カテゴリー: 三浦 寛(みうら ひろし)

  • 私との対話「希望」5月24日土曜日 午前5:10分 モスバーガーにて。

    いよいよ最終回を迎えました。ブログにアクセスしていただいた皆さんに感謝します。一週間どうもありがとうございました。ブログとは自由日記の書き込みと聞かされていましたが、それはブログを打ち始めて後に知ったことで、内容的には、どうも大づれしてしまったようです。しかし、そのままぶっ飛んでいます。一週間の感想はというと、結構自分の世界のなかで十分たのしませていたヾきましたよ。それも総勢20人バトルのなかで、味あわせていただヾける醍醐味でもありました。
    日曜日から森田さんが担当ですね。 よろしく・・・。

    私との対話「希望」
    「希望」という私の問いかけに、ゲーテ、シュタイナーが、そしてフロイトユングの先人達が答えてくれる。ゲーテは「人は希望を失おうとしない精神をもっている」と答えています。希望とは信念にまさる、ゆるぎのないもので、その信念は不快から生じてくるものではなくて、快という生命の本質にある意志そのものから生み出されてくるものだと、私は思う。
    人は信念を失ったとき、老いて枯れ朽ちるものである。それは加齢を重ねて肉体がおとろえることではない。若さも信念を失ったとき、枯れ朽ちるのである。希望とは信念そのものである。
    信念は希望とともに、若く、朽ちるものではない。
    橋本敬三医師は、自然法則の中に真理があると言います。真理のなかに、生かされし救いの生命観が貫通しているという、それは無極無限の太極の意志であるというのだ。その救いの生命観をさとることによって、人は人として最高の至福を得る、という。それは人としての自由を手にする、ということである。この自由こそ、希望なのである。

    しかし、日常性のなかで、人は自分が抱く思いというものが、いったいどこに繋がっているのかはっきりとしないまま、何処(いずこ)に、これから先繋がっていくのかわからないままなのです。この私の、残された時間も、これから何が私に出来るのか、どうこの生と向かいあおうとしているのか、死後どうなるのか、どこへ行くのか、みんなはっきりしないままです。
    そして、問題が起きてしまうと、大きな直面にぶつかってしまいます。まづ、その問題というのは、病気とか、人生の苦悩とか、苦痛を余儀なくされ、痛みを伴うものという意味で、そうなったら、もう自分一人の胸にしまい込んでおけもせず、自分の手に負えるものでもなくなってしまう訳ですね。しかし、それは何か大きく自分を取り巻く力を感じはじめようとする転機の時が来たのだと思います。もし、不幸にも人生のあきらめと絶望とがやってきた時、人は、あぁ、なぜ自分ばかりがこんな目に遭うの、と思い、自分の不幸を嘆きます。つい希望を失ったと思い、否定的になってしまいます。しかし、有難いことに人は口では何だ、かんだと言ってみても、100%自分を否定しきれる存在ではないってことなんです。
    それは、もう人が生きてやがて死を迎えるという、はっきりとした現実と同じ位にはっきりしていることだと思います。というより、人には否定しきれない自分を感じるからこそ、苦しい思いをするのだということが、本当はわかっている筈ですしね。問題が起きてみてはじめて、この思いに直面して、自分の本音に気づく訳でしょうけど、ところで、自分の本音というものは、きっと自分の意志というものから、大きくはみ出しているものなのかもしれません。もし、強引に否定を強めていくと、自殺か殺人しかありませんし、それが出来なければ、観念的虚無になる、と思います。虚無とは恐ろしさの体験、そのものと思います。ここに否定する事の問題がある訳だと思います。しかし人はやはり大きな力(自分以上の)を感じてる訳です。人がもし、目覚め、自分以上の大きな力、自分の意識を越えた、さらなる力を得ていることにふと気づくのはこの時からじゃないかと思う。

    淋しいと見える否定も、実は激しい自分への肯定を含んでいるのだと思います。本音は希望を見失いたくない!ということなんじゃないかと思うのです。その希望の内容を具体的に規定することは出来ませんけど。
    「もう希望を見失いたくない」というのは私自身への本音です。もし実現の希望が直接的にある訳でなくても、希望という快のランプを見失うことだけはイヤなのです。
    希望というのは、単なる言葉上の概念ではなくて、人と希望との関わりは、つまり、人は希望を実現したいんだと思っていることなんです。人は、また希望に対して実現するというかかわりを望んでいるんですね。

    それは、ゲーテの問いかけにシュタイナーが「人間にはその希望を失おうとしない精神を実現しようとする心の働きがあるのだ」と、答えている。つまり、その心の働きを霊的意識として捉えているのである。

    フロイトは希望について、「人間はセックスをとおして無に帰りたいという根源的な希望を満たしている」というのである。

    しかし私は、このフロイトの考えに反論する。セックスは人間の意識的行動意欲の中で、快感をもたらす最高の行為の一つであることは、間違いのない事実である。しかし、フロイトが云うように、セックスが無に帰りたいという人間の根源的希望を満たすのであろうか。
    私が思うに「人間は無意識に帰りたい」という希望なのでないかと思う。無意識の空間、無意識の世界である。その無意識とは表層意識を越えた潜在意識空間であり、又、それを越えた民俗意識、さらにその意識は宇宙意識、イノチの根源にヒビキをもたらすもの、波動するものがセックスなのだと考える。

    そのフロイトに、反論といおうか、逆の問いかけをするのがユングであった。ユングはこうだ。・・根源的な快の欲求は無に帰りたいと思うことではなく、「まだ実現されていないものへの実現を望む心」なのだと・・・・・。
    つまりもっと高く崇高な心であって、それが希望を失わない精神と云うのだそうである。私はユングの考えに賛成だ。快の欲求は希望なのだ。
    からだにとっても快は大調和のバランスである。それは大生命の意志であって、大生命の生みの親の、親の創造のなかにあるものであって、その創造への設計にミスはないのである。それが救われしこの命の生命観なのである。

    このことは、希望を見失うかどうかに、つながっていることなのです。日常生活のなかで、必ずしも満たされていなくても、また、いつの間にか「快をつむぐ」ことができるのは、希望をもっているからなのだと思います。又、快をつむぐから希望が持てるのかもしれません。
    それは、私にもよくわかりません。この程度のことしか・・・・。いったいどうなっているのかこれからも問いかけていきたいと思います。希望は永遠のテーマですから・・・・。希望はそのままでは、ただのアクセサリー、求めるという行為のなかで枯れ朽ちることなく私の生と共に、その信念の中で育っていくものですから・・。

    希望について、沢山の人がその考えを残しています。ゲーテもシュタイナーも、フロイトユングもそうでしたね。

    私はね、ユングでもゲーテでもいいですけど、私自身の三浦流なのです。それは自分への問いかけなのですから。それは何人といったって希望を得て再々に励ましを得る、自分とめぐりあえたことにまず、感謝しているのです。
    それは誰にでも出来る、ということじゃなくて、物事、事象の本質をとらえようとする素直さやそのひたむきな情熱に私自身目を見はるのですけど、その、ゆるぎのない精神力の強さで、大きな生命力を人に感じさせています。私のように本質の目を持って人を見ると、その人が透けてみえてしまうのかどうか、とにかく私を見ていると、ガラスの中のガラス、そのまた奥のものをちゃんと見ているような視点を感じます。
    きっと私は自分の根源が、その奥にあることをはっきり気づいているからなのでしょうか。それは、私にとって快の領域、いのちの意志のエリアです。その一時、その一瞬にして、未来、そして自分の意志をはるかに越える世界に踏み込んでいるような感じを実感できることもあるのです。

