投稿者: karib_sotai

  • 食べ物と時空。

    誰にでも、懐かしい食べ物とかあったりする。
    子供の頃食べた懐かしい味。
    お袋の味とか、僕は素敵な日本語だなって思える。
    懐かしいものを食べると、認知症のお年寄りが急に饒舌になったりするらしい。
    楽しい顔つきで、その食べ物の思い出を語り出したりするという。
    その瞬間には時空を超えて。
    懐かしい時間と場所に居るのかもしれない。
    食べ物には不思議な力が在る。
    人の食事には、命を育む以外の不思議な栄養があるように想う。
    人はだから料理をするのかもしれない。
    世界中の人たちが、食べ物の思い出とか語って。
    その食べ物をみんなで食べてみる。
    そんなテレビ番組とかあったら、凄く面白いのにな。
    ヘタな理想とか語り合うよりも、世界中が仲良くなれる。
    何とかサミットやるのも良いけど。
    世界中の首脳たちが一同に会して。
    世界お国自慢美味しいものサミットやったら面白い。
    みんなが仲良くなれる気がする。
    飢餓に苦しむ人たちを助けようとかも、具体的になったりしたりして。
    誰かやらないかな。

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 不思議な閃き。

    昨日のブログを書き終わったら、ぱっと何かが浮かんだ。
    もうすぐ台風がやって来る、重い空を見たらぱっと浮かんで来た。
    重い空には、想いもいっぱい詰まってるのかな。
    雨は目に見える、その前の空気の中にある水分は、目には見えない。
    そこにも同じ水が、形を変えて在るのに、目には見えない。
    見えない水は、やがて雲になって、目に見えるようになる。
    そして雨になって、地上に降り注ぐ。
    水はいつも地球にあるのに、雲になるまで見えない。
    雲は見えるけど、触れる事は出来ない。
    雨になって、初めて触れる事が出来る。
    降り注いだ雨は、何処に行くのか解からない。
    ところが確実に何処かに行く。
    そして、また天に帰ってゆく。
    何かまるで命みたいだな。
    ふとそんな事が思い浮かんで、不思議な気分になった。
    雲になって見えるようになった命が。
    お母さんのお腹に宿った命と重なるように、僕は感じた。
    存在は見えるけど、触れる事が出来ない時間が雲。
    お腹の赤ちゃんは、目で見る事は出来ない。
    触れる事は出来るし、お腹の中に居るのも分かる。
    それでも目で見る事は出来ない。
    やがて雲から雨が降って、目に見えて触れる事が出来るように
    赤ちゃんは産まれて来る。
    不思議な感じで、僕は想いを味わった。
    赤ちゃんは一人では生きられない。
    雨が集まり、やがて川になっていくように。
    赤ちゃんは、人との出会いを重ねて大人になり、成長してゆく。
    降り注いだ雨が、それぞれの道筋を通って、海に行き着くように。
    人も、それぞれの人生を積み重ねてゆく。
    水がやがて蒸発して消えてしまうように。
    人も人生を静かに終えてゆく。
    蒸発した水は見えなくなっただけで、存在している。
    人の命はどうなのかな?
    蒸発した水はまた時空を超えて上空で雲となり、雨となって姿を現す。
    見えない状態と、目に見える状態を繰り返して水は時空を超えて存在する。
    人の命はどうなのかな?
    人の身体は水が大部分を占めていたりする。
    不思議な感覚が僕を包んで、そしてまた何処かに消えた。
    台風がやって来る朝の出来事。

