投稿者: karib_sotai

  • 操体的呼吸

    今週は日下が担当します。 今日から呼吸というものを操体的に捉えて、その味わいを感じていただきたく思う。一週間、おつき合い願いたい。
    さて、その呼吸であるが、基本的には鼻でするものであり、息の出し入れも、匂うことも無意識に為されている。ところがこの鼻というのは、それ以外にからだ全体と密接に繋がっており、特に生体の歪みに直接関与している正中線と深い関係がある。ようするに鼻はからだ全体の方向性を左右する非常に重要な感覚器官でもある。そんな鼻の働きの中で、生まれてから死ぬまで続く生命の息吹きともいえる呼吸にスポットをあて、呼吸と意識の関係性について、より感覚を深めてほしい。
    そんな呼吸はからだのプロセスと同様に途切れることなく無意識的に統御される機能を有している。が、同時に、意識的に働きかけてコントロールすることも可能である。呼吸が意識的でもあり、無意識的でもあるというこのような特質は、人間存在の意識的な側面と無意識の側面を結びつける役目も担っている。そこに存在するのが「呼吸法の教え」なるもので、呼吸の営みに意識を介在させるというものだ。
    ところが非常に複雑で難しい方法が多いということから、誰にでもすぐ始められるというものではない。しかしそんなに難しく考えることはなく、操体的に言えば、自分の呼吸の流れに気づき、感じることで、その瞬間において、肉体と精神と魂の統合された機能に意識を向けることが可能になる。そしてその意識はからだ全身をつなぐエネルギーに活力を与えて拡大させ、またそのエネルギーに快感覚を呼び込んでリラックスさせてくれる。意識というのは、生命そのものとの直感に満ちた創造を行っているのである。

    さあ、それでは今から操体的な意識呼吸をはじめてみよう!

    〝 この文を読みながら、自分の呼吸に注意を向けてみる 〟
    〝 呼吸は途切れることなく、ずっと続いている 〟
    〝 読みながらも、意識して、呼吸している 〟
    〝 これらを同時に、こなしていることに気づいているものと思う 〟
    〝 鼻から入ってくる息に、目線をつけながら、意識を向ける 〟
    〝 鼻から入ってきた息がからだの中に入ってくるとき、
    どんな感覚をおぼえ、どんな気持ちになっているのか 〟
    〝 読みながら、からだの声に耳を傾ける 〟
    〝 鼻から入ってくる息によって、
    からだのどこが動いて、どこが動かないのか 〟
    〝 注意深く、からだの声をききわけてみる 〟
    〝 鼻から出ていく息にも意識を向ける 〟
    〝 息が鼻からからだの外へ出ていくとき、
    どんな感覚をおぼえ、どんな気持ちになっているのか 〟
    〝 読みながら、からだの声に耳を傾ける 〟
    〝 鼻から出ていく息によって、からだのどこが動いて、どこが動かないのか 〟
    〝 注意深く、からだの声に耳を傾けてみる 〟
    〝 そうしたら、もう一度最初に戻って、読んでいく 〟
    〝 鼻から入ってくる息と、鼻から出ていく息の干満とその流れに、
    耳を傾けながら、言葉の意味と響きにも耳を傾けながら 〟
    〝 もうしばらく続けてみる 〟
    〝 そして、クライマックスは、ただ、自分の呼吸リズムを感じてみよう 〟
    〝 そう、そっとからだの声に耳を傾けて・・・・・・ 〟
    明日に続く

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 『発心修身還神』

    橋本敬三師は、あの世はみんな行くところだから気持ちがいいところに決まっているヨ、と語っていた。
    私は未だに聖書もろくに読み通していないが、実母は読んでいた(ミッション系の高校に通った)
    40年以上経過したそれは、なぜか今私の手元にある。たまに意味もなく開いてみるくらいなのだが・・・。
    「皆一つ所へいく 全てのものは塵から出て 全てのものは 塵に帰る」
                                  〜旧約聖書 伝導の書 第三章29節〜

    塵と言えば宇宙を思い出す。宇宙と言えば宮沢賢治氏の信仰観を思い出した。
    「人や銀河や修羅や海胆(ウニ)は宇宙塵を食べ・・・」
                          〜春と修羅 宮沢賢治

    宇宙を感じたければ、昼にも出ている星や月を感じてみるといい。大人も子供も見上げることを勧めたい。  

    星のかけらを採りにいく――宇宙塵と小惑星探査 (岩波ジュニア新書)

    星のかけらを採りにいく――宇宙塵と小惑星探査 (岩波ジュニア新書)

    星は手に入れることはできないのでもなく、もともと自身にこそ在ると感じ取れる理由もわかってくるだろう。

    意識が変われば大いに関係する。
    私の実弟の父は、白血病と診断されて三年が経過した。
    その義父はますます、嗅覚が非常に鋭敏になっている。誰かが個室に入ってきた瞬間に健康度を嗅ぎ取っているようだ。
    それから骨髄移植して安定していた二年を過ぎ半年前に肺炎となり、現在は気管切開をして筆談の状態である。