    でも、それは別世界のことというよりも、長い間、ずっと訪ね歩こうとしていた、つまり命の記憶に少しづつたどり着いたような感じのする世界です。まったく違和感のない親しみわく世界観です。そうして、この世界観から私が描けるものをなんとか表現してみたいと思っていました。それが描けることも、わかってきましたし、今私はそのことを実践しているのです。
    まあ、そうだと思いますが、それにしても私自身の厳しさにも私は支えられてもいました。
    その厳しさは優しさでもありましたが、それは私独特のものです。私の美意識であると共に、生命力そのものだと思います。
    表現方法はいろいろあるでしょうが、私に言えそうなことは、人は同じ道を二度と歩まない、というようなことを感じるのです。私を見ていると・・・・。
    でも、それは日常的には違います。外から見ていると、同じ生活リズムのくり返しで、ほとんど同じ道をたどっているように思います。でも、何遍も同じ道を歩いてもいつも初めて来たような感じがします。としたら、まるで赤ン坊のように一日一日が新生です。生き生きと、初めて通る道、そして自分は二度とこの道を戻る事はないであろうという予感・・・。人が本質と向き合い、その本質の道を歩むという人生、実はこれを選ぶことは実際には厳しいです。が、でもそれは快の領域であって、快の深層なのですね。

    あんまり真剣に集中していると、チト疲れました。
    貴方はちゃんと、私と向かいあっていますか
    ものごとへの根源に心を向けていますか
    ステキな自分と向かいあえるように、
    今日も 明日の自分を描き、
    自分に帰っていく一日でありますように。
    そして、自分という自由を手にする一日であり、
    この一瞬は明日の自分を夢みるような
    時であるように・・・・。

    三浦寛

  • 「あんた、もしや オカマさま、オカマさん?でしたの・・・。」

    おはようございます。皆さん、今日も元気ですか?今朝もここ東京はすがすがしい朝を迎えています。天気も上々、あったかです。5月23日金曜日、午前4:50分です。

    私のブログも今日と明日の2回となりました。金、土とブログの内容をグーッと、くだけたものに配慮してみました。きっと、肩の力が抜けて、おかしさがこみ上げてくるもの、も、まざってくるのではないかと思います。では6日目の第6話、今日もブッ飛びます。
    追伸:週末に入ると、朝起きの時間帯が少しづつズレてまース。生身ですから、気力がもちません・・・。明朝、ブログの書き込みが終わったら、一人ビールでカンパイです。1口、2口、なめる程度の、ことです。が・・・。

    「あんた、もしや オカマさま、オカマさん?でしたの・・・。」
    診療所には風呂もシャワーもあるのですが、愛犬?いや愛猫のシモン君が浴室を占領していて使用することができません。飼い猫のシモン君はトラ猫で、アメリカン・ショートヘアと日本種がかかっています。この種のネコちゃんは額にMのマークのまだら毛と、皮膚ガワが日本種と違い、かないブ厚いのです。高い所を好まず平地に住む猫で、ヘビなどの外敵にかまれても軽いケガですむようにブ厚い皮膚ガワで身をつつんでいるのです。

    猫は3歳児程度の知能があるようです。なかなかうちのシモン君も利口で人なつっこく、私の言葉もかなりわかっています。飼い主にはいたづらされてもガブリと歯を立てません。そしておもしろいことに視線をあわせつづけていると、必ずシモンの方から視線をそらせることです。誰れにエサを与えてもらっているのか、つまり飼い主が誰れかを知っているんですね。

    そして、私と二人きりでいる時はすごく甘えてきます。甘ったるい鳴き声にかわり、すりより、さかんにあのザラメ舌で服から露出している皮膚をなめづり、感極まると軽く咬んでみせるのです。私がシモンにカミつくことがあります。カミつくといっても、腹を立てることがあります。それはあたりかまわず吐くことです。一番腹が立つのは、居心地のよいベッドの上や、毛布の上で思い切り、ゲボ、ゲボとやるんですよ。患者用のベッドや毛布の上でやられるんで、何枚もシーツをストックしています。書いている内にも少々腹が立ってきます。
    コイツは、わかっているんです。吐いた途端、私の手の届かぬものの陰でスーッとかくれてしばらく姿をみせません。猫のヤツは意外とケロッと記憶が消えるんですね。知らぬ存ぜぬの顔して、姿を見せ、すりよってくるのです。私の怒りはまだ、おさまっていないとも知らずに・・・このバカ猫が・・・

    私に尻尾をつかまれ、さかさづりの刑に処せられます。しかし、コイツ余りいやがらんのです。さかさづりにされてもおとなしい。きもちよさそうにしているんだ。でも1分間くらいが限度、上体を起こそうとする。そこでさかさづりの刑はおしまい。もう一つ、昼寝をしていると、ベッドに飛び乗り腹の上にタタタと乗っかって私の脇腹の側にスリ寄ってくる。その腹の上に乗っかってくる足のハコビが絶妙で、ドシ、ドシと乗るんじゃなくてポンポンポンと何かはづむような感じなんですネ。人間のからだで言う膝の力をうまい具合に抜くのか、足首の力を抜くのか、まるで伊賀の忍者が水面を走り抜けるような。そういっても、コイツはエサにイジきたなく、よく食べる。腹八分目ということを知らない。食った途端、今食べたことをケロリと忘れてしまっているんじゃないかって・・・。

    そんな訳で、コイツの体重は7キロもある。一年前からダイエット中で、少しは細身になったと思うのだが、新患の患者さんは「なんてデカイネコチャン」と、たまげてしまう。コイツを飼うようになったのは、子猫の時に車道を渡って、車の後輪に腰から下をひかれ、一ヶ月動物病院に入院してました。その獣医さんが、コイツをまたノラチャンにするには可哀想だからといい、里親を捜していたところ、実行委員のメンバーの一人鵜原さんが「三浦先生、飼ってくれないかなァ」と持ちかけられたのでした。そんなコイツなら飼ってもイイかと承諾したのだが、最初自宅で飼うつもりで、家族の同意を求めたが、下の娘は子供の頃から喘息で苦しんだ体質を持ち、成人になっても軽い喘息がでることがある。下の娘も動物が嫌いなわけでもないが、少々腰が引けている。コイツは自宅では飼えないなとサッして三茶で飼うことになった。

    当初は動物が好き、であるということと、飼うこととは大違い、すっかり私が面倒みなければならないことをケロリと忘れている。近頃のコイツは、私に要求することが二つある。一つは「飯を食わせろ」と、いう要求と、「外に出せよ」という要求である。コイツの声色でわかるのだ。そして、コイツは私を親だと思っていることだ。めんこですね(めんことはめんこい可愛いヤツの意)

    すいません、飼い猫の話しで、タイトルのおかまさまの話ですネ。
    そんな訳で浴室をコイツに占領されてしまってシャワーも風呂も使えない。でも、こんなちっぽけな風呂に入るより私は街の銭湯が大好き。三茶には周囲1km範囲に三軒の「せんと」があるんです。一番のお気に入りは水風呂とサウナがある、とある一軒、フォーラム開催時ターミナルビルに雑魚寝した同志と共にかよったあの「せんと」です。番台のオヤジが、ぞろぞろ列をなして入ってくる我々に、目をまんまるくして、このお客さん、みんなあんたのツレ?と聞く。番台のオヤジは私がしょっちゅう利用させていたヾいているので、顔見知りなのだが、私は名前も職業もあかさない。しつこく聞かれるのだが、一切答えたことがない。名前はともかく番台のオヤジは私に興味をしめすのだが、いったい何をなさる人なのか見当がつかぬようだ。「絵描きさん」「執筆でも?」「大学か高校の先生?」挙げ句の果てに「芸能関係の方?」「どっかの親分さんで?」とも。お医者さん?と言われたことは、ない。医者といわれず私はホッとする。なかなか当たらない。それでいいんだ。○○臭くなくて。それが一番、と思っている。

