、あきらかに仏教の影響です。有名なのが十円玉になっている、平等院鳳凰堂です。中学の修学旅行で行きましたっけ。。なお、平等院鳳凰堂が左右対称なのは、阿弥陀様のいらっしゃる極楽浄土を再現したからだと言われており、これは「死を克服して極楽浄土に行きたい」という貴族達の切なる願いですね。ここで、一度まとめてみますと日本(仏教伝来以前)は、自然崇拝であった。また、日本は「自然の摂理である”死”を受け入れる」という考え方があった。それは、いわゆる「左右対称的な完全」を求めるものではなかった日本以外(キリスト教、ヒンズー教、仏教、神仙思想など)では「自然の摂理である”死”を超克する」という思想があった。それが「完全性」つまり、シンメトリーに繋がってきた。大雑把ではありますが、こんな図が浮かんできます。一方、面白いのは、チャクラとか経絡図です。これは、関西相談役の日下和夫先生から教えて頂いたのですが、古い図をみると、お腹のチャクラは、真ん中ではなく、少し左に寄っているそうです。素人考えですが、お臍を避けたのでしょうか?近年のチャクラ図は皆からだの真ん中を通っていますが(背骨に沿っている)あれは、真ん中にしたほうが、説明しやすいとか、見栄えがいいとかという人的理由があったのかもしれません。また、経絡図は、ご存知の通り、規則性がありませんし、シンメトリーではありません(私にはそう見える)。経絡については「からだに宿るもの」として、古代の中国の人は、極めて客観的に「経絡」というものをからだから読み取り、それを図示したのでしょう。最澄展より -
(三日目)シンメトリーとアシンメトリー その1
今回のフォーラムでも話題になると思いますが、シンメトリーとは大雑把に言って「左右対称」、アシンメトリーは「左右非対称」のことを指します。アート(建築なども含めた大きな分野)を考えた時、シンメトリーというのは大きなポイントだと思います。自然界には、厳密な意味でのシンメトリーは存在しないのです。しかし、昔から「シンメトリーに限りなく近い」ものが作られてきました。古くはピラミッド、ゴシック系の建物とか。遡ると、キリスト教、ヒンズー教(仏教も少し入る)、中国の神仙思想などは、「自然の摂理である“死”を超克する思想」と言っていいようです。つまり、「完全」を求めます。(アダムとイブの楽園追放あたりからの話になるようです)ゴシック建築のキリスト教の教会が天に向かっているのは、そのためだそうです。古代エジプト(ピラミッドは左右対称です)も、死後の世界を考えて、なきがらをミイラに加工しました。一方、仏教が入ってくる以前の日本の古代神道は、木や岩や山そのものをご神体としていました。つまり、自然崇拝です。日本人は「自然と死を受け入れる」という思想があったのです。
最澄展より。 -
アートと操体(二日目)
昨日の続きです。神が作ったものが「サイエンス」で、人間が作ったものが「アート」と考えてみると、世界を別の視点で見ることができます。美術館にあるものが、アートというようなそんな狭いものではなくなってきます。遡って考えると、Art の語源は、ラテン語の Arus(アルス)なのですが、これが「芸術、技術、(神の創造した自然と対比して)人の手による製作物」という意味なんです。人の手?というと、「手技」を連想します。医術や手技療法、徒手療法、心理療法などは、アルスであり、アートなのです(操体法に繋がりました)。
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アートについて(初日)
友松さん、1週間ありがとうございました。こんにちは。畠山裕美です。1週間宜しくお願い致します。今回のテーマは「アートについて」です。ご存知の通り、2021年秋季東京操体フォーラム(11月23日火曜開催)のテーマが「アートと操体」なので、それに向けての序章でもあります。これまでの実行委員の皆さんの投稿を読んでいると「アート」という概念は人それぞれ違うのだなと感じました。なお「アート(Art, Arts)」を明治以降日本語に翻訳したのが「芸術」ですが、かなり曖昧な言葉のようです。色々しらべてみると「リベラル・アーツ」という言葉が出て来ます。これは「源流は古代ギリシャにまで遡る。その後中世以降にヨーロッパの大学制度で学問の基本にあたるとされる文法学、修辞学、論理学の三学と、幾何学、算術、天文学、音楽の四科をさすのがリベラルアーツ(自由七科)」と、なります。