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  • 感じる(2日目)

    昨日の続き
    からだをくつろがせるというのは、本当はさほど難しいことではない。が、文明の発達につれて、からだとの接触が失われてきたがゆえに、それは難しくなってしまった。今や我々はからだでは生きていない。我々の存在は基本的には、頭脳的、精神的になっている。現代人はからだで愛することすらできない。頭で愛しているのだ。からだはあたかも重荷のように付き従うだけで、誰かに触れるとしても、それは相手のからだではない。そこには感受性はない。頭が触れているのである。しかし、頭が本当に触れることなどできない。そこでは二つのからだが出会っていても、交流はない。からだは死んでいる。二つのからだが抱き合っていても、それは二つの死体が抱き合っているだけだ。我々はからだで生き、からだの中で存在してはじめて本当に抱き合うことができるのだ。
    我々がSEXを使用している現状では、それを非常に間違った方法で使っている。その間違った方法は自然ではない。動物でさえ我々より優れている。動物はそれを自然のやり方で使っている。我々の仕方は邪道に入りこんでいる。SEXは罪悪だという間断ない鉄拳が人の心に降り注ぎ、我々の中に、ひとつの深い障壁を創り出してしまった。我々はSEXの中にあって、決してトータルな手放し状態に任せることができない。何かがいつも非難しつつ立ちはだかっている。我々が意識的に「重荷を負っていない! 捉われていない! 自分にとってSEXはタブーでない」と、言うかも知れないが、何世紀にもわたって建てられた人類の過去をそんなに簡単に肩から降ろせるものではない。意識的に罪悪として非難しなくても無意識層はいつもそこに在って間断なく非難し続けているのだ。我々は決してトータルにSEXの中に入れなくて、いつも外に残されているのである。
    我々は幽霊のようにからだの外にいる。からだの周りをうろうろするが、決して中に入れない。文明人であるほど、自分のからだとの接触が少なくなる。その接触が失われてしまうと、からだが緊張してくるのだ。本来、からだには緩みくつろぐメカニズムがある。疲れたとき、からだを横たえる・・・が、「自分」はそこにいないために、からだはリラックスできないでいる。我々はからだの中にいなければならない。頭に「我」がいてはマズイ、それはよくない、ダメだ。さもなければ、からだのその緩みくつろぐメカニズムは効果を失ってしまう。自分がからだにいなかったら働けない。からだは自分を必要とする。この「自分」とは、アロンネス、単独という意味だ。社会に存在する我ではなく、独りである自分がからだにいなければならないのである。アロンという言葉はオール・ワン、全一という意味からきている。アロンネスはすべてひとつであり、全体性という肯定的な姿勢だ。一方、我というアイアムネスは消極的で否定的な態度である。
    自分がからだの中にいないと、一人では眠ることはできない。くつろげなかったり、眠れなかったりするのは、からだとの接触がなくなっているからである。我々はからだの中にいない。だから、からだは適切に機能できないでいる。からだはからだ自体の知恵で働くことができない。からだには何世紀にもわたって培われてきた遺伝的で生得の知恵がある。この知恵は自分がからだの中にいないと緊張が生じてしまう。そうでなかったら肉体は基本的には自動的なものである。自分がからだの中にいることができれば、からだは自動的に働くのである。自分がいるということが必要なのだ。そのときには、からだの緩みくつろぐメカニズムは機能しはじめる。操体臨床における「頭で考えないで、からだにききわける」とは、頭から「我」がいなくなり、自分がからだの中に存在すること、すなわち自分自身になることなのである。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる

    このたびの東日本巨大地震被災された方に対し、何とお慰めしてよいか言葉もありません。被害も甚大のようですが、ご安否のほど心もとなく、たいへん憂慮しています。
    不安の多い毎日でしょうが、当該地域ご一同のお力を合わせて、この苦境を乗り切られますよう心からお祈りしています。

    さて、リレーブログですが、今週は日下が担当します。
    今回のシリーズ・テーマは「性」について。操体では切っても切れないツールである「感じる」をタイトルに据えて「性」にアプローチしてみたいと思う。
    ところで、操体で「感じる」と言えば、原始感覚を指すのであるが、「快感」となれば、SEXも同じ「快」という感覚を享受している。しかし、そもそも感覚というのは我々自身が在りのままの自然に対立しており、自分のからだが何を欲しているのか知らないでいる。自身のあるがままは何であるのか、自分のからだの真摯な欲求が何であるのかを知らない。そして、その時の我々は、まったく真摯とは遠い欲求を追い続けることになる。何故なら、「感じる心」だけが、本当の欲求が何であるのかの感覚と方向を与えることができるからである。だからこそ操体では「感じる」を媒体に使っているのだ。もし感じる心が抑圧されているとしたら、我々は象徴的な欲求を創り出す。たとえば、アルコールや喫煙それに砂糖の入った甘いもので常習性のあるものを自分自身に詰め込んでしまう。それなのに充たされた感覚を決して持つことができない。
    本当の欲求というのは「愛」に対してであって、酒やタバコや甘いものに対してではないのだ。この愛というものは、生まれてすぐに母親の「母性愛」に包まれることから始まる。そして次に「同性愛」の時期に入る。男の子は男の子どうし、女の子は女の子どうしで遊んでいるのが自然だ。英才教育と称して、習い事や塾通い等によって、この時期にそれが充分満たされていないと、大人になって、ホモやレズのような同性愛者になってしまう。何故なら同性愛を卒業していないから大人になってやり直さなければならないということだ。この成長が順調に進んでいったなら、「異性愛」の時期に移行し、恋とか恋愛を経験することになる。ここで、これらの経験が不充分であると、老人になっても異性への欲求がまとわりつき、俗に言う、いやらしいスケベー老人になってしまう。エロ爺が汚く見えるのはそのためだ。さらに成長してゆくと、「自然愛」に入っていける。ここまでくると、すべての生物、いや道端に転がっている石ころにさえ愛を注ぐことができるようになっていく。老人になると、植木や盆栽に興味を持つのもうなずけることだ。これは正常な人生を過ごしてきた場合での話である。
    このように欲求が充たされた感覚というものが、いかに重要であるかということがよくわかる。そして原始感覚にも欲求があり、人生の始まりから終わりまで、ずっと存在していて、それが求めているのは快適感覚なのである。一方、性行為でのオーガズムは、異性愛の時期に限られており、それは快適感覚ではなく「歓喜」なのである。しかし、この快的感覚や歓喜に共通して言えることは「緊張」と「くつろぎ」があるということだ。
    からだに緊張があるとき、その緊張は感覚できる。そしてその緊張が解かれたとき、そのくつろぎも感覚できる。この「くつろぐ」ということは、基本的には実存的なものである。もし我々の生への姿勢が実存的なところで緊張しているとしたら、くつろぐことなどできない。そのときは、くつろごうと努力しても、それは不可能である。実際のところ、くつろごうという試み自体がナンセンスだ。くつろごうという馬鹿げた努力は、くつろぐことを妨げる有害なものでしかない。くつろごうとすることなどできるものではない。我々にできるのはただ、「くつろいでいる」ことだけ。くつろごうとする「我」がいること自体、くつろぐことを妨げる。くつろぎとは、我という不在を意味する。それは我々の側のどんな努力もしないことによって我が不在になりうる。どんな努力も努力である限り我がいるということを強めてしまう。それはそうなって当然なのだ。
    我々が何をやろうとそれはすべて我の行為になる。その行為を通して我が強められ、我がさらに「濃縮」され、我がますます「結晶」してゆく。その意味において、我々はくつろげない。我がいなくなってはじめて、くつろぎがやってくることができる。我の行為そのものが自我の一部となり、我の努力そのものが我々自身の延長となる。我がいなくなる瞬間、くつろぐことができる。我がいるということ自体が緊張なのである。我というのは緊張なしには存在することなどできない。この我こそが緊張そのものなのだ。我というのはアイアムネス、私であること、つまり社会の中に存在する私であるという意味だ。
    橋本敬三師の教えに「バルの戒め」というのがあり、その中に「頑張るな」というのがある。頑張る我が邪魔だと言っているのだ。くつろぎが実存的なものだと言うとき、それが意味しているのは、操体の逆モーションと同じ理論である。つまり、くつろぎではなく、緊張を理解することにある。我々にとって緊張は理解できるが、くつろぎは理解できない。それはとても無理なことだ。我々が理解できるのは緊張だけだ。緊張とは何か、どのようにそれがあるのか、どこからやってくるのか、それはどのように存在し、どんな手段で存在しているのか。そうやって緊張というものを全体的に理解する方法に「動診」なるものがある。からだの末端からの動きを通して全身への連動のプロセスの中で「表現」というからだの理解があらわになる。そのとき、緊張が解ける瞬間がやってくる。そうしたとき、くつろいでいるのはからだばかりではない、存在全体がくつろいでいるのを体験することになる。
    明日につづく

