投稿者: tokyo_sotai

  • からだがききわけていることば4

    ことばが変われば、からだの動き(うごき)も変化します。

    そのことを学習することも操体を学ぶ醍醐味です。

     

    私たちの日常生活は、個々人の身につけてきた様々な習慣によって形作られています。

    その習慣によって、その人がつくられているといっても、言い過ぎではないようにも思います。

     

    何か理由があって習慣を見直すと言ったときに、それまで身につけてきたことを変えるのはなかなかなことです。

     

    スッと動き出せることもあれば、古い習慣から新しい習慣への糸口が見つからないようなときもあります。

     

    そんな時に、ひとつの切り口として自分の普段使っていることばに着目してみるというのは面白いです。

     

    ノートに日誌のようなかたちで書き出してみるのもいいですし、普段自分の頭のなかを巡っている言葉がどんなものか、確認してみると、よく出てくる言葉があったり、何か気付くことがあるかもしれません。

     

    ※ちなみに最近面白いなと感じた書く習慣のモデルは岡田斗司夫さんのスマートノートです。

    『スマホじゃなくて、スマノでしょ』という帯の語りかけが、なんだかたまらなく響いてきます。

     

    ことばも目には見えずらいですが、習慣化されたうごきのひとつだと思います。

    自分の使っていることばを確認していくのは、結果的に習慣化された色々なことに影響を与えるのではないかと感じます。

     

  • からだがききわけていることば3

    からだというのは、空間から実に素直に情報をうけとっていると感じます。

     

    ことばを発することは空間に変化を与えます。

    発せられることばによって、空間を共有しているからだは様々な影響を受け取ります。

     

    からだがこわばるようなことばを使えば、からだは素直にそれをうけとります。

    そういうことばをできるだけ使わないようにことばを選ぶことも学習です。

     

    からだのうごきにも大きく関わってくるのが面白いです。

    からだを動かして診る、動診(どうしん)という分析法を大切にしている操体にとって、ことばに関しての学習が欠かせないひとつの理由です。

     

    ことばによって、うごきが変化する。

    からだを介して感じられる、興味深い学問です。

  • からだがききわけていることば2

    操体臨床の際に、操者が用いることば。

    それは空間を介して、伝わっていきます。

    相手に。からだに。操者自身に。

     

    操法の際に、介助を与え、接触しているからだ。

    皮膚に触れているその様子からも、

    からだがたしかにことばに反応しているのが感じられてきます。

     

    操体を学んでいる私たちは、操法の中でつかわれることばのひとつひとつについて

    確認しながら学んでいきます。

    からだがどんなことばに、どんな反応をするのかを学習しています。

     

    この学習は臨床のなかでも大きな影響を与えることですが、

    その枠を越えて、操者自身の日常生活の変化にもつながります。

     

    ことばを、からだを、空間を介して、つながっているのを感じます。

  • からだがききわけていることば

    瀧澤さん、一週間の投稿ありがとうございました。

    バトンをうけとって本日より一週間寺本が担当致します。

    今回、テーマは無題とのことですので、最近自身のテーマとなっていることを中心に書いてみたいと思います。

    宜しくお願い致します。

     

    操体を学ぶようになり、またその実技として操体法のイロハを学習するようになると、そこで用いられる「ことば」についても、いろいろ指導を受けることになります。これが結構、細かいことにまで及んでいるのが印象的です。

     

    操体法の魅力はなんですか?と問われれば、そののひとつとして、道具を使わなくても身ひとつで臨床が可能である、ということが挙げられると思います。

    一方で、目にみえる道具は使わなくても、実は目にみえないこの「ことば」は実に巧みに応用しながら、その恩恵のなかで臨床空間は展開されています。

    操体法は「ことば」とともに進化し、変化してきたとも言えるでしょう。

     

    創始者の橋本敬三先生も「言葉は運命のハンドル」という有名な一言を遺されています。このことばも改めて、味わい深いものだと思います。

     

    想念(精神活動)への影響として、私たちが用いることばは大きく関与しています。

    同時に想念と深く関わっている「からだ」にもその範囲は及んでいます。

     

    わたしたちは普段からことばの影響を受けながら生活をしています。

    同時に、からだもことばのひびきに常にさらされて生命活動を営んでいます。

     

