カテゴリー: 岡村郁生(おかむらいくお)

  • ヒーローになる、そのイマジネーション

    『イメージはうごきである』
    操体の学びのなかで、三浦寛理事長に教えて頂いたことの一つ。

    テレビで某チャレンジ番組を見ていたら、最後の締めくくりとなる局面で、
    チャレンジグループの代表として、若手俳優が代表となって選ばれていた。
    画面から見ている限りでは、かなり不安定な体勢で、かつ緊張感もあり、集中力が必要であろうその時、こんなことを言っていた。

    「僕のチャレンジを、子供達が見てくれていると思うんです。
    だから、このチャレンジを見てくれている子供達のためにも、
    そして、自分のためにも頑張りたいと思います・・・成功させます!」

    それまでの経過を見ていると、芸能界からすれば仕事なので当たり前だが、
    とにかく俺がやってやるぜ的、強いアピールばかりだったので、ふと聞いただけで、その言葉の意味は耳に残ったのだろう。

    そして彼は見事に代表チャレンジを成功させ、“見えざる何か”に感動したのだろう。
    自分では決して出来ない、演技でない感動の涙を流していた。

    実はその俳優、ウルトラマンコスモスの主役をしていたのですね。

    ちなみにその俳優の奥さんは、某人気アイドルグループの一員でした。、
    (その彼と、入籍、お目出度を一緒に発表していたのです)
    その彼女があるトーク番組に出演していたときに、
    芸能界の先輩達の中で、楽しそうに新婚生活と子育てをこんな風に語っていた。

    小さい頃から芸能界という、特殊な環境で仕事をさせて頂いてきたので、
    その時には気付かず、当たり前だと思っていたことが、本当は色々と支えられていたこと。
    そのありがたみが、本当に大切ものなのだとわかった。
    結婚とは他人と一緒に暮らすこと、出産とは自分が育てる親の立場になったこと、
    そのようなきっかけがあって、本当に恵まれていたこと。それがわかってきたんです。
    今まで気が付かなかったことに気が付いて、自分を振り返るきっかけをもらって、
    本当に毎日が楽しい、「大変でしょう」って言われるけれど本当に全然そう思わないですよ。
    ・・・と言うような内容だった。

    この若き夫婦は、日本の新しい世代を代表しているように感じる。
    次世代へ繋ぐ希望の光とは、そう遠いことではなく身近に感じていたいから。

    ほんとうにたいせつなものは、目には見えない。

    だからこそ、僕自身が見えないものから発信される意味を感じたい。
    自分にとって気分が良い、気持ちがよいものを取り入れて、一緒になって感じていたい。
    そうすれば、周りに伝わっていく。
    勝手にみんな気分がよくなってくれる。

    ちなみに、ウルトラマンは何万光年も離れた世界からやってくる宇宙人だ。
    一光年とは、一秒に30万キロも進んでいくことのできる光の速さで一年間かかる距離。

    この世の中には、見えるもので光の速さを超えるものはない。
    なぜならば光の重さとはゼロだから。
    質量が増えることで加速しにくくなるし、加速しにくくなれば必要なエネルギーは増える。
    その速さが光を追い抜く事は出来ない理由である。

    しかし将来には、
    一瞬にして光に近いスピードで、かつそれを超えることも可能に出来る。
    地球人の肉体に執着してしまえば、常識では計れないことがわかる。

    ウルトラマンのような宇宙人の世界では、それが常識ということを。

    伝えたいことのメッセージとして、ウルトラマンは他のウルトラマンに対して、
    ほんの一瞬でサインを送ることが出来る。
    それは梵字をモチーフにしたものらしいのだが、ウルトラサインという。

    わかっていることは、それを夢にしないことが僕の夢だと言うことだ。

    そしてきっと三浦寛理事長はじめ、操体を学んでいる同志は、
    そんなことさえ馬鹿にしないで聞いてくれるだろう(強制的希望?)

    なぜならば、
    操体法の創始者、橋本敬三師の意思・言霊をあれほどまでにかみ砕きながら、
    フォーラムの際、私たちに惜しげもなく披露してくれるのです。

    その学びの姿とは、僕からすれば”三茶のウルトラマン”として貫禄十分であり、
    そのルックスでさえ”ウルトラの父”を彷彿させてしまう。

    さしずめ僕は今のところ、
    その左足に鎖をぶら下げているアストラかな?(マニアックですいません)
    操体を学びながら、その鎖を少しずつ短く、薄くしているような感じです。
    ちなみにその鎖とは、肉体に執着することで生じるしがらみとか、
    本当は無いものをあると思ったりする自我の欲とか、
    それ自体に意味を持たせてしまっている僕の心ですね。

    僕の言っていることが、何言っているのか良くわからない?
    それならば、
    この春に行われる、東京操体フォーラムの分科会の懇親会でお話ししましょう。
    お後が宜しいようで・・・。

    それでは、今までも明日もありがとうございます。

    岡村郁生

  • 一富士、二鷹、三茄子、そして4着物?

    皆様、あけましておめでとうございます。
    本年も東京操体フォーラムをよろしくお願いいたします。
    福岡から秋穂理事の命を受けてバトンを引き継いだ、茅ヶ崎の”空想でっか”龍こと岡村郁生です。
    一週間よろしくお願いいたします。

    さて、初夢は皆さんごらんになりましたか?
    私は昨年に引き続いて、何故か?
    「三浦理事長と愉快な仲間達」みたいな夢ばっかり見ています。

    初夢の中では、何故か?美術の先生をしている三浦先生が、
    いろんな方々に指導しながら熱血先生をしていました。
    厳しく忙しく教え子達の質問に答えながら、とうとう私のところへまわってくるのです。
    そこで、何を言われたかと言えば・・・、

    「お前の描いていることはわかる。お前自身が面白ければ構わないと思っているかもしれないが、
     それではお前らしくないことに、いい加減気がついたらどうだ?」
    ・・・と言うようなことを、昔のサムライのようなドキッとする眼力で言われる始末。
    それならば、
    ムキになって思った通りのことをおこなうと、
      「ウン、それで良いんだよ!」
    と言うようなことを言われるのです。アア・・なんともリアル!これが初夢とは!!

    以前、仙台の今昭宏顧問から温古堂での修業時代のお話で、
    温古堂にある掛け軸をみて、橋本敬三師に質問してみると大きな声で「何でも良いからやってみろ〜」
    と言われて、今先生はその掛け軸に急いで書き足したら・・・、
    ニコニコしながら橋本敬三師は、「それで良いんだよ」とおっしゃった、それがこんな感じのお話でしたね。

    本当に昨年からなのですが、
    何故か?夢をよく見るようになりました。
    カラーで、周りにいる人物がほとんど顔見知りばかりなんですよね。
    ただ一つだけ、不思議なことがあります。

    夢の中の僕は、ほとんど自分の声を出さないのです。
    言うならば、映画を見ている感じなのですネ。

    本年も東京操体フォーラムの一員として恥ずかしくないように、(自分自身の活動はともかく)
    しっかり発信できるお年玉や、打ち上げ花火をあげてみます。

    それでは、一週間よろしくお願いします。

    年の初め、この時期ならではのお楽しみといえば・・・、
    初詣、おせち料理、福袋、そして着物?
    新春のテレビを見ていてもわかるように、お正月らしさの演出にお正月は着物があります。
    元々日本にあるものでありながら、いつまでも新鮮な感じがあります。

    (着物(きもの)は、日本語では以下のものをさす。以前は著物とも書かれた。身につける衣服一般を指す。
     洋服に対し、古くから日本で着用されてきた衣服としての和服(和装)を指す・・・ウィキペディアより)

    着物に限らず、伝統的なものとは本来、
    このように色々な応用が利いて、しかも充分に実用的でありながら機能的なんですネ。
    そして何よりもお洒落!これは個人的にも外せません。

    それというのも僕の父親は、
    私が学童期から思春期まで呉服関係の仕事を自営業でしていたのです。
    ですから、反物とか着物とかは意外に身近なものでした。