    実母はその枕元に日々通いながら、私にメールなどしつつ、自分自身をみつめて語る。
    「私は今まで、この人とずっと一緒にいた気がしたけれど、今が一番、寄り添っているのよね・・・」
    たまに返すメールに頻繁に届くメールで、最近このように伝えてきた。
    残る蝉の抜け殻を集める私は、撤去されたシーソー跡で長男と近所の公園に居た。

    「浮く落ち葉 流行る廃るに 我知らず」
                     〜敬郁、詠む〜 

    ひとりではなにもできない、ひとりが始めなければなにも出来ない。一人の中にある一人から始まる。
    人間は、文化を持つ生き物であり、道具を使いこなし、それにより時間さえ創り出してきたといえる。
    三次元を超え、過去も未来も、そして自分自身の関与できる現時点の今、行動によって何を得て何を失っているのか。
    それを決めているのは紛れもなく、ひとりひとりの自己責任によって営まれていくのだから。

    またある日の朝、銀杏の葉を纏める掃除をしていると、散歩中の人が尋ねてきた。
    「ここではなにをしてもらえるんですか?」
    「なんでも出来ますし、なんにも出来ません」と笑って答えた。
    「ここがいたくて困っているんだけど、○○では何も変わらなかった」と言う。
    「それはお困りでしょうね、ホントのこと知っている”からだは”かわいそうですが・・」と語る。
    「なのでここでは・・・何をしてくれるんですか」と怪訝そうに言う。
    「ええ、なんでも出来ますし、なんにも出来ません」と真面目に語った。

    日々無軌道で落ちる銀杏の葉っぱに教わるせいだろうか、私自身ますます呑気になってきた。
    万事、こんな感じで繋がっていたい。自然に親しみ、自然から学べる自分自身でありたい。

    さて、最後にここで質問を一つ・・・これは何?(カミさま?)
    ・パワー、エネルギー、力である。
    ・普段は感じないほど、弱いのである。
    ・どんなに離れていても働くのである。
    ・全てのものに、等しく働くのである。
    ・幻のように、変化するのである。
    ・あまりにも、丁度よいのである。
    ・未だ、完全に理解されないのである。
    (※この答は一番下に記載)
    心配いらない。バランスを取っているんだ。バランス現象なんだ。人間は弱くなると強くなれることもある。
    おおきなものに巻かれていても、無我夢中で周りが見えていなければ気づくことはない。
    それを求めているのは、いったいどこのどなた様・・・なのか。

    ・・・今週のお付き合いありがとうございます。これにて最期となりました。
    星の瞬く夜空を見上げてまたお会いしましょう。ご機嫌よう、有り難うございます。

    明日からは日下実行委員によるブログです。お愉しみに!

    (近所で観た超人のアルバイトを激写)
    ※冒頭のカミさま?とは・・・重力を考察したもの(『重力とは何か』幻冬舎新書、大栗博司著を参照)

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『インスタントの甘い罠』

    患者本人のイノチにむかって問いかける。鍵穴を観る。
    ピタリと合う鍵は快適感覚にある。
    感覚の調和というプロセス(治癒する過程)によって治癒する。

    操体法」は、「快適運動」という、「正体術」に近い操法を通していた時代を経て、
    現在は「快適感覚」という、橋本敬三師の生命哲学思想そのものに適うようなった。
    そう。ようやく「操体」に適うよう温故知新による”深化”を伴い、
    その確立された診断法と操法の組み立ては「操体法」そのものとなる指導さえも可能としている。

    生命哲学理論ともいえる構築の軸に『自力自療』がある。

    橋本敬三師は晩年、NHKで取材を受けラジオやテレビに取材を受けた時に、
    操体法』と便宜上の名称をつけ・・・、
    「(やっていることの)名称なんてどうでもいい、大切なのは真理だ」
    「からだのサインを読め、からだが治しているのだから」と語っている。

    記憶の中にあるメッセージをふと思い出す。
    私の柔道整復学校時代、荏原町にあった整形外科で修行していた頃の話である。
    そこに外国から来て働いている患者が上腕骨骨折の治療に来ていたのだが、なぜか治りが遅いのである。
    何か整復上の問題があるのかとレントゲン撮影で診ても転移無し、しかし本来の仮骨形成期間を過ぎてもつながっておらず、
    患者本人は至って健康的に見え、若く体力もあるのにどうしてなのかと、担当医も先輩の柔道整復師も頭を捻っていた。

    「環境」と「食」は勿論、相関している。
    じつは治癒遅延の理由に、本人の給料ほとんどを海外の家族に送り、六畳で同じ境遇の三人で暮らす上に、
    日々、特売袋ラーメンで食欲を満たす、とわかったのは骨折から一ヶ月も過ぎた頃だった。