    4,5日前の夕暮れ、この「せんと」の暖簾をくぐる。広々とした水風呂にザブンと入る。ここの水風呂は冷却水で水を冷やし、かなりの冷水である。フォーラムの理事、京都の佐伯さんは、当初膝下までしか入れなかったな。私が平気で何分もつかっているのに、目玉をまんまるくして、驚いている。理事兼実行委員長の岡村君は決して近づこうとしない。

    水風呂に数分つかった後に温水浴で、十分からだをほぐす。これを3回ほど繰り返し、からだを洗って、又水風呂と湯風呂を往復して、出る。浴衣室で服を着ていると、私のそばでやはり同じように服を着ている人の下肢が目に入った。ところがですよ、その人、ピンクのパンティーをはくところを目撃しちゃったんですよ。ウン?????なんでピンクのパンティーはくんだ、そしてやはりピンク色のブラジャーを胸にあてている。ウン????いったいどんなことが。ワシは女湯と間違えたのかと、イヤ、そんなことはない。入浴中の人達は全員立派なオ○ン○ンをぶらさげていた。この人、立派なイチモツもついていたし。と、胸をみると2つのオッパイ、女性のオッパイがついているのニャ、ではないか。

    ひょっとして、あんた、オカマさんでしたの?

    たまげた。初めてですよ。オッパイがついてオ○ン○ンをぶらさげた、オカマさんの生々しい全裸をみせていただいたのは・・・。生々しい、その裸体にふきだすおかしさを、ドーンととおりこして「あ」です。つまりア然としてしまいました・・・・です。私はとんでもないものをみてしまいました。足のツメには真っ赤の、なんていったっけ、アイシャドーじゃなくて、そうそうマニキュアでした(あせってしまいす〜ゥ)マニキュアで染めて、手の爪も真っ赤なマニキュアでした。髪は肩までのびて女風。両耳にピアス。指にはなんとなく輝くヒスイのようなルビーの指輪。まったく身振りからだつきは女性になってますネ。相当女性歴長そうでした。どうみても60歳はいってましたよ。どうせならピチピチの若いオカマさんのらたいがみたかったねェー。

    いやはや、ドッキリ昇天するところでした。又、思い出して?もしかして、女性だった彼女が男性に性転換したのかも知れませんね。顔をみても、中性的で、男性なのか女性なのか、判断できませんでしたが、年齢からみて、その当時性転換手術そのものがそこまで進歩していたのかしらん・・・
    やっぱり男性でしょうか

    ハイ、そんなところで6日目のブログはおしまいです。

    三浦寛

  • 言葉の力

    おはようございます。5月22日午前4:30分
    私のブログも中日5日目、残すところ後3日間となりました。今朝もモスバーガーからの発信です。東京の朝の日に日にあたたかさが増して、半袖姿でも寒さを感じません。私達も日々意識のころもがえができるようつとめていきたいものですね。

    「言葉の力」
    その問いかけには必ず目的がある。先回代田文志著「鍼灸の基礎治療学」を書き写す経緯(いきさつ)を話しましたが、もう少し書きたしてみます。

    先生は満足げに「よくやったな」と言われ「佐助、ごほうびだ!」と代田先生の「鍼灸の基礎治療学」を贈って下さったのでした。「無条件に受け入れそれに答えようとすれば、その報いは喜びとして必ずかえってくるものなのだな」ということを私は学んだのでした。

    コツコツと静かなる汗をかき、つかんでみなければわからないもの・・この手でつかんだ喜びとはそのようなものなのではないだろうか。師の言葉に素直に、すばやく反応する。その最初の直接的な働きかけは「ハイ」という言葉だと思います。まづ、言葉で反応すること。「ハイ」という言葉は、わかりました、そのようにします、そうさせていただきます、という肯定の意志の伝達です。その意志は力です。「ハイ」という言葉には否定がありません。条件つきということでもありません。無条件に受け入れる、ということです。相対的でもなく、絶対的な意志の働きかけです。ですから「ハイ」という言葉には力があるのです。

    「そうさせていたヾきます。そうします」という肯定の言葉だけでは不十分なんです。そのコトバの前にまづ「ハイ」という二語が必要なんです。その言葉をより強力に決定づけるものが、「ハイ」の言葉にひめられた絶大なる力、貫ける意志(思)の力なんです。
    この命と共にある自分に目的を与え、それを成せる言葉が「ハイ」なのです。「ハイ」という言葉には生命力があります。言葉は言霊(コトダマ)ともいいますネ。言葉は力です。コトバにはイノチがあります。イノチがあるから力なんです。その言葉にどれほどの力があるかというと、人生をかえる、運命を変えるほどの力があるのです。

    言葉どおりにその人の人生が展開する。自分の言葉によって自分の人生、運命を決めているのは事実なのです。自分の人生をなげき、その責任を他になすりつける、親のせいだとか人のせいだとか社会のせいだとか、責任逃避してもだめ!
    自分のことばで自分の人生を決めているのだ。それだけ、言葉には力がある。力があるってことは、生き方に責任がある。
    言葉を統制する必要がある。言葉は人生そのもの、その人の生き方を明確に示すものである「人が正しい」とは「言葉が正しい」ということである。統制できるかできないか、人が正しく賢いとは言葉の方向性である。「そうなればいいですね」「そうあってほしいですね」という希望的楽観的言葉を口にする人がいるが、本当にそうなりたい、そうありたいのであれば「そう成る」「そうある」とコトバにすることなのだ。
    100%、そう言葉に言い切ること、言い切ってしまうことがとても大切なんです。このことは忘れてはならない。「ハイ」という言葉は無条件に受け入れます。そうします、そうさせていただきますという意志同意語なのです。
    「ハイ」という言葉が出ず、「でも」「でも」と必ず口にする人がいます。「デモ」は言い訳の言葉であり、そこになにがしかの見返りや条件がつくものです。
    「イヤァー」「アノゥー」「しかし」「ちょっと」そしてそれにつづく否定的な言葉が「でも」です。

    ・「でも」という言葉は否定の言葉です。100%拒むか、50%肯定するか、いづれにしても反、否定です。
    「でも」と言葉にした途端、力は働きません。力が働きませんから、やっていることも途中半端で思うようにことが進みません。得たいものが入らず、手にとどかないのです。カスばかり入ってきます。
    ・「でも」は又自己否定です。自己否定しながら何かを求め何かを得ようとしても、入ってくるもの得たいものはたかが知れています。それは人生への不平不満へとつながり、焼いても煮ても食えない、グチ、ヤキモチ、嫉妬やねたみ、そしてコンプレックスにつながってくるのです。

    「でも」と言いわけする生き方をする人は、自分に言い訳しつづけていることに気づきません。指摘されても、イヤ、あの人にこの社会にむけているんだと、それを認めません。しかし「でも」は自分の言葉なのです。そして自分の人生や生き方の言い訳なのです。自分に言い訳しながら生きているのです。生涯言い訳しつづけます。そんな人生は、本当にしんどいのです。