    自営業であればお客さんの都合次第でもあり、
    小さい頃の日曜日といえば「今日もドライブに連れてってやるゾ〜」と言う父と一緒に、
    お客さんの家を車で伺ったり、公民館でイベントをやったりするのに付いていくのです。

    その時は車で一人待っているので、その頃から僕は空想するようになりました。
    しばらくポカ〜ンとしていると、色々なものが遊んでくれるように感じてきます。
    例えば、
    ボールペンが僕を乗せてロケットになって自由自在にワープしてみたり、
    車のシートは机になって、そこらにある色々な動物と戯れてみたりするのです。

    エッ・・それは一歩間違うと危ないって?
    マァそうかもしれませんけれど、実際に目に見えていることだけでは遊べませんよ。
    毎回、車の中で長いときは二時間くらい待っているわけですから。

    何でもそうですが、愉しむにはコツがあると思います。

    形あるものだけで遊んでいては勿体ない。
    目に“見えていることだけ”で遊んでいては飽きてしまう。
    そこにあるものを、
    “与えられた遊び方”で遊んでいても、いずれ飽きてしまう。
    自由であれば、底知れず愉しめる。
    そうなんです、見えない世界とは意外と・・身近なのかもしれません。

    臨床そのものも同じで、
    いつでも同じことを繰り返しているとすれば、
    それは仕事ではなく、作業になってくるのでしょう。

    基本があって応用がある。
    その基本を成長させていけるのが操体の学びでもあります。
    そう考えてみると、
    “からだ”を診せて頂く臨床そのものが応用であって、その基本単位とは、イノチにあります。

    イノチという最小単位にして感じ取れば、相当なものが含まれています。

    その理由となる大切なこと、それは自分のことを学んでいるのです。

    そういえば僕自身、小さい頃からよく言われましたね。
    「勉強してもしなくても良い、だけど困るのは自分自身なんだぞ」・・・と。
    そう!思い出しましたよ、三十年ぶりに(笑)
    空想も大好きな僕は、車の中で学校の宿題もしていましたね。

    まあ、そういうわけで・・飽きずに学び続けられることは、大切なのです。

    それでは皆様の本年の本気に、アタックチャーンス!!
    ありがとうございます。

    岡村郁生

  • メッセージを受け取るのは・・・

    湘南に朝がやっってまいりました!皆様おはようございます。
    気持ちが良い朝です、日々心して使わせて頂いた一週間の朝でした。

    皆様の朝も、日々気持ちが良い目覚めでありますように!!

    〜今週の夢日記より〜

    『・・・ある星があった。
     かすかな光しか持たないために、誰にも知られず、孤独なのであるが、
     太陽の光を借りて、成長は続いており、
     少しずつ脱皮しながら、変化していた。
     その変化は理由があった。
     それは、何かしら役に立ちたい、という願望のなせる力であり、
     そのためには、タフであり続けることが、できたのである。

     その星の名は、
     今では立派な名前が出来て、多くの生物に愛されている。
     ・・・”地球”というのだ・・・』

    いわゆるまどろみの中、夢精に近い状態での頭が書き留めた僕の妄想です(笑)
    点と線そして面へ、立体へと繋がっていけば・・・更なる展開(四次元?)が待っているのでしょうか?
    降りてきて羽はなくなったけれど、いずれ天空と星空の守り人になってみたいものです。

    ”クーソー(空想)はアタマのコヤシです”

    意識して磨き上げれば、”紙一重まで”バランス現象はあると思いますし、
    それさえ意識できれば、捨ててしまうのも拾うのも許されているのは“ヒト”でもあります。

    アインシュタインも、
    「科学者の栄光は自分の立てた仮説が、後からやってくる、
     より包括的な理論の中の一部分に妥当する理説として生き残ることだ」・・・といっております。

    仮説を立てて、まず検証してみる。
    例えば、
    よく聞くのが、「何となくOO」とか、「生理的にOO」という言葉。
    一体どうしてそんなことがわかるのだろう、一体どこで感じているのだろう?

    何気なくそんなことを女性スタッフに聞いてみると、
    ”即答”で、「やっぱり皮膚じゃないですか?」と、教えてくれた。

    “勘”、“思いつき”、“インスピレーション”、
    “何となく”、“虫のしらせ”、“胸騒ぎ”
    “偶然”、“夢”、“天の声”、・・・・。

    何となく気になってしまうことや、心に引っかかること。
    単純に予感なんだけど確信に近い感じ・・・。
    そんなことって、無駄なことではない筈なのです。
    やはり、”からだ”が教えてくれる大事なメッセージでしょうネ。

    ある日の三軒茶屋レッスンの帰り道でも、
    「ハッと何か閃くことがあるだろう?」
    「そんなときは“立ち止まって”メモを取り出すんだよ」
    「そのまま後で思い出したら書けばいいや・・・なんて思っていると忘れちゃうんだよ」
    と、教えてくれました。

    先日の経験ですが、
    自転車で江ノ島まで走りながら、自分の発表テーマについて考えていまして、
    しかも、言葉に出して話していたら、(要するに独り言です)
    自分でも惚れちゃうくらいに素敵なメッセージをしゃべっていたんですよ!
    それで、
    帰ってから書きとめよう!ムフフ〜な〜んて思っていたら・・・ほとんど綺麗さっぱり!
    忘却の彼方へと旅立ってしまったのでした(涙)
    そういえば、
    DNAの発見も夢に現れた螺旋図が、元になったらしいですからね(へェ〜へェ〜)

    大いなる夢を抱く。抱いた夢を夢で終わらせない。
    そのためにも妥協してはいけないことがある。

    有り難いことに”師”は、
    先人として常に前を見つめ、ひたむきに歩み続けてヒントをくれる。
    そして操体を通じ、輝かしい希望を抱かせてくれるのです。

    僕たちも、この「Message from “KAI”」に適うように、
    それぞれに真摯に受け止めようではありませんか。
    そしてそれは、
    ”自分自身のため”でありながら、”自分自身を超えていく”ことでしょう・・・。

    三浦寛著 たにぐち書店刊 「快からのメッセージ」247〜248Pより抜粋>

    「〜前略〜 
     私は十数年前に『魚の命は水にある』という名訓を知りました。
     自分の ”イノチというもの”は、
     このイノチを ”生かしてくれているそのものの存在”にあるのだと言う意味です。
     
     このイノチを生かしてくれるという大存在とは、この ”宇宙という生命”であり、
     イノチそのものが ”私のイノチを生かしてくれているそのものの存在”であるという認識に立つこと、
     そして、『報いの生命観』から『救いの生命観』に目覚めることが必要になってくるのです。
      
     最後に、操体のいきつくところは ”心の調和、心の制御のあり方”だと思います。

     それは医学の進むべき道とも言えるでしょうが、
     今の治療医学では現実の問題として対処しきれない数々の問題をかかえこんでいます。
     
     たとえば延命治療としての医学は限界があります。
     死にゆく人に対しての心の医学、甘く眠る、 ”ねむるがごとき死を迎えられる”ような甘瞑の医学、
     ”人の生死観をとおした人間学”が問われる時代に入っているのです。

     ヒトは死のキャリアをもって生まれてきます。
     医学も、医者も、この死という発症(キャリア)を止めることは出来ないのですから。
     
     しかし、操体では ”肉体の死を死としてとらえていない”のです。
     帰一の法則としてとらえているのです。

     帰一とは、命あるものは ”無条件の愛”から生まれ、そして、その神性に帰って行くことなのです。
     ヒトは ”一番気持ちがいいところ”から生まれ、
     そして、”一番気持ちがいいところ”に帰っていくのです。
     
     これが ”帰一の法則”です」・・・と教えてくれました。

     (注:失礼ながら文章に、岡村が ””を入れさせて頂きました。以下の文章も同様です)

     そしてあの、宮沢賢治氏も、

    「世界が ”ぜんたい幸福”にならないうちは、個人の幸福はありえない。

     自我の意識は、”個人”から”集団社会”、”宇宙”と次第に進化する。

     この方法は、古い聖者の踏み、教えた道ではないか」・・・と書かれています。

    ”自然法則”を説いて下さっている先輩方の、含蓄ある経験に基づく言葉にゾクゾクしませんか?