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定

  • 台風が来る。

    今日は台風が来る。
    箱根辺りに居るらしい、これからどんどん近くなってくる。
    雨はいつも空の上に居る訳じゃない。
    地球の中を水は循環してる。
    雨は降ったら消える訳じゃない。
    地上に降りて、川になって、やがて海にやって来る。
    海の水には栄養が在る、それがそのまま降ってきたら
    実は困ってしまう。
    塩水が降ってきたら、地上は枯れてしまう。
    上手い具合に、蒸発して上空に昇って、雲になってから雨になって降り注ぐ。
    不思議な作業で、塩水が水になって地上に降り注ぐ。
    冬には雪になったりもする。
    その雪は山の上に降り積もり、春から夏にかけて溶け出す。
    山の下を通って、長い年月をかけて湧き水になったりする。
    何百年もかけてやって来た湧き水には大自然のミネラルが豊富だったりする。
    冬に降った雪が長い年月をかけてまたやって来る。
    そのシステムがあるお陰で夏に水が枯れなかったりもする。
    水は時空を超えてるな。
    今飲んでる水はずーっと前どこに居たんだろう。
    今日降る台風の雨も、ずーっと前どこに居たんだろう。
    それで今日降ったら一体どこに行くんだろう。
    きっと何百年も経っても地球のどこかに居るんだろうな。
    地球は水の惑星でもあり、人の身体も多くの部分は水分で出来ている。
    僕らの身体の中の水分は、ずーっと前どこに居たのかな。
    ずーっと先どこに居るのかな。
    水は情報を伝達したりすると、科学で言ったりもする。
    水の惑星、水分の割合が地球に近い人の身体。
    循環する水、だったら、実は情報も時空を超えて循環してたりするのかも。

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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  • 本当なんですよ。

    僕は時間の感覚を、超えた時が、何度か在る。
    周りの時間と、自分の時間がずれる感じを、僕は知っている。
    自分の周りが、異様に遅く感じる時間を僕は知っている。
    僕はそんな不思議な経験をした事が在る。
    格闘技のプロだった頃、僕は、何度かそんな経験をしてる。
    相手が止まったように感じる瞬間は、本当に在る。
    その瞬間は、不思議な感じがする。
    時間を感じない、その時間は、空気の感じが違う気がする。
    空気が濃厚な感じがする。
    相手の力も、重さも、感じなかったりもする。
    その瞬間は音も聴こえない。
    自分が水の中に居るようも、感じたりする。
    水の中に居ると、空気よりも周りの感覚を皮膚を通じて感じやすい
    目には見えない感覚が研ぎ澄まされたような不思議な時間が
    本当に在る事を僕は経験して知っている。
    よく交通事故の瞬間に、時間が止まって色んな事が、目の前に現れるという事を聞く。
    あれは本当に危機を感じた脳が、普段では在り得ない程能力を発揮するからしい。
    そんな事を、聞いた事が在る。
    本当に限界まで脳が働くと、情報を処理するスピードが変わる。
    普段では在り得ない程のスピードで働く。
    そうすると、時間が止まったように感じるらしい。
    本当に試合に入り込むと、そんな事が起きたりする。
    ボールが止まって見えるというのも、同じ理屈のように思う。
    人は筋肉だけで動くのではない。
    意識が人を動かす。
    意識のレベルが変われば、全てが変わる。
    意識の動きで、時間の感覚や力の感覚は、圧倒的に変わる。
    僕はそんな事を、経験から知っている。
    まるで常識からしたら、嘘のようでもある。
    でも本当の事なんですよ。
    僕は本当に、そんな経験をした事があるんです。

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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  • 時空を超える。

    日下さん1週間お疲れ様でした。
    いつも、インドのお話興味深く読ませて頂いています。
    長い歴史の在る物に触れるそれ自体が時空を超えるという事だな。
    そんな風に感じています。
    僕なりの時空を超えるお話に1週間お付き合いください。