    目にはみえなくても、からだはことばをききわけている。

    操体法を学んでいると、そういったことを感じます。

  • からだはききわけている⑦

    今日で最終日となります。

     

    臨床や生活で実践しながら「からだ」と共に感じとっていることを、一日一日とブログに書いてきました。

     

    「自然法則」はあたまで理解していくものではなく、実際に試してみて、「そうなるようになっている」という実感の積み重ねによって、身近に感じられるようになってくるもの。

     

    ちょっとした変化に気づいていくこと。

     

    ちょっとずつでも継続していくこと。

     

    「からだ」からいただいていることです。

     

     

    わたしたちはうごくいきものです。

     

    うごく、ということは、常に変化し続けているということです。

     

    「からだのうごき」をとおして、正当なからだの使い方を身につけていくことは、常に変化している「からだ」や「空間」に気づいていくこと。

     

    意識もまた正当なからだの使い方にかなうよう育んでいくことができる。

     

    そのような意識は、目に見えないことにも親しみを感じさせてくれる。

     

     

    最後に最近感じている「言葉」について。

     

    加齢や抱えている疾患によっては、以前できていたことができなくなることもあります。

     

    「もう治らない」「なんでできないんだ」という周りからの言葉の縛り。

     

    「わたしにはできない」「できないのはダメだ」という自分の言葉の縛り。

     

    様々な事情があり、そのように思ってしまうきもちも理解できますが、いのちの可能性を縛ってほしくはないと思います。

     

    言葉もまた空間に伝わっていくものです。

     

    それをちゃんとからだはききわけています。

     

    臨床で、強ばっていたからだがすーっとゆるんでいくのを感じていると、このような縛りから解放させてくれるのが「からだのうごき」なんだとおもえてくる。

     

    ちょっとずつでも、いのちが悦ぶ方向にながれ、循環していくように、呼吸もうごきも、言葉も空間の中で生かしていく。

     

    その生かし方を操体では伝え続けているのです。

     

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

     

    明日からは寺本さんになります。

    どうぞ、お愉しみに。

     

     

     

    2024年春季東京操体フォーラム開催致します。

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  • からだはききわけている⑥

    からだがききわけている環境において、空間と想念は深くつながり、感謝はそこから生まれてくる。

     

    生かされている実感を積み重ねることで、このような意識になっていくのも、健康維持増進における想念の変化だと思います。

     

    生かされている実感は、何も特別な体験を必要とするわけではありません。

     

    普段当たり前のように行っていることの中で、「ちょっと」ずつでも「からだからのメッセージ」を感じとっていくことです。

     

    つい先日も、臨床後に「以前は体調が良いとか、悪いとかしか分からなかったけれど、最近は(趣味で)絵を描こうとしたときに、手に力が入って強ばっていることに気づくときもあって、そんなときは無理してやらなくなりました」というようなことを話してくださった方がいました。

     

    症状として感じられる手前で、ちょっとしたからだの変化に気づいていく。

     

    そういった気づきが、直ぐに生かされている実感につながらなくても、ちょっとずつ積み重なっていくことで、あるとき意識に芽生えることは充分に起こりえることです。

     

    からだからのメッセージと生かされている実感をつなぐ「ながれ」がある。

     

    その「ながれ」の中でからだが悦ぶ呼吸やうごきを感覚し、それによって現れるつくりに相応しい意識や言葉になっていく。

     

    点と点が線でつながり、生かされている実感へと辿り着く「ながれ」はあり、それらが重なる立ち方もある。

     

    臨床においても、生活においても、そういった「ながれ」をちょっとずつでも感じとっていけるような指導の在り方がこれからはより大事になってくると感じています。

     

     

    呼吸やうごきをとおして生かしてくれている法則性に気づいていくこと。

     

    法則性によって表現されていることを、からだにとっても、自分にとっても「快」だと感じられるようになっていくこと。

     

    それらを生みだしている空間に意識が向いて感謝の念が湧いてくること。

     

    こういったことが健康維持増進の姿なのではないかと、最近では感じるようになってきています。

     

     

