投稿者: karib_sotai

  • 一日目

     今週は佐助が担当となりますが、今週は大晦日と正月をまたぐ担当となります。実は昨年の大晦日もブログ最終日として担当をしていました。2年連続にして一年の最終日を担当できるということはとても光栄に思っています。今週の一週間お付き合いよろしくお願いします。
     皆さんのこの一年はどのような一年でしたか?この世に誕生し、自分の意志や意識の自我があるわけですから、きっと良い事も嫌な事も、因果応報の報いもいろいろあった一年だったと思います。ですが、「人間は生まれながらにして救われている」という真理を学ぶようになると、不思議と不平不満より感謝する気持ちになっている自分がいることに気が付きます。感謝する気持ちが生まれると、何か心に余裕が出来ているように感じます。 
     今年の僕にとっての出来事は、仕事(臨床)生活の日々で、野球の現場に顔を出せず、趣味のスノボーにも出かけず、なんと!十数年ぶりに肌の色が人並みになりました。僕を知っている方々は、佐助は日焼けいているとイメージのはずですが、人並みの肌の色に戻ったことは、僕の周りでは事件のように扱われています(笑)。
     これだけ臨床と向き合う時間が多くなると、三浦先生が若き頃、朝から晩まで臨床をやっていた時に橋本敬三先生が「治療所にばかり籠もって患者ばかり診ていると、脳みそがくさるぞ」とおっしゃったそうですが、僕自身も気を付けています。
     昨年の11月から今年の3月まで痔ろうで辛い日々をすごしましたが、今年は考え方が変わる言葉がありました。三浦先生の2011.9.11の東京操体フォーラム実行委員ブログの言葉です。「一日数十時間患者を診させて頂いていました、という云い方と、自分を診ていました、と云う言い方、どう思う?患者を診る・・とは、自分との対応でもあります。人との対応も、仕事の対応も、つまりは自分との対応であります」となります。臨床の日々において、患者を診る時間から自分自身と向き合う時間として取れ得るようになってから、仕事の時間と自分の時間を分けることがなくなり、すべての時間が自分と向き合う時間となり、毎日が充実しているように感じます。
    そして今、僕自身が興味を持ち学びはじめているのが、生命エネルギーについてです。生命エネルギーを学ぶことで天然自然の法則に繋がればと思いますが、どのような学びに繋がるか楽しみです。
     僕の時間はとても充実をしています。ただこの充実が家族に伝わるかというと、休みがないと現実の時を刻む時間が気になるようです(汗)。これは家族サービスが必要ということで、両親も含め家族を連れて和歌山県の 洞窟の温泉に数年ぶりに旅行ができた一年でした。
     今日はこのあたりで・・・・ありがとうございました。

  • さて、年末と言えば「第九」です。
    あちこちで「第九」のコンサートが開催されています。
    この曲は、何かが終わり新しい事が始まる時によく演奏されますね。ベルリンの壁崩壊の時もそうでした。
    ヨーロッパでは、EUの国家としてベートーヴェン「第九」の「歓喜の歌」のメロディが選ばれています。これ以上にふさわしい曲は無いと思います。
    クラシック・ファンの私としては「第九」に感謝しなければならない事があります。
    かつて、1980年代前半に、ソニーとフィリップスがCDを共同開発していた時に、その直径を何センチにするかで対立していました。
    ソニー大賀典雄さんから相談を受けた指揮者のカラヤン氏は、即座に「第九が一枚に収まるのがいい。」と答えたそうです。
    かくして、12センチ、74分(収録時間)という規格が出来上がりました。現在、我々はその恩恵にあずかっているのです。
    数ある「第九」の伝説の一つです。

    皆さん、良いお年をお迎え下さい。

    半蔵

  • 届く言葉(286p)
    『届いたのは言葉のコンテンツではなく、言葉を届かせたいという熱意です。それは僕の脳ではなく、皮膚に触れた。』
    いいですね。この最後のところにジーンと来ました。シビレました。(身体・言語・感覚というものが分かっている人の言葉だと痛み入りました。)
    この文章の数行前には、
    『表層的なレベルでは、まったく意味がわからなかった。でも、その文章を書いている人の「わかってほしい」という熱ははっきり感知できた。ほとんど襟首をつかまれて、「頼む、わかれ、わかってくれ」と身体をがたがた揺さぶられているような感じがしたのです。』
    さらに、数行後には、
    レヴィナスの本を開いた瞬間に、僕はレヴィナス哲学の本質的なところに「がつん」と頭をぶつけたのです。言葉の意味がわからなくても、その書物が書かれた歴史的文脈を知らなくても、そもそもフランス語がよく読めなくても、「届く言葉」は届く・・・』
    とあります。
    私は、自分が初めて橋本先生の『生体の歪を正す』に出逢った時の事を思い出しました。確かに「届く言葉は届く」のです。
    そして、三浦先生がよく言われる様に、「からだに通る言葉」というものも在ります。
    からだは言葉を認識するのです。
    臨床の将にその瞬間に(適時に)掛けられた、慎んで選択された言葉は、からだに通るのです。