    シビれませんか!?思わずイッチャイそうです!(何が?ってアレです)
    江ノ島近辺でクラゲに刺されたことよりも(笑)、ず〜っと疼きますし痺れますネ!!

    それでは今日はこのあたりで後始末(何の?)をしたいと思います。
    皆様のこれからの人生も、なにかに痺れていますように!!

    この一週間、ある意味勧誘よりしつこい(笑)しかも長い文章ばっかりの(爆)
    ”マジックリン”岡村にお付き合い頂きまして、
    本当〜にありがとうございました!

    そしてバトンは、誰が呼んだかフォーラムの ”静かなる熱き漢”こと、
    次週から登場の甲斐田実行委員デス!!
    皆様が楽しみにしている続き・・・も、どうか宜しくお願いいたしますゥ!

  • いつまでも尊厳ある人生へ

    皆様おはようございます。今日も天気の良い湘南から6日目をお送りいたします。

    昨日私がお休みでしたので、夏休み最後に家族全員で海遊びに行って来ました。
    そよぐ潮風にあたりながら行う、”般若身経”は何とも言えず気分が良いですネ。

    9歳と7歳になる娘達は、
    巻き貝(タニシみたいな)・蟹(沢ガニみたいな)・小魚(シラスみたいな)ものから、
    クラゲまで捕ってきてバケツ一杯になるまで誇らしげに見せてくれるのですが、
    2歳の息子はそれらの生き物を棒でつつき回しています。
    なんだか縄文時代のDNAなのかもしれないナ・・・と潜在的逞しさを感じさせてくれました。

    自然に親しむのはやはり良いですね。
    カラダになにかの、スイッチが入るのを感じます。
    勿論、”仙人”ともなればどこにいても同じなのかもしれません・・・(三軒茶屋に行くとそう思います)

    と言うのも、”不自然な自分”に何となく憤りを感じながら、
    僕自身、ここしばらくの間、何かが気持ちが悪い状態に陥っておりました。
    それが先週、
    急激に何か”スコン”と落ちたように、ストレスとスランプが音を立てて同時に頭の中が抜けおちたのです!

    種を明かせば、
    ”あるコメント”を三浦寛理事長から頂いて抜けられたのですが、
    それを解消する過程においてのヒントにしているのが、今週のブログ内容なんです。

    僕のスランプは、目の前で起こっている現実を素直に受け入れることが出来ず、
    ある部分(自分にとって都合がよい)は受け入れていながら、ある部分(都合が悪いこと)は拒絶していたんですから。

    要するにアレは良いけれどこれは・・なんて考えないで、
    「やりたいことを見つけるのに、一番良い方法は、やりたくないことを考えていくこと」でもあるんですね・・・。

    このような環境を生み出してくださっている”神チャマ”に感謝します。

    真剣に問いかけ続ける良き師匠に恵まれて、
    素晴らしい学び仲間と共に頭をぶつけて励まし合う事が出来る。
    一人で考えていたら十年先・・・イヤ、二十年先になっても気がつかないような、そんな自然法則に出会うチャンスを頂いている。
    ご先祖様のお導きもあるでしょうし、遺伝子の働きによって行われていることなのかもしれませんが、いずれにしても有り難いことです。

    そして、
    出会いのチャンスと言えば、(女性との出会いに夢中になったりはしませんヨ)
    中谷実行委員に紹介して頂いて、ある研究会に参加させて頂くようになりました。
    このチャンスよって、操体の”動”の基本である”身体運動の法則”をより実践しながら体感し、
    裏と表の立場から、かえって結びつきを理解できてくるのではないかと”ヤジウマ”させて頂いています。

    「アンテナが敏感で良いですね〜」と話をしていたら、
    「フフフ、昔は三拍子そろってましたから・・・」と、謎の微笑みを浮かべる、
    陰のオフィサーこと中谷実行委員。

    秋のフォーラムでは、トンチとパンチの効いた?発表内容で私たちをノックアウト!してくれるに違いありません!?
    嗚呼!本当に11月が待ち遠しくなってきましたね〜。
    (詳しくはこのホームページ上にて今すぐチェック!!)

    さてここからは(長くてすみません)、本日のメニューにお付き合いください。

    今の時代、自宅で亡くなるというのは難しい。
    ほとんどの場合、病院で死を迎えることになるんですが、本当は自分が住み慣れた家で最後を迎えたい筈です。
    そう思っても現実的には、死の瞬間を選ぶことはできないのでしょうか?

    僕の祖父は亡くなる最後まで「郁生〜爺さんはね、家に帰りたいんだよゥ」と話していました。
    そして実際に家に帰っては(二人暮らし)、また入院を繰り返しておりました。
    その理由は、祖父の場合にはモルヒネの誤・乱用でした。
    末期ガンの痛みを取るのに処方箋以上の分量を用いたらしく、いわゆる幻覚症状や、
    興奮作用によって危ないヒトになってしまうのです。
    「もっとくれ!まだ痛いんだからもっとくれたらもっと楽になるだろう!もっとくれ!〜」と、
    家人が止めるのも聞かずになのです。

    ”痛み”というのは、
    かなり医療の分野においても研究が進んできております。(需要が高いからでしょう)
    そして、解明されつつある部分の中で、
    かなりの部分が”本人の情動”にも関与しているとわかってきました。

    つまり、
    自らが作り出している”現象”としての”痛み”の側面が解明されてきたというわけですね。
    しかしながら、
    痛みの緩和に対して、今でこそ”情動面のアプローチ”が有効であり、かつ重要とわかったとしても、
    では実際にどうアプローチするのが良いのか?
    ここまで細分化されてきた医療システム全体として、現時点では未だホスピスや、医療の現場において”十分な対応”が出来ているのでしょうか?
    (勿論、それを可能としている先進的取り組みもあると思いますが、十分とは言えないでしょう)

    その為にも、
    医療という枠組みを超えていく大きなチャンスが、すぐそこに待ち構えている筈です。
    そして、
    これからの医療を見つめるのに”皮膚”は非常に重要なキーワードになってくるのではないでしょうか?
    だからこそ私達も、希望をもって学び続けていきたいですね。

    わかっている時点でお話しさせて頂ければ、要するにこういう事もあるのです!

    ”外からの刺激”では限界を生じてしまう。
    だからこそ、”刺激にならない”ことを、大事にしていく。

    ”刺激”では、ヒトを・・・イノチそのものを、本当に納得させることは困難です。

    この問いかけに、
    個人的にも、祖父が身をもって体験してくれたことにも、絶対に答えを出していけるように!!
    学びの機会を頂いているんだから!せっかく頂いたことに責任を持ちたい。
    (僕は決してあきらめないからね。決して!妥協しないからね、ありがとう!)
    学んでさえいれば、何一つ無駄なものはない。
    経験させてもらえること、その意味を学びのプロセスのなか、考えていくこと。

    また、ある患者さんから聞いている話のなかで、
    医師から五回も「危篤です」と言われて、脳死と言われて「ご臨終です」といわれたのに、
    また復活?された方のお話をつい最近、お聞きしたのです。

    それが本当に不思議なんですが、
    ”十年間寝たきり”で四肢麻痺、胃瘻で人工呼吸器を通しているような状態だったらしいのですが、
    頭、つまり意識だけははっきりしており、亡くなられるまでお話も全く普通に出来たらしいのです。

    危篤から戻るたびにその方は、
    「弟が(先に亡くなっている)忙しいから兄貴も手伝いに来てくれよって言うんだ」
    「飼い犬も俺の近くまで来てくれて、花が咲いて本当にキレイなところに居たんだ」
    「でも、こっちでオンオン泣く声が聞こえていて孫のことも気になるからまだ行かない
     そう弟に言ってやると、気がついたら戻っているんだよ」
      ・・・なんてことを”淡々”と(さも当然のように)話すのだそうです。

