カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「師と弟子」について

    今日書くテーマは「橋本敬三先生の語録」というテーマから少し脱線してしまうのかもしれませんが以前から橋本敬三先生に関するテーマがあればぜひ書きたいと思っていたので少し寄り道をさせてもらいます。
    相撲、落語、将棋、歌舞伎等の伝統ある業界に身を置く者のほとんどは「師」という存在を作り、何年、もしくは何十年と師の下で学びを得ています。私も操体を学び始めてかなりの月日が経過しましたが、いつからか三浦先生の事を「師匠」と呼ぶようになっていました。最近、この言葉の重みを感じるようになり、学んでいる事に対しての「責任」が芽生えてきたと同時に果たして自分が弟子にふさわしいのか?弟子らしい事が出来ているのか?と考えるようにもなりました。このような経緯から本来あるべき「師と弟子」の在り方や「弟子の姿勢」について学びたいと思ったのです。

    Yahooで「弟子」と「師」について調べてみた所、以下の事が書かれていたので紹介させてもらいます。「落語界においては師が弟子について一切の生殺与奪権を持っている。そのため、弟子が真打になる前に師匠を欠いた場合には例え、本人に責がなくとも即、廃業となる。また師匠の一存でいつでも弟子を破門する事ができる。その場合その瞬間から弟子は落語界から追放され、芸能人でもなくなる」と書かれています。
    これらから分かるのは弟子が師につく以上は師の言う事に「NO」と言わず、すべて「YES」で答えなければならないという事です。つまり弟子にとって師匠が言うことは絶対なのです。「師」と呼ぶ以上はその位の「覚悟」が必要であり、自分の人生そのものを師に預ける気概がいるのです。この「弟子」の姿勢はどの業界でも共通して言えることだと思います。しかし、このような誰でも知っていそうな事を今の学校教育では教えてくれませんよね!まず「技術が知りたい」が第一になり、師の生き方や考え方、魅力に目が向けていないような気がします。今の世の中は「技術」ばかりが先に行き、それを扱う人のメンタルが技術についていけていないような感じがあります。若い時からこういう社会の在り方や心構えを教えていれば人生を悲観したりする若者は少なくなると思います。話を戻しますが「師に人生を預ける」ということは師がこの世を去った後もその「意思」を継承していく事に繋がっていきます。それは弟子としての「使命」といっても良いでしょう。この「使命」を全うしていく事が本来の師と弟子の在り方だと私は考えています。
    今、日本各地に橋本敬三先生から操体を学んだ方がたくさんいると聞きました。弟子だったか生徒だったのかはさておき、その方々は皆、橋本敬三先生の「意思」を継承し、今も学び続けて世の人達に貢献しているのだと思います。わたしも師の意思を継承し、偉大な先輩方と同じように世に操体を広めていける臨床家になれるよう日々精進していきたいと思います。

  • 「とるか、とらぬか」について

    橋本敬三先生の著書「からだの設計にミスはない」のP77に「人間が本当の自然法則を知らされたとしてもそれをとるか、とらないか、選ぶか、捨てるかは全く本人の自由である」と書かれています。操体を学び始めて間もない時にこの文を読んだのだが特に「とるか、とらぬか」というフレーズが当時の私の心に深く印象に残りましたので本日のテーマにしたいと思います。
    「とるか、とらぬか」と言われてみるとこれまでの人生のなかで幾度となくこの選択を迫られた時があったと思います。それは人が生きている以上、常にこの選択権が存在するのですがわたしの言葉で言わせてもらうとこの選択は「命の選択」と「心の選択」と大きく二つに分けられます。「命の選択」とは自然法則等の命が要求している選択であり、「心の選択」とは生活の為の選択をいいます。私たちは日常生活においてほとんどが「心の選択」で「とるか、とらぬか」の選択をしているのです。しかし人間の本来の悲願とは健康に生きる事であるので「命の選択」は確実に取ったほうが良いと思います。
    このような考えを持ったことで私は「もったいない」という意識が芽生え始め、確実にとっておいた方が良い「自然法則」をとらないのはやはりもったいないのである。この世に生を授かりこの体を使わせてもらっているので知らなかったではすまされないのです。そういう私も3、4年前までは無責任に体を使っていたのですが今になって思うのが人は五体満足で日常生活を送れている間はこの法則の有難さが分からないのです。そして心の中に「めんどくさい」という欲の心が少なかれ存在します。これがあるので人は本当に困った時でないとこれを選択しないのだと思います。この「めんどくさい」という言葉は人間の無限の可能性を閉ざしてしまう厄介な言葉であり、私も数えきれない程、痛い目に遭ったのを覚えています。しかし、最近になって気付いた事があり、それは先日にもお話しさせて頂いた「意識」を使う事でこの「めんどくさい」が打ち消されていくことです。最近の私はどんな小さな事でもまず「やれ!」という意識で生活している。あとまわしにすると「めんどくさい」が頭に侵入してくるのでとりあえず頭で考えるよりも先に体を先に動かしています。
    少し寄り道をしてしまいましたが人は神様から無限の可能性を与えられた事で「無限の選択」が出来るのですがそこには最低限の責任があるのです。その責任とは体を「使わせてもらっている」という責任です。無責任に体を使い悪くなったから医者に頼るでは都合が良すぎますよね!最低限の責任を全うするために橋本敬三先生は自然法則(息・食・動・想)を説いているのです。この法則を「取るか、取らぬか」は己の命の責任を全うするか、しないかとも言えるでしょう。