    学びとは、教えを引き継ぐという事でもある。
    教えとは先達の方々の気付いた物でもある。
    誰かが発見した、大自然の中の法則の有効な使い方が学びであるように僕は感じる。
    色々な物を世の人々は学ぶ。
    学ぶとは、一体どういった事なのかな。
    学びの時間の中で、僕はそんな事を感じたりする。
    技術を学ぶ、それだけでは足りない気がする。
    技術とは本当の時に、いかに使うのかに絞られるように感じる。
    だから、使えない技術には意味が無いとも言える。
    武術や格闘技では、練習で使えても、実際には使えない。
    つまり練習では強く本番では弱いという事、そんな事は多々在る。
    本番に弱い、それは、実際には使えないという事でしかない。
    スポーツでもそうだし、もちろん臨床でも同じ事がある。
    練習で強くても、試合では強くない。
    スポーツでは当たり前のようにある。
    臨床でも沢山の患者さんが来れば、色んな個性がある。
    相性で治ったり、治らなかったりでは意味が無い。
    本当の時に、一体どうやって向き合うのか。
    それが学びの根幹のような気がする。
    本当の時に、一体どうやって創始者が向き合って
    その技術が産まれたのか。
    そこを感じる事が、学びの根幹のように僕は感じる。
    根幹を感じて学び自分の物にすれば。
    弱い事も治せない事もなくなる。
    治せない臨床では、上っ面の技術や思想を学んでるに過ぎない。
    創始者の魂のような物を、感じて日々を過ごす。
    その繰り返しが自分の中の方向を決める。
    自分の中の方向とは、創始者の方向とも言える。
    考えや身体の動かし方、その内側に潜む見えない物。
    そこを感じ学ぶと、変幻自在に技を操る事が出来るようになる。
    変幻自在に操る事が、技術を活かす事に繋がる。
    全ての技術はこのようになっったら、このようにやった。
    そうしたら上手く行ったという過去の結果に過ぎない。
    過去と同じ事はなかなか起きない。
    過去の結果を参考に、自分の中に操縦出来る軸を創り上げる。
    それは創始者の魂を感じる事。
    学びとは時空を超えて
    創始者の魂と触れ合う事のようにも感じる。

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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  • 時空と瞑想(最終日)

    昨日の続き
    仏教の僧は過去よりずっとお茶を飲み続けてきた。お茶は仏僧の瞑想の一部だったのである。そこには何かがあるように思う。お茶は仏僧によって発見された。それは中国の「TA」という僧院で発見されたので「TEA」と呼ばれるようになった。その「TA」は「cha」とも発音できる。だからマハラシュトラ語ではそれは「cha」と呼ばれている。そしてヒンディー語では「chai」と呼ばれている。それらはみな「TA」の僧院から来たものだ。
    最初のお茶の木を栽培するように命じたのはかのボーディー・ダルマこと達磨大師にほかならない。その逸話はとても美しい。私がもっとも愛して止まない逸話だ。 達磨は瞑想していた。彼のような瞑想家はごく稀にしか起こらない。達磨は九年の間、壁に向かって坐っていた。九年間ただの壁だけを見つめて他には何もしなかった。時に達磨は眠りに落ちた。それは自然なこと、しかし彼は眠りたくはなかった。そこで達磨は眼を閉じることができなくなるように自分の瞼とまつ毛を引きちぎって庭に投げ捨てたのである。そしてその瞼、その皮膚のかけらとまつ毛から最初のお茶の木が生えたのだという。これはこの上なく美しい話だ。
    禅の仏教徒宗教的な儀式に必ずお茶を飲む。インドで生まれた禅は中国で育ち日本で花開いた。そしてその禅から茶道が生まれた。日本人にとってお茶はあたり前のものではない。お茶は我々の目を覚ましてくれる。我々の意識を醒めさせてくれる。もっと注意深くあるためのエネルギーを与えてくれる空間を創り出してくれる。その空間からとても祈りに満ちた優美な儀式が生み出された。それが茶道だ。禅の僧院には必ず離れにお茶の庵がある。僧院で一番美しい場所にある。池や岩や砂や木々に囲まれている。その庵に行く時には一定のしきたりに従って行かなければならない。それに従うには多くの時間が必要だ。お茶が準備され、釜が鳴り始め、一同は沈黙の裡に坐してその釜の鳴る音に耳を傾ける。そしてゆっくりとお茶の芳香が鼻孔に届いて、その香りも飲まねばならない。そしていよいよお茶が給される。大変な優雅さと、大変な美しさの技によって、茶の作法が繰りひろげられる。大変な愛と気遣いによって作られた美しい器にお茶が入れられる。それはとてつもなく祈りに満ちた中で行われ、誰もが沈黙にとどまり、何のうわさ話も雑談もない。そこにはまるで誰もいないかのようだ。そして大いなる啓虔さでもってお互いに深く礼をし、何も語ることなく散って行く。一体何という空間なのであろうか。この空間、この茶室においては、目が閉じるのを許さない。お茶は目を覚ましてくれる。より覚めているために時間が止まってしまった空間なのである。
    インドから中国に渡った禅は、道教儒教の影響を受けたことによって、茶道を初めとする武道や華道といった「道」を育むことになった。今や操体も「道」として歩み始めている。