    私自身は「操体」を学び原始感覚を磨いている。
    以前はほとんど感じ無かった感覚をも感じるようになり、「重力」と「環境」ほど密接なものはないと確信してきた。

    一例に[ウォルフの法則]を挙げよう。ドイツの解剖学者であったウォルフ氏は、
    「正常にしても、異常にしても、骨はそれに加わる力に抵抗する最も適した構造を発達させる」と語り、これをウォルフの法則とした。

    簡単にいえば、骨には外力によって骨の内部にそれに応じた力が生じるので、その結果その方向に骨は歪む(これが骨折を代表とした骨構造の歪みを生む)
    但し、その応力が大きい部位ほど骨の組織も増殖するので丈夫になるように外力に反応する。
    その反対に、応力が小さい部位には骨組織が吸収されて薄くなる。なので、外力に対して最も適した骨の形態と構造は維持されるのだ(骨変形も変形治癒もこれが一つの理由)

    面白いですなァ・・・ということは、要するに歪みとは「生き方の自然法則」の内にあり、「身体運動の法則」によって、現象として現れているだけなのだろう。

    つまり「操体」における「自力自療」も、
    最低限必須である”自己責任分担”において、命の営みはからだに結果としての応じた形になる。
    まさに、「操体」における”歪みの発生”そして、”可逆性”をも証明しているではないか。
    自然体。姿勢とは骨格や骨組みのみならず、人体は動く建物であり、それによって生じる現象。

    操体」の臨生家(生かされていることを指導できる臨床と私自身は感じる)にとって素晴らしい現象は、”当たり前”なのだ。
    故に謙虚さこそ肝心要であり、ここに自然法則の応用貢献を成す道はある。

    どこまで診ているのか、どこまで見ているのか、どこまで看ていられるのか。
    日が昇り日が落ちるように、ありのままに、そのままを観る。

    問診情報を経て、視診を経て、触診を経て、さらに様々な検査しておくことも出来て、
    その上でかつ、何かにとらわれず観とおすこと。

    それほどのことさえ当然。
    このような時代に操体は種をまかれて育っている。
    それこそ、一生愉しめる糧を学ぶもの一人一人にたくしつつ。

    あっちので微笑んで、こっちでも見守っている・・・ように感じてならない。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『名月堪能』

    人は誰しも「自分とは何者であるか」という問いかけを、一回くらいはするのではないか。

    その定義付けとなる「アイデンティティー」を確立しようと、色々工夫してみることだろう。

    ただそれは一部であり、全てではなく全てであって、その一部でもある・・・。

    ある日のレッスン。三浦寛理事長は語った。

    「あのネ、別に眼でみなくてもサ、耳でみてもいいと思わないか?」

    「え・・??(禅問答みたいだ)」

    「講習会でネ、操体(のデモンストレーション)をベッドのそばでみてなヨっていったら」

    「その中に『私は目が見えないので見ていられません』って方が居たんだけどネ」

    「『それはみてなくてもいいから、感じてなさいってことですヨ』って伝えたんだヨ」

    「(納得!)そうですね・・・なるほど、感じている間(マ)ってのは、深いですねェ」

    橋本敬三師の「間にあっていればいいんだ」と言う言葉は有名だが、捉え方はそれぞれ異なっている。

    こんなモンで良いじゃない・・・もう十分でしょ・・・。それではあまりに不自然な解釈ではないか?

    因果応報の世界に組み込まれてしまうような「間に合っていればいい」ではもったいない解釈ではないか。

    ただし、本人の自由でもある、常に感じないでいることも出来るのだ。本人の言葉によって制御されているのだから。

    自然の一部である私もあなたも、繰り返し同じサイクルはない。

    ゆえに、食べて、出して、寝るだけを繰り返すような存在ではない。

    「面倒くさいという言葉は、できるだけ使わないようにしなさい」とは、三浦理事長の言葉である

    口癖のようにしていると、何でも面倒になり仕舞いに生きていることさえ面倒くさいと思ってくる。

    学ぶことも同じである。簡単に済めば得をする、”楽”をして学ぶことではないだろう。

    時間をかけずにマスターできるような学びとは、それだけの深みない学びでもある。

    「名月や クルミのなかに 殻ともに」
                    〜敬郁、詠む〜

    クルミも丸ごと味わっていられる感性あればこそ、見上げる今宵の月こそ名月になりうるのだろう。

    硬い殻があって面倒、手間がかかる時間を割く、簡単に食べにくい、噛み応えもある。

    手間をかける価値がある。美味しく頂くからには、簡単じゃないから有り難いのだ。

    道はある。磨き上げていれば観得てくる。

    成すべき事を積み重ねによって意識できるなら、何かに成ることを優先するのではなく、

    何かを為す存在であろうと意識できるはずだ。

    ゆえに、”手段”と”目的”を取り違えては困ることになる。

    自分自身が為すことは、自分の中にしかない。だから感覚はききわけているのである。

    それは、目に見ようとしている限り、観得ないものなのだ。

    (焦らなくてものんびり掴んでいこう!)
    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『人間原理』