    日下和夫

  • 性論〜その7〜

    今も(朝5時半ですが眩暈のように感じるほど、余震のような地震で揺れています)
    昨日、3 月 11 日午後 2 時 46 分ごろマグニチュード 8.8 を記録する観測史上最大の地震
    東北地方太平洋沖で発生し、停電や火災、津波などの被害が拡大しています。
    地震の影響により、太平洋沖諸国においても大きな津波警報・注意報が発生しています。
    死亡者も確認されました。津波による被害も10キロ範囲を超え、石油コンビナートでの火災も起きており、
    一夜明けた今日も以前として不安定な状況です。
    関東も一部ライフラインの電気・水道・ガスも所々打撃を受け、多くの家庭で寒く暗いうえに電話も携帯も通じにくいようです。
    電力の要である、福島県原子力発電所では緊急停止状態にあり、今朝は長野県でも強い地震があったようです。
    私の地元神奈川県でも、都内に勤務している方々は電車不通により帰宅できず、不安な一夜を過ごし、
    お互いに家族の安否が気になっていることでしょう。
    災害にあわれた地域の一刻も早い復旧を、そして何よりも、日本中でこれ以上被害が広がらないことを願います。
    不眠不休で行われている総力を挙げた、災害救助活動される方達の安全を心から祈っています。

    それでは最終日に用意したテーマです。このようなときですが、よろしくお願いします。

    今日のテーマ「男性より女性の性に関する感覚は、本当に敏感なのだろうか?」

    先日紹介したミラーニューロンでいえば、女性の方が男性より神経活動も活発に反応しています。
    それにより共感も多い傾向がありますが、その理由はハッキリせず、未だ解明されていないのです。
    考えられることは、男性のテストステロン濃度が高いことによって、何らかの感覚制限を受けるのではないかというのです。

    そして、ワタシが面白いと感じたのは、
    サイエンスでいえば『DHEA』というホルモンです。
    (デヒドロエピアンドロステロンは、「ステロイドホルモン」であるテストステロンおよびエストラジオールの前駆体とされる)
    これは人間の副腎、精巣、卵巣等でつくられ、男らしくするテストステロン(男性ホルモン)や、
    女性らしくするエストロゲンに変化していくのですが、その途中につくられるようです。

    また、DHEAの産出量自体が思春期から徐々に増えていき、23歳頃ピークを迎え、70歳でピーク時の25%となり、
    90歳になると、10%にも減ってしまうようですネ。

    特に副腎から生産されているDHEAは、ワタシが考えるに東洋医学における『腎』であり、
    要するに『後天の精』ではないでしょうか?
    現代医学でも、DHEA量が減じてくることで「副腎疲労性症候群」という病名もあるらしいのですが・・・。

    さて、操体の臨床において、非常に大切な意味を持っているのは「皮膚」ですネ。
    (皆様、「皮膚からのメッセージ〜たにぐち書店、三浦寛著〜」は必読の内容でございます)

    面白いのは、このDHEA。皮膚にも多く含まれているのですネ。
    そして、脳でも作り出せるらしいDHEAは、形を変化させて別の性ホルモンになり、皮膚に吸収されているらしいッ(興奮チュッ!!)

    また男女の分布、つまり性差も顕著であって、
    男性は全身の皮膚に均等に吸収されているので、DHEAを計測すると常に一定の量であっても、
    女性の場合は、まず脳内での活性DHEA量は男性の比ではなく、
    要するに、男性よりも圧倒的に多いらしいのです。
    かつ、乳房や女性生殖器の周囲の皮膚に含まれている濃度、つまり皮膚吸収量量が高いらしいのです。

    DHEAは、一説に寄れば若返りに関連すると言われたり、性ホルモンの前駆体だとか言われているものの、はっきりしていません。
    しかしはっきりしていることもあるのです。
    それは、人間の”性”的な要求を高められるということ。
    そして、最終的なセックスのオーガズムに密接に関係しているということ。

    すべての生き物にとって、生殖・繁殖に必要な条件は、それぞれの生き物によって異なりますネ。
    人間は、自分の足で立って歩き、自分で相手を見つけることもできますが、植物はそうはいきません。
    交配してくれる昆虫を呼ぶための工夫があるわけです。
    種類の豊富な蘭などは、飛んでくる虫の好きなにおいを放ったり、好きな色を見せたり、
    あの手この手で引き寄せると言います。やはり、植物においてもそれほど大切な営みなのです。

    ここで質問です。考えてみてください。
    一体、このような仕組みを、何故生まれながらに獲得しているのでしょうか?
    DNAも誰かが作った仕組みなんでしょうか?