    明日からは平さんの担当です。よろしくお願いします。

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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  • 時空と瞑想(6日目)

    昨日の続き
    ありふれた空間を非凡な洞察力で眺めることは、砂漠のなかで宝石を発見するようなものだ。瞑想の一環として行為することに取り組んでゆくことができれば、日常的にくり返される問題は単なる問題ではなく、直観の源に変わってゆくことができる。いかなるものも平凡だからという理由で拒絶しないし、何かを特に神聖視することもない、日常生活にあるすべての物と素材は瞑想に生かされる。しかし、行為するというのは創造性からの逃避にもなりうる。行為によって自然な自発性がまったく育たないようになったら、創造性への恐れが現われて、手近な先入観に引っ張られてゆくのである。
    落ち込んでいたり、何かにおびえたり、あるいは事態がうまく進展しそうになかったりすると、さっそく煙草を吸いだしたり、酒を飲んだりするものだ。そうやって気分を紛らそうとする。根底にある問題に取り組みたくないものだから刹那的に一時的な快楽にしがみつこうとする。部屋の空間におびえ、何もない隅っこにもびくついている。壁に何もなければ、絵を掛けたり壁掛けを吊るしたりする。壁が一杯になればなるほど気分も楽になるからである。
    だが、本当の行為とは、実際的に動くこと、大地と直接関わってゆくことである。大地との関係性が実感されなければ、状況は混沌としてくる。自分の一挙一動を感じることには精神的な意義がある。行為は演じることではない。実際に感じなければならない。大地を感じ、大地と自分の関係性を感じとらなければならないのである。
    我が国における茶道の伝統は、大地との触れ合いを示す優れた作法である。茶道は茶碗、茶巾、茶筅、お茶、沸騰した湯を慎重に用意することから始まる。茶がたてられると、客は物を正しく扱うという感覚をもちながら、それをじっくり味わいつつ飲み干す。茶の湯には茶碗の清め方、かたづけ方、作法に沿った終わり方も含まれていて、後片付けも始まりと同じように大切にされている。このように行為中の自覚は、きわめて重要である。それは坐禅を組む時の自覚、空間の広がりを体験するときの跳躍と同種類のものかも知れない。これは大地と空間を同時に感じていることを意味する。空間を感じられなければ大地も感じることができない。その空間に対する感覚が深まれば、大地に対する感覚もまた深まってゆくことになる。
    ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、よくこう言っていたという「大地は木々を通して星に届こうと、星々を超えようとしている。それは未知に届こうとする、超越したものに届こうとする大地の手なのだ。そして私もまた大地の一部であり、大地の手なのだ 」と。
    操体もからだの感覚と直接関わってゆくことであり、快適感覚が実感されなければならない。動診も演じることではない。実際に感じとらなければならない。
    明日に続く

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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  • 時空と瞑想(5日目)

