投稿者: karib_sotai

  • 「感じるからだ入門編」

    お疲れ様です。小代田です。
    今日は月1回のアロマの会がありました。
    この会は「せっかく学んだアロマテラピーもいざ講習を終えると離れてしまって使わなくなってしまう」という
    生徒さんの相談を受け、アロマテラピーを教えていただいた先生とその生徒さんご夫婦が発起人になり
    スタートした会で、早いもので今回で7回目になります。
    このような会の立ち上げは先生も集まったメンバーも始めてで、目的地も進み方も手探りでスタートしましたが、
    少しづつ形になり始めてきました。
    講師も生徒もなく同じ学びを通した仲間として月1回、職業も年齢も違うメンバーが集まって楽しんでいます。
    そして「今回マッサージをやってみたいって声が上がっているんだけど、やってみない?」という先生からの
    お話で、思いがけずマッサージの講座をやることになりました。

    今日集まったメンバーは女性ばかりが8名(もともと男性は1名しかいないのですが・・・)、マッサージを学ぶのも
    やるのも初めての方ばかりです。
    今日のテーマは「まずは触れてみよう、感じてみよう」です。
    一時間という短い時間でマッサージの概要から実技までやろうというので、初めての方ばかりだと少しタイトな
    時間だったのですが「できれば実技というよりからだでその感覚を味わってもらいたい」「マッサージ(人に触れる)
    ということを楽しんで欲しい」という思いから初めての資料作りなどを経験しながら、準備を進めて臨みました。

    初めてのマッサージ、私の手元から目を離さず皆さん真剣です。感心する人、力みすぎてぎこちなくなっている人、
    私と自分の手元を繰り返しじっとみて何かを考えている人、うっとりする人、色々な顔が見えます。
    「今日はまずマッサージってこんな感じだということを知っていただくだけで良いですよ〜ホイホイもっと楽しんで〜
    〜ゆっくりと皮膚に触れる感じ、触れられた感じを味わって下さい〜」「どんな感じですか〜」。

    いつもは教わる立場の私ですが、こうして逆の立場に立つと色々なことが見えます。
    一生懸命なあまり手元やそのやり方ばかりに気がいってしまいその手技の目的が見えなくなってしまったり、
    はたまた上手くやりたいと手元に必要以上に力が入り上手くからだが使えなくなってしまっていたり、
    上手くなりたい故に上手く出来ないことに落ち込んでしまったり、反対によく見うないうちに(聞かないうちに)
    自分で始めてしまってすこーし違った方向に行ってしまっていたり。

    操体の定期講習会などでも「手元ばかりみるな」「全体を見なさい」「まずは見ることに集中しなさい」と何度も
    教えて頂きましたが、「なるほどこういうことなんだな」と腑に落ちる思いでした。

    その後は少しづつ皆さんも肩の力がぬけ「感じるからだ入門編」を楽しんでいただきました。
    そうそう悪戦苦闘している皆さんに操体のコツを少し教えてあげたんです。
    そうしたら皆さんとても上手に自分のからだを使えるようになったですよ。
    少し長くなりそうなのでこの話はまた残りの回で!

    今回は思いがけない機会に自分がこれから操体を学んでいく上で良い教えをいただきました。
    この日々の出来事達に感謝です。

    では今日はこのあたりで。
    残りも少なくなってきましたが、明日もよろしくお願いします。

    安心からか帰宅後気がついたらすっかり熟睡してしまっていた小代田より。
    新しい朝を迎える皆へ、良い一日を。

  • 感動は時を越え人を越え

    お疲れ様です。小代田です。
    今日はどんな一日でしたか。昨夜と同じようにパソコンの前に座り、何にもとらわれていないような、
    時間を越えたこの夜の感覚を不思議に感じている小代田です。

    今日患者さんの奥様が旅先で感動したお話を一生懸命話して下さいました。
    すべての感動をエネルギーにかえ生きているようなこの奥様は、ホテルで結婚式の衣装係を定年の
    年齢を過ぎた今も頑張っておられるのですが、色というものにとてもこだわっていてるそうです。
    桜の季節には桜を、菖蒲の季節には菖蒲を、紅葉の季節には紅葉と、その一番鮮やかな色を見に
    全国各地にお出かけになるそうです。
    そして、着物や日本建築など美しいものに触れる機会があるのなら、これまたフットワーク軽く静岡を
    飛び出します。
    「本物の色になるべく触れたいの、色の記憶を自分の中に貯めていくの。そうすると花嫁さんにドレスや
    お着物の説明をする時に言えるでしょ、この『このピンクは桜のピンクよ』って」。
    「美しいもの、素晴らしいものをたくさん見て触れたいの、それが表現につながるの」
    「先生、本物をたくさん見なさい、手間ひま惜しまずに本物に触れなさい」と話してくださいました。
    自分の求めるものを探求する、プロであるために学び求め続ける。
    そのあふれでる感動をまるで子供のように「もう少し、あとちょっと」と話して下さる奥様に、
    学ぶために、プロであるために、時も場所も関係ないのだなと感じさせられた朝でした。