今の大学の「教養課程」は、一応この辺りを勉強するのが建前(建前です)となっています。そして、なんで「リベラル」(自由)なの?と思って調べてみると、ギリシャ時代、これらの学問に通じていれば「奴隷にならずにすむ」ということがあったようです。まあ、奴隷というのは、ローマの属国から連れてこられた人達ですから、中には優秀な人もいます。教師、医師、会計士なども奴隷の仕事だったようです。ローマのコロシアムで試合をしていたグラディエーターも奴隷だったのかなと(ドラマで「スパルタカス」とか見るとそう思う)調べてみたところ、実は現在のプロレスラーのようにエンタメ的に試合をしており、死ぬまで戦うとか、ライオンと戦う、なんていうのは、あまりなかったようです。元々の意味としては「奴隷にならないために、言語学や数学の基礎を学んでさらにはその先の哲学にまで触れることができるようになる、その奴隷でない人の姿こそ自由人である」ということのようです。さらに調べてみると、人間が作ったものがArts なのだそうです。そうでないもの、神が作ったものが Science(サイエンス)という分類になるそうな。また、これも興味深かったのですが、日本では理系と文系の断絶が深いとのことです。この辺りは、やはり明治維新以降の政策が関係しているようです。
橋本敬三先生とりんりん。 -
アートについて・・・7
おはようございます。
アートの歴史を辿れば、旧石器時代の洞窟壁画が描かれた頃まで遡ると思われる。
洞窟壁画で興味深いところは、洞窟の住人は入ってすぐの日当たりが良く広々とした空間で普段は生活しており、壁画を描く場所はそれよりも奥まった日の当たらない空間で、絵を描いているという点。
これが、他人に見せようとしている訳ではないから芸術ではなく、単なる生活の営みの中での一部とする解釈の仕方にもつながってしまった。
しかし、それは近代の理屈であり、この時代の人たちは横でつながる他人に見せるのではなく、縦でつながっている大いなるモノに見てもらおうとしていたのではないだろうか。
洞窟壁画は、呪術の要素があったりシャーマニズムとも関連があるという。
描かれた動物たちも写実主義的に描かれたのではなく、呪術的な想念を交えた想像による意識から描かれており、概念からの意識から描かれたわけではないと思う。
概念からの意識により描かれたものは、人間どうしでは伝わっても、生命として他の動物ともつながっている、あるいはそれを超えた大いなるモノとつながる潜在意識を振動させるには弱いのではと感じる。
だから、日常の生活空間とは区別した特別な空間で描かれていたのではないだろうか。
呪術的というと、おどろおどろしい印象を受けるが、自らの手で他の生き物の生命を奪い生きる糧とするしかなかった当時の人達にとって、それは弔いの心も含む神聖なものだったのだと思う。
沢山の動物を捕りたい、この動物を捕って食べたいという欲望からの呪術ではないと思える。
まずはじめに、自然界の一員として生かされて生きている事への感謝があり、必要な分だけ、必要な時に、必要なものをいただけるよう願う、そんな想念を元とした呪術だったのではないだろうか。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
どうぞ、おたのしみに。
友松 誠。
2021年秋季フォーラム
2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催
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アートについて・・・6
おはようございます。
アートに関してのテレビ番組をたまに見るが、何でこれがアートなのだろうかと思う事がある。
実際に現物に目で触れてみると、何かまた違ったものになるのだろうが…。
現代アートと呼ばれるものには、そうしたものが多い。
現代アートの先駆けとして、よく名前があがるのがマルセル・デュシャン。
デュシャンは、元々は油絵を描く画家だったが30代半ばくらいで絵を描くのを放棄してしまったという。
それからは、小便器を横にして署名しただけの作品に代表されるような、既製品に少し手を加えたような作品をつくるようになった。
その狙いは、それまでのアートの常識を覆す事。