    自分に言い訳ばかりしているのですから、きもちよくない、楽しくないんです。いくら満たされていても満たされない、有難く生かされていることに感謝できないから、ああなんてすばらしいんでしょといいながら「でも・・」ここがどうのこうの、あそこが気にいらない、とグチを言います。
    ああなんておいしいんでしょうと言いながら「でも」。味つけが云々、肉のやわらかさが云々、野菜の盛りつけがウンヌン。スープの味がウンヌン。熱さ加減、塩加減がウンヌン、とにかく「でも」が口癖のように連発されるのです。ですから必ず「でも、幸せじゃない」「でも、たのしくない」「でも、納得できない」「でも、退屈で仕方がない」と・・・・。ああおいしい、すばらしい、なんて有難い、で言葉を納めてしまうことができないのです。それは満たされることのない不幸な人生です。「ハイ」とすばやく言葉に反応できる生き方って迷いがなくなってくるんですね。それに生き方がとってもらくになってくるのです。らくを感じる前にきもちがいいんです。それが「ハイ」の二文字なのです。

    そして「ハイ」は魂にヒビキを与え、相手の心を動かします。「ハイ」という言葉の力は素直に生きる、生かされる、つまり生き方に迷いがなく、たくらみのない生き方ができる、ということです。

    こちらが「でも」で答える限り、それは条件つきであり、その心には何か見返りを求める欲が働いていますから、相手も条件つきでそれに答えようとしてくるからです。ですから無条件で、できる限りの強力と理解をおしまないような心の働きができないのです。「ハイ」と無条件にうけ入れれヽば相手は心を開き無条件で受け入れあなたに答えようとして働きかけて下さるのです。

    三浦寛

  • 私が東京にでること、その師の心

    おはようございまーす。4日目のブログです。今日も真夜中の午前3時40分、モスバーガーから発信しています。
    4日目ともなると、みんな読み疲れてるんじゃないかな。100年後にふと、思い出して読んでくれてもいいんだよ。
    では、真夜中のヤミに溶け込んでぶっ飛びます。

    「私が東京にでること、その師の心」
    卒業を間近に控えて、何かと気ぜわしい三月を迎えていた。そんな昼下がり、「三浦君、君は東京で開業しなさい」と師の声が飛んできた。今、ブログを書き込みながら、四十数年前の記憶をたどって行くと、その言葉の意味に、どれほどの思いがこめられていたことか、手塩にかけて育ててきた弟子に何かを託そうとしている、師の想いの深さを知ることができる。それは意志の決断である。

    「こんなところにいつまでもいることはない」と、ものの見事に突き放す。師は私に「そうしてほしい」という願いを託したのである。

    私は託されたことに響いて(ヒビいて)いくこと、それが弟子の使命であったように受け止めていたのであろう。

    師は東京という固有名詞を使われている。ということは、どこで開業してもいい、と言っているのではなく、東京だと言っているのだ(なぜ、東京なのかも後にわかった)。大阪でも、福岡でもいいと言っているのではなく、私を東京に送り出したかったのである。
    それは絶対なる師の意志決定だったものと思う。私以外ではだめで、東京以外でも絶対ダメなのである。

    今、こうして書き込みをしながら、今にして全身に鳥肌が立ち、身震いがしてくる。

    私は師の目を直視して生きてこられた。今でも師の目を思い浮かべ直視する。いつも師は笑いかけるやさしい目をしておられる。
    人は自覚し、意識し続けることによって謙虚である。そして、師とのご縁を得て師の側にいさせていたヾける。そのような機会を得ればこそ、のちに縦的な霊性を得ることができる。師との学びの中で、物事(ものごと)の成せる成り立ちの本質を知り、真理を学んでいく、それが神性、霊性を実感していく尊い人生と云えるのだと思う。

    私はお蔭さまで、先生の云われることにすべて「ハイ」と言える青年でした。とても、とても素直に「ハイ」と言えることができたのです。先生のコトバに素直に「ハイ」と反応できる自分が、とても誇らしげで好きでした。

    この『ハイ』という言葉を考えてみると、全く私欲がないことに気づきます。そして、なに一つ疑わずに無条件に無意識に、受け入れていることにも気づきます。ですから、心がはづんでいるんです。ですから、先生の言いつけは素直に「ハイ ハイ」と言葉にでき、ワクワクするのです。

    鍼灸学校に在学中、先生の書斎の本棚から、代田文志著、「鍼灸の基礎治療学」を手にして見ていたところ、「三浦君、興味があるか」と、先生が声をかけて下さり、「ハイ」と答え、私が「この本、コピーしてもいいですか?」とたづねると、「おまえが興味があるっていうのは、そんなに簡単にコピーしてすむことなのか?全部書き取ってしまえ、その位のきもちがないとだめだー!」と一喝されてしまったのである。先生の、その言葉の力に圧倒され「ハイ、わかりました。写します」と言葉にしてしまった。『ハイ、写します』と言っても500ページを越す、ぶ厚い本なのである。
    パラパラとめくってみると、古い漢字が使われていて、初版何月何日発行、と印刷されていた。
    早速原稿用紙を何百枚も買い込んで無心に書き取った。何ヶ月要したであろうか、半年はゆうにかかったであろう。書き上げた原稿を持って(持ってというより肩に担いで、と言ったほうがいい。何せその量たるやかなりの重さにふくれ上がっていたのである)

    少々私は興奮して、やりとげたことに大満足していました(ただし、ただヾ無心に書き取っただけで、内容的には難しくって何一つとして頭に入っていなかったなァ。)

    先生は目の前に分厚く積まれたそれを見て、「よくやったな。おまえが興味あるんなら、その著者がどんな思いで書きつづったのか、その心を知れ。よーくわかったヾろう。著者にこたえる、とはそういうことだ」と、さとされ、私は先生の前で小さくなっていた。でも、先生の目はうれしそうに笑っていた。

    三浦寛

  • 人生の達人に学ぶ

    おッはようございます。

    皆さん、元気ですかン。今週も朝が早いんですよ。朝と言っても、真夜中の午前3:10分ですが、東京は夕方から雨で、この時間もかなり雨足が厳しいです。この雨のなか、BMをブッ飛ばして三茶に戻ってきました。今回もモスバーガーでブログの書き込みにトン走します。

    雨のこの時間帯でも、246号線はひっきりなしの車です。運送の大型トラックが多いですね。夜の暗(ヤミ)にはシーンとした静けさの中に、生命のうたげが静かに舞っている、踊っているようです。

    東京にもヤミがあるスか?
    ヤミの夜空スヨ。この時間には、お星さんもお月さんも輝いてんすから、(今夜は雨でおやすみしてんすけど)

    真夜中から大ブレしてますけど、生命のイブキとはこの真夜中のヤミの静けさにあるスね。夫婦のなすコト、恋人同志のなすコトも、このシーンとした、ヤミの世界が演出するんですね。どうぞ、アツアツ、ラブラブにおたのしみ下さい。

    そこのおとォさん、彼氏さん、性急に自分の欲求を満たしてはいけませんよ。相手の欲求をまづ、十分にとろけるように満たしてあげなさい、されば与えられんです。いいですね。

    ところで、このブログ、1日400件から500件のアクセスがあると聞かされ、ビックリ、そんな多くの人々が読まれているのか?とても興味がありますね。後5日間よろしくお付き合い下さい。