    重力が面白い。

    重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書)

    重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書)

    地球は、太陽から150億メートル離れているので安定している。
    電磁気力は、正の電荷を持つ陽子の反発力を安定させている。
    陽子は、電子の約2000倍の重さを持って安定している。
    重力は、弱いので安定している。

    地球が、太陽から今の距離より近くても遠くても海や生命体は生まれなかった。
    電磁気力が、今より弱くても強くても星や生命体は生まれなかった。
    陽子が、今の電子より重くても軽くても星やDNAはつくれなかった。
    重力が、今より弱ければ恒星や惑星は塊となれず、強ければブラックホールに崩壊する。

    例に挙げた如く、あまりにも人間にとって都合のいい調整を「人間原理」といい、
    絶妙なるこのバランスを、
    ”知的生命体”が生まれないような宇宙には、それを観測するものもいない。
    そのように、絶妙に調節されている宇宙しか観測されないからだ。
    この調整具合は、不思議ではなく、当たり前だ・・・と前提する仮説らしいのである。

    「身体運動の法則」
    橋本敬三師は、「からだの使い方」「からだの動かし方」をまとめて三法則と一相関性とした。
    そこからも繋がっている。
    途轍もない、途方もないバランス現象のなかで、私達は生かされて生きている。

    更に三浦寛理事長は、「からだのつかいかた」「からだのうごかしかた」を深化させている。
    だから「操体」を学び続けている。自然法則を感じるように、今もここにいる。

    急ぐことはない。ただ知らないと滞ってしまう。自然の法則はバランス現象だから。
    自然法則に適うために、三法則ではなく+αは生まれ、一法則ではなく+αは生まれる。

    人間原理という仮説も、「操体」ならば説明できそうだ・・・ウソかホントか学んでみては如何?

    (バランス良ければ重くても自然と寝るもんだネ)

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『陰陽の前後』

    僕らは星のかけら 原子をつくった魔法の炉を探して (ソフトバンク文庫)

    僕らは星のかけら 原子をつくった魔法の炉を探して (ソフトバンク文庫)

    〜波動の性質とはなにか〜アルファ粒子の振る舞い〜
    一つに、粒子には出来ない様々な事が出来る。
    粒子では出来ないが、波動は角を曲がることも出来る。
    だから、目には見えない相手の発する音波をも聴くことができるのだ。
    光が飛び越えることを許されていない、隙間を飛び越える能力もあらゆる種類の波動に共通する性質である〜

    三浦理事長の語る”波動”とは、”意識”とは、そもそも”波動”とは・・・。
    これを学ぶうちに、星について、宇宙について興味を持ってしまった。

    「私達は、宇宙の片隅で形をなし、意識を持つまでになった。
     私達は、自分たちの起源について考え始めた。
     星屑が、星について考えている」
                    =カール・セーガンの著書「コスモス」より=

    人は何かと現象を2つに分けたがったり、原因を1つに特定したがる。
    だが実際は、はっきり2つに分かれるものなんてほとんどないし、
    原因を1つに特定するなんてナンセンスともいえる。

    例を挙げれば、それを超えているもにの父がいる、超えていくものに母がいる。
    そして超えてきたものがここにいる私達なのだ。

    空を観る、星を観る、宇宙を観る。

    陰と陽がある。
    男と女がある。
    凹と凸がある。
    そして、
    陰陽にいまだ分かれていない状態を知る。
    三浦理事長の若かりし頃に橋本敬三師の語られた、陰陽未分の一なる存在。
    そう。間に合ってればいいバランス現象を学ぶことになる。

    正しいことは振りかざすように考えている人にはわからない。
    負けてはいけないかのように考えている人にはわからない。
    病気になってはいけないかのように考えている人にはわからない。
    死んではいけないかのように考えているひとにはわからない。

    そんなことはお構いなしにすらりすらりと生きている。
    奇妙にみえるほどの自然な振る舞いはとどまることを知らない赤子脳。

    大人は間違うこともあるけれど、乳児は間違えることはないのが面白い。
    損することなどどうだって良い、ミルクが残っていても飲んでくれない。
    そんな所作にみとれてしまう、ただの一人、欲のない、いとしい一人。

    とどまっていたくてとどまっているのは勝手な自分の癖。
    とどまっていられないのは本当のイノチをしっている、からだそのもの。

    なにを満たしているのか?少しは考えて活きてみせい!!