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  • からだはききわけている⑤

    息、食、動、想の営みが、自分の要求を満たす営みとしてだけではなく、からだの要求を満たす営みでもあるように、からだに感覚をききわける。

     

    「食」の営み一つとっても、ほんとうにからだは食べることを要求しているのか、食べることがからだの悦ぶ「快」につながっているのか、その都度からだに確認してみる。

     

    お腹が空いたということも、毎回同じではなく、ちょっとずつ違っていて、からだと共に味わっていたい空腹感もある。

     

    「ちょっと」でずいぶん変わるんです。

     

    「ちょっと感じられる」とか、「ちょっと気づく」って、とても大切なことだと最近感じています。

     

    その「ちょっと」の範囲がちょっとずつ広がっていって、からだの内側の変化だけでなく、からだの外側の変化にまで意識が向くようになってくると、「からだがききわけている」ということも、すっと腑に落ちてくる。

     

    そうすると、「からだにききわける」というよりも、「からだがききわけている」ことに委ねている自分に気づくことが多くなってくる。

     

    このブログでも、「重なる」とか「いただく」とか、「うつわになる」という言葉で表現するようになったのは、「ちょっと」の範囲がちょっとずつ広がっていくことで、自分たちに向けて発信してくれている「からだ」や「空間」のメッセージに気づきやすくなってくるから、ということもあると思います。

     

     

    そういった変化と共に、環境の捉え方も変わってきました。

     

    これまでも、息、食、動、想の四つの営みと環境との関わりを学んできましたが、環境に関しては今一つ掴み切れておらず、漠然とした理解になっているところもありました。

     

    けれども、「からだがききわけている」ということに意識が向くようになってくると、よりシンプルに「からだがききわけている環境」と捉えられるのではないか、と思うようになってきました。

     

    からだがききわけている環境において、

     

    どのような立ち方になっていけばいいのか、

     

    どのような呼吸になっていけばいいのか、

     

    どのようなうごきになっていけばいいのか、

     

    どのようなつくりになっていけばいいのか、

     

    どのような感覚をうけとっていけばいいのか、

     

    どのような意識になっていけばいいのか、

     

    どのような言葉を発していけばいいのか。

     

    からだと共に感じとっていくことが、環境を理解することにつながり、それは、空間の変化を感じとっていくことでもあり、生かされているという実感を積み重ねていくことでもあると思います。

     

    空間と想念は深くつながり、感謝はそこから生まれてくる。

     

    やっぱり「ちょっと」って大事なんです。

     

     

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  • からだはききわけている④

    意識によって身につけていく学習は「おもての学習」。

     

    ちょっとした意識づけによって、無意識的なことに気づいていく学習は「うらの学習」。

     

    「うらの学習」では、無意識的にからだのしてくれていることや空間との関わりなども法則性として感じとっていける。

     

    昨日は「からだの学習」について、こんなふうに捉えることができるのではないか、ということを書きました。

     

    このように捉えてみると、これまでも「おもての学習」を行いながら、それと並行するように「うらの学習」も行われていたことに改めて気づきました。

     

    自分が意識してコントロールしている訳ではないのに、無意識的に表現している「からだ」に気づく瞬間はあったんです。

     

    ただ、重心の学習が「からだの学習」の中心になってくると、まるで「おもて」と「うら」がひっくり返るように隠れていたものが現れて、そういったことに気づく瞬間が飛躍的に増えてきたと感じています。

     

    それと同時に意識の使い方もこれまでとは違うものになってきました。

     

    今学んでいる正当なからだの使い方にかなうということにも、もちろん身につけていくプロセスはありますが、これまでコントロールすることに使っていた意識は、その仕事から解放され、最小限の意識づけで済むようになってきています。

     

    その分、無意識的にからだがしてくれていることや空間との関わりに意識は向きやすくなる。

     

    それは、からだの内側の変化だけではなく、外側の変化も素直に感じとっていくうえで必要なことだと思います。

     

    1日目と2日目のブログに書いたように、頭の向きによって起こってくる呼吸や感覚の変化を感じとることは特別なことではありません。

     

    なぜなら、はじめにからだが空間の変化をききわけてくれているからです。

     