  • 「バルの戒め」について

    私はここ半年の間自分の意識、体が変わってきているのに気が付きました。その理由は体の要求に委ねた生活を心掛けているからだと思います。言い換えるとそれは欲の脳のコントーロルとも言えるが例えば、「食」において朝・昼・晩規則正しく食する事を意識するのではなく、体が食する事を要求している時に要求している分だけ口にするようにしています。その聞き分けがしっかりしてくると大体食べる時間や量は毎日決まってきます。その習慣が身に付いてくると体の要求以上に食したりするとすごく不快な感覚になり、心と体のバランスや生活のリズムの波長が狂ってくるのです。それは「食」だけに限らず、仕事等でもそうです。少し頑張りすぎたと思った時は自分の心にブレーキを踏むようにし、体に異変を感じたときは1日に少しの時間でもメンテナンスをするように心掛けています。
    このように日常生活における生の営みを体の要求感覚に委ねることで全てのベクトルは「気持ちの良さ」に向いている事を己の体を通して体感したのですがこれらは橋本敬三先生が説くバルの戒め(頑張るな・欲張るな・威張るな・縛るな)に結びついている事がよくわかりました。
    私がこの「体に聞き分ける」ことを今まで以上に重要視するようになったのが好きなサッカー選手であった松田直樹選手(松本山雅FC)が心筋梗塞で倒れるという新聞記事を目にしてからです。松田選手は横浜マリノスに入団した時から知っていた選手なので他界されたのは非常に残念で仕方ありません。この新聞記事に目を通した時に「元気な人程、自分の体の異常変化に気付きにくい」という文があったのだが確かに言われてみるとそうだと思う。これは決して「他人事ではない」と思い、倒れてからの数日間、彼の無事を祈りながら彼の事について色々と考えていました。
    松田選手は去年、長年在籍していた横浜Fマリノスを解雇されてしまったのだが彼は尊敬する三浦知良選手より「先に辞めない」という強い意思で現役の道を選びJFL松本山雅に入団しました。恐らく、肉体的な衰えは多少あったと思いますがそれ以上に「好きなサッカーをやりたい」という気持ちが強かったのだと思います。松田選手のプレーを見た事がある人なら分かると思いますがピッチの上での彼はプレーは他のどの選手よりパワーに満ちあふれていた。そんな松田選手は私が思うに頑張っていたが頑張り過ぎてはいなかったと思う。この「過ぎ」というのは自分の許容範囲内を超える負担が生じた場合の事を指し、彼の場合は好きなサッカーを許容の範囲内で一生懸命プレーしていたと思うので「頑張っていた」と表現させてもらった。そんな彼が近日どこか体に異常を感じていたかは分かりませんが、もしかすると彼の頑張りに反し体が自分の心が知らないうちに悲鳴をあげていたのかもしれない。今回のように突然、命を落とすような事態になりうるので松田選手に起こった事は重く受け止めなければなりません。
    橋本敬三先生も著書の「からだの設計にミスはない」にて「許容度からハミだすな」と書かれています。その許容度の範囲も自分の体に聞き分けなければいけないのだと私は思います。
    みなさんも「過ぎ」には注意して人生をエンジョイしてください!

