投稿者: karib_sotai

  • ラクトカイ おまけ

    今回のテーマは「楽と快の違い」ってことなんですが

    まぁ「操体法を臨床に役立てたい!」って方は

    第一分析(楽)と第二分析(快)あるいは動診と操法ということを

    ある程度学ばないといけない部分はあるかもしれません。

    でもねぇ、本来はそんなに難しく考えるようなことじゃ

    ないんだと思うんですヨ。

    操体法を学んでいる方ならば

    操体法ってのはそもそも何なのか?」ってことを

    ちょいと考えれば何となくわかるはずですし

    操体法なんて知らん」って方だって

    痛いより痛くない、痛くないより気持ちいいほうが好きだと思います。

    ですから操体法が「楽」から「快」へシフトチェンジしたというのも

    至極当たり前のことなのかもしれません。

    そして、その当たり前のことを当たり前に指摘する

    橋本先生がやっぱりステキなんですなぁ。

    「そうなってんだから、しょうがねぇんだ」

    今にもそんな声が聴こえてきそうな気がしますヨ。

    ということで一週間ありがとうございます。

    来週は「楽と快といえばこの人!」の畠山先生です。

    中谷之美

  • ラクトカイ その6

    「気持ちのよさをききわければいいんだ

    気持ちのよさで治るんだからな」。橋本先生のお言葉です。

    今までの楽にといかける操法(第一分析)から

    快にといかける操法(第二分析)へのシフトチェンジですネ。

    それにより操体法独自の診断法である「動診」も

    「楽」ではなく「快」をききわける方法へと変わっていったわけです。

    はい、ここからが昨日の続きですよ〜。

    操者が「楽」と「快」の違い、区別がわかっていないと

    患者さんの誘導(動診)があやふやになりがちになっちゃう。

    特に音声案内があやふやになりがちになっちゃうってところでした。

    第一分析(楽)と第二分析(快)ってのは

    ゆがみを整復するっていう目的地は同じでも

    そのルートが違うわけです。

    第一分析は「楽コース」ですから

    そのコースを把握するために対なる動きを比較します。

    だって比べないと、どれが「楽」かわかりませんから。

    第二分析は「快コース」ですから

    別に動きを比較する必要はありません。

    だって感覚ってのは一つ一つの動きにともないますから。

    もちろんコースが違うんですから

    ナビもそれに合わせて誘導しないとマズイですよネ。

    でもねぇ、何故かわかりませんけどナビが誤作動をおこして

    「楽コース」と「快コース」をごちゃまぜにした案内に

    なっちゃうことがあるみたいなんです。

    たとえばですねぇ

    「楽コース」のように動きを比較対照させて

    「どっちが気持ちいいすか?」なんていう音声案内。

    ビミョ〜にわかりづらいですよネ。

    あとはですねぇ

    その動きに気持ちのよさがあるのかないのか

    からだにききわけてないうちから

    「気持ちよく動いて」なんていう音声案内。

    これもビミョ〜にわかりづらいですよネ。

    「快コース」の先走りですぜ、これは。

    第一分析(楽)と第二分析(快)が何となくまざってる。

    または「動診」と「操法」が何となくまざってる。

    操体法(第一分析、第二分析)がよくわからん」って方は

    もしかしたらこんな感じのナビをしちゃって

    運転手(患者)さんを?にしちゃってるからかもしれません。

    まぁこの辺(楽と快の違いとか動診と操法とか)は

    来週担当の畠山先生の得意分野ですから

    たぶん来週のブログはレアルかバルサかというような

    圧倒的な攻撃を仕掛けてくるんではないかと思っております。

    だから真面目な?操体法のお勉強をしたい方は来週をお愉しみに!