    それを学んでいくことこそ操体
    ワタシの感じていることも操体
    だ・か・ら、
    操体から離れることは自然から離れることを意味します。
    自分の「性」や「生」や「精」を(=精・気・神という東洋思想の意味)
    放棄することになり、どんなに頑張っても生かされているんだから、結局できない相談なのですネ。

    自然は生きています。人間も生きている限り、人間の想像を超えた自然災害もあります。
    その全てにいつでも準備をしうること、辛くともそれはできないのです。
    地震の際、帰宅していなかった小学3年生の次女は、学校の机下に潜り、泣きながら手を握りあっていたと教えてくれました。
    そして、小学5年生の長女は、本当に怖かったけど、みんなが心配で恥ずかしくて泣けなかったと、家族の顔を見て言いました。
    勿論心配はしていても、何かあってもその場では手伝えないこともあり、何かあっても私は何もできないかもしれない。
    だから、いつも私のできることだけ、そのままの姿を見せることで、共に時代を生きる人間として応援していきます。
    このような時こそ、家族だけではなく、そこにいる人達とお互いの手を握りあって協力は必要です。
    その場で生まれた”今の瞬間”の感覚を大切にしていたい。

    今回のブログ、まだ若いだけに飛びすぎてしまった感はあります・・・。
    (変態する龍)岡村郁生の一週間にお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。

    明日からはいよいよ、日下実行委員です。
    一週間の指示、教授をよろしくお願いいたします。

                                                  岡村郁生

  • 性論〜その6〜

    〜今まで知らなかったことを知る喜び〜

    (モノゴトに精通したい)
    小学校3・4年生用の「新しい保健」の教科書を見ていたら、知らなかったことが載っていた。
    〜文章より抜粋してみれば、女子の初めての月経を”初経”という。
    これは理解していたのだが、男子の初めての射精を”精通”というらしい。(いや〜良い勉強になったなァ)
    それにしても、ワタシの場合、童貞喪失ははっきり覚えていても、
    ”精通”ってのはいつだったのか?さっぱり覚えていない(笑)

    (性の考察)
    さて、紀元2世紀のギリシアの医師ガレノスは、
    男女の生殖器のぴったりした”間”の相補性について、なかなか面白い考察をしている。
    「女性のものを外に向けて裏返す、あるいは男性のものを内側に折り返してみれば、
     両者があらゆる点で同じことがわかるだろう」と述べた。
    それにしても「性」の面白い考察はかなりある。
    コメディアンのマーティ・フェルドマンは、「セックスは二+二が五になることだ」と言っている。

    (だからAVは必要?)
    これは「性」に限らないが、脳の専門家、池谷裕二氏によれば、
    「ミラーニューロンは脳内にあって、目で見た他人の動きに対して”共感する機能を持っている神経細胞である」という。
    例えば、相手がアイスクリームをすくう時に見ていると、こちらもスプーンですくっている時の神経細胞が発火する。
    つまり、見ている相手のなかで起きている、筋肉の興奮・筋反射とか、皮膚の感覚が『内側』からわかる。
    このミラーニューロンが活性化していくことによって“転写”が起こり、相手の内側で起きていることがわかるようになる。
    客観・鳥瞰・俯瞰的な感覚に“共感”できるばかりか、自分の身体の一部のように感じられるようになる。
    ちなみに、このミラーニューロンを刺激する薬を人間に投与してみると、幽体離脱のような現象を”自分で見る”ことになるらしい。
    考えようによってはまるで、興味により磨かれていく、非常に応用範囲の豊かなニューロンのようではないだろうか・・・。

    生殖器と民族性)
    大きく言えば、男性と女性の違い、それは生殖器
    聞いたところによれば、特に西洋において”性器”と言えば主に男性生殖器を指す。
    つまり西洋人にとっては、行為そのものに夢中になっていても、東洋人ほど女性の性器に興味はないらしい。
    なので、西洋ではストリップショーも、服を脱ぐプロセスがメインとなり、最後の一枚は終了なのである。
    驚いたことに民族性とはこのようなところにも関連している。
    それに対して日本人はそうではない。
    近代においては、興味があればこそ規制も厳しく、少し前まではアンダーヘアも禁止だった。
    もともと(古事記を読めばわかるが)性に関して非常におおらかで「性」に明るい民族性を育んでいたのだ。
    もともとが最先端なのだ。おおらかである土壌を大切に育んでいた。何一つも馬鹿にされるような文化ではない。
    まさに、美しい国ニッポンなのである。
    しっかり学んでこそ、文”化”に、くさかんむりが生じて”花”も開く。

    興味があるなら、色々えり好みをせず学んでもいい。
    橋本敬三先生の著書のある一節にも「下品=げぼん」という女性生殖器の位置表現がある。
    これは、舜露庵主人著『江戸の色道指南書の系譜〜葉文館出版〜』のなか、
    『艶道日夜女宝記』にある女性器7開のバリエーションの一つにもあって、
    「新開」「中品」「下品」「土器」「毛開」「核長」「前膝」というのもあるらしい。

    ここ訴えたいことは、ニッポンの女性達は素晴らしいと言うことだ。
    「性」の文化をおおらかに受けとめ、多くの男性に対する武器となり、宝ともなっている生殖器を、
    古来より”性の絶対的な違い”として、しかと認識しているのだろう。
    (ただ、更に聞いた話によれば女性器愛好のチャンピオン文化は、イスラムの世界。
     今も確認できる一つの根拠として、女性器に関しての語彙が最も多様なのはイスラム語)

    要するに、興味も人それぞれの自由。素直に受けとめて”自然法則の応用”こそ大切。
    国や民族性もあるのだから、いくら我こそ正しいと威張っても、受け入れやすくはならない。
    我を通す「性」のゴリ押しであっても、「相手」に受け取って貰えない。
    相手を思いやることも愛。それは自分の中に元々在る愛。そして限りなく自然の波動に近い愛でもある。