    そう叱咤されている今日この頃である。

    [夏よまた来年あおう!
    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『源流』

    初期の操体法は、当時の高橋迪雄氏の行っていた正体術の影響を受けている。
    現在も、たにぐち書店から高橋迪雄氏『正体術矯正法』現代語訳版があり、そのサブタイトルには『操体法の源流「正体術矯正法」』とある。
    私の場合、操体法を学び始めた後、かなり経過してこの書に目を通したからなのかもしれないが、あまり似ているとは思えなかった。
    実際に詠んでみるとわかるのだが、高橋迪雄氏の「正体術」と橋本敬三師の「操体法」の違い・類似性に関しては表紙以外に記載はないのである。
    ではどうして、操体法の源流とサブタイトルがあるのだろうか。それは現在において「操体法」に知名度があるからなのだろう。

    さて、橋本敬三師はいったい「正体術」のどこに興味を引かれたのであろうか。

    患者に痛いことを我慢させて治療を行うよりも、痛いことをせず治療できるのであれば、それにこしたことはない。
    さらに、からだの構造をどう捉えるか。じつは、からだの構造を家屋の構造に例え骨格を柱に見立てるののは「正体術」に記載してある。
    また、患者自身にこちらから指示しつつ動かさせておき、ある程度のところまで来たら一気に脱力させることで臨床的変化を期待すること。
    実際に行うことも、背臥位にて片方の下肢を伸ばすこと、両肘と踵を支えにしたまま臀部を持ち上げて落とす等、その動きだけを見るなら共通項となる。
    つまり、道具や器具を使わず、実際に動きをとおしていることは共通しているのだ。

    では実際に「正体術」にはなく、「操体法」ならではの特徴はなにか。

    「正体術」は、患者の抱えている症状疾患に対して、身体のゆがみかたとの関連を臨床的にとらえて歪みに対処するのだが、
    操体法」では、はじめから患者の抱えている症状疾患には囚われない。
    つまり、例えどのような状態でどんな症状疾患であったとしても、ボディーの歪みに注目しているのである。

    「正体術」は、身体の歪みが発生することの理由には、各患者の重心の偏りかたに注目し、これによって歪みが発生しているとみているのだが、
    操体法」は、重心とのからだの変化に注目しつつ、一人の人間その本人の生き方の自然法則随順性を現時点での結果とすえる。
    その結果とは、”生き方の自然法則”において、あくまで最低限・最小限の自己責任分担における結果をボディーの歪みとなる発生理由としている。

    この”生き方の自然法則”とは、
    「息」「食」「動」「想」に「環境」の要因を加え、それぞれがそれぞれと関わりあい、補い合ってバランスをとっているのだ。
    バランス現象には”原始感覚”こそ大切なのであり、「快適感覚」がその鍵を握っているのだ。

    それにはそれぞれに自然法則の範囲もあり、それに随順してはみ出ることなく、自然法則のなか有り難いと感じていれば十分に間に合っていられる。
    それぞれの要因には専門家がいる、それぞれ自然の法則について大切なこと知っていて指導もしているプロがいる。
    ただ、一つのことを説明し完璧にしたとしても、「食」ひとつで人間の生活は成り立っていないように、それぞれ”同時相関相補性”なのである。
    故に橋本敬三師は、”生き方の自然法則”において「操体」では無知ではじまる自然なバランスの崩れをボディーの歪みとして、「動」に着目し臨床的に診ていった。
    ここでもう一つの法則性を挙げており、それこそが「操体」における指導において最重要となっている”身体運動の法則”なのである。

    からだのつかいかた。
    からだのうごかしかた。

    これは自然の法則に適う、そのためにルールがあり、そのための作法もある。
    これをみにつけて、”からだ”で知っているからこそ、”自力自療”が成り立つのである。

    先人の知恵をまとめ上げるだけでなく、ここまでわかりやすく、誰にでもできるように無理のないようにしたのが「操体法」といえる。
    やはり「操体」は、自然法則における応用貢献を率先して成していった橋本敬三師の哲学思想を抜きには語れない。
    そして今もその意志を継ぐ、直弟子の学びに触れてこそ「操体」を感じ取れるのである。

    そしてどうやらその機会は、本人が望めばいつでも開かれているようだ。有り難いことである。
    迷える子羊にも、飢えたオオカミにも適うようにここで早速ヒントを与えておこう。
    まず、手始めに来月に開催される”秋季東京操体フォーラム”に参加してみると良いだろう。

    [
    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  •  『恩恵』

    今日からブログを担当致します岡村です。一週間よろしくお願いします。
    ある母親は、自分の子供が行動しうるであろう先を読み、自らの子供の選択を命をかけて理解していく。
    ある母親は、万人に危害が及ぶ可能性を背負いつつ、自らの子供の選択を命をかけて理解していく。

    橋本敬三師は、人間の設計(NHKのラジオ)のなかで大自然のおっかさん(お母さん)と言っている。
    おっかさん・・・大自然・・・母なる存在・・・所与・・・自在にあるもの。

    さて、現代の医学は本当に素晴らしい。それはIPS細胞は勿論、一世紀前には信じられない夢の実現のようだ。
    ノーベル医学賞における臨床研究をはじめ、人類において価値ある素晴らしい研究を枚挙に暇が無く進歩し続けている。