    あら?何だか終わりそうだけど明日もまだあるんだな。

    ワタシのオツム、持つのかしら・・・。

    中谷之美

  • ラクトカイ その5

    突然ですがワタシは釣りが好きなんです。

    最近はなかなか時間がとれないのですが

    以前はあっちこっちに結構行ったもんです。

    本屋さんなんかで地図を立ち読みしながら

    「ここの池は水路であそことつながってるな」とか

    「この沼の隣にはサカナがいるから、こっちにもいるかも」なんて

    怪しい予測を立ててノコノコ出かけていくんですネ。

    夜通し運転して高速料金はいちまんえんを突破

    フラフラになりながら挙句の果てにボウズ(一匹も釣れない)なんて

    ダイナミックな展開のこともありましたが

    まぁそれはそれで愉しいもんです。

    遠くに出かけても、今はナビがありますしねぇ。

    目的地まで誘導してくれるんですから、ありがたいことですヨ。

    ナビといえばですねぇ

    操体法の操者もこのナビみたいなもんかもしれません。

    操体法は自力自療。だから実際に運転するのは患者さん本人です。

    操者といえば目的地までその運転をナビする役目。

    目的地ってのは、ゆがみが整復されることですよネ。

    第一分析(楽)なら、運動を分析してそのコースに導いてあげる。

    第二分析(快)なら、感覚を分析してそのコースに導いてあげる。

    どっちも目的地は同じです。ただちょっとルートが違う。

    どっちが近道なのかは、やってみるに限ります。

    で、ナビはですねぇ、画面だけでなく音声もあるわけですよ。

    「この先○百メートル先、○○を左折です」なんてネ。

    操体法でもありますよぉ、音声案内が。

    動きのポイントで言葉を使って上手に動きを誘導してあげるんです。

    はい、ここからが昨日の続きですよ〜。

    楽と快の違い、区別がついてないと

    あやふやになってしまうという部分。

    その一つがこの音声案内みたいなんですねぇ。

    自分で運転していて、ナビが?なことを言ったら困っちゃいますよネ。

    だから操者も患者さんが?なふうに思わない言葉を使った方が親切です。

    でもねぇ、これはワタシも含めてですけど

    つい?なことを言っちゃったりもするんですヨ。

    え?それはどんなことかって?

    お決まりですが、続きはCMの後で。

    中谷之美

  • ラクトカイ その4

    操体法には「動診」っていう独自の診断法があります。

    からだは動いてるんですからねぇ。

    動くものを動かして、その状態を把握していく。

    ふむふむ、考えてみれば当たり前のことかもしれません。

    でも、これはワタシの実感も入ってるんですけど

    実際に「動診」を行う際、問題になることがいくつかあるんです。

    まずは「どこを動かすのか?」です。

    患者さんが来た → 操体法でゆがみをとるぞ → どこから手をつける?

    これって最初は戸惑いますよねぇ。

    ワタシなんかいつもオツムから湯気が出っ放しですヨ。

    まぁ、でもこれはその場そのときにもよりますから

    特に決まりはないってことにしときましょう(こんなんでいいのか?)。

    で、次は「どのように動かすのか?」です。

    実際にからだを動かすっていっても

    動きの目安がなけりゃ困りますからねぇ。

    はい、ここからが昨日の続きですよ〜。

    連動を知ってると重宝するのはこの場面です。

    からだの動きは基本的に八つ。

    そして、その一つ一つに連動性がある。

    操者がその動きを知ってれば

    患者さんの動きをスムーズに誘導できるというわけです。

    患者さんは「動いて」っていっても

    どう動いていいのかわからないんですから。

    からだの動きのラインになぞって

    す〜っと力まずに動いていただければ理想的ですねぇ。

    それに、操者が動きの先まで理解していれば

    言葉を使って誘導することもできますしネ。

    からだのどこを、どのように動かすのかによって

    ゆがみを把握し、整復のコースを把握していく「動診」は

    操体法をやっている方でなくても、きっと役に立つ診断法だと思います。

    しかし、楽(第一分析)と快(第二分析)の区別がついてないと

    ちょっとあやふやになってしまうところがあるようなんです。

    う〜む、あやふやってどういうことなんだろ?