    半蔵

  • 道無き道に分け入る(271p)
    『学問というのは、そういうものだと僕は思っています。どの専門分野でも、先駆者は前人未到の地に踏み込んで、道を切り拓き、道標を立て、階段を刻み、危険な箇所に鎖を通して、あとから来る人が安全に、道を間違えずに進めるように配慮する。そのような気づかいの集積が専門領域での集合的な叡智をかたちづくる。だから、どの領域でも、フロントラインに立つ人の責務は「道なき道に分け入る」ことだと思うんです。』
    これを読んでいる時、かつて三浦先生が撮られた写真を思い出しました。
    それは、どこかの温泉の近くの林道を歩いておられる橋本先生の後ろ姿です。
    その写真のイメージを通して、その姿を撮っている三浦先生の背中を思い浮かべました。

    半蔵

  • これからは、内田樹著「街場の文体論」(ミシマ社)に啓発された事を書こうと思います。
    ソシュール記号学定義(116p)
    ソシュール自身による定義の文章そのものも素敵なのですが、それについての内田先生のコメントがとても気に入りました。
    『学問についての定義というのは多々ありますけれど、このソシュールソシュール記号学定義は素晴らしいですね。まだ存在していないんです、この学問は。しかし、それは存在しなければならない。存在する権利を有している。私はこんなことを研究しました。これをなんとか学と名付けますという人は山のようにいます。でも、ソシュールの天才をもってしても、記号の本質についての学問的体系化は果たせなかった。しかし、これは必ず体系化させなければならない。いずれ何世代かの集合的な努力によって、記号についての一般理論はおそらくは成立するであろう。自分はとりあえずなづけおやになって、名前だけつけておきます。自分が完成できなかった学問領域について、それを「空白」として欠性的に指し示すことができるというのは、自分自身が学的に何を達成し、何を達成できずに終わったかを俯瞰的に見ることができるということです。自分自身を含んだ学術史の文脈を語れるということです。これは本当にすごいことです。』
    操体における橋本先生の仕事も全く同様です。最晩年に「楽」から「快」へ転換しなければならない事を指摘しながらも、自分には肉体的限界があるので、後進に「後はたのむ」と託しているのです。
    操体は、A・ガウディーのサグラダ・ファミリアの様に、今も創造が継続的に進行中です。

    半蔵

  • 松任谷由実 作 「恋人がサンタクロース」より

    昔 となりのおしゃれなねえさんは
    クリスマスの日 私に云った
    今夜 8時になれば サンタが家にやって来る

    ちがうよ それは絵本だけのおはなし
    そういう私に ウィンクして
    でもね 大人になれば あなたもわかる そのうちに

    恋人がサンタクロース

    女子は前向きですね。
    やはり昔から前向きだったのでしょうか?

    とにかく、聖夜は、人を神聖な気持ちにしてくれます。
    Merry Christmas!

    半蔵

  • 山下達郎 作 「クリスマス・イブ」より

    雨は夜更け過ぎに
    雪へと変わるだろう
    Silent night, Holy night

    きっと君は来ない
    ひとりきりのクリスマス・イブ
    Silent night, Holy night

    心深く 秘めた想い
    叶えられそうもない

    必ず今夜なら
    言えそうな気がした
    Silent night, Holy night

    まだ消え残る 君への想い
    夜へと降り続く

    街角にはクリスマス・トゥリ-
    銀色のきらめき
    Silent night, Holy night

    JR東海遠距離恋愛をテーマにしたCMで使われた曲でした。短いスポットの中にドラマが立ち上がりました。
    これも、独り彼女を思う男子ですね。

    半蔵

  • 今回はちょうどクリスマス・ウィークなので、耳に馴染んだクリスマス・ソングを味わってみたいと思います。

    桑田佳祐 作 「クリスマス・ラブ」より

    きっと愛する誰かの
    声が聴こえる Holy Night
    心に積もる音は 魔法のしらべ
    Baby Baby 悲しみはGray

    愛も守れずに 振り向けばいつも
    君だけが見える

    Wish you a merry christmas,
    when you’re faraway
    逢えない運命の Holy Night
    胸の慕情がせつない夜にも
    君は帰らない…