    この点とも重なってくるもう一つの特徴。
    それは、多くの場合客観的であり、他覚的に症状や疾患を診断し、その検査結果を詳細なデータによって特定し、治療方針を決めている。
    これは逆を言えば、客観的なデータをそろえない限り・・・要するに、正常値を超えない限りは主観的な愁訴だけでは診断しにくい。

    医師であった橋本敬三師も、医師行為以外となっている民間療法や養生法についてある時期研究されていた。
    そしてそれぞれの人間は”この方法で治す”と良いと考えているが、やっていることは、”ボデーの歪み”をみているのだ。
    つまり、歪みを起こしているボディーをそれぞれの方法で元に返しているのだと理解された。

    これは、医療である建前よりも、自然界に備わっている真理を捉えていく橋本敬三師ならではの非凡な捉え方といえるであろう。
    一定の臨床データに囚われない視点、それは客観的な症状であっても自覚的な症状であっても成立しうる、健全なる健康観、疾病観だと言える。

    改善しにくい患者の要求とは、他の療法に流れていくケースも多い。
    それは、健康であった時には存在しなかった、一抹の不安が改善されていないからであろう。

    では、ここまで進歩してきた医療においてさえ、人間を不安に陥れてしまうりゆうとはあるのだろうか?
    一つに、生死における哲学の欠如はどうだろう。要するに宗教における受け入れ理由を現代医学は無視してしまった傾向にあるのではないか。

    等しく人間は産まれることによって存在し、等しく人間は亡くなることによって存在に戻るのである。
    そこにはダイナミックに変化するサムシングがある。
    それこそ、生と死を分けずにすむサムシングなのである。
    生体とは死体ではなく、死体とは生体でもない。
    なのに、根底に共通しているサムシングはあり、根底より分割したサムシングもある。

    操体を学んでいるといくつもの問いかけに戸惑うときがある。そこには答えていく面白みもある。

    「ボディーの歪みっていうけれど、いったい・・・ボディーの何が歪んでいるの?」

    「辛い方から楽な方へ動かして治しているのと、きもちのよさを味わって治っていくのはどう違うの?」

    「最先端の再生医療において疾病の改善していく恩恵を受けることは、自然の法則に適っているの?」

    それに答えられる学び。それが温故知新によりしている操体法であり、操体つまりの橋本敬三哲学の恩恵なのである。
    [ ]アザミ花言葉は「権威・触れないで・独立・厳格・復讐・満足・安心」

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『やっぱり最後にゃ、愛だろ』

    私のブログ週の真っ只中10月10日に東京からお師匠が遠路遥々福岡の街にやってこられました。(今日は何となく三浦理事長の呼称を『お師匠』でまとめさせていただきます。)来福の目的は最近たるみ気味な私への喝入れと、お師匠の高校時代の同窓会。何を隠そうお師匠は小学校から仙台の赤門へ入学する前の高校3年生までを福岡の街で過ごされていたのでした。しかもお師匠の出身校を私もちゃっかり受験していたのでした。結局私は他の高校へ進学したのですが、これも1つの御縁ですね。という訳でお師匠は10日には同窓会(結局3次会まで突入したそうである。本当に福岡の夜は長い。)の為、私は11日にお師匠の元へ馳せ参じました。師匠の宿泊するホテルにお邪魔しルームサービスのコーヒーを頂きながら本当に久しぶりにお師匠のお話を聞かせていただいた。お師匠の講演はフォーラムや講習など年に何度となく聞かせていただく機会はあるのですが、こんな具合に面と向かって話をさせていただく時間というのは中々出来ないものです。話は前日の同窓会の話や高校時代の朋友とのエピソード、福岡を離れ仙台に行くときの話など講習の場では中々聞く事が出来ない話から今の私自身の近況報告やお師匠が今興味を持たれていることの話、そういえばips細胞の話もしていました。もっと知識入れておけば良かったな。そんな本当に色んな話をお腹いっぱい聞かせていただきました。これらの話はこっそり私の胸の中にしまい込んでおこうかと思っていたのですが、先程どこで聞きつけたのか岡村実行委員長が「秋穂さん、三浦先生が博多に行ったんだって、その時の様子ブログで教えてくださいよ。楽しみにしてますよ。」なんて言われるもんだから、ちょっとぐらいは披露しなければならなくなりました。チエックアウトの時間までそんな具合にゆっくりと過ごさせていただき、午後からは「博多のおふくろに逢いに行く。」と市内の閑静な住宅街のマンションにお邪魔いたしました。お師匠が博多のおふくろと慕う女性は、お師匠の親友のお母上で中学時代からお師匠が毎日の様にお宅にお邪魔しては、本物の家族の様に時には厳しく時にはやさしく当時の三浦少年をかわいがってくれた方なのだそうです。マンションのエレベーターを降りてご自宅の在るフロアに上がるとおふくろさんは少し不自由なからだで玄関の前まで出て来て私達を迎えてくださいました。そしてお師匠の顔を見つけるや否や大きくなった三浦少年を抱擁し「寛ちゃん、おかえり」と満面の笑みで端から見ているとまるで実の息子が帰って来たのだろうと疑い用のない様子で喜びを表現しておられたのが印象的です。おふくろさんはお師匠とお供の私をご自宅の中に招き入れてくださり、お師匠がまだ操体三浦寛になる前の昔話を聞かせていただきました。その当時おふくろさんの家には実の息子ふたり以外に三浦少年を含めて3人の居候がいて本当ににぎやかだった話。その中で三浦少年だけが、何も言わなくても黙々とお風呂掃除を毎日やってくれていた話。三浦少年が仙台に旅立ったあともことあるごとに福岡に帰って来ては実家より先におふくろさんの家に里帰りしていた話。三浦少年が仙台での橋本先生の元へ弟子入りしたときの意気揚々として師匠の自慢話をしていた話。本当に私達の知らないお師匠の若かりし頃の姿をそれはそれは鮮やかに聞かせていただきました。私はそのおふくろさんの話の中に「あなた達にとっては大先生かもしれないけれど、私に取ってはやさしい息子なんだよ。」という言葉がありました。本当に血のつながっている息子ならまだしも、自分の息子の友達だからといって、人はここまで他人を愛せるのだ。というおふくろさんの博愛の気持ちと垢の他人にここまで信頼してもらえるお師匠の素直さと謙虚さそして人間的なやさしさを感じるとともに、人はどのように産まれたかということよりも、どの様に人と接したかによって人間関係は無限に広がるのだと云う絆の意味を教えていただけた気がしました。