    それでは本番に入ります(本題に入ります)映画の撮影シーンではカット、カットが付きものですが、儀式にはカットは不要。
    愛がある限り永遠に続きます。

    「人生の達人から学ぶ」
    橋本先生の三男、保雄さんにまつわるエピソードはつきることがないのですが、現役バリバリのホテルマン時代は、そのダルマさんのような大きな目は人の心を刺しこむような鋭さがあって、とても近よりがたいヨロイのオーラを全身から放っていたように思います。しかし、それは仕事への厳しい姿勢と、厳粛で研ぎ澄まされた精神性とゆるぎない信念に満ちた眼光であり、その眼光の奥にも人の心を大きく包み込んで癒してくれる、あったかな目をもっている方でした。人が大好きで、好奇心旺盛で遊びの達人でもありました。とにかく人生の描き方、その生かし方のスケールが大きくて、信念のもとに自由人。人を魅了する、生き方でした。そんな保雄さんと公私にわたり、ご縁をいただき、育てていただいたことも、私の人生にとっては大きな財産でした。

    保雄さんが定年退職を迎えられる年のある昼下がり「三浦君、オレの部屋に来い」と呼び出され、副社長室に入る。その姿はゆったりとされ、背広をはづし、ワイシャツ姿でデスクに腰掛けておられた。ぶっとく黒々としたマユゲにめがねがのっかり、ギョロリとした大きな目で私を見上げる。その目は妙にやさしく丸い。
    こんな笑っているおだやかな目をみるのは初めてでした。それもまったく全身から鎧が抜けた姿でした。
    なにか、なんて云ったらいいんでしょうね。年齢をこえ、立場をこえて、フーッと親しみの中に溶けこんでいるような、空気を、私は味わっていたんですネ。保雄さんも信念の人でしたし、私も、信念をつらぬく生き方、姿勢をとおしてきましたから、何かフーッと共感して飽和するような、やわらかな空気があったのでしょうか。「三浦君、一服つけていいよ、コーヒー飲むんだろう、うまいコーヒーがあるんだ、入れてやるから待ってな・・・。君に渡すものがあるんだ。ところで、これ、これ、ちょっと待ってな」といい、2枚の絵をもってきて下さった。

    一枚は、大きな羽をひろげて舞う鳳凰(ほうおう)、もう一枚はふくよかな笑顔をもつ仏画でした。(二枚の写真がそれです)。

    二つとも、診療室に飾ってあります。一枚の鳳凰はベッドの真上の天井に、ちょうど患者さまが、仰臥位に休まれた顔の真正面に見えるように、飾ってあります。(不思議ですね。患者さまの中にも、この絵に気づく方と全く気づかない方がいるんです。何回かの加療をつづけ、良くなってくると、気づくのです。先生、いつからこんな絵が天井に飾ってあったのですか、と・・・・。病んでいる患者さまというのは、心のゆとりも、こころの視野も狭まっているんですネ。目に入ってこないんです。)

    06年の盛夏、あっという間に保雄さんは天国に旅立っていかれたのですが、柩の中の保雄さんは、あまりにも小さくて小さくって、肉体の死とは、ちっちゃくなってしまうことなんですね。

    ふと、思い出しました。仙台から東京に出てきた当時、保雄さんからオークラに顔を出すように云われて初めて伺った時、いきなり門前払いをくらったのです。「おまえさん、そんな格好でくるんじゃネェ」と、ドスの効いた声で怒鳴られた記憶があるんです。そうやって保雄さんから人生のマナーを学んできたように思います。生かされて生きているという生へのマナーです。それが生かされて生きていく、自己責任なのではなかったのかなと思います。

    橋本先生と保雄氏のパワアの違いをふと感じます。先生の生命力は足の根っ子のパワア、保雄さんの生命は腰の根っ子のパワアのように感じます。

    ところで、私の人生に大きな影響を与えて下さったもう一人のご子息は、保雄さんの二つ年上のお姉さんでした。○木え○子奥さまでした。私は○木の奥さまと呼んでいました。

    私は先生の側で修業中、先生の奥さまを「おお奥さま」、ご長男の奥さまを「奥さま」そして先生のご子息の長女の方を「○木の奥さま」、と呼んでいました。

    ○木の奥さまにも、私は頭が下がるほど良く面倒をみていただき、可愛がっていただいたのです。お会いするたびに「三浦さん、しっかりやってる?学ぶということはネ、一気に階段を昇ろうとしてもだめなのよ。一段一段、ゆっくりと踏みしめて昇るんだよ」とさとして下さるのでした。
    この言葉はドッシリと身にしみましたネ。

    そしてもう一つ、心にのこる言葉がありました。保雄さんが副社長時代、東京都の石原知事から、ホテル業界の発展に多大な力となった業績が認められ、その記念のパーティがオークラの平安の間で盛大に行われたのです。
    その記念のパーティに「三浦君、君も顔を出すように招待状を送っておくから」と、保雄さんが声をかけて下さったのです。2000名を超す招待客でごった返すなか、その発起人になったのが、海部俊樹元総理でした。
    その招待客の中に○木奥さまも招かれ、久しぶりにお会いすることができたのです。保雄さんが壇上に立ち、元総理が祝辞を読まれるなか奥さまは感きわまったのでしょうか、弟の保雄さんにむけて「おじいちゃん、ステキ」と発しているのでした。姉の立場であれば「保雄ちゃん、ステキ」と声をかけるところでしょうが、何度も「おじいちゃん、ステキ」と発しているのです。あとで、何故「おじいちゃん」なんだろうと考えてみました。つまり、父親をほめることで保雄さんの労をねぎらって保雄さんを育てた父親が一番ステキだということなのです。本人をほめるより、父親をほめるのが一番のほめ言葉なのですね。自分がほめられるよりも、親をほめることが自分にとっても一番うれしいことなのだな、ということがよくわかったのです。
    オワリ・・・デス。

    三浦 寛

  • 温古堂を追い出される

    おはようございます。同志の皆さん起きてますかー。今、真夜中の午前3時です。(バカ言うんじゃない、静かにしてくれ・・と怒声がとんできそうですね。失礼しました)
    二日目のブログです。

    話しが少し前後してしまいますが、私が橋本敬三先生のところで、デッチ奉公を終え東京で開業したいきさつも、先生の一言で決まってしまったのです。5年あまりの修行時代を過ごしたのでしたが、まだまだ先生の側にいて学んでいたかった、というのが私の本音でした。先生の側にいれれることが最高に幸せだったのです。ところが私の思いは一瞬にあわい期待だけで打ち砕かれてしまったのです。私は鍼灸の学校の卒業を目前にしていました。鍼・灸の国家試験にもなんとか合格させていただき、卒業後の進路もボチボチ考えなければならないという矢先に、温古堂を追い出されてしまったのでした。
    (悪【ワル】をして破門されたという訳ではないので、誤解しないで下さい。私は先生に可愛がられ、愛されていましたから・・・・)

    卒業を目の前にした三月のある日、大きな火バチを囲んで、先生と私はおいしいお茶を飲みながら、向かいあっていました。突然、先生は「こんなところにいつまでも、いる必要はない!佐助、おまえは東京で開業しなさい」と切り出されてしまったのです。一瞬絶句です・・。
    佐助とは、先生が私につけて下さったあだ名です。どうして佐助かと言いますと、「おまえはいつもワシの話を最後まで聞かずに飛びだしてしまう、まったくおっちょこちょいですばしっこいヤツだ!」ということで、佐助というあだ名がついてしまったのでした。

    定禅寺通り 旧温古堂医院(昭和20年〜25年頃)