    おっと、ようやく楽と快につながったと思ったらカラータイマーが点滅しだした。

    一旦帰らなきゃなりませんので、続きはCMの後で(←しつこい)。

    中谷之美

  • ラクトカイ その3

    楽と快の違いっていえば、それはそのまま第一分析、第二分析の

    違いっていうふうにもとれると思います。

    第一分析ってのは動きを比較対照させて

    楽なほうへ動かす従来の操体法のやり方。

    第二分析ってのは動きを比較せず

    一つ一つの動きに気持ちのよさがあるのかないのか

    からだにききわけていくやり方です。

    どっちが良いとか悪いとかじゃなくて

    「違いをわかって行う」ってことがきっと大事なんですネ。

    たぶんそれが「よくわからん」の答えの一つかもしれませんから。

    さて昨日の続きですが

    患者さんに気持ちのよさをききわけていただくために

    操者が考えるべきことって何がありますかねぇ?

    まぁ良い方法があればワタシが教えて欲しいくらいなんですが

    まず操体法ってのは基本的にからだを動かすわけですから

    「動きについてあれこれと知ってたほうが良いかも?」って

    ことは何となく思いますよネ。

    操体で動きといえば、欠かせないのは連動です。

    橋本先生も言われております。「からだは連動装置だ」って。

    連動の定義とか難しいことはアタマの良い先生方にお任せするとして

    簡単にいうとからだはみんなつながってるってことです。

    ただ、そのつながり方に、ある程度の自然な流れがあるらしい。

    こっちをこう動かすと、あっちがこう動くという、ある程度の法則性があるらしい。

    からだの中に目には見えない動きのラインがあるようなんです。

    もしそうならば、そうした動きの法則性を知ってたほうが、そりゃ断然お得ですヨ。

    くどいようですが、操体法は実際にからだを動かすわけですからネ。

    そして、連動を知ってると第一分析はもちろん

    第二分析を行うにもすご〜く役立ちます。

    ついでに言えば操体法だけでなく

    他の手技にもすご〜く役立ちます(ワタシの実感)。

    (連動についての詳しいところは三浦先生の著書をぜひどうぞ)

    では、何で連動を知ってると重宝するんでしょ?

    う〜む、そろそろオツムからケムリが出てきましたので

    続きはCMの後で(←山野実行委員の得意技)。

    中谷之美

  • ラクトカイ その2

    昨日のブログで「やってみたらいいんじゃないですか?」って書きましたが

    「やってみたけどわからん」って方もきっといらっしゃいますよね。

    ワタシのまわりにも

    「(快にといかける操法が)よくわからん」って方がいらっしゃいます。

    だから簡単な「楽なほうへストン!」っていう操体法をやってますって。

    (ホントはそれも簡単じゃないんだけどなぁ)

    わからん理由はいろいろとあるようですが

    あんまり気張ってやると余計にわからなくなりますからねぇ。

    気持ちのよさを味わうのが操体なんですから

    リラックスして愉しくやるのが案外大切なのかもしれませんヨ。

    (あんまりヘラヘラしてると患者さんに怒られるかもしれませんけど)

    快にといかける操法の一番のポイントといえば

    患者さんに気持ちのよさをききわけていただくことです。

    ききわけてくれさえすればいいんです。

    患者さんによっては「よくわからん」とか

    「何だそれ」みたいになるかもしれませんが

    同じ地球人なんですからわからんはずはないんですヨ。

    しかも、症状疾患を抱えてるんですからネ。

    必ずゆがみがあって、バランスが崩れてる。

    そして、そうしたからだほど快・不快もあるはずなんです。

    (鈍ってる場合もあるかもしれませんけど、それはそれで面白い)

    患者さんに気持ちのよさをききわけていただく。

    そのために操者には何が必要なのか?