  • 「時感」と「空間」その3

    私は日常の生活空間や臨床、すべての空間の中に「調和」というテーマを持って生活しています。
    「調和」という字を辞書で調べてみると矛盾や衝突がなく、まとまっていること、と書かれていたのですが私の言う「調和」も自分の心、周りの環境、そして全てのものをありのままに受け入れることです。その心持ちひとつで人や物に対してイライラしたりする事が無く、心と体がとても気持ちの良い状態でいられます。そうすると徐々に波動の荒い言葉を口に出さなくなり、生き方も変わってくるのが実感出来るようになりました。
    しかし、本当の意味での「調和」とは私が一言で語れるような簡単なものではなく、もっと深いものだと考えています。それを理解する為の日々の学びであり、誰かに教えてもらうのではなく己の気付きによって得ていく物なのだと思っています。私は幸いな事に三浦先生をはじめとした臨床家としてだけでなく、一人の人間としても尊敬できる人達に囲まれ勉強しています。自分のテーマを深く理解していくために偉大な先輩達の生き方、勉強する姿勢から学びを得ているのですが最近、自分との「意識」の違いに気がつくようになったのです。私の意識は日常の生活空間の範囲内での意識なのだが先輩方の意識はその空間を超越した「ブッ飛んだ」意識なのです。「ブッ飛んだ」意識とは私なりに表現させてもらうと意識のベクトルが目に見える空間ではなく、目で見る事が出来ない空間に向いている意識なのです。この意識を持っている人達は共通して生活空間だけで生きているのではなく、「自分の意識の空間」の中でも生きているのです。つまり自分の「時感」を持っていて、その空間の中で自分の学びを育んでいるのです。では自分の意識をこの「ブッ飛んだ」意識にするにはどうすれば良いのかを考えていくと、一度己が生きてきた中で形成した「自我」の心を意識と切り離す必要があります。そして目には見えない不可視な物に意識を向けるのです。そうすると自分の意識が不可視なものと繋がり徐々に意識が変わってくるのです。口で言う程簡単な事ではありませんがそれが出来れば欲の心を抑制し今までとは違った自分の空間を作れると私は思います。

    3日間「時感」と「空間」について書かせて頂きましたが私がこの時感を体感していく中で「一人の空間」がいかに大切なのかが分かりました。この空間をこれからもっと大切にしていきたいと思います。

    明日からは橋本敬三先生の語録を私なりに噛み砕いて書かせて頂きます。

  • 「時感」と「空間」その2

    以前、三浦先生から「時感」についてお話をして頂く機会がありました。

    この「時感」とは「自分の命の為に費やす時間であり時を刻む時間ではない」と三浦先生は言われている。
    私は最初にこの「命の為に費やす時間」という言葉を聞いた時にその意味をあまり理解を出来ずにいました。その理由は簡単で以前の私にとって時間とは生活空間の中の時間であり、己の命の為の時間とは決して言えなかったからです。
    学生時代、勉強をする事が大の苦手だった私にとって学校の授業はとても長く苦痛な時間でその流れで放課後に何となく部活をして遊んで帰るというサイクルで生活をしていました。何となくでは時間を「浪費」しているだけですよね!やはりこういう意識感覚で時間を使うのはとても、もったいなかったと思いますし、少しでも自分の命の為に時間を使う事ができていたのなら、もっと学校を楽しめていたのかもしれませんね(笑)

    では、どうすればこの「時感」という空間を上手く作ることが出来るのでしょうか?
    最近私は1日に自分と対話する時間を30分、自分の体と対話する時間を30分、そして自分が学んでいる事を思考する時間を30分作っている。それを毎日多少時間が短縮されても「継続」していく事を重視し、日々取り組んでいます。
    その中で少しずつですが分かってきた事があります。それは己の中には「自我の心」と「真我の意識」が存在してあることです。
    この「自我の心」とは己の我の事をいい、つまり欲の心です。「今日は〜したい」等が良い例です。私はまだまだ未熟なので意識があっちに行ったり、こっちに行ったりしてしまいます。ただ「真我の意識」を上手く使えるようになってくると欲の心のコントロールが出来るようになり、「時間」が「時感」へと徐々に変わってきました。そうすることで「時間」がより充実した空間になってくるのです。