    じつは、話が前後しますが、私が弟子入りする時、先生は神戸にいる私の父を仙台に呼んで、「当分の間、息子をあずかるが、それでいいか」と、承諾させたというのです。そこまで配慮して下さった先生に、心から感謝です。
    このことは開業してから父に聞かされてはじめて知ったことでした。そうして5年間の修業がスタートしたのでした。スタートするに当り、先生は私に「ワシのことに気をつかうことはないからな。どうか家族の者に嫌われないように心してくれ」と言われたのでした。その先生の励みの言葉を胸にして、私は修業の毎日に入ったのでした。幸いにも先生の奥さまに私は気に入られ、順風に着々と志をまっとうしていくことができたのです。奥さまの心づかいは、とってもあったかなもので、身に入るものでした。食事にも気を配っていただいて、なによりもありがたく感謝したのは、ご家族の方々と同じ食事を一緒にとらせていただいたことです。それも腹一杯にお腹を満たすことができたことでした。
    そして、奥さまは私の耳元で「三浦さん、何一つ心配しないでいいのよ。オジイチャンが目をかけ、弟子にとったのだから、安心して、思う存分学びなさい」と言って下さったことです。これは奥さまが先生にむけた、信頼のきずなでもあったのです。
    奥さまは照れやの方でしたが、こよなく先生を信頼され、愛されていたのでした。
    それが、私に対して「何一つ心配はないから、思うぞん分、おじいちゃんの側で学びなさい」という言葉にあらわれているのではないでしょうか。

    ★晩年の奥さま。中庭にて(撮影:三浦)

    先生と奥さまの日常を5年余り、肌で感じ見させていただき、先生と奥さまのエピソードが私の脳裡にたくさん、つまっています。それはまたの機会にお話できるでしょう。

    橋本敬三先生に耳を診てもらっている奥さま(昭和50年)

    先生と奥さまの間には6人のご子息がおられますが、この奥さまの力は絶大で、どのご子息も「肝っ玉母さん」と尊敬し、親しみ、家族愛に満ちたものでした。

    その中で、年に何度か三男のホテルオークラ勤務の保雄さんが、東京から帰省され(のちにホテルオークラの副社長を勤める)、私をつかまえ「三浦君、オレが一番おそれるバアサンにすごく可愛がられているようだな。バアサンのどこをくすぐったらああなるんだよ。オレにも教えろ!!おまえ、とにかくバアサンの目にかなってよかったなァー、バハハハ・・・」と、豪快に笑い飛ばしたあの笑顔が今も忘れられない。その保雄さんも06年の夏に他界されてしまった。私が開業するにあたって、淡島の治療室を紹介してくださったのも保雄さんであり、人体構造運動力学研究所の看板(木製)をプレゼントして下さったのも、保雄さんであり、開業して7年後、ホテルオークラのヘルスクラブの顧問に迎えて下さったのも、保雄さんであった。
    それも、これも先生が「弟子の三浦の面倒を見てやってくれ」とのご配慮があっのであろうと感謝せづにはおれないのである。人のご縁はとくに大切にしなければならない。切るのは簡単である。このご縁を大切にしたければ、「こたえていく」以外にないのである。ご恩を忘れず、こたえていくこと、それが一番の誠意であろうか、それが自分がみがかれることであり、自分が自分として立っていけることなのだろうと思う。
    保雄氏は先生のよき理解者となり、NHKのドキュメンタリー、NHKの「人生読本」への働きかけを実現され、又、先生の意志をくまれ、ホテルを利用する大切なお客様の健康をねがい、日本で最初のヘルスクラブをホテルオークラにオープンさせたのである。保雄さんが定年退職を迎えられた年に、副社長室によばれ「三浦君、オレは退社するがおまえはどうする。しばらくいてくれないか、おまえのためにもいいはずだ」と言って下さった。私はオークラの顧問を保雄さんから託され、30年になる。
    当初は橋本先生への恩返しのきもちで、保雄さんが他界された後は保雄さんへの恩返しのきもちで、ご奉仕させてもらっている。生前、保雄さんが、三浦君、もっとオークラを利用しなさい、とハッパをかけられたこともあるが、たとえ、世界のオークラであっても、自分のために利用するきもちにはなれなかったのである。
    ひたすら、師のご恩に報いることだけを考えていたからこそ、奉仕に励んでこれたのです。
    もう、お前さんには用はないよ、と言われれば、だまってオークラを去るだけのことで、何も最初から私には失うものはなかったのですから、十分に満たされてオークラを去ることができるのである。

    三浦寛

  • いろ〜いろ気づくままにムニャムニャに・・

    5月18日(日曜日)午前3時20分
    日曜日に入り、3時間20分が経過しました。島根の福田さんの後は、三軒茶屋の仙人こと、三浦がブログを担当します。一週間どうぞよろしく。

    今、三茶のモスバーガーでブログ用の書き込みをおこなっています。頭はスッキリしてるんですけど、おめめが眠っていて、パッチリしないんですよ。コーヒーを飲みながら一服して暗やみの空をポーッとながめています。5月も、中旬。寒さもやわらぎ、朝の外気もからだにやさしいですネ。
    うんじゃあ、ブログ、書きはじめます。

    「いろ〜いろ気づくままに、ムニャムニャに・・・・」

    私は23歳の時に、5年間の修行をおえて大東京にでてきました。そて居場所を世田谷に定め、現在三軒茶屋に拠点をすえ、腰に深く深く根っ子をはやし、そして張りついて、日々操体に想いを寄せ、その渦の中心にいて、発信しつづけてきました。

    私の治療室は、三軒茶屋の三叉路を150mほど玉川通り(246号線)に入り、一つ目の信号を左側に入ります。入るとすぐそこが栄通り商店街。商店街に入って二つ目の路地を右側に入った2つ目の建物の、一階の一番奥の部屋にあります。

    看板はかかっていません。ただ名刺が一枚かろうじて玄関の戸の中央に貼られ、治療室の存在を示しているだけです。

    三軒茶屋の地下鉄の駅、南口から徒歩3分ほどでしょうか。駅から近くてとても静かなんですよ。驚くほど静かな空間を保っている、私、お気に入りの治療室です。

    さて、三軒茶屋の街をすこし紹介しましょうか。

    三軒茶屋には大きな三叉路が走っています。その一つは若者が住んでみたい街ベスト1、下北沢に抜ける茶沢通りと、環状7号線から狛江に抜ける世田谷通り、東名インター(東京インター)に入り厚木に抜ける玉川通り(246号線)です。玉川通りにそってその上を首都高速が走り、その交通量たるやハンパじゃないし・・この三叉路の騒音のひどさは日本一なんですよ。島根の福田さんこと、坂本龍馬が住む島根の環境とくらべたら、想像を絶するような不健康きわまりない都心空間のなかで、排気ガスをたっぷり吸い込みながら、しぶとく生きつづけているんです。この、マァこんな三軒茶屋もなかなか愛着がある街なんです。気さくな街、気取りがなくて肩が張らない、イイ街なんです。このこよなく愛する私の街、三軒茶屋の由来を少しお話しておきましょう。

    今も、玉川通りと世田谷通りの交差点の三角地に道標が立てられています。その道標を改めて、先程見てきました。

    『大山道 寛延2年(1749年)文化9年(1812年)再建される。大山道は矢倉沢往還の俗称である。この道標(大山道)は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期頃に開通したといわれる、新大山道との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋地名のおこりの茶屋の一つ)の角に建てられた。大山は古い民俗信仰である石尊信仰と、山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として、重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は、江戸町人の大山詣りが盛んとなり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。』

    当時の三軒茶屋は中馬(ナカウマ)引沢村、太子堂村、上馬(カミウマ)引沢村と、野沢(ノザワ)村の四集落からなり、これが現在の下馬、上馬、三軒茶屋太子堂、野沢の町名なのです。