    私は治療家です。症状疾患を抱えて来院された患者さんの治療をするのが生業ですが、うちのお師匠を見ていると治療の技術や病気の知識だけで人の傷は癒されるものではないのだということをまざまざと見せつけられます。勿論お師匠は操体の世界では勿論、日本のどの治療家と見比べてみても卓越した技術を持つプロフェッショナルであることに疑う余地はありませんが、その治療技術に輪をかけてひと付き合いと人への思いやりのこころの深さに関しても卓越した才能を持っている様に感じます。操体法創始者であり医師である医学のプロフェッショナルである橋本先生が弟子として迎え入れ、名ホテルマンとしてホスピタリティー(おもてなし)のプロフェッショナルである橋本保雄さんが目をかけておられたのは、博多のおふくろさんが三浦少年に対して感じていた、素直さややさしさと云う人間としての品性を認めたからなのかもしれません。ただ自分自身が認められたいと俺が俺がで突っ張ってみても、人として信頼に値すべき品性がなければ決して受け入れられないでしょう。私達東京操体フォーラムの実行委員がお師匠からことあるごとに怒鳴られ教えていただいているものは、操体の技術なんかじゃなくて、人間として誰からも信頼される人間になる為の生き方つまり品性なのかも知れません。

    お師匠の束の間の里帰りを終えたあと、私と師匠は博多の街の台所『柳橋連合市場』に立ち寄りました。
    ここは戦後の闇市の時代から市場が発達し、転勤したい街全国一位という福岡の街の魅力の筆頭にあげられる「食べ物がうまい街福岡」を今でも影から支え続けています。ここでお師匠が東京へのお土産を買うということなので、私も「今こそ弟子としての力量を試す時!」とばかりに勇んで辛子明太子を買い求めお師匠に東京へのお土産にどうぞと差し出したのですが、その明太子を受け取ってくれたその手で、更に大きな紙袋を私の元に差し出しされた。「秋穂、今日はアリガトな。」紙袋の中にはパンパンにはち切れんばかりの私へのお土産が詰まっていました。ウチのお師匠は本当に厳しいお師匠で、すんなりとはお師匠孝行もさせては貰えません。師匠を空港の出発搭乗口まで見送り自宅に帰り、夕食の食卓に上がった上等な魚をほおばりながら何とも嬉しいやらくやしいやら、本当に複雑な気持ちで食べた魚の味は一生忘れる事はないでしょう。いつになるかはわからないけど、お師匠が口をあんぐり閉じられなくなるくらいの師匠孝行ってやつがしてみてぇもんだ。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『ひやり・はっとより、はっとしてグーを』

    そういえば最近自転車で通勤する方が増えましたね。自転車で通勤する方達の事をツーキニストと呼ぶそうです。ここ最近の健康ブームやエコブームと街のお洒落さんの支持を得てこのツーキニストさんが異常発生している模様です。私の住む福岡の町も例に漏れずツーキニストさんが急増しており、何を隠そうわたくし秋穂もツーキニストのひとりです。