    話が少し飛んでしまいますが、ある時本屋に寄り立ち読みをしていた時にふと私の目に飛び込んできた本がありました。その本とは【「一人時間」を愉しむ生き方、暮らし方】 川北義則署で一人の時間を楽しむ機会が多くなった私にとって、とても魅力的な本に見えたので購入してみました。その本で気に入ったタイトルがあったので紹介させて頂きたい。
    「寂しさを味わうのは快楽である」
    ここでは「寂しさの源は孤独であり、その絶対に動かせない事実がものを考えさせ、人を成長させる」と書かれている。
    この本を読んでいると三浦先生が以前私に言って下さった言葉がフィードバックしてきました。
    「一人前のひとりぼっち」という言葉です。
    この言葉の意味を簡単に説明すると一人の時間・空間を愛し、楽しみなさいという意味で私はまだまだ半人前だがこの言葉の意味は何となく理解できました。
    このことから三浦先生もこの本の作者も共通して自分の「時感」を持っているのが分かります。
    自分のやっている事を追求していく上で如何に一人の時間・空間を作り、自分の心と対話していく事の大切さが少しずつですが理解出来るようになってきました。
    「時感」を作る方法として「孤独」を愛する事と一人の空間を楽しむ事、そして意識を使う事なのだと私は思います。

  • 「時感」と「空間」について その1   

    今週から1週間書かせて頂く三浦寛幸です。宜しくお願い致します。
    今回のテーマである「時間と空間」は日常生活の思考ではなかなか意識の行き届かない言葉でおもしろいですよね!このテーマを上手く自分の言葉で表現できるか少し不安ですが1週間お付き合い下さい。後半は橋本敬三先生の語録にふれていきます。まずは初日ということでフォーラムの感想を少し書かせて頂きます。

    8月28日に京都の大徳寺にて開催された操体フォーラムが開催された。まるで橋本先生が「ゆっくり楽しんで勉強しなさい」と言って下さっているかのような申し分のない環境だった。
    参加人数が多い、少ないではなく、「操体を勉強したい!」という意欲に満ちた人達が集まる空間から生まれる「波動」は私にとって特別な時間となった。
    このフォーラムを通しての私の財産はこの空間に身を置けた事で操体と向きあう姿勢を今一度見つめ直す事が出来た事と橋本先生の意思を継承し、学び続けている方々の生き方、考えを肌で感じる事が出来た事です。あの「空間」に身を置けたことで橋本先生とはどんな時も「繋がっている」という意識を再確認し、そしてこれからの操体も橋本先生が上から笑顔で見守って頂ける学びをしていかなければいけないと身が締まる思いになりました。やはり何を学ぶにしても弟子は師匠の意思を継承し、より良いものにしていく「責任」があるのだと思います。それは何十年、何百年という時が流れようが変わらぬものなのでしょうね!
    こういう姿勢はなかなか学べる機会が少ないのであの空間にいたすべての方に感謝したいです。

    ここで今回のブログのテーマに少し触れていきたいと思います。
    フォーラムを終え、翌日京都市内を自転車で観光していた時の事ですが凄く懐かしい感覚になりました。修学旅行や一人旅で何回か来た事があったのですがそういう懐かしさではなく、もっと何百年も前から知っているような懐かしさでした。以前聞いた話によると、三浦先生は去年トルコ訪問時、「俺の前世トルコ人だったような気がする」と言われていたそうです。きっと三浦先生もトルコの地に降り立った時に懐かしさを感じたのかもしれませんね!このように考えていくと時間と空間を超越して前世の記憶を産まれながらに持っているのかもしれませんね!?ただそれは頭の記憶ではなく、命の記憶として存在しているのだと思います。私は物を売る事が好きなのでもしかしたら前世は京都で商売をしていたのかもしれませんね!このような「前世の記憶」がもし本当に実在しているのなら今私が生きている意味にも繋がり、自分が「使命」を持って産まれてきていることも納得できますよね。

    明日は「時感」について書いていきたいと思います。

  • 皮膚は愛を記憶する!

    みなさんは「ファーストキス」を覚えていますでしょうか?