    この三軒茶屋、今は地下鉄の開通によって渋谷まで5分、急行で3分、なんてったって交通の便はバツグンで、どこにでも抜けられるのです。東京駅に出るにも成田に出るにもとても便利です。この地下鉄が開通する十数年前は、陸の孤島といわれ、交通網はバスの路線だけでした。
    私が最初世田谷で開業したのは、今の三軒茶屋から下北沢に抜ける茶沢通りを走り、その中間地点にある淡島(三茶から徒歩15分)でした。そこで開業したのです。
    文化・文政の時代で言えば、太子堂村淡島と呼ばれていたのでしょうか。その治療所は太子堂中学のスグ裏手にあり、近所には聖徳太子をまつる神社があります。
    太子堂とは、聖徳太子の太子をとったものと思われます。太子堂中学も、かなり昔からあったのでしょうね。この中学校で思い出しましたが、歌手のEPOさんをご存じでしょうか。
    EPOさんは私の顧客でした。頻繁に通院していただいて、とても心のかよいあえる方でした。EPOさんの澄みわたる、きれいな歌声がとても印象的です。

    ところで、私が淡島で治療所を構えたお屋敷は『窓際のトットちゃん』で有名な黒柳徹子さんが、あの当時住んでいたお屋敷だったのです。

    この近所ではかなり目を引く屋敷で、ゆったりとした敷地の中に立てられた日本風家屋で、中庭は日本庭園風で、徹子さんのご両親が丹精をこめて育てた四季折々の草、木、花が植えられて、とてもきもちのいい空間でした。私はよくこの中庭で昼寝をしていました。

    私に治療室として与えていただいた空間は、16畳ほどの洋間でした。その洋間の中央に大理石で造られた暖炉が埋めこまれ、天井はさくらの木をふんだんに使った二段づくりの天井、そして床はやはりさくらの木にモザイク模様が一面に埋め込まれた、すばらしい一室だったのです。私はこの太子堂村淡島で15年間患者さまを診させていただくことになったのです。

    ところで、私自身とても居心地のよい環境だったのですが、患者さまがこの陸の孤島まで足を運んで下さるのか少し心配でした。それに『人体構造運動力学研究所』とうい看板でした。この看板をみて、いったいここは何をなさるところやら、まったく不親切・・。開業した立地条件といい、この看板といい、今にしてみると、「おまえさんは何も考えていなかった・・」ということになってしまうのですが、それは若さゆえのこわいもの知らずがなせること、何にもなくて、何も失うものがないところからのスタートだったのでした。

    今日はこれでおしまいです。明日は
    「温古堂を追い出される」
    の巻です。

    追伸 皆さん、私がブログをひとつ打てないことは了解ずみと理解していますが、この一週間書き込みを行ったものは、まづ、畠山さんに送られ、彼女が私の代わりにブログの打ち込みを手助けしてくれています。畠山さんからは、いくら長い文章になっても気にしないで発信して下さいとの励ましをいただき、気兼ねなく書かせてもらっています。本当にその心づかいに感謝し、三浦センセイはこの一週間トン走いたします。

    三浦寛

  • ◎21世紀の息・食・動・想・環を考える(インタビュー)

    「月刊手技療法」には、「シリーズ操体」が8年に渡って連載されています(08年現在、三浦、今、畠山が担当)。
    この記事は1999年4月の「月刊手技療法」に掲載されたものであり、同年秋に同出版社より発行された「快からのメッセージ 哲学する操体」への伏線となっています。
    (一部畠山編集)

    1999年4月号月刊手技療法
    《巻頭インタビュー》 ◎21世紀の息・食・動・想・環を考える
    三浦寛先生に開く  「快適感覚」の聞き分けこそが操体法

    橋本敬三先生の遺した操体法の本質とは何だったのか
    今回は本記事のテーマ「息・食・動・想・環」の提唱者である橋本敬三先生(1897-1993)と、その創始による操体法について、操体法の第一人者である三浦寛先生にお話をお伺いしました。
    快適な方向へ体を動かして間を置いて脱力する、という操体法は、その安全性と、一人でも実践可能であることから、治療家のみならず一般家庭での健康法としても広く普及してきました。しかし、操体法の本質については誤解されている面も多々あるようです。このインタビューでは三浦先生にそのあたりを中心にお話していただけました。

    恩師・橋本敬三先生との出会い

    本誌:先生が操体の道に進まれたきっかけについてお聞かせください。
    三浦:高校を卒業して仙台の赤門鍼灸柔整専門学校の柔整科に入学したのですが、そこに操体の創始者である橋本敬三先生が講師としていらっしゃっていたんです。
    柔整科には橋本先生の講義はなかったのですが、先生が講義をされている様子をお見掛けすることがあって、「変わったことをお話する先生だな」と思いながらも、何か興味を惹かれるものがあり、それで、「先生の科目は柔整にはないのですが先生の講義を聞いていてもいいですか」とお願いしたら、「おお、一番前で聞け」ということで、先生の講義を受けていたわけです。
    そのうちに「ワシは温古堂という診療所を開いている医者なんだが、お前ちょっと来てみないか」と声をかけていただいて、「お前、ここでワシのやっていることを勉強せい」と言われて。
    僕としては、本当にありがたかったのは、自分が何のためにこの裟婆 (しゃば)に存在して何を為そうとしているのかが、その頃まだ分からなかったのですが、橋本敬三というヒトに触れて、俺のやろうとしていたことはこういうことだったんだ、このためにこの裟婆にうまれてきたんだ」という気持ちになったんですね。そもそも橋本先生が操体をやっているということも最初は知らなかったわけですが、とにかく人間的に惹かれたわけです。

    本誌:弟子入り当初、橋本先生はおいくつでしたか。

    三浦:ちょうど橋本先生70歳で、僕が18歳。

    本誌:本当に孫と祖父という感じですね 。

    三浦:先生にしてみればそういう感じだったんでしょうね。ただ、偉い先生なんだけども威張ったところもないし、「自分も年をとったらこういった枯れ方をしたいな」という生き方を持っていらっしゃる先生でした。自分がどう生きていったらいのかということを先生から学ばせていただいたような気がします。

    操体の魅力とは

    本誌:操体の魅力とは何ですか。

    三浦:操体には、疾患に対してこういう風に診断しなさい、こういう風に治療しなさいということがないのです 。橋本先生の捉えかたは、どんな疾患でも必ずボディに歪みがある、この歪みが疾患現象を引き起こしている元の原因、元の原因を正しさえすればそれでいいんだ、という発想なんです。
    ここにもいろんな病名を付けられたカがいらっしゃいますけれど、僕は病気の治し方は知らないんですよ。知らないけれどもこうやって患者様とご縁をいただいてこういうことをやらせていただいて成り立っているわけです 。そこがやはり操体の面白いところというか、別に疾患を治すという捉えかたをしなくても対処できるということですよね。

    本誌:操体はあまり効果がないという方もいらっしゃるのですが、それは何かやり方がまずいのでしょうか。

    三浦:我々が操体の中で、そして生きることの中で絶対視しているのが「きもちが良いという快適感覚にしたがう」というルールです 。それは操体のルールではなく、命あるものは必ず快に向く、という法則があるのです。実際に臨床の場でどういう具合に快適感覚を活かすのかという快の方向性を橋本先生が示しているわけですが、みんなは橋本先生のやり方しか見てないし、創始者がやっているやり方だからそれをまねていればいいだろうと思っているわけです。しかし、奥が深いんですよ。快適感覚を聞き分ける手段はまだ沢山あるわけで、その探求がまだ不十分ではないかと思います。
    私自身も橋本先生のされていたことを肯定はしてはいるのですが、100%鵜呑みにして理解しようとしているのではないのです。創始者のやっていることだからこれは間違いないことだろうとなると、それ以上深めることができず、ただ真似しているだけということになってくる。そうなると操体そのものをよりよく活かしていけないわけです。