    そういえば、小説家・漫画家等の肩書きを持っている内田春菊さんが諦めたように書いていた。
    エロチックな描写シーンが過激になっているたびに聞かれてうんざりするらしい。
    「スゴイですね〜あれって内田さんの経験談ですよねぇ」
    「いいえ、違いますよ。自分で考えたことですよ」
    「また〜そんなこと言って誤魔化しちゃってェ(ムフフ)」
    特に、男性にこういう輩は多いそうである。
    いくら自由といっても、これでは結局、自分勝手な想像を目の前にいる女性に照らし合わせ、自慰しているのと同じだ。
    自制とは自己責任。手前で想像するのは勝手だが、相手に迷惑をかけてはいけない。

            
                                  岡村郁生   

  • 性論〜その5〜

    ある先生に紹介して頂いた本が手元にあります。
    「乗り移り人生相談〜島地勝彦著、講談社〜」
    この著書の面白いのは、しばしば文章に故柴田錬三郎氏、故今東光氏、故開高健氏の魂が移っていること。
    つまり島地氏の受け答えには、三人の師匠・先輩が今も生き続けていることなのです。
    経験豊かで含蓄のある「性」に関しては、間違いなく高級な品揃えです(笑)
    誰かに相談しにくいケースがあれば、ブランデー片手に御一読をお奨めします。

    ンッ・・・アイヤ〜、ふと考えれば、この人生においてワタシは操体を知ってしまったんですネ。
    知ってしまったと言うことは、操体を受けていく責任でもあり、操体を引きとる責任でもあり、
    操体を継承していく意味を、自身で学んでいく事に繋がっていくはずなのです。
    それは、責任を受け継ぐ意志でもあり、受け継いだゆえの喜び。
    島地氏のような含蓄ある言葉、センスあるユーモアも生まれ、更に育まれていることからも理解できます。

    さてここからは、昨日に引き続き「骨盤から考える自由とは?」をテーマにお送りいたします。
    注:十八歳未満の方、及びお堅い方(局所部位除き)、自称ウブな方々は十分に気をつけてください。

    (性生活と日常への繋がり)
    例えば、男女のセックス時に、女性の膣口の位置を称して、
    “下つき”と“上つき”という言葉で表現することがあります。
    この所以とは、正常位でのセックスの際、男性と女性の骨盤の位置関係からしても
    お互いに“後湾曲”では適合しにくい=しっくりできないことにあります。
    古来、“後湾曲”の女性側の骨盤を前湾曲させるべく、臀部の下に枕を敷きながらやや前湾曲気味に取らせていると、
    結合具合が次第に良くなってくる。とありますが、これはまた後湾曲が過度である場合(骨盤を含む)治療にもなっていたようです。

    いかがでしょうか?これはまさに日本の伝統的骨盤救済処置です(私が考えた訳ないッス)。
    経験が産んだ素晴らしき知恵でありますし、即効性のある処置法とも言えるのです。
    日本人の性生活とは、古来より布団中心であり、そこにベッドのような段差はありません。
    だからこそ正常位が基本たりえるのではないでしょうか。
    更に言うならば、日本式の便器は普通、しゃがんで小用をたすことも同様です。
    このしゃがんだ際に、骨盤が前湾曲しておらず後湾曲のままであれば、
    狙いは定まりにくく便器のあたりに粗相してしまう可能性が高くなるのですから。

    余談になりますが、日本の住まい様式も変化し、
    食習慣も欧米化しておりまして、便器までもが洋式になってしまうことで、
    最近の子供には日本式の便器では用を足せない、苦手な子供が増えたそうです。

    西洋化、核家族化が産みだした現象の一つに、「子供の自由」を認めることがあります。
    テーブルに椅子で食事をさせ、好きなお菓子を食べさせ、個室を与え、
    幼いうちからベッドに一人で寝かせておけば、西洋的嗜好は強くなるでしょう。

    古来日本の伝統として大切にされていた躾、文化とは連綿と繋がっている先祖からの智慧。
    このような素晴らしい文化を放棄してしまうことは、
    様々な日本の伝統的な生活様式を抹消していくことなのです。
    このことに懸念するのは、私だけでは無いはず。
    なぜ、日本人として生かされているのか、意識して生きてみることも必要となり、
    そもそも、西洋は東洋に混じりこそ発展し、東洋が西洋に混じる土壌では無いからです。

    ですから、本来は自由を知り自由であることを尊び、
    それを慈しむ文化と土壌を大切にしていた先人達の智慧、日本人としての文化としての意義、

    その神髄とも言える、橋本敬三先生の説く「骨盤の前湾曲=前傾・後傾ではない」を、
    理解しながら、日々の臨床における応用貢献を、そして、
    私たちの文化遺産と共に成立させる意義に賛同して頂きたい・・・それを願うのです。

    (*注:「前湾曲」を知りたかったら、4月29日の東京操体フォーラム分科会へ!)
                                            岡村郁生

  • 性論〜その4〜

    陰と陽。安静と興奮。ヘコミとデッパリ。入力と出力。
    相対するものに男と女を設定してあるならば、絶対的な性とは無いのでしょうか?
    まさに”性”そのものを感じるセックスを通した学びのなかに、大きなヒントや答えがあるような気がしてならない。

    二十年ほど前、ビデオショップ深夜店員をしながらAV(アダルトビデオ)を借りまくっていたのです(その頃が懐かしい)
    今では当たり前でも当時ビックリしたのは、若い男性だけでなく、かなりの高齢者までもAVは支持されているのですね。
    「性」は肉体を維持しうる期間、まっとうに許されているのに、現代は”陰”に隠されている本能の欲求なのでしょう。
    (あのお釈迦様も、お弟子さんに性欲を抑えることを教えるのに、相当苦労したようでありまして、まっコレはまた今度・・・)

    さて、ワタシが衝撃を受けた性の本、AV女優・AV女優2(永沢 光雄著)。
    もう少し大きくなったら、読んで見たら?と娘二人に手渡してみたい本の一つにしてあります(強制はしませんよ)
    ブログのことを考え、十年以上前にこの本を読んで非常に共感したこともありましてから、久々に読み返してみました。
    そして今、著者はどうしているのかな・・・と、調べてみたら47歳で亡くなっていたのです。
    (ありがとうございます。この場をお借りして永沢氏のご冥福をお祈り致します)
    この本は、故永沢氏渾身の性のルポであり、永沢氏あっての性のドキュメンタリーでもあります。