    答えは人それぞれでしょうが私は極度の緊張のためか、その時の気持ちや状況は思い出せないのですが、その感触は覚えています。
    唇は解剖学上、粘膜で構成されているといわれています。人体の中ではかなりデリケートな部分とされているが人はなぜその部分を重ね合わせるでしょうか?
    (注)唇は皮膚ではなく「粘膜」として捉えられていますがここでは体表をおおっているという観点でみて以降はあえて皮膚と言わせてもらいます。

    KISSという行為とは何なのでしょうか?色々調べてみても答えはマチマチで、色々な説があります。「相手の生殖機能が自分に合っているかを判断する行為」という説もあれば、「脳に感覚刺激をダイレクトに伝える行為」という説もあります。いずれの説も共通しているのがKISSを感覚でしていることで本人の意識レベルで行っているのではない。つまり本能的にしているのである。

    そういえば子供の時によく物を口にして怒られた記憶がある。
    あの行為を考えてみると子供は無意識に物を口にすることで食べれるか否かを判断しているのではないだろうか?つまり触感や視覚で捉えた感覚よりも唇や舌等の皮膚の感覚の方が優れている事を本能的に知っているのだと思います。
    そのように考えるとKISSという行為は相手を知る最善の手段であり、産まれながらに知っている行為だといえます。
    つまり人はKISSをすることによって皮膚で相手やその愛を感じて記憶しているのだと思えます。
    私のようにファーストキスを感触でしか覚えていないのは脳が忘れてしまっても「皮膚の記憶」が覚えているからなのでしょう。

    KISSという行為は人間が相手を知る最善の手段でありとても自然な行為である。

    そして時の経過と共に忘れていく愛を皮膚はずっと記憶してくれるのだと私は思っています。

    今日で最終日となりました。1週間を通し「愛とSEX」というテーマを色々な角度から見て自由に書かせて頂きましたが改めて自分の思い、考えている事を文字にする事の大切さを実感させらる時間だったと思います。なかなか今回のように組織の一員として自分の思いを書かせて頂く機会が無かったので良い勉強をさせて頂きました。三浦先生、畠山先生、そして実行委員の皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。ヘタクソな文だったと思いますが何かを感じて頂ければ幸いです。
    ありがとうございました!

    昨日に引き続きこの場をお借りして告知をさせて頂きます。
    東京操体フォーラム in 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum in Madridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 己を愛する事

    「私は今までどれだけ自分を傷つけてきたのだろう」

    「私は今まで自分を愛せていたのだろうか?」

    過去、五日間のブログを書いている中でこのような自分への問いかけがありました。
    私は今でも心の奥底から後悔している事がいくつかある。
    それは時には人を傷つけ、時には自分を傷つけたことで、今でも思い出すと胸が苦しくなることがあります。振り返るとその時の私は自分を愛せていなかったのでしょう。自分を傷つけるような言葉を無意識に発しては己の心と体を傷つけ、何かあると誰かのせいにしていたのである。そんな心と体の状態で臨床家の門をくぐったのです。端からみれば無謀なチャレンジであったのかもしれない。
    そんな私を師匠は有無を言わず受け入れてくれました。その時に掛けて頂いた言葉は生涯忘れません!もしかするとこの時、初めて愛を意識したのかもしれません。とても感謝しています。

    師匠は臨床家を目指す上でまず3つの指針を示してくれました。
    その3つとは「心」「技」「体」を磨く事である。
    「心」→言葉を統制し、私の荒い心の波動を落ち着かせる
    「技」→体の動きを身につける
    「体」→体の歪みを正す
    これらはどれが欠けてもいけない関係にあり、この3つをしっかり身につけて初めて1人前の臨床家への1歩を踏み出せる。
    私はそう解釈しました。

    そんなスタートから今に至るまでで3年の月日が経ち、少しずつですが身に付いてきました。そしてこれらを学んでいる途中で自分が無意識に変わった事があります。
    それは無意識に「自分を愛する」ようになった事です。
    私は今まで「愛する」という行為は対象の人がいなければ成り立たないことだと思っていました。つまり自分の愛をを誰かに向けるしか出来ず、自分に向ける事をしていなかったのでしょう。
    しかし、この学びのなかで自分を愛する事は自分の存在を認める事だと知りました。つまり、自己否定が己を傷つける事ならば自分を愛する事は自分を認める事なのです。それに気付くと自然と過去の自分、そして今の自分を「許す」心境になり後悔や葛藤が消え自分のすべてが愛しくなってきました。

    操体を学ぶ事は技術を学ぶことだけではない。己を知り、真理を知ることも操体なのだとつくづく実感しました。

    最後に余談ですが私は産まれて間もない時に橋本先生に抱っこしてもらった事があるみたいです。もちろん覚えていませんが今こうして操体を学んでいる事に運命を感じずにはいられません。橋本先生が導いてくださった「愛」だと確信しています。

    あと今後の「東京操体フォーラム」の活動予定のお知らせになります

    東京操体フォーラム in 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum in Madridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • セックスから学ぶ臨床