    これは失恋の歌なんですね。
    クリスマスの夜には、独りで誰かに思いを馳せる、というのが画になるんですね。

    半蔵

  • 「人生の豊かさ」について 〜その7〜

    今年最後のブログとなったが、今年一年を振り返り私自身も環境も大きく変化した一年であった。何が変わったのかと言うと「学び」に対しての姿勢である。今までの私は自分の興味の範囲内しか学ぶことをしなかったのだが、今年は様々なことを吸収しようと思ったので時間があれば図書館や美術展等にも足を運び己の人生の肥やしに出来るものと向き合うようになった。姿勢が変わることで自分に入ってくる情報やその捉え方も大きく変わってくるものであり、私の臨床に対する捉え方、向き合い方も大きく変化させたのである。その結果、人のカラダを診させて頂くことにおいて「カラダ」という器だけでなくその人の「心」にも意識を向けるようになったのだ。
    こういった変化のきっかけにはある本の出会いがあった。それは今年の春に購入した「こころと治癒力」(ビル•モヤーズ 小野善邦=訳 草思社)という本である。何気なく購入したので内容は全く分からなかったのだが不思議な事に月日の経過と共にわかるようになってきた。それは私が操体の学びを深めてきたのと橋本敬三先生、三浦先生という師と繋がっているから分かるようになったのだと思う。このたった一冊の本が私に生きるということ、そして臨床のヒントを与えてくれたのである。それは人間の悲願である健康はカラダだけでなく心の健康とも密接に関係しているということである。以前にもブログで橋本敬三先生の「アンコロ餅」の話を書いたがこの本もまた臨床において「想」の重要性を説いている。いかなる病にもその根底には心に何らかの問題が生じているということ。そこには執着、怒り等が存在し人体に影響を及ぼしているというのが改めて分かったのである。こういった心の病が「息・食・動」の営みのバランスを崩しカラダに何らかの症状・疾患をもたらす。やはりこの「息・食・動・想」4つの生命の営みが調和していかなければ心とカラダのバランスはとれないのである。そして生命の営みは何事にも「ありがたい」という感謝の気持ちを持つことが全てを調和に導き、そして己の人生も豊かにしていくものだと確信している。

    またこの本にはこんなことが書かれていた。
    「治療(ヒーリング)は心配り(ケアリング)から始まる」
    操体の臨床においても同じことが言える。講習の中で常々「診断」の重要性は言われているが、この診断とは何もカラダの形態を診ることだけが診断ではない。患者の心理状態も診断の重要なポイントになる。患者が訴える症状・疾患の根底にはその人の抱える心の病も存在すると私は思う。そういったことを診るのが人のカラダを診る側の人間には絶対的に足りていないような気がする。症状・疾患を抱えてきた患者に対してこういった診断をしないで治療をするのはただの慰安にしか思えてならない。患者の心を診て治療し始めて臨床なのだと思う。

    こういったことが出来るようになるには、まず私自身が己の生き方を正していかなければならない。そのヒントは操体の中だけでなく、操体と繋がっている様々な学問にあると思う。これからは臨床の技術だけでなく人生を豊かにする様々なことを学んでいこうと思う。

    今年一年どうもありがとうございました。1年を通し好き勝手に思っていることを書かせて頂きましたが、やはり「インプット」だけでなく「アウトプット」していかなければ大切なことが入ってこないと感じた年でした。来年はもっと学びを深めてより良いことを書いていけたらと思っています。

    来週は半蔵さんの出番です。お楽しみに。

  • 「人生の豊かさ」について 〜その6〜

    今日は昨日の続きで伊東豊雄さんの言葉を紹介していきたい。

    「東京が失ってしまった豊かさが東北には残っている。なぜ豊かかと問われれば、ここには人と自然とが一体化された世界が存在しているからである。人々は未だに自然の恩恵で生きている事を幸せに感じている。だから自然の猛威に屈伏しても決して自然を怨むことはないし、自然への信頼を失う事もない。何度津波に襲われても再び海辺に戻ってきたいと願う人々の姿がその証である。」

    『あの日からの建築』より(伊東豊雄 集英社新書

    この伊東豊雄さんの言葉で私達には「自然に生かされている」という潜在意識が在るのを再確認することが出来た。あれだけの災害にあっても自然に対して文句を言わない。それは私達は自然の恩恵無くしては生きていけないということを無意識に悟っているからである。そして私は裕福がいかに貧しいことかとも感じた。私は産まれてからずっと32年間東京で暮らしてきたのだが物は当たり前のようにあり、生活には不自由を感じた事もあまり無かった。しかし贅沢な悩みなのかもしれないがそういった「当たり前」に在る事が自分を縛り付けているような気がしてならない。無い事がどれだけ自由なのかと思う。
    伊東豊雄さんは上記で書き記した以外にもこういった事を書かれていた。

    「(仙台の町を歩いた時に)人々の表情が意外に明るかったことが印象に残っています。中略 あ、みんなどうしてこんなに明るい顔をしているのだろうと。人はすべてを失ってしまった時、悲しみを越えて純粋な気持ちになれるからでしょうか」

    本当の「豊かさ」とは人の中に自在して在るものだと私は思う。被災地の方達をTVや雑誌等で見る度に胸が痛む。しかしあの時の事は被災地の方だけでなく私達に大切な事を教えてくれた気がするのだ。それは「命の豊かさ」であり、そこには人間が持った執着や嫉妬といった概念は存在しない。「神聖」という言葉は適切かは分からないが人間誰もが持ち合わせいて、橋本敬三先生が言われている「神からの授かり物」の一つなのだと思っている。

    最後になるが私自身今まで見てきた数々の建築家の作品は「素晴らしい」と思う反面、どうか「個人主義」を感じてしまうことが多かった。しかし伊東豊雄さんの「せんだいメディアテーク」や「みんなの家」等を見て本来人間が求めている建築の姿を見れたような気がした。それは人と人とがふれあい、そして自然と共存していける建築であり、それは決して「美」を求めた作品としての建築ではない。伊東豊雄さんの作品や本を読んで皆が求めている建築の姿に「命の豊かさ」を感じることが出来た。