    本誌:具体的にはどういうことでしょうか 。

    三浦:操体を体系付ける前に橋本先生は正体術(*)というものを見ていました。正体術に橋本先生が興味を示したのは「痛くない方に動かして治すことが可能であれば、こんな素晴らしいものはない」という考え方があったわけですね。
    ただ、操体の診断や治療の中で、楽な方に、痛くない方にという風に臨床を進めていくとやはり間に合わない点が出てくるわけです。楽な動き、または痛くない動きに「きもちが良い」という快適感覚が実際にある場合とない場合があるんですね。きもち良いという快適感覚がある場合には操法が非常に有効なんです 。そういったことが分かってきたんですね。逆に楽な方、痛くない方に動かしても「きもち良い」という快適感寛がない場合はそれほど効果がないんです。

    快適感覚の探求

    本誌:関節可動域の差や動作痛の有無で操作方向を判断している方も多いと思いますが。

    三浦:操体法を本格的にやっている先生でもそうなんです 。楽な方、痛くない方へという操法の問いかけ…は、操法の選択として最少最低限の受容感覚なんですよ。
    たしかに基本的には間違ってないですが、「きもち良い」という快適感覚でバランスが取れ歪体が正体に戻るいうことを橋本先生もおっしゃっているわけです。
    これは言葉でごまかされている部分があるんです。楽な動き、痛くない動きは「きもち良い」ものだという先入観がある。しかしそうではないんですよ。ただ単に楽というだけで快適感覚がないケースが結構あるんですね。
    そのきもちが良いという快適感覚があるかないかという感覚分析ができてないから内容が乏しい。「なんだ効かないじゃないか」ということになってしまうわけです。そこの気づきを持っている先生が少ない。

    本誌:きもちがいいということが重要ということであれば、可動性が少ない側であってもその動きに快適感覚があれば、その方向に動かすこともあるわけですね。

    三浦:そうなんです。きもちよさで治るんですから。だから、動きが目的ではなく、快適感覚を聞き分けさせるために動きを手段にしているわけです。多くの人たちは動きがメインで感覚をおざなりにしているところがあると思います。
    橋本先生も晩年は「操体というのはどうでもいいんだ、とにかくきもち良さを楽しめ。それしかないんだ」ということを言われていました。

    本誌:実際の臨床ではその快適感覚が全然わからない方もいらっしゃると思いますが。

    三浦:そういう場合、ひとつのプロセスとしてきもち良さがわからなくても比較対照的に動きを分析すれば、楽か辛いか、痛いか痛くないかぐらいは分かるんです。だから一つの方法として、それだったら辛い方から楽な方に、痛い方から痛くない方にやりながら、そういった感覚の聞き分けを、体を通して学習していく訳です。一方、「きもち良い」という感覚が分かる患者さんには一つ一つの動きにきもちの良さがあるのかどうかを聞き分けさせていくのです。つまり、「一つ一つのどの動きにきもち良さがあるのか」を聞き分けさせていくという、新たな操法の問いかけもできるのです。さらに、きもち良さの質的要求として、快適感覚があっても、からだがそのきもち良さを要求してくる場合と、そうでない場合が出てくるんです。つまり、きもちの良さにもなんとなくきもちが良いケースもあれば、無上にきもちが良いケースも出てくる訳ですね。そこで、からだが要求し、選択してくるきもちの良さを聞き分けるという試みも生れてくるのです。つまり、からだの要求感覚ですね。
    そうなるとただ「きもち良い」ではだめなんです。なぜなら快の質というものをからだは求めており、からだが要求してくるきもち良さを通すのが一番理にかなった操法の選択となるんです。

    本誌:体が求めている快適感覚の聞き分け自体が診断であり治療なんですね。

    三浦:ただ、寝たきりの人とか動きを通せない患者さんもいらっしゃるわけで、そういった方にどうやって快適感覚を聞き分けてもらうか 。あと、もう一つは、動きはとれるけれど感覚の分からない患者さんにどう対処していくのか 。これは操体をやっていて長年の課題だったんです.そして、操体というのは運動系(骨格・関節)を動かして診断しているわけですが、それが不可能な患者には、運動系の一番外枠である皮膚に、快適感覚の問いかけをもたせていけばいいのではと考えたわけです。快適感覚の分からない人でも皮膚を動かしているとそれが分かってしまうんです。以前やっていたものはこれだけいいけれど、今こういった観点から捉えていった方がより活かせるといった発展的な考え方から僕は操体というものを捉えているわけです。

    自分を愛せない現代人

    本誌:先生から見た現代人の問題とは何でしょうか。

    三浦:ひとりひとりの心が塞いでいるという印象ですが、これは何かというと自分の命を軽く見ているということなんです。そうすると人の命も軽くみてしまい、人を傷つけたりといったことも起きてくる 。自分を愛せない自分が存在しているわけで、相手も愛せないからすぐ傷付いてしまう。

    本誌:自分を愛せない人は生きていても快適な感覚がないでしょうね 。

    三浦:それは、快適感覚を自分の外に求めているから。そうではなくて自分の内側にあるという捉え方ができないんですね。そういった中で味わえる快というのは薄いでしょうね。

    本誌:一般的に快といえば、お酒やセックスなどの連想があるかと思いますが。

    三浦:要するに依存症を伴うような刺激ですね。でも、本質的に人間が求めている快適感覚ではないですよ。刺激性を伴わない、ヒトがヒトらしく生きていくために本質的に心とからだが求めている快というものがあるわけです 。そういったものに気づいていかないといけない。
    心とからだが本当に求めてくる快適感覚が分かると、心とからだは素直になるんです。やはり自分自身を愛せないと、また自分がきもち良くないと人を愛せないし、人に親切にしようというきもちも起らない 。きもちよさに対しては委ねていたいと思うから、患者さん自身心もからだも素直になれるんです。
    それは快(きもちの良さ)の学習なんです。学習を通し味わっているうちにだんだん心とからだが要求している本質的なきもち良さに触れることができるんです。そうすると本当に素直になる。その本質的なきもち良さが無上のきもち良さというのかな。それに触れることによって自分の人生観、世界観が変わってくるんです 。たしかに患者自身は膝が痛いとか、胃にポリープができたとか、肉体に疾患を抱えて「なんとかしてくれ」と来るんだけど、一番我々が望んでいるのは、快適感覚を味わうことによって生き方が変わるということ。人生観が変わるということなんです。

    本誌:操体の世界というのは、入口は入りやすいですが、中に入ると果てしなく深く広いという感じですね。

    三浦:橋本先生は我々のような内弟子には「お前ら、よくこんな難しいものに首をつっこんでやってくれているな。難しいけれど、これは一生やってても面白いぞ」と、そういったことをポツポツと言うわけです。決して「簡単」なんて言いませんよ。難しいのだけれど一生楽しめる、と。操体の本質は「感覚」なんです。だから難しいですよ。難しいけれども、きもち良いという快適感覚に従うということが、生きていく上での無上、この上ない生かされし道(タオ)とすれば、それを探求していく面白さというのは尽きません。だから、僕は他のこと(治療)はしないで、快適感覚にしたがうという、大生命の理に委ねてみせていただいているだけなんです。

    本誌:息・食・動・想・環にわたってその原理は生きているんですね。本日はお忙しい中、本誌のために時間を割き、体の治療に止まらない操体の奥深い世界を語っていただきありがとうございました 。

    (*)ここでいう正体術とは高橋迪雄(みちお)先生によるものを指す 。関連書籍『正体術健康法』はたにぐち書店より発刊されている 。