    脳死と診断され息を吹き返した時は、
    完全に脳波や自発呼吸、瞳孔反射も消失していながら、霊安室に運ばれていく途中で、
    そのお話をしてくれた方が(義理の姉にあたる)
    「OOさんもいい人生だったよね〜みんな子供はしっかり家庭を持っているし、
     本当に”孫も可愛い”よね〜いい人生だったよね〜」と、話しかけていたところ、
    急に目玉がキョロキョロと閉眼したまま動きだし、
    本人も奥さんもビックリして担当医に伝えたところ、「そんなバカな・・・」と、
    脳波と脈波をチェックしたら、またもや波形が戻ってきて、生き返った?そうです。
    そして本人曰く、
    「いや〜弟がまた来ていたんだけど、急にどこかから孫のことが頭に入ってきてねェ、
     こりゃまだ行かん!と弟に言ってきたのさ」と、話していたのだそうです。

    ウ〜ン・・・脳死に関する法案が国会を通り、臓器移植がこれから始まる世の中になっているわけですが、
    こんなことを聞いてしまうと、考えてしましまいます・・・・ね。
    その方曰く、「ヒトは結局”自分の意志”でどうにでもなる部分が大きいのよね」とのことでした。

    であるならば・・・やはり(チョット強引な結びつけ?)、

    自分の”からだ”とは、最高によく出来ている”良いからだ”を頂いたのだ!と、
    常に、自分自身が本気で信じていたほうが勿論、ハッピーですね。

    生まれた後の”後付け”の病名や、一時の経過にすぎない疾患に固執したり、
    自らの心まで囚われたりしない。
    人に言われたガッカリすることよりも、まず自分自身が”からだ”を信じていける幸せ。
    これを本気で、”サラッと”当たり前に伝えられる、
    実際に具現化出来る・・・ような臨床家であり続けたいものです。

    それから、私のアンテナに引っかかった本ですが、奄美大島のルポを朝日新聞の記者が書いています。

    「揺れる奄美、その光と影」 〜稲野慎著〜南方新社

    ヒトが生きているとはどういうことなのか?をダイレクトに問う内容でした。
    そして、
    書き手の体験した言葉から、浮き出るような感覚としての波動となって僕の”ジェミニィ”に訴えてくる。

    ***『人とのつながりをイメージすることは、人々の心を安定させ、
           同時に自らの存在に感謝するという仕掛けになっている』***

    奄美大島では現在も、自宅で死を迎えるのだそうです。
    この島民には当然であって、入院している患者は、死期が近づくことを自分で悟るそうです。

    「アンマ(=お母さん)ありがとう」と、認知症の方であっても、そう言って亡くなる人が多く、
    ほとんどは穏やかに、病院から自宅に帰って、普段の生活に馴染むまでの間を家族とともに慈しむようです。

    それは“がん”患者も同様で、
    自分で死の時期を悟ることで退院して、自宅でほぼ二週間で亡くなる。
    だから、病院にあって当たり前である霊安室はないらしい。

    そしてとにかく最期には、「ありがとう」という美しい言霊を放って旅立っていく。

    そのような環境にあっては、若く元気な方でも死を恐れてはおらず、“死とは永遠の里帰り”と考えているという。

    そう言えば、
    橋本敬三師も、亡くなる前に「祖先の里へ帰ります」とお話していたといいます。

    以前フォーラムの次の日に開催された三軒茶屋ライブにて、今顧問からお聞きした話では確かこんな感じ・・・でした。

    今センセ「センセーあの世ってどんなところなんでしょうね〜」

    翁先生「それは、気持ちがいいところだぞ〜」

    今センセ「どうしてなんですか〜?」

    翁先生「だってそれはみんなが行くところなんだから、気持ちがいいところに決まってるさ〜」

    それを聞いた今先生は、はっきりと言ってくれた翁先生の言葉にありがたくなってきて、とってもいい気分になったんですよ〜。
    ・・・という内容であったと記憶しております。

    ちょっと話題の方向転換させて頂いて振り返り、自分自身に更に問う。

    どうして自分のコトもわからないのに、相手のコトを知ったりわかったり出来るのか?

    肌を通じて、同じ空気を吸って、同じ食物を摂っているはずのイノチ、
    本当は常にそばにいて、気持ちも体温も通っている環境にいるイノチ同士なのに、
    何故、それほどまでに距離を隔ててしまうのだろうか・・・。

    例えば、
    ヒトを人種や性別、様々なことで区別することはためらっているのに、
    何故、病気は病名はヒトを区別するためにあるのでしょうか。

    それほどまでに区別して、一体最期には・・・何が待っているのでしょう。

    人を想う心の現れが、自分と他者を繋いでいく絆となるように、
    自分自身が生まれてくることの出来たこの環境で、“想い”を具現化していく。

    このニッポンという東の果て、社会の礎に結びついているのを大事にしたい。
    そんな想いに、生かされてみたいのでした。

    この世界の創造したという、“神ちゃま”にお願いしたいこと。

    「お願い致します、まだまだ勉強させて下さい!」

    だって、一生楽しめるんだからな〜・・・、ですよね!橋本敬三先生。

    それでは今日も長々とお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
    今日も一日、お元気でッ!いってらっしゃい!!

  • ききわけられること、救われていること

    皆様おはようございます。

    岡村がお送りするブログもお陰様で五日目を折り返しました。
    もう少しお付き合い下さいますようお願い致します。
    こうして”書く事”で、普段から自分が何を考えているのか・・・を、
    客観的かつ、冷静に見つめたりしますから有り難く思います。
    まさに、
    橋本敬三師、そして三浦理事長が先人として、私たちに向けて伝えているメッセージにはウソが無いのですね。
    (ウソか本当か、とにかく試してから、物事を確認するにはそれが一番納得できると言うことです)

    さて、
    昨日のブログで、三木成夫氏の「遠の記憶」を取り上げましたので、
    その一部から抜粋して補足致します。

    「体細胞が(植物)が、地球からいわば一個の衛星として分かれた遠い過去の物語を、
     そのDNA載らせん現象がひとつの『生命記憶』としてこれを受け継いでいることを
     意味するものであろう」

    「(動物も)同じ生体の細胞である以上、そこには上述の植物に見られるような
     『遠』の”記憶”がなければならない」
                                 〜三木成夫

    ここで三木氏が言っている、『遠の記憶』に”快の情報回路スイッチ”と”不快の情報回路スイッチ”も勿論、含まれているだろう。

    だからこそ、バランス現象とはボディの歪みとバランス制御装置の関連として、
    大脳辺縁系と大脳新皮質、神経と血管、感覚感受性と皮膚のつながりにおける可能性、
    そして原始感覚の関連性は注目しておきたいですね。
     
    それから、
    操体は、何でも入れられる器」〜山野実行委員曰く〜であります。
    ですから、基本的には”排他的”であったりしないんですね。

    ”受け入れ”て”生かすこと”・・・が出来ないようであれば、
    どこかで振り返って自分自身の捉え方、を試しに見つめ直してもいいのかもしれません。

    操体は、何でも”生かすことが出来る器”のようなものだ」〜三浦寛理事長語録より〜

    その通りなんですよね!操体とは、
    ラジオ体操を今週の始めに取り上げましたように、入れたら生かすことが出来るのです!!

    もう一つの例に、”ストレッチ” がありますけれど、この方法と操体は相容れないと思いますか?

    答えだけは言ってしまいます。
    「入れられない、生かせない、そんなことあるわけがないですよ〜!」

    説明のようなお楽しみは、後々まで取っておくモノです。
    そして、満を持して?
    11月に開催される、秋の東京操体フォーラムに参加頂ければ全てが解決すること請け合いです!!
    内容および詳細は、このホームページ上で今すぐチェック!!(アッ、ブログ読んでからにして〜笑)
    皆様のご参加を、実行委員一同、心よりお待ちいたしております

    論より証拠、百聞は一見にしかず!!です。

    えっ待ちきれないですって!?
    そうだ!!そんなあなたにも朗報があります!!