    本物を見る、触れる、操体にも同じこと。
    その記憶を、感覚を、絶対なるものを自分の中に貯めていく、これもまた同じこと。

  • 「年をとるのも良いもんだ 操体編」

    こんばんは、今日も静岡から小代田です。
    静岡もここの所、朝晩はぐっと冷え込み、今日往診先のおばあちゃんの靴下が2枚になりました。
    夏の終わりと秋の訪れを感じています。

    では今日もそろそろ小代田の徒然節をスタートいたします。
    よろしくお願いいたします。
    さて、今日は「年をとるのも良いもんだ、操体編」をお送りしようと思います。
    今年もお陰さまで無事にまたひとつ年を重ねることができ、いよいよ30代折り返しと言われる
    年を迎えました。

    気持ちは年を追うごとに年齢と反比例していきますが、からだはやはり自然の法則にそって
    ゆるやかに、確実に・・・(いや、自然の法則ですから)。

    でも良いこともあるんです。

    からだへのごまかしが効かなくなってきたということは、自分のからだ(人生)に対して自分が責任を持って
    生るということを確認させてくれるということ(生き方の自然法則)。

    身体運動の法則に反するとすぐからだが辛くなってくるということは、自分がからだの声に耳を傾けていれば、
    悪くなる前に修正できるということ(身体運動の法則)。

    からだの動きが大きく表現できないということは、からだの中の動きに集中でき感覚をより深く味えるということ
    (感覚の充実)。

    以前のように沢山のものを持ちきれなくなってくるということは、自分が必要なものを選んで進んで
    いけば良いということ(『バルのいましめ』※)。

    動が少なくなるぶん静の世界が充実してくる気がします。

    何はともあれ、わたしにとって自然の法則を学ぶには良い季節であります。

    今日もあれこれと考えていたらあっという間に時間がたっていました。
    明日はどんな一日でしょう。
    生かされた今日と明日への感謝を込めて。

    ではそろそろ今日も。おやすみなさい。今日も一日お疲れでした。

    ※『バルのいましめ』:「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」という操体の教え

  •  もうひとつの三軒茶屋

    こんばんは、小代田です。
    今日も一日お疲れさまでした。

    さて、ブログ2日目、今日はわたしのもうひとつの学びの場、操体法東京研究会
    定期講習会についてお話しようかと思います。
    早いもので東京操体フォーラムでご縁をいただき、この定期講習会で学びはじめてから
    今年で3回目の秋を迎えます。

    定期講習会では私と同じく、繰り返し受講されている方も多くいらっしゃいます。
    今年も昨年と同じメンバーが顔を合わせ学んでいます。
    わたしの大切な仲間です(と勝手に思っています)。

    さて、同じメンバーと言うことはお互いの学びは始め、ロボットのようなぎこちない動きの頃
    から知っていると言うことです。
    それから1年、そして2年。最近の仲間を見ると学びを続けたそのからだは、連動、呼吸、
    目線の通し方、からだの聞き分け、そして快の質、その味わい方、すべてが大きく変わってきています。
    操法を通して互いに向きあうが、それも昨年と全く違う。

    毎回静かな驚きと喜びを覚えます。

    この操体法東京研究会の定期講習会では年齢も職業も違う仲間が三浦先生のもとで
    隔週の日曜日、一生懸命学んでいます。
    ポンポンと色々な波動が優しく楽しげに飛びかうこの講習会、これもわたしの大切な学びの場です。
    何だか今週末の講習会が楽しみになってきました☆

    さて、そろそろ夜もふけてきました。今日はこの辺りで。
    では皆さん今日も一日ご苦労様でした。
    おやすみなさい。

  • 実行委員勉強会にて

    お疲れ様です。日下さんから、バトンタッチ、今週1週間担当させていただきます小代田です。
    どうぞよろしくお願いします。今日も秋晴れの良いお天気でしたね。

    今日は勉強会で三軒茶屋に行ってまいりました。以前畠山先生のブログでも紹介がありましたが、
    私たち東京操体フォーラムの実行委員は三浦先生のもと月一回勉強会をしております。大阪や群馬、
    島根など各地からこの東京操体フォーラムのより良い運営のため、実行委員として常に新しい操体
    学ぶため三軒茶屋に集合するのです。操体への真剣な思い、そして姿勢に、同じ実行委員のメンバー
    として頭が下がる思いと共に、この情熱を皆さんに伝えたい!と思うのでした。