    臨床においても、生活においても、呼吸や感覚、うごきなどをとおして、からだと共にその変化を感じとれるようなつくりになっていくことが健康維持増進の核になるのでは、と思っています。

     

     

    2024年春季東京操体フォーラム開催致します。

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  • からだはききわけている③

    久慈にいるときは電車に乗る機会はほとんどありませんが、東京に来たときは電車に乗ります。

     

    いつだったか、始発の電車に乗ったとき、車内の座席はまだガラガラでしたが、一車両中ほとんどの方が七人掛けの席の端っこに座っていました。

     

    隣の人と接することを考えると、端っこに座りたくなる気持ちはなんとなくわかるのですが、そのうちの七、八割くらいの方が左端に座っており、本人が意識してその位置を選んでいるのか、あるいは無意識にその位置を選んでいるのかは分かりませんが印象に残る光景でした。

     

     

    話は変わりますが、重心の学習が「からだの学習」の中心になり、学習する意味も随分と変わってきているように感じています。

     

    これまでは、立ち方の学習にしても、うごきや呼吸の学習にしても、型のようなものを師から教わり、それを意識的に繰り返し学習することで無意識的にできるよう身につけてきました。

     

    また、息、食、動、想の営みも、自分の要求を満たす営みとしてだけではなく、からだの要求を満たす営みでもあるように、「からだにききわける」という感覚の学習も生活の中で行ってきました。

     

    最近感じるのはこういった身につけていく「からだの学習」は、意識による「おもての学習」なのではないかということです。

     

    それに対し、今自分たちが学んでいる「からだの学習」は意識づけによる「うらの学習」。

     

    「うらの学習」は立ち方にしても、うごきや呼吸にしても、ちょっとした意識づけによって無意識的にからだがしてくれていることや空間との関わりに気づいていく学習。

     

    その気づきによって、点と点は線でつながり、法則性として感じられるようになってくる。

     

    法則性はやり方として覚えるのではなく、からだにとっても、自分にとっても「快」だと感じられる確かな実感の中で気づいていくもの。

     

    そのような実感は意識をからだの内部にとどめるだけでなく、からだの外部にまで解放してくれる。

     

    もしかしたら、はじめに書いたようなことも本人の気づかないところでこういったことにつながっているのかもしれません。

     

     

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  • からだはききわけている②

    昨日の続きになりますが、空間の変化というと、なんだか特別なことように聞こえてしまうかもしれませんね。

     

    ただ、昨日書いたように、頭の向きによって「感じがいい」とからだにききわけられたり、それによって呼吸の変化に気づいたりすることも、空間の変化を感じとっているということにつながっていると思うんです。

     

    初めて臨床を受ける方も、頭の向きによって感じが変わるということは案外感じていただけることでもありますし、子供なんかも面白がって「こっちがいい」と応えてくれるものです。

     

    むしろ、子供の方が「そんなことあるわけないよ」という先入観がないので、素直に感じとってくれたりするのかもしれません。

     

    試しに、くすぐったがりで鼻が詰まっている子に、頭の向きをからだにききわけてもらい、「感じがいい」向きを確認する。

     

    「感じがいい」と感じられなかった方向に頭を向けてひかがみ(膝の裏スジ)にふれたときは、とてもくすぐったがるのに、「感じがいい」と感じられた方向に頭を向けてひかがみにふれると、くすぐったがらなくなる。

     

    ふれたときに伝わってくる力感も変わるので、「感じがいい」とききわけられている向きではからだも本人もゆるんで、こちらのアプローチを受け入れてくれるようになる、という感触があります。

     

    また、「感じがいい」向きでは「息がしやすくなる」とのことでしたので、呼吸のとおりも、力み(リキミ)とゆるみに関係していることがうかがえます。

     

    これは一つの例として挙げましたが、からだが空間の変化をききわけているということを、自分たちも呼吸や感覚の変化をとおして、気づいていくことができることを示していると思います。

     

    臨床も生活も空間でのできごとです。

     

    その空間との関わりにおいて、からだにとっても自分にとっても悦びとなるような生かし方がある。

     

    そのようなことを学んでいると、臨床も生活も生きた「からだの学習」の場であると、確かな感触が生まれてくるのです。

     

     

    2024年春季東京操体フォーラム開催致します。

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