    9月23日に千葉県の行徳にて、平相談役が活躍されているゴールドジムをお借りいたしまして、
    臨床家による操体セミナーがあります。そこでヒントにがあるでしょう!じらされるのが苦手な、あ・な・た・も是非どうぞ!!
    とにかく是非!参加して下さいませ〜。
    (テーマは、〜セルフメンテナンス体験と施術の実際〜詳しくはこのホームページ上にてチェック!)

    では本日のお題です。

    『気持ちの良さを聞きわける』こと。
    『もともと救われているイノチ』について考えてみます。

    そのヒントを多く教えてくださっている橋本敬三師は、

    著書の中で(正体の歪みを正す331ページより抜粋)

    〜絶対完全健康正体は 理想像であって、法則随順の程度に従って、
     より正体に、より健康に、すなわち、より幸福に近づきうる。
     
     しかし人間は”自然法則”に背反する自由も与えられているのであるが、
     背反すれば歪体化する。

     これは現象界における因果応報の自然法則である。
     自然法則ほど恐るべきものはない。

     各人の健康度は、営みの成績表であるから、
     落第もあれば及第もあり、成績優秀者もある。
     
     健康は自らの責任において克ちとるべきものである。
     これが医の道の哲理、論理、倫理、である。

     筆者は身体運動を専攻して、この結論に達した。・・・と、書かれています。

    そして私が“今、ココ”で考えてみたいこと。

    それでは一体、“自然法則”とはどのようなものなのでしょうか?

    最近そんなことを感じたのが、今顧問の風鈴随想(医道の日本8月号に掲載)です。
    (流石の楽しいアレンジで、「カレーライスとカミちゃん」が秀逸でしたネ)

    私も何となく、お母さんのような“神チャマ”という親しみが湧くイメージもあります。
    しかしある一面ではとっても恐い、お父さんのような存在であるような気もします。

    ほんの少し真面目に考えてみれば、
    全世界とか宇宙をも創造された存在が、そう簡単に目に見えるはずがありません。
    自然法則そのものが、常に目に見える形をとる、とは・・・限りませんからね。

    何かの力が働いているとしか思えない=サムシンググレートでもいいですし、
    言葉では“神”、納得できなければ“お天道様”、“八百万の神”、でも構わないのです。
    自然法則とはきっと、“永遠”にして“不変”であって、“絶対的”なものでしょう。

    う〜ん・・私達“ヒト”においては、どのようなことになるのでしょうネ。

    “成すべきこと”と“成すべきことでないこと”を知るというとらえかたはどうでしょうか?

    例えばある一面においては、
    “科学”の世界では自然界の“理”の法則を研究していくことであって、物理学・化学等かもしれませんし、

    また、善いコトと悪しきコトを学んでいく過程においては、
    “善”性の探求そのものは、“霊性”(心の支えとか、心の根っこ)の中にそれを求めて実践するのかもしれません。

    橋本敬三師は、著書『からだの設計にミスはない』の中で(178p〜)、

    「肉体を自我だと思い、現象を実在だと思えば、たえず自己防衛の恐怖心から離れることは難しい
     〜中略〜
     釈迦もキリストも、この世(現象界)において互換にうつる肉体人間を生命と思いこみ、
     自分を生命源なる神仏から隔絶して考えているうちは放蕩息子のようなもので、
     無限の富の後継者であることを悟らないから、その恩恵に浴し得ないでいるのだ、
     という例え話を二人とも説かれている・・〜以下省略〜・・・」

    と、教えて下さっています。

    更に、その章にある一節にはこうあります。

    「現象以前の理念の人間は大生命そのもの、という縦の真理と、
     現象界は唯心の所現という横の真理とがある由である」

    ここに、”救い”と”報い”のことを理解するヒントがあるように思いませんか。

    私はこの章を、この言葉を味わいながら、じっくりと有り難く頂いております。

    また、「“総括”地上生命体の設計にミスがなし。これを“救い”という。宗教哲学の終点」・・・と、橋本敬三師は書かれています。

    私もいつか、このような境地にいたる事が出来るのだろうナ〜、と呑気に考えていたのですが、

    三浦寛理事長のもとで学ばせて頂く機会を得て、実行委員の皆様とフォーラムを通じて、勉強会を通じて学びあえる有り難き環境の中、

    生活の中、臨床の中で、フッと気がつかせてもらえるんです・・・・。

    ”明らかに自分を超えている自分の存在”に感じていたりするのです。

    つまり、自分でも”よくわからない”臨床がある!ということです。

    もう少し俗っぽく言えば、僕の予想を超えている患者さんの喜びの声、そのものの”質”が明らかに上がっているのです。

    患者さんの治り方そのものが、僕の出来るであろう臨床の限界を超えている(ことがある)ということです。

    ここのところは理解が追いついておらず、現時点においては上手に説明できません!何とも、”歯がゆい”もので・・・・、

    私がこのように尋ねると、三浦寛理事長曰く、

    「(岡村でも)誰でも、わかるようになる、だから妥協するな」・・・なのです。

    フォーラムに参加された方はご存じかと思いますが、東京操体フォーラムの実行委員は本当に”熱い”集団なんですよね〜。

    実際、こんなに勉強嫌い、努力嫌いであった私でも、(ヒイヒイいいながら?)

    耕してゆく喜びを味わっていけるのですから素敵なんですよ。

    どちらにしても、自然法則の理解に必要なのはきっと、

    『何が自然で、何が不自然なのか、“感じられる”』のか、ということ・・・ではないでしょうか。

    私達ヒトが、
    この地球上に誕生してから亡くなるまでの間、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という感覚に、
    かえって囚われてしまっているような、その不自由さに気づいていくこと。

    自然法則の応用貢献そのものを耕して行く、成していく過程において、
    自分自身の霊性に刻まれている、“本来の良心”を思い出して欲しいのではないでしょうか。

    あのピノキオは、
    人間の子供に戻る前に、様々な体験をとおして学んでいくのです。
    心弱きヒトのもつ、欲望の醜さをも味わっています。
    そして、コオロギのジェミニィ(良心)に助けられながらも、
    なんとかゼペットさんの元へ帰ることが出来、ヒトの子供になるのですが・・・、
    きっと本当の物語は、ここから創られていくのでしょうね。

    自然法則に適うルートを教えてくれる、このジェミニィ(良心)こそ、
    “気持ちがいい”ってコトを、からだに聞き分けて、
    自分自身どれだけ味わうことが可能なのか。
    そして裏をとれば、
    “気持ちが悪い”ってコトを、快く(はやく)感じ取ることができるかどうか。
    ではないでしょうか。

    あの宮本武蔵に関係した“沢庵禅師”の言葉に、「石火の機」と云う言葉があります。
    “機”というのはつまり、
    感じた瞬間に変化が始まっているということですから、
    火打ち石を打った瞬間に火が出ますが、その瞬間には全くスキマがないのです。

    ですから、
    気持ちが悪いってコトを“感じ取った瞬間”に、“からだ”は変化している筈なのです。
    このような感覚は元来ヒトの持っている感覚であり、
    どこかから仕入れてくるようなテクニックではないはずなのです。
    だから、(ウロチョロと)探しても・・・、(パタパタ)くっつけてもらっても・・・、
    勿体ない回り道をしている可能性ってありませんか?
    <注:()内は何となく私がイメージで何となく、あてがってみただけです>

    操体の重要ポイントとして、橋本敬三師の言葉、

    「原始感覚、気持ちが良いか悪いかが わかるから有り難い」とありますように、

    自然法則は“操体そのものの器”ともいえるのです。

    それに、橋本敬三師がテレビやラジオ出演の際、自身の行なっていることを紹介する手前もあり便宜上、
    操体法と“名称”を付けたと聞いております。

    フォーラムでは三浦寛理事長、畠山常任理事も、”親心から発している言霊”として、口を酸っぱくして言って下さいますよね。

    キーワードはやっぱり、「気持ちの良さを聞き分ける」っていうことなんです。

    では今日はこのあたりで!!ありがとうございました。

  • 表裏があるから・・・

    朝から涼しい雨が降っています湘南ですが、貴方に今日も情熱をお送りいたします(笑)。

    なんだかすっかり涼しい日が多くなってまいりましたネ。

    この時期”限定”で営業している海の家は、毎日の天候は暑いピーカン晴れを望んでいるそうです。

    しかし近所の農家の方に言わせれば、日差しは必要だけれど、雨が降ってくれないと色々大変なようです。

    農業と言えば、秋に行われる東京操体フォーラムで発表予定の横森実行委員。
    (曰く”長野の宮沢賢治操体は勿論”農”でも熱い!)