    勉強会が行われるターミナルビルに着くと朝から学ぶ喜びで満ちた部屋は気持ち良い波動で私をくつろがせ、
    心地良い緊張で包んでくれます。

    実行委員として勉強会に参加させて頂いてからちょうど1年になります。今回こうして「ブログ初日に勉強会」
    というご縁を頂きましたので、今日は私が一年間勉強会を通して感じたこと、その中の一つをお伝え出来ればと
    思います。

    その一つとは『古きを知らなければ(学び続けなければ)新しきを成すことは出来ない』ということです。
    三浦先生のお言葉を借りれば「ワープはできませんよ」ということです。

    三浦先生の絶え間ない操体の探求は私たちに常に新しい扉を開けて下さいます。しかしそのもとには
    橋本敬三先生の精神が息づき、操体の、そして臨床の歴史があります。三浦先生のゆるぎない一本道が
    そこにあります。そしてその姿に学びます。基本を忘れてはいけないよ、やせて乾いた所には何も育たない、
    だから一生懸命耕しなさい、一つ一つ大切に大切に耕しなさい、そう教えていただいている気がします。

    まだまだ学ぶべきものがある。

    3云歳という年齢から臨床経験が長いと思われる私ですが、鍼灸マッサージ師の免許をとってやっと4年目に
    入り、そして縁あって操体を学び始めてから3クール目に入ったという所で、臨床家としてはまだまだ新米、
    もっともっと学びたいと思っています。欲張ってはいけないと言われますが、学ぶことに対しては今は
    もっともっと欲張りたい。そう思うのです。

    話が少しそれてしまいました。そうです、今日は実行委員の勉強会のお話でした。すみません。

    何だか今日はターミナルの熱さに押され、次々話しが飛んでしまいそうなのでそろそろ締めようかと思います。
    今夜は小代田の徒然節にお付き合いいただきありがとうございました。

    ではまた明日。

    鈴虫なく静岡から。

  • 百匹目の猿

    最終日は三軒茶屋の界隈で耳にしたつくりばなしをひとつ。

     日本近海には小さな島が点在している。そのうちのいくつかの島に棲みついている日本猿の群れの生態がたえまなく観察されてきた。これらの島に棲む猿たちは自分で掘り出したサツマイモを土のついたまま食べていたのである。こんな行儀の悪い食べ方は、何年も変わらずに続いていたが、ある日、一匹の雄猿がその伝統を破ってしまった。食べる前にそのサツマイモを海に持って行って洗ったのである。
     彼は母猿にそのやり方を教えた。そして母猿は当時の連れ添いにそれをやって見せた。母猿の連れ添いもそのやり方を覚え、仲間の猿たちにやって見せたのである。こうして洗って食べる文化は猿の群れ全体に広まっていった。そして百匹中、九十九匹の猿がサツマイモを洗って食べるようになったのであった。
    そしてある月の第二日曜日の午前八時丁度に、最後に残った百匹目の猿がその習慣を身につけたそうである。それから一時間も経たないうちに、それまで食べ物を洗うそぶりも見せなかった、海を隔てた他の二つの島に棲む猿の群れの間にも、その習慣が現れはじめたのである。

     人間の社会でもこんなドラマチックなハプニングは同じようにして広がっていくものと信じていい。多くの人があることを真実とみなすようになると、やがてそれがすべての真実となる。そんな法則が今、三軒茶屋で起ころうとしている。 うむっ! あなたはその証人になれるかも知れない。
    三軒茶屋のとある場所で、願わくば百匹目の猿にならんことを。