    昨日の続き
    瞑想のなかで退屈を感じて、ずっと坐り続けているのは快い空間だ。この退屈には一定の様式がある。我が国における禅の伝統では、禅寺において退屈の決まった様式がある。それは坐して、料理して、食べるということである。そして坐禅を組み瞑想をする。ところがその伝統的な瞑想に参加するビジネス研修の参加者には退屈の意図するものが伝わっていない。企業が企てた社員研修禅なるものは厳格さという軍隊的な味わい方に変わるか、単純さの美学的な味わい方になるかして、決して退屈にはならないのである。本来、日本人にとっての禅というのは日常的な生活状況であって、その中で日常の仕事をし、坐禅を組むのである。
    禅の様式は、どう自分の鉢を使い、坐禅の姿勢のままどう意識的に食うか。これはただの退屈の感覚をつくるためにあるはずなのに、ビジネス研修禅では細部まで楽しんでしまう。これでは一つの芸術作品にすらなってしまうのだ。鉢をきれいにし、洗い流して、白手拭いをたたむような行ないはすべて劇場と化すわけである。禅が考古学的、社会学的に興味深いということの調査に変わってしまうのだ。そして知人に吹聴する話になってしまう。「昨年の秋から冬にかけて禅寺で過ごした。秋から冬景色に変わってゆくのも見たし、坐禅もした。すべては正確で美しかった。どう坐るかを学び、どう歩き、どう食べるかまで学んだ。素晴らしい体験だった。まったくもって退屈なんかしなかったよ 」と、こういうことになるのだ。このようにしてまたしても自己存在証明を集めることになる。
    禅のなかには退屈という空間があるが、時間は進むことなく止まったままだ。退屈というのはさまざまな面がある。何も起こらないという感覚があり、何かが起こるかも知れないという感覚もあり、起こって欲しいと思うことが起きていないことにとって代わるかも知れないという感覚さえある。あるいは退屈を喜びとして味わう人もいるかも知れない。退屈が快いのは、何もなす必要もなく、期待することもないからである。だが、退屈を何かに変えようとするつまらない努力を超えて進むためには、ある意味での戒律がなければならない。それが呼吸なのだ。単純に呼吸とかかわることはひどく単調で非冒険的である。第三の眼が開くこともなく、チャクラが開かれることもない。まるで砂漠に石仏が坐っているようにも思える。何も一切起こらない。しかし何も起こらないことが明白になるにつれ、奇妙なことに何か荘厳なことが起こりつつあるのがわかってくる。軽薄さが入る空間も焦燥感の空間もない。そこには何か満たされた健全なものがある。この健全さは空間が事物を含むこと、事物は空間に何も要求せず、また空間も事物に何も要求しない、それは相互的で開かれた状況なのである。
    操体法には「頭で考えないで」というのがある。この「頭」こそ、退屈にならなければならないのだ。そして瞑想と同じように戒律が必要になる。それがからだの感覚をききわけるということ。
    明日に続く

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  • 時空と瞑想(4日目)

    昨日の続き
    瞑想は思考に取り組むことから始まる。思考を人間のからだに例えて言うと、根源的な二元性、感覚、衝動、概念はからだの骨格にあたる。感情は筋肉にあたり、意識化の無駄話やその他のとるに足らない思考活動は循環系であり、それが筋肉を養い支えている。したがって肉体を完璧に機能させるために必要なものは、筋肉組織と循環組織、そしてそれを支える骨格である。
    瞑想という行為は一つの開いていこうとするプロセスに見立てることができる。思考の肉体を解剖してみると、まず皮膚に切れ目を入れ、次に循環系である思考活動の動脈を断ち切る。瞑想するということは、この動脈のなかの小さな切れ目だ。坐る瞑想は極度に退屈だとか、達成困難だとか言われたことがあるかも知れない。だがやってみればそんなに難しくはなく、逆にかなりやさしく思えるだろう。ただ坐ることだけなのだから。動脈、つまり心に意識下の無駄話は、呼吸に取り組むことで容易に断ち切れる。ただ坐って自分の呼吸の出入りをただ受け入れるだけ。特殊な呼吸法は何もいらない。ただ坐って呼吸に気を配ることを続けてゆく、ただの自然な呼吸。これは呼吸に精神を集中するのとはまったく違う。集中は何かに執着するとか何かにしがみつこうとする面があるが、集中よりむしろ、心を隅々までゆきわたらせるのである。目標思考の集中よりも、そこで何が起きつつあるのかを見てゆくことが必要になってくる。
    心をゆきわたらせるというのは目標も到達点もない。そこでは愛と光、天国と地獄、あるいは天使も悪魔もいない。また、どんな種類の幻覚も約束されていない。まったく何も起こらない、まったくの退屈。ときには自分が馬鹿らしくさえなるかも知れない。瞑想の空間では、ただ坐って自分の呼吸を感じ、それとともに在るスペースなのである。そうするうちに動脈の切れ目は、実際には切れ目ではなかったことがわかってくる。実際に切れ目が入るのは、瞑想の退屈であって、本当の意味での退屈を感じ始めることになるからだ。だがこの退屈はとても重要である。何故ならこの退屈は「証明癖」と対極にあるからだ。うすっぺらなプライドであるアイデンティティーがあれば楽しいし、何か新しくて生き生きしていて素敵なものをもたらしてくれるし、あらゆる解決法にもなるだろう。このような自己存在証明の考えを除外すれば、そこには退屈が待っている。この退屈な空間は瞑想者においてとても重要だ。退屈は瞑想者の心の洗練度を向上させてくれる。瞑想者は退屈を味わい始め、それがクールな退屈になるまで心の洗練度を高めてゆく。そこには何かがあるが、時間は存在しない。そんな空間にあり、坐して、坐して、坐し続けることは、思考の動脈を断ち切り、退屈を並はずれた強さになるまでこの心理的孤独とともにある。こうした孤独こそが本当の自由というものだ。孤独とは「ひとり」という意味ではない。孤独とひとりはまったく違う。孤独は全体の一部であり、全体ととともにあるということ、すなわち全一的であるということだ。
    操体の動診でもからだの感覚に気を配って、快があればそれに身を委ね、からだの動きをただ受け入れるだけ。瞑想と同じように目標も到達点もない、ある意味において動診もまた全一的だ。
    明日に続く