    秋の発表も見逃せません。なんと!操体臨床での第一分析〜第三分析を、
    子供にもわかるように噛み砕いて解剖・生理学的に説明してくれる予定です、こうご期待!!

    これは、どんな業界においても一緒だと思いますが、

    いろんな事に精通する為に、一つのことから一方向の視点では”気づき”を得にくいものです。

    真実をみる為に必要な”動機付け”を心がけていれば、アッそうだったのか〜!が多くなってくるのですね。

    イヤだな〜と思ったらチャンス!!

    更に、不快だな〜と感じたらビックチャンス!!!

    この世の中は”裏と表”がありますから、その本質を見極める為にも、

    良い”気づき”を得て、コツコツ地道に学んでいきましょう。

    自分から限界を決めてしまい、「井の中の蛙 大海を知らず」では勿体ないですからネ。

    (空即是色、色即是空)

    ないものをあると思い、あるものをないと思いこんでいるのが“妄想”であり、
    あるように見える現象は実はないのだ。

    よって、「一切の業障海は みな妄想より生ず」というこの文章には、見覚えがある方も多いと思います。

    そこで昨日の続きなのですが、

    (半側無視とは)

    物体の約半分の情報が、意識にのぼらないという奇妙な状態を“半側無視”といいます。

    多くのヒトは大脳の言語野が、左脳にあるんですね。
    同様に、左の頭頂葉は自分の位置情報を知り、
    右の頭頂葉では、自分の周りの空間とそこに存在するモノの位置や形を認識します。

    ですから右頭頂葉に損傷が起きてしまうと、視界の左半分ではなくて、
    左の視野に入ってくる情報を、“存在しないモノ”として見てしまうのです。

    ですから半側無視の患者さんに、丸い時計の模写をしてもらうと右半分しか書きません。

    はたして、このような患者さんは本当に左半分が見えていないのか?

    確かに見えていないし、存在すら認めようとしないのです。(リハビリすれば別です)

    けれど見えていない左半分に、何となく嫌悪感を抱く左側が火事の絵をみせると・・・、
    「なぜだかこの家は嫌だ!」なんて言うらしいのです。

    どうして見えない物を認識しているのでしょうか?

    (盲視)

    実に不思議なことに“見えていないのに認識している現象”を“盲視”といいます。

    これは、網膜や視神経に異常がない場合でも大脳の視覚野を損傷してしまい、
    視力を失ってしまうことを指します。

    このような本人が、「何も見えない」という患者さんに、上下左右に動く光を見せた場合、
    わからないと言いつつも、方向を全部言い当てるらしいのです。

    他にも、色々な位置に差出し口のあるポストを用意して、色々なところから入れてくださいと言えば、

    「見えないから出来ない」と言いつつも、はがきを縦横斜めの差出し口から投函できるそうです。

    いったいどうしてこのようなことが出来るのかと言えば・・・、

    本来ヒトは視覚の情報を、網膜〜視床〜第一次視覚野〜頭頂葉〜側頭連合野、

    と統合する経路を通って認識しますが、この経路を通らずとも認識できるのです。

    その経路は”いにしえの経路=古く、原始的な経路”と言われています。

    網膜〜中脳上丘〜頭頂葉とつなぎ、
    飛んでくる物体を認識したり、咄嗟にモノを避けたりする時に働いているのです。

    大脳が急激に発達してしまうと、一番新しいモノしかヒトは意識では認識できないらしいんですネ。

    ですから、本来持っている力・能力には意識が向かず、本人はよくわからないのですが、

    ”無意識”で新しい経路と統合して理解しているんです。

    ”爬虫類の脳”とも言われる原始的感覚を司る脳の分野と大脳新皮質が紡ぐ関係には、

    まだまだ科学で解明されていないところが多く残っているようですし、

    爬虫類の脳、それは”フェアリーブレイン=妖精脳”とも言われ、無意識を司る感覚とも言われています。

    これは、三木成夫氏の『遠の記憶』につながってくる感じがします。
    (”鰓弓”という実におもしろい視点も、ヒトの進化にヒントをくれました!
     是非、秋のフォーラムのナイトセミナーで、山野実行委員に問いかけてください、熱いですよ!)

    「皮膚に、無意識に、感じ取ること」

    ウ〜ン!!なんとも魅惑的なキーワードが並んでいませんか?

    操体における、第三分析につながってくるような・・・・。

    生活一般に生きてくるような・・・。

    趣味にも、武道にもかなり通じてているんだろうな・・・・。

    妄想が広がってきました!

    そんなあなたに朗報です!秋のフォーラムは絶対に損しませんよ!!

    待ち遠しい思いを胸に、ウズウズしてきたら、詳しくはここのホームページで今すぐ確認を!!

    それでは今日はこんなところで失礼いたします。ハブァナイスデ〜!!今日もありがとうございました。

  • 何に見つめられているのか

    ハ〜イ皆様!おはようございます〜!!
    湘南といえども、山間部に住んでいる(笑)岡村郁生の3日目ブログにようこそ!!
    今日もハリハリ漬けを食べながら?張り切ってレッツゴー!!
    岡村3日目宜しくどうぞ。

    いきなりですが、“波”について学ぶコトが多いこの一年です。
    波と言っても、サーフィンで楽しむ波だけではありませんよ!
    波長とか、“波動”とか、周波数とか、そんなイメージなのです。

    今まであまり詳しく調べることも、昔は勉強したのかもしれませんが、
    興味が湧いてくるきっかけもなく、スルーしてきたことでしたが面白いですね〜。

    音と光が同じ舞台に立っていたり、電波や熱までも同じ舞台に立っている。
    しかももっとスゴイものまで?が網羅されております。

    このきっかけとは、私の人生において、今後も大きく舵を取っていくことになりそうですね
    (臨床では、オ〜ゥ!ファンタスティック!と言う感じです)

    例えば太陽光の中には、
    目に見える光(可視光線380nm~780nm)の他に、
    見えない紫外線(380nm以下)や赤外線(780nm以上も含まれています。
    つまり、波長によって色が変化して見えているというわけです。
    (色の波長をスペクトルというのですけれど、そういえばスペクトルマンって知っていますか)

    ちょっと雑学的(トリビア的?)ですが、
    太陽光や白熱電球に、赤いガラスを当ててみれば赤い光となり、青いガラスを当ててみれば青い光になりますが、
    これは全色併せて白い光になっている波長から、その色だけを選択して取り出しているわけです。(サングラスがよい例ですね)

    しかし、
    LEDの場合には単色ですからその波長のみであって、赤色光ならば660nm,青色光ならば450nmというわけです。
    これに関しても面白いのは、人の眼には青色LEDの光が約十倍も明るくみえるらしく、
    暗いところで見ると、人によって目障りだ!という場合もあるようです(へェ〜へェ〜へェ〜))
    (ちなみに最近では紫色のLEDも開発されたらしいですね)

    更に不思議なのは、
    その色・光の特徴を“皮膚”そのものは認識しているらしいのです。

    例えば、皮膚の修復に対して赤い光が回復を早めて、青い光が遅くする等・・・。
    (傳田光弘著 賢い皮膚より)

    このような光を照射する機械(カーボンが高いんですよね〜)は昔からありますが、
    民間療法だけでなく、これを光線療法として活用していることで、
    皮膚科疾患に対しては勿論、様々な臨床成績を上げている医師も増えているらしいです。
    (そういえば、私の学生時代の恩師である鹿島田先生も使用されていました)