デュシャンは、それまでの絵画に代表されるアートを網膜的絵画、つまり鑑賞者は目から入る刺激をたのしんでいるだけと評し、そうではなく鑑賞者が作品に触れることによって鑑賞者自身が作品をつくりあげる、そんなアートを提供しようと考えていたのではないかと思われる。
だから、わだわざ作者のセンス、技量の巧みさといったものを消し去るようにして、鑑賞者が作品に触れた時、どう感じ、それをどう想像し、そこからどう創造するか、それぞれの鑑賞者が、それぞれに作品を作りあげられるよう図っていたのではないだろうか。
このようなやり方は、アートを捉えどころの無いものとしてしまい、当然、批判も多かろうと思う。
しかし、一方的に受取るだけでなく、それをどう感じ、想像して創造していくという事は大切な事だと思う。
特に今は、高度にコンピューター化が進み、AIがデータ分析してつくったものをそのまま受取るだけという風潮も多くみられる。
しかし、生身の個人個人が感じ、想像し、創造したものは絶対に必要だと思う。
そうでなければ、人間が人間でなくなっていくような気がするし、せっかく様々な能力と可能性を与えて下さっている此の世の創造主にも申し訳が立たないような気がする。
2021年秋季フォーラム
2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催
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アートについて・・・5
おはようございます。
近所の農家の庭の柿の木が、今年も橙色の実をほんわかと色づかせてきました。
そろそろ食べ頃かもしれない。
柿の木は病気しやすく、手入れが大切だという。
剪定も柿の木の特性と樹全体のバランスを考慮し、日の光が樹冠の内部や幹の方まであたるよう工夫するのが肝要という。
手入れが行き届いていれば、より良い実りにつうじるし、柿の木そのものも美しさや何だか嬉しそうな表情を持つようになると感じる。
これも、自然と人間の織り成す一つのアートだと思う。
そして、このアートは実を収穫して完結ではない。
実ったものを全部収穫して自分たちのものにしてしまうのではなく、一つか二つそのまま残しておく風習があるという。
これは、収穫をもたらしてくれた自然や神への感謝のしるしであったり、同じ空間を共有する鳥にも与えてよろこびを分かち合ったりするとか、色々な意味があるようだ。
いぜれにしても感謝と慈悲の心をもって終了とし、その終了は新たな有難さへの始まりとなる。
2021年秋季フォーラム
2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催
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アートについて・・・4
おはようございます。
今回のテーマは「アートについて」ということで書いているが、このテーマを確認した時に思い浮かんだのが、ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂拾い」という絵画だった。
この「落穂拾い」の絵に関しては、中学校の美術の教科書に写真が載っていて、よく見ていたのを思い出す。
落穂を拾っている女性だけではなく、空の空気感とか光の加減とか、背景の描き方とか全体的に何か惹きつけられるものがあり、いつもなんとなく見ていたと思う。
しかし、今、改めて見てみると、落穂を拾っている2人の女性の姿が、凄くこちらに訴えてくるのを感じる。
なぜなのだろうかと目で触れていると、これはからだの悲鳴も含まれているのではないかと思えた。
よく見てみると、2人とも右足を前に出して右手で落穂を拾っている。
この動作というのは、橋本敬三先生の時代より、からだをこわす代表例として言われ続けてきた動作だ。
特に奥の女性は、更にそこから右手を随分と伸ばした状態から落穂を拾おうとしている。
この体勢のインパクトは凄く大きい。
試しに自分でやってみても、随分とツライ動作だという事がわかる。これを一日中やるとしたら、とても大変だと思う。
この絵は、旧約聖書のレビ記のなかの律法を題材にしているという。
奥の方に、白っぽい色で描かれた大勢の人達は収穫作業をする労働者階級の人達。
手前で落穂拾いをしている女性達は、労働者階級にも属せない貧しい人達。