    「よくわからんなぁ」ってときは

    まずそこから考えてみるといいかもしれませんヨ。

    中谷之美

  • ラクトカイ その1

    パンパカパーン♪エンターティナーの登場で〜す。

    いやぁ友松さん、エンターティナーなんて照れるじゃないですかぁ。

    やっぱりみんなそう思ってるんですねぇ。

    (ホントはワタシが「書いて」ってお願いしたんですけど)

    ということで今週はニセエンターティナーこと

    ヒヨコの中谷が担当させていただきます。

    一週間よろしくお願い致します。

    ところで今回のブログのテーマは「楽と快の違い」だそうです。

    う〜む、なるほどねぇ、楽と快ですか。

    わかるようでわからない、操体談義にはもってこいのネタですなぁ。

    でも「わかりません。終わり!」じゃ、怒られますからネ。

    足りないオツムからケムリを出して、一週間ふんばってみましょう。

    ワタシもちょっとだけ操体法をかじってますから

    たまに「楽」と「快」の操法について聞かれることもあります。

    そんなときホントは「オレ知らねぇ」って言いたいんですけど

    弱っちいワタシにそんな度胸はありません。

    だから大概は「やってみたらいいんじゃないですか?」って答えるんです。

    橋本先生もおっしゃってたそうじゃないですか。

    「ウソかホントかやってみろ」って。

    「楽」と「快」とは・・・何て理屈を聞くよりも

    まずは自分でいろいろやってみたほうが

    案外とピン!ときちゃったりするかもしれませんしネ。

    「蘇る伝説「大山道場」読本」((株)日本スポーツ出版社)という本に

    空手家の藤平昭雄氏のインタビューが載ってます。

    「僕のところへいっぱい来たけど、本気でやれる人はいないね。

    願望はあるのだろうけど、では、パンチだったらパンチ3万本、

    蹴りなら蹴り3万本やりなさいと言ってやる人いますか?

    絶対に゛なんでそんな事やらなきゃいけないんだ゛と思いますよ。

    その時は思わなくても、やっている内に思うはずです。

    その時点で、もうダメですね。 〜 

    やれと言われたらやればいいんですよ。

    答えは3万回終わった後で分かる。分からなかったら、

    もう3万回やればいい。全然、難しい問題じゃないでしょ? 〜 」

    橋本先生の「気持ちのよさをききわければいいんだ」という言葉に

    全身全霊を傾けた三浦先生。

    快にといかけた操法を体系化するのに五年の歳月を費やしたそうです。

    きっと三浦先生は

    ゛(今まで楽でやってきたのに)なんでそんな事やらなきゃいけないんだ゛

    なんてことは思わなかったんでしょうね。

    師の言葉に素直に従った。そしたらその先に宝物が待っていた。

    その一つが「楽と快の違い」ということなのかもしれません。

    幸いにして現在は第一分析、第二分析というように

    「楽」と「快」にといかけるそれぞれの操法が体系化されております。

    だったらやっぱりやってみることですよねぇ。

    平氏の言われるとおり、全然難しい問題じゃないかもしれませんヨ。

    中谷之美

  • 最終日。

    おはようございます。
    昨日とはうってかわって随分暖かいですね。
    今日で今回のブログ担当は最終日となりました。当初、11月の初め頃に担当になると、順番を確認していた頃は、ちょうど紅葉の写真を載せるのにいい時期だと思い、バイクのキャブレターの掃除とプラグも交換して、出かける用意をしていたのですが、つい最近まで暖かい日が続いていたこともあり、うっかり忘れてしまっていました。それ程こちらの地方は暖かく、紅葉の季節という感じの空気ではありませんでした。現に私の仕事場の裏庭では桜の花が一輪だけ、昨日の冷たい雨にも負けず、まだ咲いています。