    自転車で通勤していて驚かされる事があります。自転車のマナーの悪さです。歩道を走るだけならまだしも、携帯電話やスマートホンをいじりながら走ってみたり、赤信号で車が走っている前を平気で横切ったり、暴走族が信号で止まっているこのご時世に本当に乱暴な運転をしている方が多いのです。自転車に運転免許がないからルーズになってしなっているのかもしれませんが、自転車と云えどもやはり車両です。万が一事故を起こしてしまった場合には、懲役も科せられますし、罰金だってあるのです。しかし懲役や罰金があるから交通ルールを守りなさいというのではなく。ルールやマナーは私達が快適に過ごす為のマニュアルだと思って自分だけではなく、周囲のみんなが快適に通行出来る様にする為にも安全運転をする方がハッピーなことではないでしょうか。

    そういえば三浦理事長と一緒に街を歩いていると、信号無視をしている自転車の前に立ちはだかり注意している姿を良く見かけます。始めは何故理事長自身の身を危険に曝してまで自転車を注意しているのかと疑問に思いましたが、最近ポンっと腑に落ちた事があります。先生は私達弟子に操体の臨床は治療だけ上手くやっていれば良い訳ではない、生き方の姿勢が問われて来るんだよと度々指導してくださる。いくら治療の技術や知識ばかりを磨いたところで、実際に治療する人間が勝手気ままに不摂生しているようではその姿勢というものは臨床態度に少なからず影響してくる。私も恥ずかしながら鉛筆の持ち方をこの夏に指摘され現在修正真っ最中です。なにもこれは私達臨床家にだけ言える事ではありません。この生き方の姿勢というものはその人のからだの姿勢にも影響して来ますし、その人のイノチの在り方にも影響して来るのです。

    操体を学んでいる方にとってはもう飽きる程聞かれた話だとは思いますが、交通ルールと同じ様に私達のからだにもからだの動かし方と使い方のルールがあります。これが身体運動の法則です。そして私達は絶対に人に変わっては貰えない生命エネルギーのインプットである呼吸と食事、そして生命エネルギーのアウトプットである運動と精神活動のバランスがそれぞれ絶妙に関与し合って健康なからだを維持しています。これら四つの生命活動とそれを取り巻く生活環境も含めて最小限責任生活といいます。この極シンプルなからだの基本となる原理原則を守っていれば健康でハッピーに生きられる様になっているのですが、このうちのどれかを不摂生してバランスを崩してしまうとからだの姿勢は崩れ、不定愁訴と呼ばれる異常感覚が起こり、それでも放って置くとからだは壊れてとんでもない事になります。

    しかしこの交通ルールもからだのルールも、それに違反したからといってすぐに問題が起こる訳ではないのです。勿論その程度の問題によっては即何らかのトラブルが起こる事もあるかもしれませんが、なにも弁護士を立てて法廷で争わなくてもなくても、きちんと執行猶予が付いて来てくれるのです。自転車でちょっと信号無視したからと言ってすぐに事故に遭う事はないとは思います。勿論運転者も車が通っていないのを見計らって信号無視をするのですから、いきなり事故に遭う事は少ないと思いますし、たまの飲み会でちょっと位食べ過ぎや飲み過ぎをしたって、すぐに病気になる事はあまりないと思います。しかしこれらのルール違反は必ずペナルティーを持っています。人は良い事も悪い事も慣れます。最初は「今日は車も通っていないし、遅刻しそうだから信号無視しちゃうか。」と罪悪感を感じながら信号無視をしていた人も、次の日も、また次の日もと繰り返しているたびに、感覚が麻痺して赤信号も車が走っていなければ青信号にみえて来ますし、「今日は会社の飲み会だから飲み過ぎていいよね〜。」と油断していた人も、次の日は女子会、その次の日はコンパと続けているうちに、なんだか飲まないとやってられなくなってしまうのです。そうですイヤよ、イヤよも、いつの間にか好きになってしまうのです。

    慣れは注意力を低下させ『ひやり・はっと』の原因になってしまいまいます。労災事故を専門に解析した『ハインリッヒの法則』では、1件の重大事故の影には29件の軽微な事故と800件のひやり・はっとがあるとの統計が出ています。これを飲み会に当てはめてみると800回の飲み会は29回の二日酔いと1回の胃潰瘍の可能性を秘めているといえますし、信号無視に当てはめると800回の信号無視は29回の軽傷の接触事故と1回の死亡事故に繋がる可能性があるということになるではないですか。もう信号無視をしている場合ではありませんよ。病気になったと云ってもからだが悪いのではありません。病気になる様に無理をさせてしまった使い方が悪いのです。罪を憎んでからだ憎まずです。この事をよ〜く知ってあるから三浦理事長は自らの危険を顧みずに自転車を止めに行くのでしょう。三浦理事長はいっていました。「目の前でからだを張って止めようとしても誰も止りゃ〜しない。」それでもまた今日も三浦理事長は世界の健康を守るため、信号無視の自転車を注意し続けている事でしょう。こんな師匠を持ったから、私は絶対信号無視はいたしません。(断言)

    そういえば三浦理事長の在籍時代、赤門鍼灸柔整学校に講師として通ってくる橋本先生も自転車ツーキニストだったそうです。今も昔もお洒落な人は自転車に乗っていたんですね。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催