    本来、陰の存在でありながら、数え切れないほどの男性を救っている(と思う)AV女優達。
    この本の中で一貫して感じるのは、「性」の多様性、そして逞しささえ感じる「性」の優しさにあります。
    「全ての女性は菩薩様でありましょう!」と、本気で叫びたくなったり、心から唸ってしまうのです。
    一般的に言えば男は都合良く、「昼は淑女のように、夜は娼婦のように振る舞って欲しい」とでも思うのでしょうが、
    言ってみれば、変化していないものをみて、悪魔でもあり、天使ですと、考えたい甘えた意識があるのです。
    この女優達は、様々な辛い経験を背負っていることも確かにある。
    しかし、一時的にどうにでもなれとばかり、投げやりになっていても、ただそれで終わることはないのが素晴らしいわけで、
    そこから這い上がるすべ(方法)を女優達は赤裸々に語り、また永沢氏の筆致により(まさに)”酌み取った”感覚で綴られている。
    当時のワタシに明らかに足りなかった、「性」に苦しんでいることに対するヒントか何か、そのものがそこにあったのでしょう。
    面白いことに、何故か女優のコメントのなか、男性への見下しやあきらめとも言えるコメントがあっても、どこかホッとするのです。
    あえて言うならば・・・、
    生まれついての宿題のようなもの。これを世間で学んできなさい。あなただから大丈夫だから・・・と。

    さて、今日のテーマ(骨盤の位置関係と“ヒトとしての性の営み”に関する一考察〜その一〜)です。

    どのような綺麗事を言っても、ヒトにとってのセックスとは、言うまでもなく種族保存の本能であり、
    欠かすことの出来ない自然の営みそのものであります。

    橋本敬三先生の著書から引用すれば(生体の歪みを正す149P)
    「全骨格のうちで骨盤が最も重要な部分である。
    その上に脊柱が立ち、またその上には頭蓋を支えている。
    骨盤におけるいかなる変位変形も、脊柱及び胸郭の傾きまたは捻れの原因となり、これらは、ひいては胸腔、腹腔、骨盤腔にある諸内臓に対する支持力に何らかに異常を来たす。
    頭蓋は肩甲によって脊柱と、また胸郭に、密に関連している」
    「頭蓋内における中枢神経といえども骨格の変常から無影響ではあり得ない。
    上肢と下肢は、肩甲と骨盤によって脊柱と連関し、これらは互いに影響しあう」
    とあります。更に興味深いのは、
    「感情と骨格、さらに性格と骨格には相関性がある、
    同様に疾病と骨格にも相関性がある』

    このように本題の“骨盤”についても記載があり、
    骨相学における女性器の位置に触れ、骨盤の(空間における)歪みに対する重要性を説かれています。
    ・・・なるほど然りと頷ける内容であり、
    確かに臨床において?このような所見に遭遇する機会は多いものです。

    まあ、私なりの砕けた言い方になりますが、
    根本は“セックスに生じている”のですから、皆さんもう少し”真面目にセックスに対して学んでも良い”のです。
    そして“からだ”との不思議な繋がりを知ってみれば、面白いだけでなく、
    (精が気が神が)もれることなく”幸せになれるから”といっても言い過ぎではないのです。

    これはイノチにとって大切なことですから、誰にとっても非常に大切なことであり、
    実際に家庭から社会へ発信できる最高の波動形態でもあり、
    ひいては人類の平和にもつながる可能性は常にあります。

    まずはしっかりと、“からだ”の中心とも言える骨盤に興味を持って、
    自身で一つの実感として捉えてみれば、私がそうであったように”からだ”をきっかけとして、
    いかに自分のことに関して”無知”であり、無視を続けていたのか、”自ずとわかる”ということなのです。

    次回はこの続きを熱く!独断と偏見を交えながら?語ってみます。

                                         岡村郁生

  • 性論〜その3〜

    おはようございます。
    昨日の湘南は雪が降っていました。
    雪も降れば花粉症のワタシにも辛い時期?しかし、杉も繁殖のために生きているのだから仕方ない。
    けれど、花粉だけでは花粉症にならないのだ(OO病ともいえるの所以)
    では質問しよう?
    1.スギ花粉が少なく交通量の多い地区
    2.スギ花粉が多く、車の少ない地区
    さ〜て、どっちが、花粉症の人が多かったでしょう〜か?
    ハイ、正解は、
    1.スギ花粉が少なく交通量の多い地区なのでした〜。
    結果からわかることは、原因と言われている”自然現象”だけ悪いはず無いんですネ。
    現代増加しているのは言ってみれば、環境と私達の欲求が自然のバランスを崩すほどになっているからです。
    手がかからないから。
    疲れないで便利だから。
    楽ちんで早いから。
    排気ガス、農薬、食品添加物、それらの化学物質の増加なども要因なのです。
    何しろ日本はいまや、世界一添加物を使用している国です(嬉しくない)
    経済発展とは、大量生産を可能にし、食品製造の機械化や、利潤の追求のため、バランスの戻せる範囲をこえてしまう。
    ご存じのように操体において、
    環境そのものは、同時相関相補性により「からだ」に密接に関わり、「からだ」を少しづつ変えていきます。

    自分の感覚よりも、一般常識的なことを何でも鵜呑みにしていいのでしょうか。
    過去の政策、確かに林業も問題があったとはいえ、”杉だけ”を悪者にして済まそうとしている宣伝や情報なんて可笑しい。
    そもそも、バランスの崩れている人間こそ、自然を汲み取る勇気そのものは必要なのではないでしょうか。
    ま・・・お気楽極楽という”テ”もありますがネ。

    そもそもノーマルってなんだろう。
    男だけど男が好き。女だけど女が好き。
    人間であれば男女問わないで好き。

    ほ乳類であれば人間でなくても良い。
    女(男)の身につけるモノが欲しい・・・。女(男)のある部位があれば全ては要らない。

    よりマニアックな要求は、本当にマニアだけの意識なんだろうか?

    ワタシはそうは思っていない。と言うよりもそうは思えない。
    なぜならば、よほどのものであってもかなり共感できてしまうのだ。
    自分ではそんなに危ないとも思えない。自制できるのが人間であり、破壊できるのも人間だから・・・。

    テーマ「フェロモン小僧とフェロモン娘。」

    蛾を嫌いな人は多いと思いますが、夜に雌の蛾がジ〜ッとしていても、雄の蛾は黙っていても引きつけられてしまう。
    これは、フェロモンの働きなのですネ。
    勿論、交尾だけでなく仲間に危険を知らせたり、道筋を教えたりするのにも役立っているそうです。
    昆虫のコミュニケーション世界では当たり前のフェロモン。
    人間の世界でもあるのでしょうか?