    紅葉の写真を載せる予定が、まさか桜の花を載せることになろうとは思いませんでした。

    「人〜生ぃ 楽ありゃ苦もあるさ〜」子供の時からよく聞く、おなじみのフレーズですが、現象界の横のひろがりのことだけで考えれば、ほんとにそうだと思います。しかし、実相の真理がタテに貫かれたうえでこの世は成り立っており、私達は元々救われており、生かされて生きています。不平不満の気持ちが頭をもたげてきたら、実相を想えばいいのだと思います。
     実相は「快」であり、生かされて生きていく道程には「不快」のサインも生じるが、サインはサインであり苦痛そのものではない。有り難く受け取り「快」の方向へ調和していけばいい。「快」によって調和は成され、その調和は尽十方であり、道は無碍自在です。「苦」に縛られて「快」を見失うなかれ。「楽」に溺れて「快」を見失うなかれ。実相は誰のからだにも宿っており、自然法則が貫かれています。だから「からだに気持ちよさをききわければいい」元々は有り難く出来ているようです。
     横のひろがりの中では、色々な「楽」がつく言語があります。「快楽」に溺れる、「享楽」にふけるなど、そのままいくと身心の不調和、自分と様々な環境との不調和を招くものを意味する言語。逆に「楽しい」「楽園」など、人間が理想意識をもってより良く生きていく為の、(横のひろがりの中での)共通認識としての言語もあります。
     理想像をもって生きるということは、大変重要なことです。しかし、その理想像もタテの真理と調和しなければ、時間・空間の環境の中で脆くも崩れ去ってしまう。真理は自然法則の内にある。自然法則を学び、応用して付加価値をつけていくことで「楽しい」「楽しむ」も生きてくる。それが全ての人の共通認識となれば、この世も「楽園」となるのではないでしょうか。
     だから「楽」と「楽しい」も識別が必要なのではないかと思います。私も含めて「楽しい」を活字にする時、「愉楽しい」とする人は多いと思います。「愉楽しい」とは自然法則の学びを深め、応用し付加価値をつけ人々に貢献し、四方八方「快」によって調和し、その感動のヒビキが「愉楽しい」となるのではないかと思います。

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

    来週は「愉楽堂」の屋号にて操体の指導、臨床を行っている中谷さんの担当になります。
    エンターテイナーの登場です。きっと愉楽しいですよ。

    友松 誠。

  • ごちゃ混ぜにしない。

    おはようございます。
    朝から雨ですね。
    今日はなんだか1がやたらと多い日です。2011年11月11日。漢字で書くと十一月十一日。十一をプラスとマイナスに見立てて電池の日になっているそうです。

    電流は(+)から(−)に流れると定義されてきたが、電子は(−)から(+)に移動するという。目に見える世界と目に見えない本質の世界では、しばしば逆のことが起こっているのかもしれない。
    ものごとには、色々な流れがあり、どこからどう流れているのか、その本質を知ろうとしなければならないことがある。

    「救い」の世界から「報い」の世界へ。
    救いを知らずして、報いの世界の価値観のみで、救いの世界を構築しようとしても、時間・空間の環境の中で次第に金銭欲や権力欲とむすびついたものが台頭してきてしまう。

    「快」から「全て」へ。
    快は無意識から生じ、全てのバランス現象の調和へと向かう。一つの快がいつまでも続くというのはおかしい。麻薬や覚醒剤による快はおかしいという事は誰でも知っている。自然界のバランス現象を無視して、一つの快に安住し、いつまでも貪ろうとすると「楽」とごちゃ混ぜになり「快楽」に溺れるということにもなってくる。快楽に溺れると、まず自然界の一員であるからだに変調をきたす。そして心を蝕んでいき、心とからだの不調和、からだそのものの不調和、自分と様々な環境との不調和を招いてしまう。程度の差こそあれ、性行為にも嗜好品にも言えることで、食の「享楽」にもつうじる。バランス現象を無視した「快」は有り得ない。それは「楽」と「快」のごちゃ混ぜなのだと思います。
    「快適」という言葉も「快」に「適う」と書き、本来は快に適うことですが、氾濫する情報の中には快適という言葉を使って、商品を売り込もうと欲に訴えかけてくるものも多い。このあたりにも「楽」と「快」をごちゃ混ぜにしてしまう要因があるのだと思います。快は無意識のからだの領域から生じ、それが心にヒビキ、「快適感覚」として感じられますから、からだが満足すれば、それは快の記憶として残るでしょうが、それ以上の要求は無いはずなのです。「快適」とは、快に適うことですから、からだが満足すればその「快適感覚」も消失するものです。「快適」という言葉を使っていても、快の記憶と心の欲の部分に訴え、商品を売り込むのは、本来は「楽」に訴えているのだと思います。
     「快」からの流れには自然法則に順応した源流があり、それは全てのバランス現象の調和に向かっていると思います。その本質を学び、より良く人生を満喫するには、「楽」と「快」を識別する必要があると思います。
    しかし、頭で難しく考えて、杓子定規になる必要はないと思います。元々は救われており、からだはきちんと識別しているのですから。
    「間に合っていればいい」「間に合っていればいいという、心の豊かさが必要だ」「間に合うように出来ているのだ」と橋本敬三先生はよく言われていたと聞きます。