     今回、次の担当は小代田さんにバトンタッチです。

  • 動診と感覚

     感覚は呼吸だけでなく、動きにも深くつながっている。

     操体の動診において、ゆっくり動作を行うと、自分の動作の過程を意識的にはっきりイメージすることができる。このような動作は精神の集中度を高めるとともに、自律神経の調和を得て、身心の相関関係が密接となってくる。
     からだは全体で成り立っており、全体があってこそ部分も位置付けられている。それは健康を考えても同じこと。たとえば胃が悪いから胃だけを良くしようとするのではなく、ストレスを受けなくてもすむ心の強さや、肝臓や腎臓の強さも必要なのである。胃は、からだ全体の中の一部であるから、からだ全体のレベルが上がることで胃も強められていく。病気は健康になれば治るというが、いかにも的を得た表現である。
     からだの歪みを考えても必要なことは同じである。片方の肩甲骨が歪んでいるからと言って、その歪みだけを治そうとしてもそれは無駄な努力というもの。肩甲骨に問題が現れるのは、からだ全体の歪みの現れである。肩甲骨が歪むとすれば、腰も骨盤も、首にも問題があるに違いない。からだ全体の有機的な関連の上に、背骨や肩甲骨の働きはあるはずだから。
     それでは、からだ全体のレベルを上げるにはどうすればいいのか。その鍵は動診にある。動診ではからだの末端部から全身へ連動を促す。この連動が引き金となって、快感覚へとつながってゆく。そして、それがからだ全体のレベルを上げてゆくのである。からだ全体のレベルを上げること、全体のレベルが上がることで背骨や骨盤や肩甲骨などの弱さが欠点ではなくなっていくこと、そういう考え方が必要とされる。からだ全体のレベルが上がると、からだの素質は全体的に高められ、しかも固有のからだの感覚を通して、自己の意識が高められていくための大きな助けとなる。からだは人間である限り、人種の違いを超えた共通の基盤である。からだを動かす喜びが味わえるようなものが操体の動診から導き出されるとは思えないだろうか。

  • 呼吸と感覚

     ドラッグから出発したものの、やはり「呼吸」にたどり着いてしまった。

     心はあらゆるものを通して、音声、言葉、意味を通してさえ微妙な食物を摂り入れていることになる。たとえば性欲を感じている時、性的幻想に憑かれている時に意味を持たない音声、たとえば鼻で力強く息を出して「フゥン! 」と発してみる。まもなくSEXを超越したのが感じ取れる。なぜなら発散されたのだ。あるとても微細なものが呼気とともに発散されたのである。
     怒りを感じた時も、この音声「フゥン! 」を活用してみると、まもなく怒りは消え去ってしまう。また、性欲を感じていて、この同じ音声を吸気とともに鼻で「フゥーン! 」と息を吸えば、なおさら性欲を感じることになる。また、怒りを感じている時、この同じ音声「フゥーン! 」を吸気時に発したなら、なおさら怒りでつのってしまう。そうしたとき、ひとつの単純な音声でさえ、いかに自分の心に影響を及ぼすか、また、吸気と呼気とでは、それがいかに異なった効果を心にもたらすかということに気づく。
     美しい愛情深い人、あるいは恋人に会って、相手のからだに触れたいと思ったら、呼気とともに相手のからだに触れてみる。 ― 何も感じない。今度は吸気のときに相手のからだに触れてみる。 ― たちまち魅せられてしまう。吸気のときの接触は一種の食物になるのだが、呼気のときではまったく食物にはならない。
    両手で誰かの手をとり、吸気のときだけその手を感じとってみる。呼気のときはからっぽにすること。そうすれば触れ合いは食物だということがわかる。 
     母子の関係で言うと、母親なしで育てられた子供や、母親がいたとしても触ってもらったり、愛撫してもらったことのない子供には、何か足りないものがある。母親に触られ、愛撫され、抱きしめられたりしたことがない子供は、けっして誰も愛せない。母親の微妙な接触は子供にとってもっとも必要とされる食物である。母親の接触によって子供の中に色々なものが生み出される。母親のように愛情を持って触れてくれる人がいないと、その子供はだれも愛せなくなる。何か肝心なものが欠けているということを知らないで育つことになるからだ。
     そして、呼気の感覚に注意してみる。そうすれば息の秘密、どうしてそれがプラーナ(生命素)と呼ばれてきたのかというその理由に気づく。息は生命にかかわる最も重要なものであるということがわかる。
     呼気に力を入れて食事をすると、その食物がどんなにおいしくても、からだの滋養にはならない。たくさん食べたところで、呼気に力点があったら、まったく栄養にならない。だから吸気のときに食べること。そして呼気のときには特に隙間をおくことである。そうすればほんの少ししか食べなくても心配ない。なぜなら、このように呼気に力点がなく、隙間をおいて吸気とともに食事を摂るなら、錬金作用がはたらくからである。神経質に栄養のバランスなど気にかけなくても済むのだ。栄養不良になりはしないかといった心配は、えせカロリー栄養学思想にたぶらかされた迷信である。
     ヨーガでは、食事直後の胃の内容は食物が半分、水四分の一、すき間四分の一になっているべきだという。腹八分目という名言があるように、飢餓感が止む程度に食事をひかえておくのが理想的であり、満腹感を覚えるのは食べすぎの危険信号と心得るべきである。