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  • 時空と瞑想(3日目)

    昨日の続き
    瞑想によって真理を探究しようとする人がいるが、そんなことはできっこない。真理は捜し求められ得ないものだからだ。我々に探究できるのは、もはやすでに知っているものだけに限られるのである。探求するというのは欲するということであり、未だ知り得ないものは探求などできようはずがない。探求しようとする衝動そのものが、すでに何かを味わい、何かを知った後に湧き起こるものであるからだ。真理というのは探求することはできないが、見いだすことならできるのである。
    探求するということは、時間の中で求めるという意味であり、深い意味で延期するということなのだ。何故なら、探求は必ず未来の中にあって決して現在の中にはないからである。たった今この瞬間に探求しようと思っても、探求などできるはずがないし、そんな余地もない。本当のことを言うと、探求心そのものが「時間」というものを創り出しているのだ。探求するためにはどうしても時間が必要であり、その時間を創り出すことによってはじめて探求することができるのである。だから東洋思想の探究者たちは、「輪廻転生」という概念を生みださなければならなかった。「魂」の絶対の解放にはもっともっと時間が必要だ! 一生ではとても足りない。何生もの生が必要になってくる。そのように何生もの生があってはじめて、時間の広がりと、時間のつくり出すその空間のなかで我々は動くことができるのである。時間というのは実を言うと欲望の副産物であり、欲すれば欲するほど、ますますもって時間が必要になる。だから東洋では生につぐ生、永遠に終わることのない時間を考えつくことになったのである。
    一方、西洋的な思想では時間に対してより意識的になって限られた時間の範囲内で合理主義精神のもと、たくさんのことをやらなければならない。人生は一回きりのものであり、来生なんかありえない。今生がすべてなのであるから多くのことを、あらゆることをしなければならなくなる。割り当てられた時間という期限内で、たくさんの欲望をうまくさばかなければならない。こういったことから西洋では強く時間を意識することになった。この「時間意識」というのは西洋的精神の最も共通する面のひとつだと言える。
    我々が欲望するときには必ず時間を創り出しており、その時間とは空間の第四の次元であり、また時間とは一種の空間でもある。時間がなければ欲望は身動きできない。それゆえ、どんな欲望も時間や未来を創り出すのである。そうなったら、現在の時間を後回しにできる。しかし、現在の時間というのは実のところ時間などではなく「実存」である。時間とは保留できないもの、さえぎることのできないもの、後戻りさせることのできないものだ。そして究極的には、時間の過程そのものが「死」だ。時間を失うがゆえに、我々は死んでゆく。いつかある日、もうどんな時間も残されていない空っぽの自己になる瞬間がやってくる。生命砂時計の砂はすべて下に落ちてしまった。そうして我々は確実に「死」を迎える。
    操体も時間、空間を超えた実存の次元である。快適感覚は時間に依存しない空間において感じることができる。「永遠なる時間」にも、「限定された時間」にも拠りどころとはしない。何故なら「からだの無意識」に依存しているからだ。
    明日に続く

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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