    ちなみに、
    赤い色というのは暗い世界に住んでいる生き物に見えない色なのだそうです。
    ですから、動物園の夜行性動物の展示や、水族館の深海魚の展示には、
    赤い光を照射しているという訳なんですよね〜。(ヘエ〜へェ〜)

    それに対して、
    青い光というのは水に吸収されやすいのです。
    ほとんどの光の色は水面で反射してしまうのですが、
    水の特性として青色だけは水の中で吸収されていきますからね。
    まさに水色たるゆえんでしょう。(江ノ島水族館にて勉強済み)

    少し話題の方向を変えますね。
    色気・色男・色を好むという言葉があるように、
    ヒトにとっては、愛情や情動、そして欲情さえ関与していると思われます。

    実際にヒトは、そのような色があることで生きる意欲を生みだすことが多いですよね。
    患者さんや、私の周りの方を見ていてもエネルギッシュかつ、印象が若い方が多いですし。
    (かといって、単純に何かが良い悪いの問題ではないのですけれど)

    色の三原色、それを感じ取る視覚として認識できるのは、そう多くの色ではありません。
    それは、赤・青・緑の三原色であって、それを濃淡組み合わせて様々な色調を“見て”いるのです。
    つまりヒトの場合、多くの動物よりは多くの”色”を認識出来るのは、
    目の網膜にある、三種類の錘状体細胞が認識しているらしいのです。(干状体細胞は明暗を認識しています)

    この事と操体の関連については、
    フォーラムにて近いうちに?佐伯理事よりアクションがあると思います!こうご期待!!

    しかし、私は思うのです。
    この三原色から様々な色を生み出している現象と、
    ヒトが他の動物よりも、ずっと多くの色彩豊かな世界を認識している現実はそう簡単なモノではなく、
    “現象として”、じつに深い意味が隠されているのではないか・・・と。

    単なる“光”の波長として現れてくる“色”そのものの他に、ですよ。

    実は“心の問題=想念”として現れている色もあり、それはそのヒトの生き方そのものに生じてくるのかもしれない。
    もしかしたら勝手にヒトが作り出している、外向きになっている見せかけの色ってあるんじゃないかな・・・?

    例えるとしたらデジタルカメラが普及して、急激に色調の補正が簡単にできるようになった。
    その代わりに失われてしまったモノもある・・・な〜んて考えてみたりします。

    いや実際、アバタもエクボ?とか、どう見ても緑信号を青信号とか言いますし、
    虹の色も、時代やその地域によって4色から7色の認識がありますし、色のとらえ方は様々らしいのです。
    要は、脳がかなりの部分を補正しているらしいんですけどね。
    (参考図書 池谷裕二著 脳は何かと言い訳する)

    それに対して捉え方がシンプルなだけ、皮膚はウソをつかないんじゃないかな〜なんて思うのです。

    その参考になるのが盲視と言う現象です。

    ちょっと長くなってきましたので、続きはまた今度にいたしとうござる。

    それがし、こんなところで失礼つかまつる。(なんで急にサムライ?)

    ありがとうございました!

  • 感じることで学べる感覚

    おはようございます湘南にも朝がやって参りました。

    岡村の二日目もよろしくお願いします。

    長かった子供達の夏休みもそろそろ終わります。

    他の季節とは違うのが今なんですよね。

    普段静かな場所も、朝から本当に賑やかなんです!

    本当に楽しんでいる子供達の声は、聞いているだけでわかりますから。

    机の上では学ぶことの難しい、色々な感覚を育てる経験を積みながら、子供の頃から感性を磨いて欲しいナァ・・・なんて思いますネ。

    宿題を、夏休み最後までやらないで残してしまっていた自分を思い出せば、

    自分の子供を叱ることが簡単でなくなるのも、つくづく実感しております(そんなの遺伝しないはずなのに・・・笑)

    さて今日のテーマはそんなマクラから入ってみます。

    暖かな季節から暑い季節になってくれば、生命賛歌の歌が僕を踊らせる。

    朝早くから太陽の眩しい光が僕を狙って射る。

    幸いかな、自宅近くに海があるのは。自転車なら十五分で行ける海がある。

    この時期の湘南は、決して綺麗な海水とは言えないこともあるけれど・・・。

    海水浴というのは別に入らなくてもいいのです。

    海水の近くに行って、眺めているだけで水飛沫も飛んでくるし、潮風も浴びる。

    そこには本当に?飛んでいるヒトもいる(サーフィン、ウインドサーフィン

    心が飛んでいるヒトもいる(男女が海辺で一夜を過ごせるのも、この時期だけ?)

    江ノ島近辺には、釣りをしているヒトも多い。

    堤防や突き出た岩場には、朝早くから帽子をかぶりベストを着た人たちが一杯。

    そんな中、夏休みの子供達と浅瀬の生き物を探してみる(潮だまりに結構いますよ)

    小さい貝、子供のクラゲ、カニ、ヤドカリ、イソギンチャク、フナムシ・・・。

    ふと、自分の小さい頃を思い出せば、本当にいろんな生き物を捕まえていた。

    山に入って虫採りや魚採り。

    小さかった頃、採ってきたらほとんど殺してしまうんです、僕の場合は。

    はっきり言って残酷なコトをしていました。

    餌もあげずにそのまんま放って置いたり、喧嘩させて遊んだりしていると弱ってくる。

    面倒も見なければ、テレビも見ないで、生き物に遊んでもらっていた子供時代。

    大人になってから子供達に、

    「生き物をいじめてはいけないよ」といってしまう。

    全く無邪気にただ面白がっているだけなのに。

    苦労して捕まえたから、得意になって見せつけたいだけなのに。

    大人になっている僕は、

    「可愛そうだから早く逃がしてきてあげなよ」って言っている。

    子供達は、何が可愛そうなのか?よくわかっていないはずなのに。

    よくわかっていないことって、体験してみなければ実感が湧かないのだろうか。

    何かをイメージするのには、効果的な学習方法があるのだろうか。

    実体験に基づいた“リアル”な話をして聞かせてあげること。

    “百聞は一見にしかず”見せてあげること。

    実際に、肌(皮膚)をとおして自分自身で味わうこと。

    僕の場合、肌をとおして味わってきたものが大きいようだ。

    あの力強く素早い動き、あの離れているところからの駆け引き、あの息を殺す瞬間。

    あのヌルッとした感触、あのビクビクする痙攣、あの嗅いだことのない臭い。
    チョット猟奇的表現になってしまいました(笑)

    実際、楽しいことは大人に怒られてしまうことが多かったんです。

    川遊びで靴まで水浸しになったり、日が落ちることを忘れて夜遅くなってしまったり、

    僕は子供の頃に、狩猟的な感覚をも養っていたような気がするのです。

    今の子供達は優しい心を持ってくれるのでしょうか。

    それは、子供自身の肌を通じた感覚であって欲しいものです。

    ヒトは体験からイロイロな可能性を創り出せるし、生み出すこともします。

    それが実際に体験した者でない、仮想空間での学習のみならば、

    その、結果そのものを現実と結びつけることは難しいのではないでしょうか。
    (勿論方法によって、可能ではあるにしても・・・)

    自然相手にしか学べないものがあるように、

    ヒトは多くのヒトと接することで学んでいるのでしょう。

    そこに意欲と目的が伴っていれば、希望は育っていくのです。

    夢も現実になるという可能性は、あきらめないこと。

    いつでも準備さえ整っていれば、身近なところから与えられているのではないでしょうか。

    それでは、こんなところで失礼致します。皆さん、今日もお元気で!!

  • ラジオ体操の朝、日本人の朝?

    皆様おはようございます。

    今週の一週間は岡村が担当致します。宜しくどうぞ!!