そして、女性達は左手にある程度の長さの落穂を握っているが、右足を前に出して伸ばした右手の先の地面には、長い落穂があるようには見受けられない。
なんだか、やるせない気持ちになってくる。
せめて、からだの使い方、動かし方に関心を持ってくれれば、と願ってしまうのは私だけではないと思う。
2021年秋季フォーラム
2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催
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アートについて・・・3
おはようございます。
操体の創始者である橋本敬三先生は医師であり、サイエンスとしての医学的知識は勿論もっていた。
しかし、操体と現代医学では哲学が違う。
操体は治療医学ではなく健康医学であり、○○病を治すという考え方ではなく、この生体は元々病気しないように出来ており、病はバランスの崩れの現われであり、バランス制御を可能なものとすれば、健康の回復が可能であり、その回復過程で○○病はおのずと消失するという捉え方。
そして、バランス制御に向き、治しをつけてくるのは本人のからだであり、そのからだのサポートをするのが操体の臨床だという事。
サイエンスとしての医学的知識も大事だが、哲学や目的意識が違うのだから、そのまま当てはめるとおかしな事になってしまう。
だから、操体にはサイエンスを尊重しながらも、アカデミックなサイエンスの枠を超え、からだから学んできた学問体系がある。
そして、この学問体系の基には、誰でも自力自療が叶えられる、というコンセプトがある。
だから、全ての人が健康づくりというアートに参加できるのであり、誰しも学びが深まるほど健康の回復から維持、そして増進が可能であるという事。
2021年秋季フォーラム
2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催
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アートについて・・・2
おはようございます。
絵画の世界で、フィンセント・ファン・ゴッホは印象派を代表する画家として名高い。
そのゴッホも、世間から評価されるようになったのは没後だという。
生前のゴッホは、キャンバスに描く絵具にさえ事欠くような暮らしぶりだったという。
そんなゴッホを経済的に支えたのは、弟の画商テオドルスであり、ゴッホがテオドルスに宛てた送金の御礼の手紙や、絵具を送ってくれるよう依頼した手紙は、今も残っているという。
この絵具を依頼する時の手紙には、絵具の色具合や数量が事細かく指定されていたという。
ゴッホの作品の魅力、その一つには色彩表現の豊かさがある。
ゴッホの情熱が、そうさせたと言う人もいるだろう。
それもあると思うが、弟に絵具を依頼した時の細かな指定を考えると、光や色と色の組み合わせや線のタッチによって変わる印象の度合いを、研究しつくしているという事が想像できる。
そうした色彩に対する研究は、光化学的、数式的なサイエンスの要素も隠れているように思われる。
サイエンス的な要素の上に、サイエンスの理屈や理論を超えたものを見い出し、そこに引き込まれるようなかたちで、情熱的な作品づくりにつなげていたのではないだろうか。
そして、更にそれまでの印象派の特徴とされる描き方も変え、より良い作品づくりをしていくようになったのだと思う。
操体臨床の第2分析である動診も、ただ闇雲に動かしただけでは、気持ちよさをからだにききわける事にはつながらない。
からだの使い方、動かし方のルールを踏まえたうえで動いてもらい、操者自身も作法に則り被験者の動きを介助、補助し、言葉かけにも注意をはらいながら、気持ちよさのききわけにつなげている。
一つの動診でも緻密に研究したうえで、それに過信をせず、自然を尊重する。そして、治しをつけてくるからだに、バランス制御の原動力となる快適感覚の質を問いかけている。
そして、更に診断分析法は、それまでの操体とはこういうものだという概念を打ち破るようにして、より負担をかける事なくより効果的なものへと進化していく事となる。
2021年秋季フォーラム
2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催