  • 眠りと目覚めと呼吸

     ドラッグと瞑想から眠りへ、そして目覚めから呼吸へとつづく。

    眠りと目覚めは、有機生命体の呼吸であり、そして時間も呼吸である。人間と同一の単位で計れるすべての有機体、植物も含め人間と類似した条件下で生きているあらゆる有機体にとっては、一日の時間はすべて二十四時間になる。
     植物は眠っている時には、つまり夜には息を吐き、起きている時、つまり昼間は息を吸うから、人間と同様すべての哺乳動物にとっても夜と昼、つまり眠っている時と起きている時では、酸素と二酸化炭素の吸収には相違がある。したがって眠りと目覚めは確かに呼吸であるということがわかる。人間以外の有機生命体はとりわけ植物については、一回の呼吸に要する時間は二十四時間であると理解できる。
    普通の状態にある人間は平均で一分間に二十回の吸気と呼気という呼吸をしている。だから一回の呼吸は、六十秒を二十回で割ると三秒ということになる。このように推測しながら呼吸の周期と眠りと目覚めの周期を考えてみると、二十四時間を三秒で割ると、一日に二万八千八百回の呼吸をすることになる。
    次に昼と夜で一日、二万八千八百回の呼吸を一年の三百六十五日で割ると、きちんと割り切れないが、だいたい七十九年になる。この七十九年は人間の生命を表しているのだが、これは七十九年の眠りと目覚めを形成している。

    人間の寿命は、健康に一生を過ごしてきてもせいぜい八十年がいいところ。長息は長生きに通ずるというが、呼吸の回数が一般人よりも多いスポーツ実践者が短命なのはこんなところに原因があるのかも知れない。我々がそれぞれもっている時間は呼吸で決まってくるといっても過言ではない。

    人の一生の「眠りと目覚め」について、一休和尚の詩が脳裏をよぎる。
    『人の世は 喰うて 糞して 寝て起きて さて そのあとは 死ぬばかりぞよ』
    今日、一日をこの詩に瞑想してみる。

  • 眠りへの瞑想

     昨日に続いてもうひとつ、瞑想の話題を。

    もう、ずいぶん前になるが、ある瞑想の手ほどきを受けたことがある。それは意識して眠りに入るというものだった。毎日眠ってはいるが、まだ眠りに遭遇したことはない。眠りを見届けたことなど一度もない。眠りが何であり、それがどのようにして訪れ、その中にどのようにして落ちてゆくのか、それについては何も知らないのが我々である。
     毎夜眠りに就くとき、眠りが訪れているということや、それが訪れたときにも、覚めたままでいなければならないということを、絶対に憶えておくという瞑想であった。この練習はとても骨が折れる。眠りが訪れているということ、そして目覚めていることなしには、眠りがやってくるのを許さないということを片時も忘れずに毎日続けていくのだ。眠りがどのようにして支配的になるのか、眠りとは何なのかということを感じ取るようにするのである。
     この瞑想を続けていくと、ある日、眠りが訪れても依然として目覚めているようになるという。そしてこの瞬間こそ自分の無意識に気づく瞬間であり、夢が不可能となる。ひとたび無意識に気づいたら、もう二度と無意識ではいられない。眠りはそこにあるのだが目覚めている。このような無意識との遭遇から異質の現象が起こるのだと教わった。
     こんな瞑想を三カ月も続けただろうか。しかし、眠りが訪れるその瞬間に気づくことはなかった。いつのまにか眠りに入り、夢の中で眠りに遭遇し、その夢から覚めて、ああっ! 夢だったのかと、落胆する私であった。

     そんなことがあってから長い年月が流れた先週のことである。午前中に来訪された五十代の患者S氏へ渦状波を試みたところ、イビキ音が聞こえてきたところで、話しかけてみた。「今、眠っているようですね」、「ええ、そうみたいです」、はは〜ん、これが『意識飛びの現象』か?・・・・ひょっとして、と思い、さらに問いかけてみた「眠りに入る時はどんな感じでしたか」、「意識が遠のいて・・・・それを意識している自分がいて・・・・」と、S氏。
    な、なんということだろう。 眠りが訪れている時に意識があるということ、そして眠りに入っているのを自覚している。このビジョンは私が求めていたものにきわめてちかい。これが即、無意識との遭遇とは云えないまでも、少なくともその入口に立っている。そう思ってもかけ離れた考えとは言えないだろう。
    この出来事によって、皮膚への問いかけというものが「眠りへの瞑想」という扉を開けてくれたような気がする。皮膚にはきっとすごい秘密があるに違いない。