    その前に、ブタ・脇の下・トリュフと聞いてフェロモンをイメージできますか?
    哺乳動物の雌の豚は、雄の豚の唾液中にある物質「5−α―アンドロステノール」を嗅いだ途端、”即座に”交尾姿勢を取ってしまうのだそうです。
    (それは素晴らしく“実践効果的”だと思った御仁いらっしゃるでしょう・・・が、豚さんの話ですから)

    そしてトリュフに至っては、雄豚の唾液に含まれている「5−α―アンドロステノール」が高濃度に含まれていると言うから驚きです。
    (なるほど、道理で豚にトリュフを探させているわけですね)

    ここからは人間の話です。
    生理不順に悩んでいる女性を集めて、男性の脇の下の汗を綿棒に浸し、一日数回嗅がせていく実験をすると(どんな実験だぁ〜笑)
    驚く無かれ!数ヶ月のうちに月経周期が一定になってくるらしいのです。

    それは紛れもなく男性ホルモンに近くもあり、脇の下の汗にも微量に含まれ、これが薄毛の原因でもあり、
    いまや男性に限らず、女性までも悩みの原因でもあるのですから人によっては相当に深刻で切実な問題でもあります。
    勿論、この感受性には個人差はあります。ただ、頭髪の場合はその感受性が高いほど薄毛の原因となっているわけですね。

    さて話を戻して、このフェロモン。
    ラットをはじめ、多くの動物に存在していて人間もその受け取る場所がわかっています。
    それは鼻の中にある「鋤鼻器管=ヤコブソン器管」というのですが、いまの医学ではその働き自体を否定されている説が多いのですネ。

    しかしそれでもイイので!夢ある私の大好きな仮説をここで紹介しましょう。
    生理的な感覚や、直感的にわかること。いわゆる女性の勘(第六〜七感覚?)と言うのは当たることが多い。
    それに対して男性の勘は鋭いとは、言いませんよね。

    その一説によれば、男性も女性も潜在的にフェロモン様の物質を嗅ぎ分けていることに発端はあり、
    これからのパートナーとなる相手を選ぶ時、コレでもって大切な判断を下しているらしいのですが、
    その伝達能力も感受能力も弱いので意識に昇ることは少ないらしいのです。

    しかし、そのフェロモンの及ぶ範囲は広く、例えば渋谷109の中で買い物をしながら、
    スクランブル交差点を歩く男性に異性としての適合性を感じることが出来る程・・らしいのです。
    だから、初めて訪れた土地なのに親しみが湧いたり、その町に何となく親しみを感じることもそれに起因するという訳ですネ。

    それから、その能力(勘)が男性よりも女性は特に直感的に優れている理由もあります。
    コレは生物学的に考えても更に納得できます。
    だって・・セックスの後、妊娠する可能性があるのはいつでも女性です。
    (ちなみに猫のセックスは一瞬で終了、しかも、雄のペニスは棘があり引き抜くとき傷をつけるらしい・・・痛そう)
    猫はともかく、人間の場合は思いっきり痛い思いをして出産に至るわけです。
    その後子育てを考えれば、その後最低でも10年、普通15〜20年は必要。
    いろんなことがあっても
    こんなに大変なことをできるのはお母さんだけです。

    橋本敬三先生も、
    「そりゃあ、なにが有難いって・・・お母さんですよ」と仰っております。

    ある日、祖母になった方が言っていました。
    「自分の孫が生まれた時、それは勿論嬉しかったけど、我が娘も母親になったんだ・・・と感じた瞬間は本当に涙がこぼれた」・・と。

    僕は三人の子供の父親ですが、どう頑張ってもお母さんにはなれません。
    どうして僕は男に生まれてきたんだろう?どうにも考えても始まりませんが、今も考えることがあります。

    またある方が想いを込めて言っていました。
    「亡くなる時に悲しさが違うのよね・・・母親って何か特別なのかしら・・・」
    こんな台詞を違う患者さんからも何回か聞いたことがあります。

    靖国神社で祀られているように、戦争でお国のためにイノチを散らした祖先も最期には母親を想う言葉を残す。

    お母様、ママ、お母さん、お袋さん、おっかさん・・・。
    いろんな場合があるでしょう、生きていても亡くなっていても構いません。
    最後に僕からの質問です。
    「どうですか、お母さんに感謝していますか・・・感謝できていますか?」

                                       岡村郁生

  • 性論〜その2〜

    誰でも、自分の力だけでは産まれ逝けない。
    しかし、一般的には一人になり「オギャー」と産まれて、その末「ウッ」と息を引き取ることになる。
    同時に、誰かと共に産まれようとか、同時に亡くなろうとか、そんなことは許されていないのである。
    自己責任における生をまっとうする。
    そんなことを考えると、本当に辛いと考えてしまうのかもしれない。

    しかし、生かされているから生きていられる人間の、大きなイベント。
    恋愛のクライマックスにあるのがセックス。
    セックスの喜びを知らずに人間の歴史は無いのだから。

    そもそも何故セックスには生殖行為が伴うのだろうか?
    生殖行為のなかの一つに、セックスが必要なんだろう。

    性がオス、メスの二つしかないのは何故なのか。
    この生命として根源的な理由に答えられるサイエンスは未だ無い。
    哲学的思想観や、信仰観の中にみいだしていくより無いのだろうか。

    何故ワタシは、男(女)に生まれてきたのだろうか?
    もし女(男)ならば、こんなに苦しまないんじゃないか・・・。
    そんなことを考えている暇など無いほど、素敵な人生を送っている人間もいるだろう。

    <オッパイがいっぱい>

    女の子に生まれてくれば良かったな・・・本気でそう思っていたのは思春期の頃。
    可愛い格好や身綺麗にすることを、徹底的に突き詰めてみたかった頃がありました。
    ワタシの場合、その当時の美しさの象徴はなんと言っても乳房のラインであり、オッパイですね。

    高校生だった頃、乳房の絵を描くのが大好きな友人がいました。
    その友人は私達がトイレに行った隙を見計らって「オッパイがいっぱい」と書いて、
    やたら沢山の乳房の絵を勉強のノートや机の上に書きまくっていたのです。
    まあ・・・馬鹿馬鹿しいと思いますか?いや、羨ましかったですね。
    当時ムッツリスケベと言われていたワタシにとって、あれほど堂々としていれば・・・と。
    当時言えなかったのですが、誰がみても綺麗なオッパイの絵を描いていたのです。
    「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものだ(本当か?)
    その友人も、既に不惑(四十代)になって、さすがに今は描いていないと思うのですが・・・(笑)