    今住んでおります湘南の、爽やかなイメージを崩さないように?張り切って参りたいと思います。

    さて初日は、秋穂理事のリクエストもありましたので(ネタふりありがとうござる)

    体操のなか体操”キング・オブ・ステップ?”ラジオ体操を取り上げてみますネ。

    まず、体操と操体は、全く異なるものである。これは、わかってもらえるのではないでしょうか(笑)

    例えばラジオ体操の場合、

    全体的な動きは速いし、上半身の動きがメインになりやすく、感覚など聞き分けません。
    (ですから、後から出来あがった”テレビ体操”はそのあたりに工夫が見られますね)

    そんなラジオ体操ですが、操体法にヒントをもらって行なうのであれば・・・、

    まずは ”目線”ですよね!(秋穂理事が以前発表してくれました)

     体を動かすときに“ 目線 ”をつけることで、動きがスムーズになったり、安定したりします。

    「首を左に〜とか上に〜」という号令がありますが、
    この際、目的とする動きに合うように目線をつけることは大事です。

    例えば『 両手を前から横へ 』という号令がありますが、視線ですと片目ずつ動かしたりすることはできませんが、イメージを含んだ“目線”の場合は、手の動く方向に同時につけることも不可能ではありません。

    体の横に曲げる動きにも、柔らかく倒す方向の足先に目線をつけるのと、何も考えず前を見て行うのでは、毎日続けることを前提に考えてみれば分かりますが、それは大きな差となってくるのです。

    次に、 回数及び動きの速度です。

     左右一回ずつ行うこと、繰り返し多い、のは体操の特徴といえます。
    それに比べて操体は、左右の比較した場合、やりにくくて痛い方向には行ないませんからね。

    そして、なんと言っても  心構え ≒ イメージは大事な要素ですね。

     朝ラジオ体操が始まる前に『 おはようございます 』『 お元気ですか? 』と、
    アナウンスで言ってくれるのですが、これも私の好きなスタートなんです。

    やはり、朝起きて人に会ったときの挨拶は大事です。

    その一言を全く知らない人に言っみても、朝ならばわりと挨拶をしてくれるものです。
    朝だからこそ言えるものですし、ほとんどの方が挨拶してくれます。
    ちなみに自分以外の人にサービスするつもりでも良いと思います。

     
    まとめてみますと、朝ならではの体操にして頂きたいですネ。
    年齢性別を関係なく、しかも大切にする時間として捉える。

    『 今日も良い一日をお過ごし下さい 』という言葉も素敵な感じがありますし、

    そのような気持ちで周りの人に挨拶したり、青い空を見てみたり、朝の冷たい空気を吸い込んだりしてみますと、早起きは三文の得というのが本当だなあ〜、と感じますネ。

    操体には、
    息・食・動・想+環境 は互いに関連し、影響し合っており、極端にその中の一つが良くても悪くても
    バランスが良くないし、それぞれが“間に合うように”生活していれば良い、というのがあります。

    一つの事にこだわり過ぎず、無理のないように頑張り過ぎないように、と教えてくれているわけです。

    ですから、皆さんも一人一人の朝を大事に迎えて下さいね。

    それでは今日も行ってらっしゃい!!

  • ”公人”として生きる意味とは・・忘己利他・・

    わたし自身の心と共に、臨床も変化し続けております。
    ブログ担当日最後にも、正直な気持ちを書かせて頂いて宜しいでしょうか?

    以前からよく患者さんに聞かれます。
    「OO痛なんですけど、OO治療で効果ありますか?」
    「病院でOO病って言われたですけど、OO治療で治りますか?」
    「どうせOOだからあきらめているけど、少しは良くなるんですか?」

    またこんな質問?もあります。
    「以前OO治療をやってもらったけど、私にはOO治療って効かなかったのよ」
    「私のOO病には、OO治療とOO治療ってどっちが良いのかしら?」

    そうかと言えばこんなお話も聞きます。
    「OOってOOに効いて良いらしいですね、私もやってみようかな」
    「あの先生にかかれば、すぐにOOを治してくれるから上手なのよ」
    「OO治療で治してもらったOO痛は、前回すぐに治ったからまたやって下さいよ」
    「今週のOO日までに間に合うように、OOを治してくれますか」

    このようなお話しを聞くたびに、やりきれない気持ちが大きくなります。
    どうしても自分自身に葛藤がありました。

    この問いかけにどう答えていくのか?
    自分の欲を通したくなってしまう自分がいるのです。
    答えれば答えるほど、自分自身の本来やりたいことと離れていくのです。

    臨床とは己との対峙にあるのではないだろうか・・・。

    欲と無我の境は一体どこにあるのだろう?
    からだの要求と効果は必ず両立できるはずなのに・・・こんなはずじゃないのに・・・。

    それに対しての答えを追求する日々がありました。
    感謝してもらっているのに、気づいたらどこかをすり減らす日々になっているのです。

    「病気の目的が見えなければ、それを治しても意味がないことがある」
                      =クリストファームーン=

    増永静人先生の言葉に、

    「(指圧の効果は)する人がどれだけ無我になれるかにかかっている。
    私たちは指圧をすることで、自分が無我の境地を得る修行をしている。
    指圧をすること=無意識の領域に働きかけるのだから、する人も我を捨てる。
    病気が治るのは、病人の我が無くなって、
    身体に任せる、自然治癒力を信頼するようになるからだ」
    とあります。

    野口晴哉先生の言葉に、

    「自らが健康の原理に生きてハツラツとしていれば、相手は自ら従ってくる。
    口先、手先の技術で 人を導くつもりのうちは、
    ただ独り気張っているだけで終わるものである。」
    とあります。

    橋本敬三先生の言葉に、
    操体で治るからネ ただ急がないでネ
    一ぺんでは治らないけれど 治る理由があるのだからネ
    信じてやること まあやってみなさい 
    ただ力んでやっては 駄目だよ」

    ありがたい先人の教えに共通していること。
    「治療なんか下の下だ」という信念があります。

    そうなんですよね!、山の登り方が一つではないように、
    てっぺんから見れば、それほど大きな差はないのでしょう。

    一体どのようなルートを取れば、僕が僕らしくいられるのか?
    それは、自分がやっていることを好きになること。
    やりたいことをやっていること。
    やらなければならないものを好きになること。

    答えはいつも自分自身への問いかけにあったのです。

    もう少し温故知新を学ばせて頂きながら、コツコツ歩んでいきます。
    いつもどこかで、いつも見ていてくれるのです。
    最近の習慣にしていますが、天に感謝の気持ちを捧げてから自宅へと帰ります。
    ありがとうございます。お陰様で、自分らしくユックリ歩んでいますヨ・・と。

    まだまだ道半ば、食に関しても、動に関しても、自然法則を学び続けたい!
    あなたと共に、僕が、ここに在る理由を知りたいから・・・。

    その中の一つ、”食”についてチョットだけ・・・、
    動物はみんな知っているのに、人間だけが忘れている事がある。
    本来あるべき自然な姿、野生動物から学ぶべき点は、とても多いのです。

    飼われている動物は、人間にとって魅力的な特徴(色・形・気質など)を選んで繁殖させられてきた。
    自らが健康を維持する為に必要な能力、ここに注意を払われることはなかったように思う。

    ペットや家畜は、人間と共にライフスタイルを共にした結果、
    産業社会が生み出した、大量生産・加工された食品によって与えられた餌を食べている。

    果たしてアレルギーや肥満に始まる動物にも生じている病気が、
    一体何を失っているのか?という問いに答えていく必要があるのではないだろうか。

    利益は生みませんが、なにが本物なのか、を知る。
    それこそ現代における、重要研究テーマであって欲しいのです。

    それでは、一週間ありがとうございました。
    リレーのバトンを、僕と同じ三人の子供がいて、
    可愛らしい双子ちゃんの優しいパパでもあるナイスガイ、甲斐田実行委員にお渡しいたします。
    よろしくお願いいたします。

    @今日の一言!
     「健康はじつに貴重なものである。
    これこそほんとうに、人がその追求のために単に時間ばかりでなく、
    汗や労力や財宝をも、生命さえも費やすに価する、唯一のものである」
    =モンテニュー=

    岡村郁生