    3、4年前に体調を悪くした時に体のケアである治療院に通っていたのだが、
    ある日会計を終えて帰ろうとすると奥の方から

    「殺されるかと思ったわよ!!!!」 と怒号が店内に響く。

    何事かと思い恐る恐るその声の主を覗いてみると40歳位の女性だった。

    当時の私からすると少しヒステリックな人がただ日頃のストレスを発散するためクレームを出しているだけだと思って客観的にそのやり取りを見ていたのだが今になって振り返ってみると彼女の言っていた事は今になり無視出来ないものとなった。

    今の私は未熟ながらも一人の臨床家として治療をする側の人間になった。
    その立場から当時の事を思い返すと施術者に大きく2つの問題があったと考えられる。

    1つは患者に「からだに聞き分けてもらう」ことをしなかったことである。圧の強さだったり、今の気分を患者に聞くだけでも変わってくると思う。自分の感覚で治療をしてしまう習慣があることに問題があったのではないでしょうか?

    2つ目は女性の体を診る時の意識である。
    私はまだ、臨床経験が浅い為か正直、女性の患者を診るのに少し怖さがある。
    女性の体は男性と比較してもその筋肉、皮膚はとてもしなやかで例えるなら
    「蝶の羽」のようである。
    子供の時によく捕まえた事があるが細心の注意を払って捕まえないと羽は取れてしまった記憶があるが女性の皮膚もそれに似た感覚がある。
    そして皮膚も生き物で呼吸をしている以上「生」と「性」を持っている。つまり「愛」を持って触れなければいけないと思う。
    それは人がSEXをする時と同じで自分の宝物を触るかのように大事に愛を持って触れるべきだと私は考えています。
    結論をいうと臨床もSEX同様に相手の愛、命を感じ「調和」していかなければいけないのだと思うのです。
    それは施術者が「患者の体を診る」という意識ではなく、「患者の体を診させて頂く」という意識を持って臨床に望むべきだと思います。

    まだまだ勉強をしなければいけない事がたくさんありますがいついかなる時もこの意識を持って臨床に望んでいきたいと思います。

    東京操体フォーラム in 京都2011 は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum in Madrid(2011)は、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 操体が教えてくれた「性」

    先日、私の大事な友人からこの写真が送られてきました。
    とても可愛いですよね!

    この娘の母親とは18歳からの付き合いで青春時代の喜怒哀楽を共にしてきた親友である。
    その彼女は数年前に結婚し、千葉に住んでいるので今はさすがに昔のような付き合いは出来ない。
    しかしどんな時も彼女とは「繋がっている」という意識があり、彼女の子供を見たときは涙が出るほど嬉しかったです。

    私はそんな彼女と一昔前、異性としてお付き合いさせて頂いた事がありました。
    今でこそ、幼なじみのような付き合いが出来ますが別れた当時の私には今の関係が出来るとはとても思いませんでした。
    若い時の男女の恋愛は独占欲や嫉妬等の欲と葛藤が生じてしまいます。
    当時の私の恋愛はまさに欲が強かったと思いますし、執着心がどうしても勝ってしまい彼女に対し素直な気持ちを伝えられない葛藤がありました。

    しかし操体と出会い、橋本先生、三浦先生の哲学に触れられたこと、そして心ある友人のおかげで彼女とは「性」を超えた関係を築く事が出来たと思っています。

    こう考えてみるだけで私の「性」に対しての捉え方は確実に変わりました。
    それは異性に対して「リスペクト」を出来るようになった事が大きな要因だと思います。

    「結婚するなら尊敬できる人としなさい」

    これは三浦先生から頂いた言葉だが、この一言をよく噛み砕いて味わっていくと不思議と異性を見る目、そして「性」に対しての考え方が変わりました。それは自分の母親の偉大さを理解するようになり、先程の彼女に対しても尊敬の気持ちを持てたことです。そして「無償の愛」、つまり「GIVE&GIVE」の愛を知る男性、女性すべての人に敬意を払えるようになりました。
    私が今、学ぶべき「愛」はまさにその愛で今までの恋愛はGIVE&TAKEであった為、どうしても「見返り」を無意識に求めてしまったのです。いわゆる「欲」の脳で相手を見てしまっていたのでしょうね。
    これからは「GIVE&GIVE」の愛を学んでいき、それをいずれ現れるであろう私のパートナー、そして子供に与えていければと思っています。