    友松 誠。

  • メッセージがあるか、ないか。・・・その2。

    おはようございます。
    昨日は、からだの感覚をききわけ、からだから学ぶということを、具体的にどうしたら良いかというところまでで終わりました。

     操体には、橋本敬三先生が世界一短いお経である「般若心経」になぞらえて、「般若身経」と命名した、からだの使い方、動かし方のすべてに適う基本原則があります。
     この「般若身経」も、ただ見よう見真似で行うだけでは本来の意味は無いのです。からだの使い方、動かし方には自然法則がありますから、その法則に則り、からだを使い、重心を移動して、からだ全体を連動させて動かさなければなりません。(注:からだの使い方、動かし方の法則については、なるべく最新のものを参考にして下さい。)自分の心の意識レベルの基準で、「この方が動きやすいから」と、法則を軽んじて行っても、「快」にはつながらないのです。誰しも様々な環境とかかわって生きており、生活そのものにストレスは生じます。そして、その精神的、肉体的ストレスから、からだに歪みを生じさせています。
    これは潜在的な無意識の領域であるからだが、内臓や中枢神経など自らを保護、保持する為や全身を支持する為に、自らを歪ませて対処してくれている、という面が多いのです。しかし、からだの歪みも間に合っている内は良いが、間に合わなくなってくると症状疾患の原因となってしまいます。間に合わない状態にしない為に、動きも本来の動きを封じ、窮屈な動きとならざるを得なくなってしまいます。そして本来の自由なからだではなくなってきてしまう。だから、表在的な意識は自分の動きとして「この方が動きやすいから」と感じてしまいますが、本来のからだの動きとは違うのです。現に「この方が動きやすいから」という動かし方で、その動きをそのまま続けると不快感が生じたり、動きが逆行するという現象が起こってくるのです。確かに自分の動きでも、ある範囲内ならいつもの使い勝手の良さから「楽」に動かせると思うかもしれませんが、度量の大きいからだの支えがあってこその「楽」なのです。
     ですから「般若身経」を行うときは、自分がからだを支配しているといった心の意識の持ち方ではなく、自然の一部である、からだによって自分が支えられているといった心の意識レベルでからだと向かい合う。そして自然法則に則り、ゆっくりとからだを動かし感覚をききわけるということが大切です。感覚をききわける中で、からだからのメッセージを感じとってほしいのです。注意事項としては「痛い」「ツライ」などの不快感覚が生じたらすぐに中止すること。「不快」という感覚も、なぜ不快感が生じてしまうのか日常生活を振り返る意味では大切ですが、振り返るということは思考するということですから、自然法則を理解し、自然法則に照らし合わせてどうなのかという思考が必要です。自然法則に則した動きをとおしていて、「気持ちよさ」がききわけられたなら、気持ちよさに委ね、十分に味わうことです。その味わいの中で心の意識レベルを超えた何かを感じ取ってほしいのです。それは人によってそれぞれ違いますが、共通しているのは、前向きにより良く生かされて生きていく為のものだということのようです。
     「般若身経」は基本的には立位で行う為、はじめから気持ちよさに委ねて十分に味わうというのは難しい面があります。バランスよく立つという事だけでも奥が深いのです。まずは、からだの使い方、動かし方の自然法則をしみ込ませるようにして、からだと調和していくことが先決です。その調和が高まれば、立ち方も自然とバランスよくなって来ますし、立ち方のバランスがよくなれば、快の味わいも変わってくる。そしてまた新たなバランスへとより良く更新されていく。そうした快に従った調和の循環の中で、心の意識レベルを超えた何かを感じとり、また新たな調和へと進んでいくのが正しい道筋と思います。

    友松 誠。