    さて、僕の記憶で忘れられないオッパイ事件ナンバーワン!といえば、
    小学校五年生の時に友人の家に遊びに行ったとき、わりと綺麗なお母さんが(友人がいないときに)
    冗談混じりに「まだオッパイが好きなの?」と言って、いきなりペロンと上着をめくって乳房を見せてくれた事件である。
    もう本気でドキドキしてしまい、しばらく脳裏に焼き付いてしまったのですが、
    子供心になんとなくいけない秘密をつくってしまったような気がして、勿論その友人にも言えず、
    自分の親にも言えず、一人悶々としていたことを覚えています・・・いや、イイ時代だった(笑)
    そういえば小学校の時に、道端や川縁に落ちているヌード写真を見つけて友人とこっそり見に行ったことも今は懐かしい思い出ですねぇ。

    さて、バカ話はこれくらいにして・・・・(いくらでもあるのでまた今度)
    真面目な話を一つ。

    山口県の光市は日本で唯一、「おっぱい都市宣言」をしているのです。
    それは、全国でも有数の完全母乳栄養率の高い都市と言うことでもあり(70%前後)全国平均の40%未満をはるかに超えているのです。
    ここに光市の「おっぱい都市宣言」を紹介します。

    一、 私たちは、おっぱいをとおして“母と子と父そして人にやさしいまち光”をつくります。

    二、 私たちは、おっぱいという胸のぬくもりの中で子どもをしっかりと抱き、愛しみ、心豊かで健やかな輝く光っ子を育てます。

    三、 私たちは、全ての母親のおっぱいが、より豊かに赤ちゃんに与えられるよう皆で手助けします。

    四、 私たちは、おっぱいを尊び、偉大なる母を皆で守ります。

    いやもう脱帽です!本当に素晴らしい憲章ですネ。
    平成17年に光市が、この宣言を行うのに一番苦労したのは大先輩の議員、特に男性議員の説得だったと言います。
    要するに「おっぱいは、いやらしい」という意見がとても多かったのです。

    ワタシが思うに、イヤらしいと思う“心がいやらしい”だけなのです。

    母乳の出る母親を賞賛しているだけではなく、子ども達が地域の愛情に育まれてすくすくと育つように市が支援しているという宣言なのです。
    子ども達が健全に育つためには、親だけでなく近隣の温かな目が必要なのであり、地域全体で子ども達を見守っていると言う意識こそ必要である・・ということなのです。
    ここから、様々な発展があるわけですネ。

    特に訪問活動が盛んに行われていて、3歳までに十三回以上も!母子を訪問するそうです。
    例えば、“食育”として“コショク”を指導するのですが、(すなわち「食」の問題)
    個食(家族個人がそれぞれ好きなものだけ食べる)、
    孤食(一人っきりで孤独感のある食事)
    固食(決まったものしか食べられない)
    などのアドバイスや、保育や育児中のストレスの緩和をアドバイスするそうです。
    東京都の故青島元知事も視察に訪れて、何かしら採り入れたかったそうですが、
    なかなか・・・頭でっかち?の男性議員の説得は難しかったんじゃないでしょうか。

    その点、オッパイは女性にとってはイヤらしくもナイのです。
    それはそうでしょうね・・・自分に元々存在しているものを普通は否定しませんからね。

    ともかく、操体を学んでいる私たちにとっても、活躍できそうなおっぱい宣言です。
    そういえば最近、外出時におっぱいをあげているお母さんを見かけなくなりましたね。
    こんな時のマナーとして、男性たるもの紳士的でなくてはいけません。
    授乳中の女性をじろじろ見るなんて、以ての外(もってのほか)です。
    混浴のマナーと一緒で、入湯時と出るときには後ろを向いて視線を外すものです。
    オッパイをどんなに好きでも、人様に迷惑かけたらいけません!

    ワタシですか?
    勿論、今なら自制出来ますよ。高校生の時はゴメンナサイ・・でした(笑)

                                              岡村郁生

  • 性論〜その1〜

    鵜原実行委員から紹介頂きました性には奥手(奥の手?)で有名なミドルエイジがいよいよ登場します。
    では張り切ってどうぞ〜!!

    ハイ。
    今週おつきあい頂きますのは、茅ヶ崎湘南海部屋出身、モッコリ龍こと岡村郁生です。
    どうぞよろしくお願いいたします。

    一生のテーマをセックスにしようと言ったのは、橋本敬三先生ですが、
    三浦寛理事長も「快」を一生のテーマにされています。
    ですから、私も今回はハッスルしてみますヨ〜!一週間だけに七杯アグラ!!。

    さて、早速ですが一週間のテーマはこちら。ドン!(みのさん風に)

    「元々素晴らしい人間だから、卑下しなさんな、馬鹿にしなさんな」です。

    そもそも、性・セックスの謎解きそのものは、
    心とからだの不思議を紐解いているサイエンスを超えた真理なのであります。

    このテーマでは鬼に金棒、悟空に如意棒である。
    なぜなら、限りなくワタシの興味と嗜好と一致しているから(笑)

    そして、性は自分に向き合うには最高の手段である。
    だから、誰かこう言ったからではなくそのことを自分ではどうなのか、で受け取って欲しい。
    テーマがセックス(性)だけに、改めて真正面から自分に向き合ってみる機会になるだろう。
    そして、誰がそう感じるかではなく、自分の感じたことがすべてそのままにある。

    古今東西、老若男女問わず異性に対する興味は、理屈で成立することではありません。
    いつの時代にも連綿と紡がれいる人間の歴史が存在しています。
    それは、生物である霊長類ヒト目ヒト科のヒトにとっても、
    生殖とは生命の要であり、この行為そのものは、内的に様々な側面を含んでいるからに違いありません。

    どこから来たのかわかりませんが、魂を抱き、意識を感じ、肉体を味わう期限を持って生まれている人間。
    必然としての流れを生じる理由もそこにある。
    つながっていれば新たな寿命、もっと言えば、新たな幸福を産みだしていけるのですから・・・。

    ワタシが思うに、「救われている」こと。
    これが最も自覚できるのは、セックスそのものが気持ちよい。
    異性・同性問わず、交接意識にある感覚変化。これであり、コレにつきる。
    否応なしに性を感じ、否応なしに原始感覚と交わる。

    セックス。そこに至る流れから生じる恋愛、情愛もあり、
    そこから分岐する自由も人間にはあり程度、認められている。

    大切なことを感じて観るには、原点回帰も必要でしょうネ。

    今回のテーマ「オタマジャクシの行方〜いずれどこかへカエル〜」

    顕在意識において、確認できることだけではありませんが、
    目的に沿って、そもそもコトに望むにあたり、その理由はありますね。
    働き蟻を観察しているとわかるらしいのですが、
    エリートの蟻が二割、普通の働き蟻は六割、
    そして何にもせずフラフラするだけの蟻が二割いる。
    人間の考え方で言うならば、二割だろうとそれは困るとわけです。
    しかし、その働いていない蟻を別の場所に移してしまうと、
    残りの蟻の中からやはり働かずにフラフラする蟻が二割程度出現してしまう。
    それは自然の成り立ちとしての原始感覚なのかもしれない。
    壁を作りやすい人間の固まった考え方にこそ、偏りは存在することを示す好例のようですネ。

    エリートの蟻だけにすることは難しい。
    こんな難しいことを、どうして求めてしまうのか?
    それも人間の悲しい性・・・ゆえかもしれません。

    生活上で自覚できること、顕在意識の中にこそ、生き方の目的とする行動の鍵があるのでしょうか。
    心理学で有名なユングは、
    顕在意識に昇ってくる以前に存在している潜在意識にこそ注目すべきだとしています。
    つまり、意味のないことは意味のあるコトに繋がっているのでしょうか?

    面白いのは男なら誰でも知っているオタマジャクシ。
    それは精子ですね。そして、男性の射精した精子にも受精能力を持たない異常精子があるのです。
    おかしなコトではありません。これは環境ホルモン亜鉛不足でもありません。
    もともと運動能力の無い精子や、奇形などの精子が含まれているのです。

    そしてその数は2〜3億になる一回の射精量の約四割を占めると言うから驚きますネェ。
    この理由は今もってわからないんですから。
    適当と思われる理屈ならいくらでもつけられるのです。
    (だから受精の際、卵子が優良な精子を選択するシステムになっている・・・等)
    でもそれ自体、四割もの役に立たない精子を射精する理由には全くなっていないのです。

    私が感心した面白い説を紹介します。
    イギリスの生物学者ロビンベイカー教授は、
    この四割を占める精子に受精能力はないけれど、いつ射精されるかわからない他人の精子が入ってきてしまうのを
    ブロックしている立派な戦士その名も「ブロッカー」だと言うのです。

    更にブロッカーよりも俊敏で、積極的に活動して他人の精子を攻撃する「キラー」もいるようで、
    女性が浮気して他人の精子が隙をうかがって入ろうものならば、
    そうはさせまいと壮絶な戦争を仕掛けるというのです。

    そこで、精子である自分たちのなかから選ばれしもの、「エッグゲッター」は、
    警備や防御に煩わされることなく子宮内から頸管までを安心して任せたまま、
    卵子が排出されるのを今か今かと待ちわびて、アメフトのタッチダウンがごとく疾走するというのです。

    この仮説が大好きな私は、なるほどナァ・・・・・と思わずにはいられません。

    だから、生前の身分そのものが、スーパーマン(ウーマン)そのものなんですネ。
    (当たり前ですが、バットマンでもロビンやジョーカーが存在するから主役でいられるわけです)

    生まれてきて何かを成す理由があり、
    その前に、生まれてきた時点で何かを成す為に来る。
    ウルトラマンの歌にある「光の星から僕らのために」というのは・・なんだ私のことだったのか(笑)

    まッそれはともかく。
    操体の臨床は、「快」をききわけること。「快」を味わうこと。
    もともと頂いている、それはイヤなことではないなんて、アア・・ありがたき幸せでございます。

    からだの意思。それは原始感覚。
    天然自然の法則性。生かされし生命観そのもの。
    何故なら、操体の創始者橋本敬三先生曰く「生まれる前から救われている」と教えて頂くのですから。

                                        岡村郁生

  • ORGASM

    今日は新月、新たな出発の日です。最終日となりました。今日もよろしくお願いします。
     今回いろいろ調べていくうちに、すばらしい文献に出逢いました。要約してみたいと思います。

    ORGASM
     まず第一に、男性が女性と愛を交わしていて、オルガスムを感じ、歓びのなかにあるとき、それは相手の女性とはなんのかかわりもない―そのすべては男性の中で起こっている。
     女性がオルガスムを感じているときも同じことがいえる。それは相手の男性とはまったく関係がない。

     相手は、助け、口実、きっかけにはなっているかもしれないが、オルガスムはひとりのもの、分かち合うことができないプライベートなものだ。お互い、相手のことは、観察見学はできるが参加はできない。
     二人はいっしょにいるが歓びを分かち合うことはできない。
     二人がいっしょにオルガスムを感じているときでさえ、お互いに影響されない、完全に自分のなかにいる。つまりすべてのオルガスムは、深いところでは、マスターベーションだということだ。

     第二は、オルガスムが起こっているとき、性中枢とは何の関係もないということだ。深いところでは、性中枢で起こっているのではなく脳で起こっている。
     女性のオルガスムは右の脳で起こる、それが女性的な質の中枢だからだ。
     男性のオルガスムは左側の脳で起こる、それは男性的な脳だ。
     脳のこの両方がいっしょになったとき、大いなる歓びが生まれ全面的なオルガスムが起こる。
     最後のポイントは、歓びは正確には脳の中で起こっていない―それは脳のこの両方の背後に立っている目撃者に起こる・・・。
     この目撃者を知ることがひとつになること、絶対的にひとつになることだ。
     そのとき、二人のなかの男性と女性は完全に消えてしまい、その〈ひとつのもの〉のなかに失われる。二人は瞬間から瞬間をオルガスムに満ちた存在として生きる。その状態のなかで、セックスはおのずから消えうせてしまう。それはなくてもいいからだ。
     〈目撃〉のなかで、二人はオルガスムに満たされる。そのときオルガスムはつかのまのものではなくなる―そのときそれは本性そのものになる。これが歓喜というものだ。

     オルガスムには「絶頂のオルガスム」と「谷のオルガスム」とがあって谷の方は最も深いリラクゼーションの谷底そのものに至る。どちらも最初は興奮をつかわなければならない。最初はどちらも同じだが最後はまったく異なっている。
     谷を、くつろぎのオルガスムを感じ気づいたなら、それが超越だ。それは瞑想になっている。

     いかがでしょうか?私にはすばらしい発見でした。詳しくは直接文献にあたってみてください。

    和尚OSHO著
    「英知の辞典」
     めるくまーる刊

    1週間にわたってお付き合いいただき本当にありがとうございました。

     来週からは、みなさまお待ちかねの岡村さんです。よろしくお願いします。

    鵜原増満